〔えいが〕
どうも。
トド@病院通いです。
というわけで、前回の続き。
今回の調査に当たり、いろいろとわかったことを以下、項目別に。
・台湾へ渡ったきっかけと台湾での第1作『霧夜的車站』
湯浅監督が中條伸太郎カメラマンと共に台湾へ渡ったきっかけに関して、『日本映画監督全集』(改訂版。1980年、キネマ旬報)の湯浅監督の項(山根貞男氏執筆)には、
・・・・66年11月、日台合作『母ありて命ある日』の撮影をきっかけに台湾へ渡る。
とありますが、市川大河さんのブログ「光の国から愛をこめて」(http://ameblo.jp/ultra-taiga/)所収の「安藤達己監督インタビュー・1」(http://ameblo.jp/ultra-taiga/entry-10149524218.html)には、そのあたりのいきさつが詳しく述べられています(追記:残念ながら、上記ブログは閉鎖されてしまいました)。
それによると、合作映画を製作するため台湾へ渡った湯浅監督一行でしたが、肝心のフィルムが日本から届かないため製作中止となってしまい、そうこうする内に台湾語映画のプロデューサーが(当時、湯浅監督の助監督をしていた)安藤達己監督が主演してくれるなら出資する、という別の製作話を持ちかけ、急きょ湯浅監督が脚本を執筆して撮影したのが台湾での第1作『霧夜的車站』だったのだそうです。
つまり、第1作の主役は、
安藤達己監督
だったわけですね。
いやはや・・・・。
・『東京流浪者』『難忘的大路』『尋母到東京』の日本人キャスト
第1作の完成後、湯浅監督と中條カメラマンを除く方々は皆さん日本へ帰られたようですが、どうしたわけか、この2人は台湾へ残り、その後も映画を撮り続けることとなります。
そしてこの内、『東京流浪者』『難忘的大路』『尋母到東京』には山本昌平、津崎公平、榊原明彦といった当時ピンク映画に出演していた日本人男優たちが参加していたことが判明しています。
また、『東京流浪者』と『尋母到東京』には東條民枝という女優さんも出演していますが、この方の詳しいプロフィールは不明です。
追記:東條民枝について、この方は1950年代後半、君和田民枝という芸名で日本コロムビアに所属していた歌手であったことが判明しました。おそらく、'60年代に入って今度は女優としてもう一花咲かせようとしたのでしょうが、結局うまくいかなかったもののようです。
上記の作品群は、台湾の製作会社が作った純然たる台湾映画(日本人キャストの台詞は、おそらく全て台湾語に吹き替えていたものと考えられます)ですが、ブログ「格林書」(http://tw.myblog.yahoo.com/jw!eKkw3vmVAhJhYjz2lxQwGvHOZWU-/)で紹介されている『東京流浪者』のチラシ(http://tw.myblog.yahoo.com/jw!eKkw3vmVAhJhYjz2lxQwGvHOZWU-/article?mid=9616&prev=9835&next=9409&l=f&fid=13)を見ると、あたかも日本映画であるかのような宣伝の仕方をしており(実際、ブログの管理人も「懷舊日片」に分類しています)、当時の本省人の間での日本映画の人気の根強さが伺える、貴重な例といえます。
・現代電影電視實驗中心時代
台湾へ渡ってからしばらくは台湾語映画を撮っていた湯浅監督でしたが、現代電影電視實驗中心の専属となって以降は、北京語映画製作へとシフトしていきます。
現代電影電視實驗中心は、1968年に潘壘監督が設立した製作会社で、台北郊外の内湖に自前のスタジオを構え、湯浅監督はここで2本の北京語映画を撮っています(湯濳名義)。
しかし、設立当初から会社は資金繰りに苦しんでいたようで、2年ほどで解散してしまいました。
なお、現代電影電視實驗中心に関しては、『香港影人口述歴史叢書之五:摩登色彩-邁進1960年代』(香港電影資料館)の潘壘監督へのインタビューをご参照下さい。
・『神童桃太郎』と『桃太郎斬七妖』
1960年代後半から台湾でも特撮ヒーロー物が大人気になっていたようで、1970年代に入ると湯浅監督の作品もそういった特撮物が中心になります。
中でも、『神童桃太郎』と『桃太郎斬七妖』は日本から
「だいじょうぶ!」
でおなじみ、
青影こと金子吉延
を招いて撮った作品で、どんなもんなのか、一度観てみたいものです。
追記:1969年の『飛龍王子破群妖』の主演俳優・金延吉も、なんだか金子吉延の変名くさい名前で、もしかしたらこの映画にも出演していた可能性があります。
・慕華影業公司
湯浅監督が台湾に帰化したことを報じる1971年7月13日付『聯合報』には、
・・・・湯慕華已自組了慕華影業公司、従事獨立製片。
とあり、湯浅監督が自ら独立プロを設立して映画製作を始めた旨が記されており、記事中では1971年の『妙想天開』を創業第1作としていますが、現在のデータでは朝陽昇有限公司が製作会社となっており、会社名を途中で変えたのか、途中から別の会社に出資を仰いだのか、詳しい経緯は不明です。
・その後の湯浅監督
1971年に台湾(中華民国)に帰化した湯浅監督でしたが、その翌年に日本と台湾が国交を断絶、日本映画(及び日本とその他の国との合作映画、日本人が投資した香港映画)の上映禁止の他、台湾映画への日本人スタッフ・キャストの参加の禁止、等、中華民国籍を持つとはいいながら日本人である湯浅監督にとっては辛い時代が訪れたようです。
前述した『日本映画監督全集』には、
・・・・75年夏、いったん帰国したが、再び台湾へ行ったという。
とあり、一度は祖国へ戻ったものの、その後、再度台湾へ渡ったことが記されています。
これはおそらく、1976年に入ると、台湾映画への日本人スタッフの参加について、当局がそれなりに寛容になっていたことと関連しているのではないかと考えられますが、しかし、1972年以降、湯浅監督の関わった台湾映画を見出すことは残念ながらできませんでした。
自分の名前は出さずに映画に携わり続けたのか、それとも全く違う世界に転身したのか、今はただ、ご存命であることを祈るのみです。
(とりあえず、おしまい)
追記:「台灣電影資料庫」には、1968年に「湯淺」名義で脚本のみを執筆した作品が2本掲げられています。未確認情報ですが、とりあえず、作品のデータのみ記しておきます。
『往日的舊夢』(徐守仁監督。永裕有限公司)『妙夫妙妻』(辛奇監督。永裕有限公司)
はじめまして。
返信削除『光の国から愛をこめて』の市川大河と申します。
このたびは、大変興味深い記事を読ませていただきまして
大変感謝しております。
また、拙ブログがお役に立てたようで、ほんとうに嬉しく思っています。
湯浅監督に関しては、ご存知のように安藤達己監督からお話を伺った経緯がありましたが
自分はそちら方面にはあまり詳しくなかったので、こちらの記事で大変勉強させていただきました。
自分のブログはウルトラシリーズに特化しておりますが、同じ映像分野として垣根はないとも思ってます。
せんきちさんのように映像史に対して造詣が深い方は、本当に尊敬できます。
せんきちさんがよろしければ、これからもぜひ交流よろしくお願いします。
市川大河さま
返信削除こんにちは。
わざわざお越し下さり、恐縮です。
このたびは本当にありがとうございました。
これからも拝読させていただきます。
よろしくお願いいたします。
せんきち拝
こんな処で?湯浅監督の名前に出会うとは!日台合作の”母ありて命ある日”は日本側での撮影を終え(劇中では10分位だと思う・山本昌平氏が出演していたと思います)、台湾に渡りましたが日本で撮影したフィルムがどうしても入管(台湾側のプロデューサーは何氏でした)を通らず。この映画はボツになり、最初は台北の良いホテルにいたのがですが、日本側のスタッフと俳優は惨めなホテルに移動しました(笑い)。ここに持ち上がったのが霧夜”の映画だったのです。詳しいことは、恥ずかしくて自分の口からは言えません?と、懐かしくて”御挨拶に”参上しましう
返信削除た。安藤達己
安藤達己さま
返信削除はじめまして。
拙ブログをお読み下さり、恐縮至極です。
また、当時のエピソードをお教え下さり、ありがとうございました。
今後ともよろしくお願いいたします。
せんきち拝