べっぴんさんが再びサンジャイ・リーラー・バーンサリー監督と
組んだ新作"Bajirao Mastani"の予告編。
むっちゃかっこよくて、むっちゃ美しい!
どうも。
トド@東京フィルメックスだね全員集合!です。
『青春神話(青少年哪吒)』がスクリーンでまた観られるなんて、嬉し過ぎます。
さて。
先月開催されたIFFJ(インディアン・フィルム・フェスティバル・ジャパン)。
べっぴんさん作品も3本上映されましたが、その内の『ファニーを探して(Finding Fanny)』(なぜ、ヒンディー語吹替版での上映だったのやら…)は3月の大阪アジアン映画祭で上映済みなのでその折のメモ(こちらとこちら)をご参照頂くとして、残りの2本、『銃弾の饗宴 -ラームとリーラ-(Goliyon Ki Raasleela Ram-Leela)』と『ピクー(Piku)』について、不肖せんきちのツイッターでのつぶやきをこちらにまとめておきたいと思います。
あくまでも、個人的な備忘録ということで。
『銃弾の饗宴 -ラームとリーラ-(Goliyon Ki Raasleela Ram-Leela)』
・・・以下は、つぶやきまとめ・・・
IFFJで『銃弾の饗宴 ラームとリーラ』。絢爛たる色彩、ほとばしる情念。スクリーンでこの映画が観られることの至福と恍惚に酔いしれる。
『銃弾の饗宴 ラームとリーラ』、『ロミオとジュリエット』にインスパイアされた作品だが、私にとっては近松以来の心中ものの系譜に繋がる作品。道行はないけれど、最後 の2人の愛の交歓こそが死出の旅にふさわしい。2人の恋を純愛と呼ぶにはあまりに熱く、危うく、痛々しく、そして甘美である。
『銃弾の饗宴 ラームとリーラ』のめくるめくエロスに満ち満ちた世界にやられて、今夜は眠れないわ。
『銃弾の饗宴 ラームとリーラ』、対立する組織の抗争&跡目争いに禁断の恋が絡むという、東映実録路線ファンも必見の1本(ほんとかよ)。
『銃弾の饗宴 ラームとリーラ』に出てくるパッチン鋏、『仁義なき戦い』の広能に教えてあげたいわ。
そういえば、『銃弾の饗宴 ラームとリーラ』で何があっても愛を貫こうとするリーラに兄嫁が「利己的」云々という件があったが、その利己的な愛こそが結果的に平和をもたらすという、愛の不可思議さよ。そのためには愛に殉ずるという大きな犠牲が払われたわけだが。
IFFJで『銃弾の饗宴 ラームとリーラ』おかわり。この作品、名誉や権力や地位、そして敵味方といった男たちの身勝手な論理によってないがしろにされてきた女たちによる異議申し立て映画と見ることも可能なのではないだろうか。
(『ラームとリーラ』承前)そしてその視点に立つと、前半チャラ男に見られがちなラームは、真の男らしさとは何なのかを問う存在でもあると考えられる。彼に胸毛がないのも、彼が従来の男らしさの規範からは外れた(言い換えれば、自由な)人物であることを示している。
『ラームとリーラ』、母の代理を務めることになったリーラが男たちから「小娘」扱いされるところも、このコミュニティにおける女性の立場をよく示している。それに対して母が周囲の男たちから畏怖されるのは、性別こそ女だが男の論理で生きている存在だから。
(『ラームとリーラ』承前)そんなリーラが男たちから認められるのは、あの命令書に間違って署名をしてしまったがゆえにという点が、なんとも皮肉。すなわち「男よりも男らしい」ことによってしか、ここでは人として認められないのである。
『ラームとリーラ』、リーラはラームに自分の人生を賭けたが、リーラとラームの兄嫁たちも若い2人に自分たちの人生と未来を託している。この2人の兄嫁が果たす役割も大きい。一見血なまぐさい男たちの闘争の中に花開いた女性たちのドラマにも注目したい。
『ラームとリーラ』めも。終盤、リーラの母が狙撃されるが、誰が自分を狙ったかを知っているのは他ならぬ彼女自身である。五百年に亘る流血と報復 の歴史がついに同族内の抗争まで生むに至ったことに、彼女は愕然としたに違いない。リーラの失われた薬指を見つめる母の瞳には深い悔恨の情が滲む。
『ラームとリーラ』は、誰よりも男らしく生きてきたリーラの母が本来の人間性を取り戻すまでを描いたドラマでもあると言えよう。
『ラームとリーラ』めも。リーラの左手薬指が母によって切断されたことを知ったラームは自ら左手薬指を絶ち、彼女の許をそっと訪れる。指を断つと いう行為は日本の心中立を思わせるが、心中立には愛情を貫く他にも義理を守り抜く意味もある。どんなに離れていても2人は一心同体なのである。
『ラームとリーラ』めも。「愛こそ全て、愛こそが何物にもまさる」という、男たちからは一笑に付されがちな「女子供の論理」を高らかに称揚している点こそが何より素晴らしい。
『銃弾の饗宴 ラームとリーラ』、『ロミオとジュリエット』にインスパイアされた作品だが、私にとっては近松以来の心中ものの系譜に繋がる作品。道行はないけれど、最後 の2人の愛の交歓こそが死出の旅にふさわしい。2人の恋を純愛と呼ぶにはあまりに熱く、危うく、痛々しく、そして甘美である。
『銃弾の饗宴 ラームとリーラ』のめくるめくエロスに満ち満ちた世界にやられて、今夜は眠れないわ。
『銃弾の饗宴 ラームとリーラ』、対立する組織の抗争&跡目争いに禁断の恋が絡むという、東映実録路線ファンも必見の1本(ほんとかよ)。
『銃弾の饗宴 ラームとリーラ』に出てくるパッチン鋏、『仁義なき戦い』の広能に教えてあげたいわ。
そういえば、『銃弾の饗宴 ラームとリーラ』で何があっても愛を貫こうとするリーラに兄嫁が「利己的」云々という件があったが、その利己的な愛こそが結果的に平和をもたらすという、愛の不可思議さよ。そのためには愛に殉ずるという大きな犠牲が払われたわけだが。
IFFJで『銃弾の饗宴 ラームとリーラ』おかわり。この作品、名誉や権力や地位、そして敵味方といった男たちの身勝手な論理によってないがしろにされてきた女たちによる異議申し立て映画と見ることも可能なのではないだろうか。
(『ラームとリーラ』承前)そしてその視点に立つと、前半チャラ男に見られがちなラームは、真の男らしさとは何なのかを問う存在でもあると考えられる。彼に胸毛がないのも、彼が従来の男らしさの規範からは外れた(言い換えれば、自由な)人物であることを示している。
『ラームとリーラ』、母の代理を務めることになったリーラが男たちから「小娘」扱いされるところも、このコミュニティにおける女性の立場をよく示している。それに対して母が周囲の男たちから畏怖されるのは、性別こそ女だが男の論理で生きている存在だから。
(『ラームとリーラ』承前)そんなリーラが男たちから認められるのは、あの命令書に間違って署名をしてしまったがゆえにという点が、なんとも皮肉。すなわち「男よりも男らしい」ことによってしか、ここでは人として認められないのである。
『ラームとリーラ』、リーラはラームに自分の人生を賭けたが、リーラとラームの兄嫁たちも若い2人に自分たちの人生と未来を託している。この2人の兄嫁が果たす役割も大きい。一見血なまぐさい男たちの闘争の中に花開いた女性たちのドラマにも注目したい。
『ラームとリーラ』めも。終盤、リーラの母が狙撃されるが、誰が自分を狙ったかを知っているのは他ならぬ彼女自身である。五百年に亘る流血と報復 の歴史がついに同族内の抗争まで生むに至ったことに、彼女は愕然としたに違いない。リーラの失われた薬指を見つめる母の瞳には深い悔恨の情が滲む。
『ラームとリーラ』は、誰よりも男らしく生きてきたリーラの母が本来の人間性を取り戻すまでを描いたドラマでもあると言えよう。
『ラームとリーラ』めも。リーラの左手薬指が母によって切断されたことを知ったラームは自ら左手薬指を絶ち、彼女の許をそっと訪れる。指を断つと いう行為は日本の心中立を思わせるが、心中立には愛情を貫く他にも義理を守り抜く意味もある。どんなに離れていても2人は一心同体なのである。
『ラームとリーラ』めも。「愛こそ全て、愛こそが何物にもまさる」という、男たちからは一笑に付されがちな「女子供の論理」を高らかに称揚している点こそが何より素晴らしい。
・・・つぶやきまとめ、ここまで・・・
以上、一言でこの映画を総括するなら(あくまでせんきち目線による)、
これはラームとリーラの苛烈な愛の物語であると同時に、
女子供による革命映画
ということになりましょう。
そしてその革命を先導したのが、従来の男らしさの呪縛から解き放たれた新しき男・ラームであったという点も特筆に価します。
彼が街を練り歩く姿に女性たちが熱狂するのも、「この男はほかの男たちとは違う」と本能的に嗅ぎ取っていたからかも知れません。
リーラがラームと出会った瞬間に恋に落ちたのもこの本能のなせる業、まさしく「運命」であったのでしょう。
思えば、サンジャイ・リーラー・バーンサーリー監督の2002年の名作『デーヴダース(Devdas)』も、主人公デーヴダースを取り巻く女たちのドラマにむしろ主眼が置かれた映画であったような気がいたします。
不肖せんきち、パローとチャンドラムキーの関係を見ていると、いつも『心中天の網島』のおさんと小春を思い出すのでありますよ。
そんなわけで、12月17日公開予定の監督の新作"Bajirao Mastani"ではどんな女のドラマが展開するのか、今からわくわくしております。
思えば、サンジャイ・リーラー・バーンサーリー監督の2002年の名作『デーヴダース(Devdas)』も、主人公デーヴダースを取り巻く女たちのドラマにむしろ主眼が置かれた映画であったような気がいたします。
不肖せんきち、パローとチャンドラムキーの関係を見ていると、いつも『心中天の網島』のおさんと小春を思い出すのでありますよ。
そんなわけで、12月17日公開予定の監督の新作"Bajirao Mastani"ではどんな女のドラマが展開するのか、今からわくわくしております。
(『ピクー』はまた後ほど)