2007年2月23日金曜日

我女若蘭 (Orchids And My Love)

〔えいが〕

DVDのジャケット及び盤面には
「武家麒」の名前がありますが、
実際には出ていない・・・はず。

1966年、台湾(中影)。李嘉監督。唐寶雲、葛香亭、馮海、謝玲玲、巴戈主演。

第5回金馬奨作品賞、監督賞、子役賞、カラー撮影賞、カラー美術賞、編集賞受賞作。

バレエが得意な少女・孟若蘭(謝玲玲、唐寶雲)は当時不治の病とされていたポリオに侵され、歩行さえも儘ならなくなって自暴自棄に陥りますが、父(葛香亭)や幼なじみの邱文雄(巴戈、馮海)の励ましによって蘭の栽培に打ち込むようになり、やがて彼女の栽培した蘭が高い評価を得るまでを描いています。

葛香亭と唐寶雲の父子物という点から見れば『あひるを飼う家(養鴨人家)』の(脚本も同じ張永祥が担当)、主人公の子供時代を謝玲玲と巴戈が演じ、成長してからを唐寶雲と馮海が演じるという点から見れば『婉君表妹』の、それぞれ延長線上に位置する作品と考えることが出来ます。
が、

健常者=完全
障害者=不完全


という価値観が透けて見えてしまうため、ラストで若蘭が「クララが立った状態」になって文雄との恋も成就するというオチには、今ひとつ納得がいきませんでした。
若蘭の足が不自由なのは、病気のせいだけでなく彼女の心の状態が大きく影響しており、勇気を奮って一歩踏み出すことによってきっと歩けるようになる、といったもっともらしい理由付けもあったんですけれど、しかし、仮に歩けるようにならなくとも、何か(歩行機能)を失うことによって他の何か(生きがい〔蘭の栽培〕と真実の愛〔文雄との恋愛〕)を得たヒロインの物語でもよかったように思うんですが。
何が何でも歩けるようにならないと駄目だったんですかね。

ポリオに侵された当初、主治医(魏蘇)の見立てに納得がいかない若蘭の両親が怪しげな民間療法や加持祈祷にすがるという展開は、闘病ものに付き物の趣向と言えますが、最終的に主治医を信じるようになるきっかけが「中国が生んだ最も有名な医師=國父・孫中山先生」の言葉(内容失念)だったというのは、中影ならではの決着法と言えるでしょう。

また、若蘭を愛し慈しみ誰よりも理解する存在はあくまでも父親であり、母親(傅碧輝)は娘と文雄が互いに思いを寄せていることに全く気付かず、若蘭の親友の従兄で医者の卵である大衛(江明)と娘を結婚させたがっているという、かなり無神経なお母さんである点がちょいと気になりました。
日本の場合なら、ふつう母親の方が娘の気持ちを汲み取りそうなものなんだけどねえ。
父子物ゆえの趣向と言うべきか、それとも「家族の気持ちを全て掌握するのは父親の役目」というモーレツな家父長意識の現われなのでしょうか。

ところで、本作の監督である李嘉は日本語が堪能だったらしく(といっても、『バンコックの夜(曼谷之夜)』で張美瑤のおじ役をやっていた同姓同名の俳優さんとは別人の模様)、下山操子の『故国はるか 台湾霧社に残された日本人』には次のような件があります。


・・・・その頃(1969年・せんきち注)のことです。学校でちょっとした珍事がありました。李嘉監督、甄珍、武家麒主演の『高山青』という映画のロケがわたしたちの学校でおこなわれることになったのです。受け持ちの児童がエキストラとして出演することになり、わたしは子どもたちの体操やダンス、歌の指導に大騒動でした。
わたしが日本人だとわかると、ロケの合間に李監督はわたしに日本語で話しかけてくれました。それに、わたしが子連れのときには、俳優さんたちも集まってきて、おもちゃやお菓子をくれたのです。
ロケ隊が去ってから、李監督は三度も手紙をくれました。次に撮る『楓葉師生情』の準ヒロインをやらないかというのです。模範的な教師の役だそうです。小学校五年生のときに、子役で出してもらったことがあって(台湾語映画『青山碧血』のこと・せんきち注)、以来、その方面に少々どころか大いに意欲を持っていたわたしの心は、ときめきました。(以下略)


結局、この映画出演の話は夫の猛反対によって諦めざるを得なくなり、映画自体もお蔵入りになってしまったようです。


話を『我女若蘭』のことに戻すと、本作のDVDソフトに関してyesasiaではPAL方式としていますが、決してそんなことはなく、皆様お馴染のNTSC方式でございます(うちの三菱製プレイヤーで再生できたもん)。
安心してご覧下さい。

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