〔ちょっとお耳に〕〔しようもない日常〕
どうも。
トド@蚕のさなぎを食べますたです。
さて、先日の記事(原びじつかんへ再び行ってきました)を書いた後、国会図書館(東京本館)へ行ったついでに関西館から『昭南日報』(昭南島時代に発行していた中国語紙・注)のマイクロフィルムを取り寄せて閲覧、そんなこんなで昭南島時代の映画上映状況についてお勉強した結果を少しメモしておきたいと思います。
もしかしたら映画史関連の研究書の類には既に掲載されているわかりきった事実かも知れませんが、せっかく調べたんで一応自分メモということで。
1942年2月、当時英国領だったシンガポールが陥落し日本に占領されると、かの地は昭南島と改名、映画館名も全て日本風の館名に替えられましたが、上映する映画の中身にさして変更はなかったらしく、
共榮劇場(首都戲院):洋画、昭和劇場(娯樂戲院):洋画、馬來劇場:洋画ないしは演劇、潮劇場:洋画、大和劇場(大華戲院):中国・香港映画ないしは演劇、東方劇場(東方戲院):中国・香港映画、富士劇場(樂斯戲院):中国・香港映画、興亞劇場:中国・香港映画、印度劇場(麗聲戲院):インド映画、大東亞劇場(國泰戲院):邦画、芙蓉劇場:邦画
と、皇軍専用の2劇場(大東亞、芙蓉)以外では洋画、中国・香港映画、インド映画を上映するという住み分けが成立しておりました(カッコ内は元の館名)。
その後、1942年11月に日本の映画配給社が進出、昭南支社を設立すると、映画の配給・上映作品の選定等はこの映画配給社昭南支社が一手に握るようになりますが、映画館の経営自体は全て掌握したわけではなく、
映画配給社直営館(含む劇場):共榮劇場、昭和劇場、潮劇場、大和劇場、芙蓉劇場、大東亞劇場、印度劇場、馬來劇場、南座 ※後に帝國館(華英戲院)と大世界文化映画劇場(旧青天劇場)が加わる。
直営以外の映画館(含む劇場):東方劇場、富士劇場、興亞劇場、南洋劇場、新世界内各劇場(大光劇場、太陽劇場、花月劇場、金星座、銀星座、新星座、共榮閣、聚樂座、寶来座、飛霞洞、月光宮)、大世界内各劇場(大陸劇場、新亞劇場、大勝館、南海座、北晨座、東光座、雲麗閣、水晶宮、月宮、児童館、青天劇場〔後に大世界文化映画劇場と改称、映画配給社直営館となる〕)
といった具合に、直営館とそれ以外の映画館とが並立、直営以外の館に関しては各々の経営者が自主管理するというシステムが取られていたようです。
ちなみに、直営以外の館の内、新世界と大世界という、今で言うところのアミューズメントパークの経営者は邵氏兄弟、そして東方や南洋もたしか邵氏兄弟がオーナーでしたから、やはり、昭南華僑協会理事(邵逸夫)という地位には商売上の旨みがそれなりにあったということなのでしょう。
また、映画配給社が進出してからもしばらくは上映される映画の中身に変化はなかったようで、1943年1月7日付『昭南日報』に掲載された映画配給社直営館の広告によれば、
共榮劇場:『血と砂』(Blood and Sand、碧血黄砂。1941年、アメリカ)
昭和劇場:『フランケンシュタイン』(Frankenstein、科學怪人。1931年、アメリカ)
潮劇場:『俠胆英魂』(原題未詳・洋画)
印度劇場:インド名画(タイトル記載無し)
大和劇場:『銀槍盗』(1941年、香港)
馬來劇場:マレー劇団公演
南座:インド劇団公演
大東亞劇場:『婦系図』(1942年、東宝)
芙蓉劇場:『宮本武蔵 一乗寺決闘』(1942年、日活)
と、従来通りの住み分けがなされています(但し、洋画や中国・香港映画上映館でも時に宣撫工作として邦画〔『阿片戦争』『マレー戦記』等〕を上映することはありました)。
しかし、1943年9月1日から反枢軸国(中国、インド除く)の映画が上映禁止になると状況は一変、
共榮、昭和劇場:邦画(英文ないしはマレー語字幕付)
潮劇場:潮文化映画劇場と改称、文化映画とニュース映画の専門館に
馬來劇場:中国映画・邦画
新世界内:大光劇場→香港映画・邦画、金星座→中国映画、太陽劇場→邦画・インド映画・マレー語映画
大世界内:新亞劇場→中国映画、青天劇場→文化映画・短編、大陸劇場→邦画・インド映画・マレー語映画
と、その上映作品が大きく転換、同年12月には「大東亞聖戦二周年必勝記念週間」と称し、主だった映画館全て(共榮、昭和、帝国館、富士、馬來、大陸、南洋、常磐、潮文化劇場、大和、芙蓉、大東亞)で日本映画が上映されるということもありました。
結局、このような上映形態のまま、日本の敗戦を迎えるわけですが、前回の記事で「おまけ」として取り上げた「昭南島時代に上映された日本映画」に今回判明した分を増補して、改めて以下にまとめておきたいと思います。
・1943年1月
『婦系図』(1942年、東宝)→大東亞劇場
『宮本武蔵 一乗寺決闘』(1942年、日活)→芙蓉劇場
『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年、東宝)→大東亞劇場
・1943年2月
『間諜未だ死せず』(1942年、松竹)→大東亞劇場
『マレー戦記』(1942年、日本映画社)→共榮・昭和劇場(日本語版)、大和・東方(中国語版。1943年2月) ※前回は英語版と書きましたが『昭南日報』には「華語」とありましたので訂正します。
『五人の斥候兵』(1938年、日活)→富士劇場(マレー語版)
『東洋の凱歌』(1942年、比島派遣軍報道部)→大東亞劇場
『水戸黄門漫遊記』(『水戸黄門漫遊記 日本晴れの巻』ないしは『水戸黄門漫遊記 東海道の巻』。1938年、東宝)→芙蓉劇場
・1943年5月
『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年、東宝)→共榮・大和劇場
・1943年6月
『阿片戦争』(1943年、東宝)→共榮劇場
・1943年7月
『新雪』(1942年、大映)→共榮劇場
『帝国海軍 勝利の記録』(1942年、日本映画社)→潮劇場
・1943年8月
『希望の青空』(1942年、東宝)→共榮劇場
『水滸伝』(1942年、東宝)→共榮劇場
『帝国海軍 勝利の記録』(1942年、日本映画社)→共榮劇場
・1943年12月
『愛機南へ飛ぶ』(1943年、松竹)→共榮・昭和劇場
『翼の凱歌』(1942年、東宝)→帝國館・馬來劇場
『桃太郎の海鷲』(1942〔3〕年、映画芸術社)→馬來劇場
『愛の一家』(1941年、日活)→大陸劇場
『兄とその妹』(1939年、松竹)→南洋劇場
『空の神兵』(1942年、日本映画社)→常磐劇場
『ハワイ海戦』(1942年、日本映画社)→潮文化劇場、印度劇場
『マレー戦記』(1942年、日本映画社)→潮文化劇場
『青空交響楽』(1943年、大映)→共榮・昭和劇場
『香港攻略 英国崩るゝの日』(1942年、大映)→帝國館
『八十八年目の太陽』(1941年、東宝)→帝國館、馬來劇場
・1944年1月
『青春の気流』(1942年、東宝)→帝國館
『戦ひの街』(1943年、松竹)→帝國館・馬來劇場
『鉄の愛情』(1940年、日活)→帝國館
『母の地図』(1942年、東宝)→帝國館
『奴隷船』(1943年、大映)→共榮・昭和劇場 ※マリア・ルス号事件を扱った映画。華人に見せようという意図が見え見え。
『東京の女性』(1939年、東宝)→馬來劇場
『微笑の国』(1942年、日活)→共榮・昭和劇場
・1944年12月
『秀子の応援団長』(1940年、南旺)→共榮・昭和劇場
『決戦の大空へ』(1943年、東宝)→帝國館
『蘇州の夜』(1941年、松竹)→帝國館
『加藤隼戦闘隊』(1944年、東宝)→共榮・昭和劇場
『結婚の生態』(1941年、南旺)→共榮劇場
『愛の世界 山猫とみの話』(1943年、東宝)→共榮・昭和劇場
・1945年1月
『熱砂の誓ひ』(1940年、東宝・華北電影)→共榮・昭和劇場
『次郎物語』(1941年、日活)→共榮・昭和劇場
『激流』(1944年、松竹)→潮文化劇場
『水滸伝』(1942年、東宝)→帝國館
『三太郎頑張る』(1944年、松竹)→共榮・昭和劇場
『香港攻略 英国崩るゝの日』(1942年、大映)→馬來劇場
『姿三四郎』(1943年、東宝)→帝國館
『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年、東宝)→昭和劇場
『日本の母 母の巻』(1939年、大都)→共榮劇場
『水兵さん』(1944年、松竹)→帝國館
・1945年2月
『鞍馬天狗』(1942年、大映)→大東亞劇場帝國館(1945年8月)
『キャラコさん』(1939年、日活)→芙蓉劇場
『母校の花形』(1937年、日活)→昭和劇場
『出征前十二時間』(1943年、大映)→帝國館
『マレー戦記 第二部 昭南島誕生』(1942年、日本映画社)→大世界文化映画劇場
・1945年3月
『激流』(1944年、松竹)→昭和劇場
『熱砂の誓ひ』(1940年、東宝・華北電影)→帝國館
『ハナ子さん』(1943年、東宝)→大東亞・芙蓉劇場
『風の又三郎』(1940年、日活)→昭和劇場
・1945年4月
『宮本武蔵 一乗寺決闘』(1942年、日活)→昭和劇場
『母校の花形』(1937年、日活)→帝國館
『姿三四郎』(1943年、東宝)→昭和・常磐劇場
『純情二重奏』(1939年、松竹)→昭和劇場
『蘇州の夜』(1941年、松竹)→帝國館
・1945年5月
『勝利の日まで』(1945年、東宝)→帝國館 ※前回の記事では昭和劇場の併映としてレビュー場面のみ抜き出したものが上映されたのでは?と書きましたが、きちんと全編上映されていました。
『土俵祭』(1944年、大映)→大東亞・芙蓉劇場
『兄妹会議』(1942年、松竹)→大東亞・昭和劇場
『秀子の応援団長』(1940年、南旺)→帝國館
『次郎物語』(1941年、日活)→馬來劇場
『河童大将』(1944年、大映)→大東亞劇場(6月まで)
『海ゆかば』(1943年、大映)→芙蓉劇場(6月まで)帝國館(1945年7月)
『愛国の花』(1942年、松竹)→昭和劇場(6月まで)
『四つの結婚』(1944年、東宝)→馬來劇場(6月まで)
『旋風街』(1941年、新興)→帝國館(6月まで)
・1945年6月
『海ゆかば』(1943年、大映)→昭和劇場
『新雪』(1942年、大映)→帝國館
『希望に立つ』(1938年、松竹)→昭和劇場
『宮本武蔵 一乗寺決闘』(1942年、日活)→帝國館
・1945年7月
『勝利の日まで』(1945年、東宝)→昭和劇場 ※ウォン(黃)さん所蔵のチラシはこのときのもののようです。
『母の地図』(1942年、東宝)→帝國館
『母子草』(1942年、松竹)→帝國館
『希望に立つ』(1938年、松竹)→馬來劇場
『海ゆかば』(1943年、大映)→帝國館
・1945年8月
『節約夫人』(1940年、松竹)→昭和劇場
『風雪の春』(1943年、大映)→帝國館
『南の風 瑞枝の巻』(1942年、松竹)→大東亞劇場
『瞼の母』(1938年、東宝)→芙蓉劇場
『二刀流開眼』(1943年、大映)→昭和劇場
『父ありき』(1942年、松竹)→帝國館
『日本の母 母の巻』(1939年、大都)→馬來劇場
『鞍馬天狗』(1942年、大映)→帝國館
というわけで、まずはご報告まで。
注:昭南島時代のシンガポールでは、日本語紙(昭南新聞)、中国語紙(昭南日報)、英字紙(The Syonan Times→The Syonan Shinbun)の他、マレー人向け(WARTA MALAYA、UTUSAN MELAYU→Berita Malai)、インド人向け(Azad Hind)の新聞も発行されていましたが、今日ほぼ完全な形で現存するのは英字紙のみ(1942年2月20日から1945年9月4日まで)です。
国会図書館には英字紙の他、日本語紙、中国語紙も所蔵されていますが、日本語紙は1945年2月20日から9月2日までと殆どが欠号、中国語紙は1942年11月4日から1945年8月1日まで所蔵するものの欠号が甚だしく多い(例・1942年12月、1943年3月~4月、1944年2月~5月、9月~11月、1945年2月の大部分)という状態です(『昭南新聞1942~1945 日本占領下のシンガポール 重要紙面・縮刷版』〔1993年、五月書房〕所収の1943年の『昭南新聞』紙面は個人蔵のものです)。
ちなみに、シンガポール国立図書館には英字紙(1942年2月20日から1945年8月6日まで)の他、中国語紙が1941年11月4日から1945年8月17日まで所蔵されているそうです。
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