2008年5月19日月曜日

純愛 (Young Lovers)

〔えいが〕

こちらはオリジナル
君たちは、やらずに死ねるか?

1978年、香港(邵氏)。帯盛迪彦(林美年)監督。爾冬陞、余安安、艾飛、林伊娃主演。

どうも。
トド@365日五月病です。
さっそく本題に入ります。

帯盛迪彦監督が邵氏に招かれてメガホンをとった作品(製作年はDVDのパッケージの記載による。香港での公開は1979年)。オリジナルは、帯盛監督が1971年に大映で撮った『高校生心中 純愛』。『邵氏電影初探』(2003年、香港電影資料館)巻末のリストにある『色慾與純情』が本作に当たり、リストでは台湾でのタイトルが『純愛』ということになっています。
また、監督の名義は「林美年」と変名が用いられていますが、これは1960年代~70年代初頭の邵氏における日本人監督の変名の習慣を踏襲したというよりは、当時、台湾で日本映画が禁映だったことに対する配慮ではないかと考えられます(たしか、日本以外の映画であっても、監督や主演が日本人であれば日本映画と同等に看做す、とかいう国府の方針があったような、なかったような)。ただし、撮影を担当した中川健一(後に呉宇森監督の『ソルジャー・ドッグス(黄昏戦士・英雄無涙)』の撮影指導を担当)は、本名のままでした。

大映版で篠田三郎と関根恵子(高橋恵子)が演じた主人公を、邵氏版では爾冬陞と余安安がそれぞれ演じていますが、大映版と邵氏版との間には、気付いただけでも下記のような大きな違いが見られます。

・学生運動に身を投じていた篠田の兄は、刑事である父親から仲間を売ることを求められ、口論の末にはずみで父親を殺してしまい、母親は心労のあまり自殺する(大映版)。→母親は既になく、病弱な父親は働くことが出来ないため、爾の兄が働きながら学生を続けて一家の経済を支えていたが、ある日、家に賊が侵入(兄の働く会社の鍵を奪い、盗みを働こうとした)、兄は父親を助けるために賊を殺してしまう。父親はこの後病死。(邵氏版)。
・関根の父は参議院選挙出馬を目論んでいる(大映版)。→もちろん(?)なし(邵氏版)。
・兄の裁判費用を稼ぐため篠田は必死で働く(大映版)。→爾はレストランでウェイターとして働くが、客と喧嘩して退職。しかし、このとき知り合った年上女性(林伊娃)の家でお抱え運転手兼お庭番として住み込みで働くことになり、最終的にはこの女性と肉体関係を持つに至る(邵氏版)。
・両親の納骨のため長野に向かう篠田を関根が追い、2人は「兄妹」と偽って長野で同棲、篠田はパン工場、関根はスーパーで働く(大映版)。→余安安を襲うチンピラから彼女を救おうとしてチンピラを刺してしまった爾は、知人を頼ってランタオ島へ逃亡。余もその後を追い、2人は島で農業に従事しながら「兄妹」として暮らす(邵氏版)。
・関根の結婚相手にと望まれた若倉慶は、母親同士が友人で、どちらの家族からも歓迎された縁談であった(大映版)。→余の結婚相手(艾飛)はバカ男で、余の父親はやっかい払いのために2人を結婚させようとする。おまけに艾飛はひどい遊び人で、余の父親の金目当てに結婚しようとしていた(邵氏版)。
・関根は走行する自動車の中で若倉と格闘の末、誤って若倉を死に追いやってしまう。逃亡の果てに関根は篠田を訪ね、共に死ぬことを決意した2人はついに結ばれる(大映版)。→艾飛を殺してしまうのは大映版と同じだが、爾も例のチンピラを結局は殺してしまい、2人とも殺人者となった末に爾はチンピラに刺された傷がもとで死亡、余は彼の後を追って手首を切って自殺。ついに2人は肉体的に結ばれることはなかった(邵氏版)。

大映版の篠田三郎は勉強もスポーツもよくできる真面目な優等生ですが、家庭の不幸からズンドコ、もとい、どん底生活に突入、それでもせっせと働きながらけなげに関根との愛を貫こうとします。
しかし、邵氏版の爾冬陞はそれほど働き者でもなく、「兄妹でいよう」と誓ったはずの余安安に迫っては拒まれ、ついには年上女性の誘惑に負けて童貞バイバイしてしまうという、さして同情の余地もない青年です。
香港における本作のタイトル(色慾與純情)も、こういった設定にもとづくものなのでしょうが、何も知らずに一途に爾冬陞を慕い、彼の後を追って死ぬ余安安が哀れ、というか、浮かばれません。もしも爾が年上女性と関係していたことを知っていたら、彼女も素直に後追いなどしなかったことでしょう。
何ゆえにこんな設定にしたのか、理解に苦しみます。
やはりここは素直に、2人の純愛にのみスポットを当てるべきだったでしょう。

さらに、大映版の尊属殺人が、邵氏版では父親をかばって賊を殺すという親孝行殺人に180度転換している点は、中華圏の倫理観に合わせたためと解釈できるものの、大映版での「被害者の家族でもあり加害者の家族でもある」という篠田の複雑な立場が、邵氏版ではそっくり抜け落ちてしまいました。

いずれにしても、大映版にあった政治的、思想的な背景(学生運動、過激派狩り、選挙、利権)を邵氏版においてはきれいさっぱり消去した代わりに、年上女性との肉体的な愛(ヘアヌード満載!)と同級生との精神的な愛の間で揺れる青年という構図(それゆえ、爾冬陞と余安安は最後まで「兄妹」のまま)にしたのだと考えられますが、そのせいで主人公2人の純粋でまっすぐな愛情がほとんど見えなくなってしまったのは、いかにも惜しまれるところです。

それに何よりも、関根恵子の

セーラー服

と、

おさな妻フェロモン

の前には、さしもの余安安も顔色なしでしたわ(可愛かったけどね、それなりに)。

いやはや、残念でした。

付記:チンピラに襲われる余安安を助けようとして誤ってそのチンピラを刺してしまう、という展開は、同じ身分違いの純愛映画『泥だらけの純情』あたりからの引用かも知れません、もしかしたら。

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