2009年2月25日水曜日

湯浅浪男監督超不完全作品リスト(その2)

〔えいが〕

どうも。
トド@病院通いです。

というわけで、前回の続き。
今回の調査に当たり、いろいろとわかったことを以下、項目別に。

・台湾へ渡ったきっかけと台湾での第1作『霧夜的車站』

湯浅監督が中條伸太郎カメラマンと共に台湾へ渡ったきっかけに関して、『日本映画監督全集』(改訂版。1980年、キネマ旬報)の湯浅監督の項(山根貞男氏執筆)には、


・・・・66年11月、日台合作『母ありて命ある日』の撮影をきっかけに台湾へ渡る。


とありますが、市川大河さんのブログ「光の国から愛をこめて」(http://ameblo.jp/ultra-taiga/)所収の「安藤達己監督インタビュー・1」(http://ameblo.jp/ultra-taiga/entry-10149524218.html)には、そのあたりのいきさつが詳しく述べられています(追記:残念ながら、上記ブログは閉鎖されてしまいました)。

それによると、合作映画を製作するため台湾へ渡った湯浅監督一行でしたが、肝心のフィルムが日本から届かないため製作中止となってしまい、そうこうする内に台湾語映画のプロデューサーが(当時、湯浅監督の助監督をしていた)安藤達己監督が主演してくれるなら出資する、という別の製作話を持ちかけ、急きょ湯浅監督が脚本を執筆して撮影したのが台湾での第1作『霧夜的車站』だったのだそうです。
つまり、第1作の主役は、

安藤達己監督

だったわけですね。
いやはや・・・・。

・『東京流浪者』『難忘的大路』『尋母到東京』の日本人キャスト

第1作の完成後、湯浅監督と中條カメラマンを除く方々は皆さん日本へ帰られたようですが、どうしたわけか、この2人は台湾へ残り、その後も映画を撮り続けることとなります。
そしてこの内、『東京流浪者』『難忘的大路』『尋母到東京』には山本昌平、津崎公平、榊原明彦といった当時ピンク映画に出演していた日本人男優たちが参加していたことが判明しています。
また、『東京流浪者』と『尋母到東京』には東條民枝という女優さんも出演していますが、この方の詳しいプロフィールは不明です。

追記:東條民枝について、この方は1950年代後半、君和田民枝という芸名で日本コロムビアに所属していた歌手であったことが判明しました。おそらく、'60年代に入って今度は女優としてもう一花咲かせようとしたのでしょうが、結局うまくいかなかったもののようです。

上記の作品群は、台湾の製作会社が作った純然たる台湾映画(日本人キャストの台詞は、おそらく全て台湾語に吹き替えていたものと考えられます)ですが、ブログ「格林書」(http://tw.myblog.yahoo.com/jw!eKkw3vmVAhJhYjz2lxQwGvHOZWU-/)で紹介されている『東京流浪者』のチラシ(http://tw.myblog.yahoo.com/jw!eKkw3vmVAhJhYjz2lxQwGvHOZWU-/article?mid=9616&prev=9835&next=9409&l=f&fid=13)を見ると、あたかも日本映画であるかのような宣伝の仕方をしており(実際、ブログの管理人も「懷舊日片」に分類しています)、当時の本省人の間での日本映画の人気の根強さが伺える、貴重な例といえます。

・現代電影電視實驗中心時代

台湾へ渡ってからしばらくは台湾語映画を撮っていた湯浅監督でしたが、現代電影電視實驗中心の専属となって以降は、北京語映画製作へとシフトしていきます。
現代電影電視實驗中心は、1968年に潘壘監督が設立した製作会社で、台北郊外の内湖に自前のスタジオを構え、湯浅監督はここで2本の北京語映画を撮っています(湯濳名義)。
しかし、設立当初から会社は資金繰りに苦しんでいたようで、2年ほどで解散してしまいました。
なお、現代電影電視實驗中心に関しては、『香港影人口述歴史叢書之五:摩登色彩-邁進1960年代』(香港電影資料館)の潘壘監督へのインタビューをご参照下さい。

・『神童桃太郎』と『桃太郎斬七妖』

1960年代後半から台湾でも特撮ヒーロー物が大人気になっていたようで、1970年代に入ると湯浅監督の作品もそういった特撮物が中心になります。
中でも、『神童桃太郎』と『桃太郎斬七妖』は日本から

「だいじょうぶ!」

でおなじみ、

青影こと金子吉延

を招いて撮った作品で、どんなもんなのか、一度観てみたいものです。

追記:1969年の『飛龍王子破群妖』の主演俳優・金延吉も、なんだか金子吉延の変名くさい名前で、もしかしたらこの映画にも出演していた可能性があります。

・慕華影業公司

湯浅監督が台湾に帰化したことを報じる1971年7月13日付『聯合報』には、


・・・・湯慕華已自組了慕華影業公司、従事獨立製片。


とあり、湯浅監督が自ら独立プロを設立して映画製作を始めた旨が記されており、記事中では1971年の『妙想天開』を創業第1作としていますが、現在のデータでは朝陽昇有限公司が製作会社となっており、会社名を途中で変えたのか、途中から別の会社に出資を仰いだのか、詳しい経緯は不明です。

・その後の湯浅監督

1971年に台湾(中華民国)に帰化した湯浅監督でしたが、その翌年に日本と台湾が国交を断絶、日本映画(及び日本とその他の国との合作映画、日本人が投資した香港映画)の上映禁止の他、台湾映画への日本人スタッフ・キャストの参加の禁止、等、中華民国籍を持つとはいいながら日本人である湯浅監督にとっては辛い時代が訪れたようです。
前述した『日本映画監督全集』には、


・・・・75年夏、いったん帰国したが、再び台湾へ行ったという。


とあり、一度は祖国へ戻ったものの、その後、再度台湾へ渡ったことが記されています。
これはおそらく、1976年に入ると、台湾映画への日本人スタッフの参加について、当局がそれなりに寛容になっていたことと関連しているのではないかと考えられますが、しかし、1972年以降、湯浅監督の関わった台湾映画を見出すことは残念ながらできませんでした。
自分の名前は出さずに映画に携わり続けたのか、それとも全く違う世界に転身したのか、今はただ、ご存命であることを祈るのみです。

(とりあえず、おしまい)

追記:「台灣電影資料庫」には、1968年に「湯淺」名義で脚本のみを執筆した作品が2本掲げられています。未確認情報ですが、とりあえず、作品のデータのみ記しておきます。
『往日的舊夢』(徐守仁監督。永裕有限公司)『妙夫妙妻』(辛奇監督。永裕有限公司)

2009年2月23日月曜日

湯浅浪男監督超不完全作品リスト(その1)

〔えいが〕


どうも。
トド@でぶりびとです。

さて。

1966年に台湾に渡り、その後彼の地に帰化した映画監督・湯浅浪男(湯淺浪男)のことは、以前、拙ブログでも少しだけ取り上げたことがあります。
その後、湯浅監督が台湾人・湯慕華になる以前、湯潜(湯濳)という名前でも映画を撮っていたことがわかりましたので、その時代の作品も含めた超不完全作品リストを今回作成してみました。
というわけで、以下、若干見づらいですが、名義別に分類した作品リストです。

(日本編)

・「岩佐浪男」名義
『夜の魔性』(1964、第7グループ)

・「湯浅浪男」名義
『禁じられた遠い道』(1965、第7グループ)『性宴』(1965、第7グループ)『牝蜂』(1965、第7グループ)『血と掟』(1965、第7グループ)『やさぐれの掟』(1965、CAG)『逃亡と掟』(1966、CAG)『顔を貸せ』(1966、CAG)『東京無宿』(1966、 CAG)『夜は憎い』(1966、国際ビデオ)『危険な戯れ』(1966、国際ビデオ)『非行少女の群れ』(1966、国際ビデオ)『悲器』(1966、湯浅プロ)『狂った挑発』(1966、湯浅プロ)『悪女志願』(1966、国映)
脚本のみ:『お電話頂戴[愛のデザイン]』(若松孝二監督。1966、第7グループ)


(台湾編)

・「湯淺浪男」名義
『霧夜的車站』(1966、永裕有限公司〔脚本も〕)『東京流浪者』(1966、永芳有限公司〔脚本も〕)『懐念的人』(1967、永新有限公司〔脚本も〕)『難忘的大路』(1967、永新有限公司〔脚本も〕)『尋母到東京』(1967、新亞有限公司〔脚本も〕)『青春悲喜曲』(1967、永裕有限公司〔脚本も〕)『法網難逃』(1968、永裕有限公司〔脚本も〕)

・「湯濳」名義
『天使與狼』(1968、現代電影電視實驗中心)『小飛侠』(1970、現代電影電視實驗中心)

・「湯慕華」名義
『飛龍王子破群妖』(1969、國民教育有限公司)『二郎神楊戩』(1970、錦華有限公司)『神童桃太郎』(1970、國民教育有限公司)『桃太郎斬七妖』(1970、錦華有限公司)『魔笛神童』(1970、錦華有限公司)『甘羅拜相』(1971、台旭影業社)『妙想天開』(1971、朝陽昇有限公司〔脚本も〕)『朱洪武續集劉伯温傳』(1971、台旭有限公司)

上記リストをまとめるにあたって、いろいろ新しい知見を得ることができたのですが、それに関してはまた次回以降触れることといたします。

(つづく)

2009年2月19日木曜日

『金門島にかける橋(海灣風雲)』再考

〔ちょっとお耳に〕


どうも。
トド@首のしこり、精密検査を受けることになりますたです。

さて。

2004年、メインサイト(旅荘 愛のさざなみ)において日活と中影の合作映画『金門島にかける橋(海灣風雲)』をご紹介したさい、日本公開版と台湾公開版の違いについて考察してみたものの、結局わからぬまま終わってしまったことがありました。
一応、文中で「いずれにしても、その辺りのくわしい経緯は後ほどまた調べてみる予定です」と書いた手前(?)、その後も折にふれて当時の新聞記事の調査収集等をしていましたが、昨年、『台湾映画』2008年号(2008年、東洋文化研究所)において川瀬健一氏がこの問題について考察なさり(「台湾での日本スターの活躍 池辺良・石原裕次郎・美空ひばり・小林旭」)、また、xiaogangさんがご自身のブログで川瀬氏の論文に関して言及なさっている文章を拝読するに至って、「そろそろおいらももう一遍考えてみるべえか」という気になってきました。
というわけで、以下、これまでの追加調査でわかったことをご報告したいと思います。

まず、川瀬氏は論文の中で、『金門島にかかる橋』と『海灣風雲』におけるバージョン違いがなぜ発生したのかに関して、次のような説をご紹介なさっています。
曰く、


①日本記者と中国(台湾)少女の国際恋愛の物語であるが、日本人記者と台湾少女が結ばれる内容であった。しかし、台湾放映時に審査問題がおき、日本人記者が砲撃で死亡し、台湾少女は国軍の尉官と結ばれる内容に修正してやっと上映された(杜雲之『中国電影七十年』405頁)。
②『金門灣風雲』を公開時、賛否両論が出た。国防の陣容が暴露されていることや女主人公の台湾少女が日本医者を慕うという点が問題になった。
そのために1963年3月の中影第七回取締役会で、これらの部分を潘壘監督が修正し『海灣風雲』と改名して上映(宇業熒撰述『璀璨光影歳月』中央電影公司2002年1月 87頁)。
③『金門灣風雲』を見た蒋介石総統が、「中国女性が国軍尉官をふって日本人と結ばれるのは、国軍全体を侮辱している」と激怒した。そのために潘壘監督が修正した(2000年11月13日李泉溪監督談)。
(略)
しかし、当時この映画に関わった林贊庭・頼成英両カメラマンよると(原文ママ)「『金門島にかける橋』は、もともと日本側と台湾側の二つのシナリオがあった。潘壘監督は台湾側のシナリオ通り製作した。だけど、上映後にいろいろ言われているだけだと思う」とのことであった(2008年6月18日古典バラ園レストラン)。

(前掲川瀬氏論文。『台湾映画』2008号、9~10頁)


上記の説の内、①はかつて当方がメインサイトで取り上げた『中華民国電影史 下』の著者と同じ人物によるものであり、石原裕次郎扮する武井の職業を記者と間違えている点(実際には医師)も『中華民国電影史 下』と同様で、あまり信頼できません。
そこで、残り3つの説を検討してみると、当時のスタッフだった林贊庭・頼成英両氏の談話が、一番信憑性が高いように考えられます。
両氏の談話にある「もともと日本側と台湾側の二つのシナリオがあった」という説は、当方がメインサイトで取り上げている左桂芳氏の「台湾電影微曦期與國際合作交流史(1900-1969)」の説を裏付けるものであり、製作の段階から日本版と台湾版が存在していた、とみてよさそうです。

それでは、両者の違いとはどのようなものだったのでしょうか。

そのヒントは、『台湾電影百年史話』下巻(2004年、台湾影評人協会)に再録された台湾公開当時の映画評(黄仁氏執筆。初出は1963年の『現代週刊』〔巻号不詳〕)にありました。
それによれば、台湾バージョンのラストでは「武井が亡くなる」とされています(注1)。
つまり、

日本公開版:麗春が亡くなる。
台湾公開版:武井が亡くなる。


という違いがあったことになります。

しかし、何故にこの台湾版がすんなりとは公開されず、日本版の公開(1962年11月)から1年近くも経った1963年8月に至ってようやく公開されたのでしょうか。
宋雅姿氏の『作家身影: 12位作家的故事』(2005年、城邦出版集団)中の潘壘監督の項には、そのあたりの事情について、


・・・・没想到在卻台灣未獲政戦部審核通過而遭禁演(以下略)(83頁)


とあって、政戦部、すなわち国軍サイドから「待った」がかかり、当時中影の董事長だった梁孟堅は、この件の責任を取って職を辞したと書いています(注2)。
ではいったい何が国軍の気に障ったのかといえば、どうやら川瀬氏の論文で挙げられていた②や③にあるように、台湾女性(当時の国府的見解でいえば中国女性)が日本男性を慕うという設定そのものがNGだったようです。

そこで、潘壘監督は苦肉の策として台湾側キャストを使い、新たなラストを撮影することになるのですが、その内容が先に挙げた黄仁氏の映画評の中にあります。
それによれば、「結婚式場を抜け出して金門島へ向かった麗春は武井の死を知りますが、そのことには全く感情を動かされることなく、武井の遺体に向かって(彼から貰った)真珠を投げ捨てると、前線から帰還した劉上尉の許に身を寄せる」という、武井を慕うどころかむしろ好かれて迷惑であるかのようなオチになっていました。
まあ、日本人医師より国軍兵士を選ぶ、というオチならば軍の面子も立つのでしょうが、武井と劉、2人の男性の間で揺れ動いていたはずの麗春が、ラストになって突然「武井のことなんか、これっぽっちも好きではなかったのよーん」などという冷酷無情の女に変貌するのは、矛盾としか言いようがありません。
事実、黄仁氏もこのような麗春の描き方を「なっていない」「ささいなこと(中国女性が日本男性を慕う・せんきち注)を大げさにあげつらっている」「間違いを正そうとして、却って行き過ぎてしまった」等と評しています。

以上、ざざっとですが、追加調査の結果判明した日本版と台湾版の違いについて見てきました。
もう一度、わかりやすくまとめてみると、

日本公開版:共産党軍の爆撃によって麗春が亡くなり、武井は麗春の亡骸を抱いて、とぼとぼと海岸を歩いていく。
台湾公開版:共産党軍の爆撃によって武井は亡くなるが、麗春は武井の死に対しては全く無関心で、武井の死体に向かって(彼から送られた)真珠を投げ捨て、前線から帰還した劉上尉と結ばれる。


という違いだったようです(注3)。

ところで、昨年香港で出版された『香港影人口述歴史叢書之五:摩登色彩-邁進1960年代』(香港電影資料館)には、潘壘監督へのインタビューが収められていますが、そこには台湾公開版の内容に関する話は一切ありませんでした。
聞き手(左桂芳氏、黄愛玲氏)の突っ込み不足なのか、それとも潘壘監督にとって思い出したくない忌まわしい記憶だったのか、そのいきさつは不明ですが、それにしても残念なかぎりです。
ただ、作家としても著名な潘壘監督のこと、いつの日か回顧録を出版してその折のことを詳しく書いてくれる日が来るかもしれません。

ひとまず、それを期待して待つことにしましょう。


注1:ブログ「台灣老映象」においても、「武井が死ぬ」との指摘がなされています。ただし、このブログにおいては「修正の結果そうなった」としています。
注2:事実、1963年3月に中影の董事長は梁孟堅から沈劍虹に交代しています。
注3:「台灣電影資料庫」によれば『海灣風雲』のフィルムは2919mと、『金門島にかける橋』の2932m(「日本映画データベース」による)よりも若干短く、途中カットされている部分があるようです。


付記:今回、調査が叶わなかった資料に蔡孟堅の回顧録である『蔡孟堅傳真集』(1981年、伝記文学)があります。この本にも何かしらヒントになる記述があるのではないかと考えています。

(とりあえず、了)

おまけ:合作映画において、台湾での公開に待ったがかかったもう一つの例を。
当時、台湾では「合作映画においては、その台詞の50%以上が北京語でなければならない」という上映規定があり、『香港の夜(香港之夜)』(香港の右派映画会社の作品も国片、つまり台湾映画と同様の扱いを受けていました)はその規定に引っかかったために日本映画と見做され、日本での公開(1961年7月)はもちろん、香港での公開(1961年9月)からも大きく遅れた1962年10月になって、ようやく台湾での公開が実現しました(日本映画に関しては、年間の上映本数に制限がありました)。
とはいえ、その興行成績は大変よく、1962年の台北市における日本映画興行収入1位になったばかりでなく、当時(1963年)の歴代興行収入第8位に食い込む大ヒットを記録したのでありました。
念のため申し添えておくと、『海灣風雲』は北京語版と台湾語版だったので、上記規定にはもちろん引っ掛かりませんでした。

画像のおまけ:『海灣風雲』と同時期に台北で公開されていた
志村敏夫監督、前田通子主演の台湾語映画『秋風秋雨割
心腸』の新聞広告(くわしくはこちらをご参照下さい)。

2009年2月17日火曜日

諸国鍋自慢大会

〔ちょっとお耳に〕


どうも。
トド@本物のヨシミちゃんですか?です。

さて、困ったときの画像ネタ。
香港老電影にみるオサレな日本です。

1961年の電懋作品『南北和』(王天林監督)に思いもかけない形で日本が登場することは、以前メインサイトでも取り上げましたが、今回はそのうちの「日本料理店で鍋」場面を検証してみたいと思います。

いろいろあったけれど仲直りした2つの家族。
仲直りのしるしに日本料理店へ行くことになります。


楽しく鍋をつつく一同。
一斉に箸を突っ込んでいるところから
みて、ここには鍋奉行はいない模様。
すき焼きかしら?
しかし、スッチー服で鍋って・・・・。


ところが、ここで再び抗争勃発!

広東人が「打邊爐」を自慢すれば、


上海人も「それは俺たち北方の
涮鍋子のことだろ?」と譲りません。


一瞬、あやしい雲行きになるものの、若者たちのとりなしで一時休戦。

すると、そこへ・・・・



うわっ!出たな化け物!(矢印)

と思ったら・・・・

仲居さんでした。
髪ぐらい結えよ。

この映画が公開された前年の1960年、香港の日本料理店の先駆けである東京レストランがオープンしていますので、当時の香港の人たちにとって日本料理は目新しい、まさにオサレな料理だったのでありましょう。

アリガトゴザマシター。

2009年2月13日金曜日

大蛇王 HONG KONG崩壊の序曲 (大蛇王)

〔えいが〕

ごもっとも。

1987年、台湾(安記)。徐玉龍監督。李修賢、蘇慧倫(珮珮)、梁修身、張沖主演。

どうも。
トド@相変わらずしこりが!です。

さて、こちらで『人蛇大戦・蛇(人蛇大戰)』をご紹介してから既に4年近くの歳月が流れました。
そして今、再び満を持して(?)お届けする台湾製トンデモ大蛇映画ざます。
1980年代ビデオバブルの頃、どういう風の吹き回しか日本版ビデオがリリースされた『大蛇王』だよーん。

この映画、ビデオのパッケージでは「1986年 香港映画」となっており、邦題も『大蛇王 HONG KONG崩壊の序曲』ですが、実際の撮影地は台北及びその近郊であり、台詞も北京語、また、台湾映画のデータベースである「台灣電影資料庫」に収載されている点からみて、台湾映画と考えた方が妥当かと思います。
というわけで、製作年、製作会社は「台灣電影資料庫」に依りました。

なお、本作は後に悪名高き香港IFDによってニコイチ映画"Thunder of Gigantic Serpent"に改編され(監督はおなじみ何誌強!ただし、本作では李超名義)、英語圏ではむしろこの英文タイトルで知られているようです(IFD及びフィルマークの素晴らしい作品群に関しては、こちらこちら、はたまたこちらをご参照下さい)。

詳しいストーリーは、こちらをご参照頂くとして(職務放棄)、映画の舞台は某華人国家。
台湾でも香港でもありません。
だから、国旗も・・・・・

限りなくオーストラリア国旗に似た別の旗。
よくオーストラリアから抗議が来なかったな。

人間の意志を理解する利発な蛇ちゃん・摩斯拉(モスラ)と少女・ティンティン(漢字不詳。婷婷か?)の友情を軸に、この2人(というか、1人と1匹)が国家機密を盗み出そうとする悪の組織と、それを阻止せんとする安全局及び警察との戦いに巻き込まれ、やがて悲劇が起こるのでした・・・・。

で。

なぜ蛾でもない蛇に摩斯拉(モスラ)なんて名付けたのか、その秘密は後半に至って明らかになります。
つまり、本家モスラが小美人を救うべく日本へやって来て大暴れ、挙句の果てに東京タワーで羽化しちゃうのに対して(いまだにチョココロネを見るとモスラを思い出す私)、こちらの摩斯拉(モスラ)も飼い主であるティンティンちゃんを救うために山から街へやって来て無辜の市民を大量殺戮、街一番の摩天楼である星光ビル(ティンティンちゃんはここに閉じ込められています)に巻きつきます。
いやー、それにしても、

人死にすぎや!

しかし、何も知らないティンティンちゃんはここに至ってもなお、

モスラを殺さないで!

と叫ぶのでありますた。

あんた1人を助けるために何千人が犠牲になったと思ってるんだよ!

ラスト、摩斯拉(モスラ)の死を受け入れることができないティンティンちゃんを女性科学者がやさしく諭す、その件を観てなぜか

娃娃と子豚(娃娃)

を思い出してしまったせんきちでありましたが、それにしても高くついた「いのちの授業」だったな、こりゃ。
子供はおとなしくおうちで『葉っぱのフレディ』でも読んでなさい。

以下、本作に関連した小ネタ。

キャストの欄に蘇慧倫とあるのを見て、「もしや、あの蘇慧倫では?」と思った、そこのあなた!
はい、私も最初はそうでした。
しかし、本編を観てびっくり、

顔が違うじゃん!

で、よくよく調べてみたところ、1984年の大ヒットドラマ『星星知我心』(台視)に出ていた同姓同名の別人(子役)ですた。

現在のお姿(向かって右)。
既に芸能界は引退、弁護士として活躍中。
左は『星星知我心』の母親役・吳靜嫻。

不肖せんきちがこの作品を取り上げようと思ったきっかけは、台湾映画界で活躍した日本人カメラマン・中條伸太郎の作品リストの中に年代不詳の映画として本作が挙がっていたためでありました。
「台灣電影筆記」の中條の項には、この辺りの事情について、


1982年,因著他所擅長的特殊攝影技術,以導演兼攝影身分,陸續與日本圓谷製作公司特技攝影小組合作,拍攝了《大蛇王》、《風神榜》、《里見八犬傳》、《千里眼順風耳》、《孫悟空七十二變》等五部神怪特技片。


とありますが、本作の特撮を担当したのは円谷プロではなく、角川版『里見八犬伝』の特撮を手掛けた矢島信男をはじめとする東映特撮チームの面々です。

『新里見八犬傳』とあるのがそれね。

まあ、矢島信男自体は円谷英二と繋がりのあった人物なので、「台灣電影筆記」の記述も当たらずとも遠からずなのかもしれませんが、かんじんの中條の名前が本作のクレジットにはありませんでした。
名前は出さずに特撮部分のカメラのみを担当したのか、それとも製作会社と特撮チームとのコーディネイト及び通訳を行ったのか、今となってはわかりませんが、「台灣電影筆記」で挙げられた他の作品の内、『(新)孫悟空七十二變』は1976年に製作され、中條がメガホンを取ったことが判明しています。

『ネバーエンディングストーリー』で
ないことだけは・・・・たしかです。

どころで、本作を観ていて最後まで気になったのが、106高地(203じゃないよ)の707研究所(731でもないよ)で行われたR19(18じゃないよ)成長刺激元素(これの発明者が李sir)の動物実験で巨大化したガマガエルの行方。
研究所が悪の組織の襲撃を受けたさい忽然と失踪、その後の行方には誰も触れないまま。

台湾を旅行する皆さん、巨大ガマガエルにはくれぐれもお気を付け下さい。

2009年2月11日水曜日

その通り!おぢさんの怪

〔ちょっとお耳に〕

日本のおぢさんにも大人気。

どうも。
トド@首にしこりが!です。

はじめに、お知らせです。
2月28日からシネマヴェーラ渋谷で開催される特集「紀伊国屋書店レーベルを讃える」において、但漢章(フレッド・タン)監督の代表作である『離魂』が上映されます。
公式サイトにはまだスケジュールが出ていませんが、「魅惑の名画座」さんによれば、3月8日(日)1日限りの上映の模様です(時間未定)。
未見の方、DVDは持っているけれどやっぱりスクリーンでご覧になりたい方は、ぜひ足をお運び下さい。


さて。

これまで、香港老電影に出てくるオサレな日本をいくつかご紹介してきますたが(こちらこちら)、本日もそんな素敵な日本をご紹介しましょう。

1967年の國泰作品『太太萬歳』(王天林監督)。

フランス、イギリス、日本、タイ、4カ国の女優さんをモデルに起用してのファッションショーのシーンで、樂蒂のスピーチに

「その通り!」

と激しく同意している日本人のおぢさんが2人出ているのに気がつきますた(下の写真、矢印の方)。


なんで現場にいたんでせう?

スタッフ?(日本人の名前はクレジットにないけど)

それとも、樂蒂に日本語の台詞を教える先生?

ちなみに、樂蒂の日本語の台詞は、

「由美子さん、どうぞ」
「あのー、日本の婦人たちはね、旦那様に、そうですか、とってもよくしますでしょ?」
「はあ、そうですか。どうもありがとうございました」

の3つ。
2番目の台詞の「そうですか」という合の手(?)が気になりますけれど、とりあえず、ちょっと舌足らずな感じが、なんともいえず可愛らしいです。

しかし、樂蒂に呼ばれて出てきた日本明星・由美子さん(少女たちのアイドルらしい)の和服は・・・・

おめー、寸法が合ってねえぞ!


帯がぐずぐずじゃねえか!(注)

悲惨なものでした(泣)。

ところで、話は変わりますが、劇中、樂蒂たちが働いているホテルは半島酒店(外観のみだけど)。


当時は比較的簡単に撮影許可が下りたらしいです。
ただし、映画の中では皇后酒店という名前ですた。
國泰(電懋)は半島酒店がお気に入りなのか、『玉女私情』や『六月新娘』にも半島酒店が登場します。
一方、國泰と仲良しの東宝はお向かいの国賓酒店専門。
空港から彌敦道を南下して左に曲がると東宝、右に曲がると國泰(電懋)、ということになります。
ただし、國泰(電懋)作品でも、『玉樓三鳳』や『桃李争春』『危険人物』等では国賓酒店が登場していますた。
ちなみに、『香港の白い薔薇(香港白薔薇)』で水野久美が働いていたのも、皇后飯店という名前のホテルでした(日本語字幕には出てきませんが)。
樂蒂と同じ職場にいたのね(おいおい)。

国賓酒店前にあった駐車場での一こま。
背後にソニーの看板が見えますが、『太太萬歳』では
ソニーのテレコ(推定)が大活躍します。


注:以前、海南島の足つぼマッサージでせんきちの担当になったお姉ちゃんは、お太鼓のことをリュックサックと間違えており、「日本の女性はあんな荷物をいつも背負っていて、重くはないのか?」と聞かれたことがあります。

2009年2月9日月曜日

アジア映画祭あれこれ (おまけ)

〔ちょっとお耳に〕

ケンカ上等!

どうも。
トド@明日はメタボ検診です。

前回の記事を書いた後、『香港影人口述歴史叢書之四:王天林』(2007年、香港電影資料館)を再読していたところ、またしてもアジア映画祭に関する危ない話が出てきたので、こちらでちょっこし取り上げておきます。
最初にお断りしておくと、以下の情報は、全て王天林監督の談話に基づくものです。

3、他人のパクリはチクります

1961年にマニラで開催された第8回アジア映画祭でのこと。
電懋の出品作である『野玫瑰之戀』(もちろん、王監督の映画ね)の評判が大変よく、「受賞間違いなし!」と言われていたのですが(というか、ほとんど受賞が決まっていたらしい)、これに腹を立てたのが邵組、もとい、邵氏の親分・邵逸夫。

「この映画は洋ピン、じゃなくて、洋物の焼き直しじゃないか!」

と難癖をつけて、受賞を取り消しにしてしまったとさ、ジャンジャン。

まあ、たしかに『野玫瑰之戀』は、歌劇『カルメン(Cermen)』とドイツ映画『嘆きの天使(Der blaue Engel)』を下敷きにしていますが、

「香港に著作権はない!」

と豪語していた

稀代のパ○リ王(1字自粛)

たる邵逸夫に、そんなこと言われたかないですよね、正直(パ○リの実態に関しては、こちらをご参照下さい)。

で、結局、『野玫瑰之戀』の代わりに栄冠を射止めたのは、邵氏の『千嬌百媚』だったのでありました。

Fさんの特集企画によれば、第8回映画祭ではこの他にも、日本勢が一致団結して韓国映画『下女』の受賞を阻んだ、なんていう逸話もあるそうですので(真偽のほどは定かでないようですけれど)、「声の大きい者が得をした」映画祭だったようです。
しかし、今日においてもなお『野玫瑰之戀』と『下女』の評価が高い点から考えると、このときのアジア映画祭においては、受賞を逃した作品が真に優れた映画だった、ということになりそうです。

ちなみに、1964年に台北で開催された第11回映画祭で、電懋作品が助演男優賞と助演女優賞(本来なら主演であるべきなのですが)しか取れなかった理由についても、王監督は下記のような説を唱えています。
曰く、開催国である台湾の中央電影幹部が参加国から寄付金を募る際、陸運濤に「寄付が多ければ多いほど、受賞できる賞の数も多くなる」と話したため、これを不満に思った陸は会費以外の一切の支出を拒み、それゆえわざと2つしか受賞できないようにされてしまったのだそうな。
んー、これもありそうな話ではあるわね。
官製映画会社の中央電影のこと、右派の映画会社だった電懋に「国府支持なら沢山金出せ」とか平気で言いそうですもん、たしかに。

というわけで、アジア映画祭をめぐるダークな話題ですた。
くわばらくわばら。

2009年2月7日土曜日

アジア映画祭あれこれ

〔ちょっとお耳に〕

今じゃ紙くず。
でも、大事な宝物。

どうも。
トド@いよいよ花粉の季節です。

本題に入る前に、大変ショックなお知らせです。

日本国内のひげちょうるうろうはんが、ついに全滅しますた!

魯肉飯難民になっちまったよ・・・・。

さて。

かつてはアジアきっての映画祭、しかし、今では何の権威もない映画祭となり果てた「アジア映画祭(現・アジア太平洋映画祭〔亞太影展〕)」について、かつて当方がメインサイトで少しばかり取り上げた他、映画館主・Fさんが運営するサイト"DAY FOR NIGHT"でも「誰も知らない?映画祭 アジア太平洋映画祭・幻の半世紀」というタイトルで特集企画を組んでおられますが、メインサイトで触れたニュース映画に増補分が見つかりますたので、それらのご紹介がてら、ちょっこし面白いネタにも言及しておきたいと思います。

1、アジア映画祭のニュース映画 落穂拾い

メインサイトでご紹介したニュース映画の補遺。

『毎日世界ニュース 349』(1958年4月23日)
「あちらの日本ブーム」
マニラで開かれるアジア映画祭に向かう日本代表団の羽田空港での出発風景。
永田雅一、京マチ子といった大映勢の姿が見えます。

『毎日世界ニュース 406』(1959年5月20日)
「輝くゴールデン・ゴング賞」
マレーシアで開かれたアジア映画祭から帰国した日本代表団。
大映作品『氷壁』の監督賞(増村保造)等、5つの賞を受賞しました。
ちなみに、このときの作品賞は邵氏の『江山美人』でした。

増村の監督賞受賞も知られていないけれど、たしか成瀬(『山の音』)や小津(『秋日和』)も監督賞貰ってなかったっけ?

ゴールデン・ゴング賞の「ゴング」とは、この年のトロフィーの形がゴング(Gong)型だった(てっぺんにゴングが載っている)から・・・・みたいです。

これね(写真の人物は姚敏)。

毎回ゴールデン・ハーベスト賞ってわけじゃなかったのね。

『大毎ニュース 845』(1967年10月4日)
「アジア映画祭開く」
この年、香港暴動の煽りで延期になったアジア映画祭は、結局東京で開催されました。
開会式及びパーティの模様(田宮二郎がちらりと登場)。
日本、韓国、香港、台湾、フィリピン、合計5カ国の代表団の女優さんたちの姿が映りますが、連盟加盟国の内、タイ、南ベトナム、シンガポールからの出品はありませんでした。
南ベトナムなんて、映画作ってる場合じゃなかったよね、この頃。
このときには、長編、短編合わせて34本の作品が出品されたそうです。

2、邵逸夫、「バンザイ!」を叫ぶ

第1回の映画祭(当時の呼称は「東南アジア映画祭」)を報じる新聞記事の中から、興味深い内容のものを見つけました。
1954年5月21日(金)付『朝日新聞』夕刊「成功だった東南アジア映画祭」より。


・・・・十五日夜には大映のパーティが帝国ホテルで行われたが、提唱者主催の歓迎会とあって永田社長は大張切り。宮城道雄の「六段」「春の海」などのアトラクションで会場を日本的ふんいきで包んだ。すっかり感心した各国来賓一同、ついにマレーのランラン・シュウ(原文ママ)氏の発声で日本語のバンザイを叫び、皇太子のために乾杯というシーンを出現したが、「不安定な東南アジア情勢の中で、これは映画を通じた立派な外交だよ」とスタッフは大喜びだった。


小出英男の『南方演芸記』(1943年、新紀元社)を読む限り、日本軍がシンガポールを占領していた時期にも、仁枚と逸夫の邵兄弟はそれなりにうまく立ち回っていたようですが(陸運濤が命からがらシンガポールを脱出したのとは対照的です)、その折も日本軍相手に「バンザイ!」を叫んでいたのだろうかと、ちいとばかり気になってしまいますた。

どこで覚えたんだ、バンザイ?

2009年2月5日木曜日

街角定点観測

〔ちょっとお耳に〕

絶対に笑ってはいけない病院24時 香港編』も楽しめます(おいおい)。

どうも。
トド@咽喉の調子がおかしいです。

さて。

いまさらですが、『文雀(Sparrow)』に王星璉住居跡が出てきたのを記念して、昔の映画(『香港の白い薔薇(香港白薔薇)』〔1965〕『香港の星(香港之星)』〔1962〕)との比較検討を試みてみますた。

1、仕徳福山景酒店と宇津木商事

『文雀』には天文臺道沿いにある仕徳福山景酒店(スタンフォード・ヒルビューホテル)が登場しますが、これを『香港の白い薔薇』と比較してみると・・・・。

『文雀』より。


『香港の白い薔薇』より。

あれ?おんなじ場所じゃない?

『香港の白い薔薇』の中では、画面に出てくるビルの中に宝田明演じる宇津木の経営する貿易会社(宇津木商事)がある、という設定になっており、以前、せんきちは、メインサイトにおいて

ちなみに、『香港の白い薔薇』(1965年)で宝田明扮する宇津木が経営する貿易会社のオフィスがあったのは、奥に見える仕徳福山景酒店(スタンフォード・ヒルビューホテル)のある辺りです。

書きますたが、どうやら「辺り」どころではなくまさしく「その場所」だったようです。

2、尖沙咀皇悦酒店のその昔

まずは、下記の画像をご覧下さい。

『文雀』より。

皆様もご存じの通り、現在、矢印の場所には尖沙咀皇悦酒店(エンパイア・ホテル・カオルーン)が建っていますが、これを『香港の白い薔薇』及び『香港の星』の類似場面と比較してみると・・・・、

あれ、隠れちゃって見えないや。
(『香港の白い薔薇』より)


今度は見えたけど、何のビルかわからないな。
(『香港の白い薔薇』より)


あ、見えた!"STORE"と書いてあるぞ!
(『香港の星』より)

というわけで、『香港の白い薔薇』ではよくわかりませんでしたが、『香港の星』の時代、すなわち1960年代初めには、尖沙咀皇悦酒店のあった場所はお店屋さん(STOREの前に何か書いてあるので〔判読不能〕、普通の士多ではないようです)が盛業中だったのでありますた。

おまけの1枚。
リンクを貼ったメインサイト下の写真と
ほぼ同じ角度の画像を『香港の星』から


付記:『文雀』と『香港の白い薔薇』の画像、建物の左側にある道は諾士佛臺。昔々、雷震とその家族(もちろん樂蒂も)はこの道沿いに住んでいて、近く(金巴利道沿いの香檳大廈)に住んでいた尤敏とは家族ぐるみの付き合いをしていた、という話が、『古典美人 樂蒂』の雷震へのインタビューに書いてあります。

2009年2月2日月曜日

虎豹別墅に行ってみた (無理やり最終回)

〔たび〕

大麻吸うよりタイガーバーム。

どうも。
トド@来週の健康診断が怖いです。

虎豹別墅写真企画にもすっかり飽きたので、今回でおしまいにします(って、自分で企画したくせによお)。

『白蛇伝』より金山寺大洪水の景・・・・なんですけど、


なぜかその傍らには自由の女神が。
「蛇と人が恋してもいいじゃないか!」と、
恋愛の自由を訴えている・・・・
ということではないと思います、たぶん。


おなじみ「地獄めぐり」。
ここだけ入場料(1S$)が必要。
香港のそれに比べると、些か
おかしみに欠けるきらいが。


お母さんは大変だ。


昼どきだったので、園内にある
レストラン「華軒」で飲茶しますた。
安くてそこそこうまかったっす。


というわけで、これでお別れ!
じゃあね!

(あ、ブログはまだまだ続きます)

2009年2月1日日曜日

この子はだあれ? お答え編

〔ちょっとお耳に〕

出てるんだって。

どうも。
トド@出不精です。

さて、前回の記事でお尋ねした件、早々と答えがわかりますた。
といっても、きっかけは実にかんたん。
もう一度、冒頭のクレジットをじーっと観察してみた結果、

張志宝

なる名前を発見、「もしや、彼では?」と思い調べてみたところ、はい、その通り、おぼっちゃまは

張志寶

という名の子役ちゃんですた。

今のところ、詳しいプロフィールは不詳ですが、出演作品としては、

『旅館鴛鴦(The tryst)』(1962年、邵氏。羅臻監督。陳厚、丁紅主演)
『為誰辛苦為誰忙(Bitter Sweet)』(1963年、邵氏。岳楓監督。陳厚、丁寧主演)
西廂記(West chamber)』(1965年、邵氏。岳楓監督。凌波、李菁、方盈主演)


の3本が判明しています・・・・って、みんな邵氏じゃん(ま、いいか)。

というわけで、皆様、大変お騒がせいたしますた。

撤収!