2006年1月16日月曜日

『香港の夜』前夜

〔ちょっとお耳に〕


なんだか妙なタイトルですが、尤敏ネタです。

ご周知の通り、尤敏が日本で爆発的な人気を得るきっかけとなったのは、1961年、日港合作映画『香港の夜(香港之夜)』に主演したことにありますが、実はそれ以前にも、日本のマスコミが尤敏を取り上げたことがありました。

1960年、東京で開催された第7回アジア映画祭(現・アジア太平洋映画祭)で主演女優賞を受賞したさい、朝日新聞は写真入りで彼女の紹介記事を掲載しています。


こまかい演技 女優主演賞のユー・ミンさん
東京で開かれた第七回アジア映画祭では、香港映画がすばらしい成績で、作品、監督、脚本などの主な賞をひとりじめにしたかたちだった。女優主演賞も香港のユー・ミンさん。去年につづく二度目の主演賞だし、ちょうど代表団の一員として来日中でもあったので、授賞式ではひとしおうれしそう。大きな目を輝かせて「ありがとう、ありがとう」の連発だった。
彼女は香港生まれ。マカオのミッションスクールを出てすぐ映画入りしてから八年、約二十本の作品に主演したそうだが、「主演ばかりで、ほとんど助演をしたことがありません」という幸運のスター。文芸作品への出演が多く、アジア映画祭審査委員長今日出海氏は彼女の演技を評して「こまかいところまで実にうまい。日本の女優さんよりうまい」としきりにほめていた。
「日本映画はあまりみたことありませんが、"無法松の一生"はみました。いい映画でした。外国の俳優ではイングリッド・バーグマンがいちばんすきです。男優?さア・・・・」と首をひねって笑ってみせた。今度の受賞をいちばんよろこんでくれるのは両親だとのこと。記者会見を終えて帰りしなに「おなかがすいた」と細い体をおさえてひとこと。明るい女優さんだ。
(1960年4月11日付『朝日新聞』夕刊)


この翌年に掲載された「『香港の夜』の主演女優 尤敏を売り出す(東宝) 近く日本で撮影続行」(1961年3月27日付『朝日新聞』夕刊)が尤敏を「広東生まれ」としていたのに比べて、こちらではちゃんと「香港生まれ」と正確な情報を載せています。

そして、さらにここから遡ること5年、1955年の『キネマ旬報』6月下旬号の「第2回東南アジア映画祭(東南アジア映画祭→アジア映画祭→アジア太平洋映画祭と名称変更・せんきち注)特集グラフィック」にも尤敏の写真が掲載されているのですが、まだ日本では何の知名度もなかったため、写真のキャプションには、


上図の見開き写真は授賞式直後の各国代表、2頁目左より山崎松竹専務、小林トシ子、一人おいて岸恵子、一人おいて喜多川千鶴、一人おいて三原葉子、一人おいて田代百合子、久慈あさみ


となっており、岸恵子と喜多川千鶴の間にいた尤敏は、見事なまでに無視されております。

しかし、このとき彼女に注目した1人の日本人男性がいました。
それは東宝の森岩雄です。
この出会いが巡り巡って『香港の夜』誕生へと結びつくわけですが、森自身は後年、尤敏との出会いをこんな風に書き残しています。


前の年(1955年・せんきち注)、シンガポールの映画祭で私は可愛いくて清純な中国女優を見いだした。好みが日本人向きで、きっと日本でも人気を得ると思ったので交渉をした。その人は尤敏といってショウ兄弟(正確にはショウ&サンズ〔邵氏父子〕・せんきち注)の契約下にあり、十九歳ということであった。ショウ兄弟は尤敏を大スターとして売り出す準備中なので、とても日本には貸せないと断りを言ったので、そのときは諦めざるを得なかったが、尤敏はその後ショウ兄弟を離れて、カセイ映画に移ったので早速藤本真澄に話をし、藤本さんは香港に飛んで本人に会ったところ、私以上の熱の入れ方となり、カセイ映画と合作の話をまとめ、「香港の夜」その他数本の映画を作ったが、尤敏が日本の見物にも大いに迎えられ、映画は全て成功を納(ママ)めた。
(『私の藝界遍歴』1973年、青蛙房)


藤本真澄が尤敏に会うのは1960年のことですから、足掛け5年もの間、森岩雄は尤敏のことを待ち続けていたということになります。
待っている方もたいしたものですが、それだけ森岩雄に対して深い印象を残した尤敏という女優も、やはりたいした女優さんだと思います。

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