2012年7月1日日曜日

雷蔵発江波杏子経由何莉莉行き

〔えいが〕〔ちょっとお耳に〕


私はコレで、





コレになりました。

どうも。
トド@すっかりご無沙汰しておりますです。

相変わらず生活に追われていますが、ちょいと早めに片付けておきたい宿題があったので、そいつを書いちまいます。

かつてメインサイト旧ブログで取り上げたことのある、松尾昭典(麥志和)監督による邵氏作品『女殺手』(1971年)が、1969年の大映作品『女殺し屋 牝犬』(井上芳夫監督)のリメイクであることが判明しましたので、そのご報告。
そして『女殺し屋 牝犬』は、同じく大映作品『ある殺し屋の鍵』(1967年、森一生監督。市川雷蔵主演)の女性版だったりもするので(細かい人物設定の異同等はあるけど)、

市川雷蔵(『ある殺し屋の鍵』)→江波杏子(『女殺し屋 牝犬』)→何莉莉(『女殺手』)

という変遷を辿っていたことが今回わかりました。

そんなわけで、本稿では『女殺し屋 牝犬』と『女殺手』の比較を行う……つもりだったのですけれど、どこへしまいこんだものやら、『女殺手』のソフトが見当たりません。
仕方がないので、とりあえずは『女殺手』に関する薄ーい記憶を辿りつつ、両者の比較を行ってみたいと思います。

まずキャストの比較。
『女殺し屋 牝犬』のヒロイン(凄腕の殺し屋・香代)は和風スナック「香代」のママ(江波杏子)、対する『女殺手』のヒロイン(葛天麗)は喫茶店のマダム(何莉莉)。
「和風スナック」(昼は喫茶、夜はお酒を出すお店みたいです)というのは、おそらくオリジナル(『ある殺し屋の鍵』)の主人公が日本舞踊の師匠であったことと、当時量産体制に入っていた江波杏子主演の「女賭博師」シリーズのテイストを活かした設定であったと考えられますが、邵氏版ではごくふつーの喫茶店でした。
冷酷で凄腕の女殺し屋という人物造型は、江波杏子のキャラクターを最大限に引き出したもので(映画の出来とは別ね)、それに比べると何莉莉はやはり冷酷さが足りない、というか、無理をしている印象が拭えず(頑張っているんだけど)、不肖せんきちが『女殺手』を観た時に感じた後味の悪さもこの辺のキャラクターの違いに由来していたのかなあと思いますです。

その他、主要なキャストの比較をすると(いずれも向かって左が『女殺し屋 牝犬』、右が『女殺手』)、

政財界の大物(一番の黒幕):三島雅夫 → 井淼
その手下の会社社長:高橋昌也 → 黃宗迅
殺しを依頼する男:大川修 → 張佩山
その男のボス:南原宏治 → お名前失念
殺しのターゲット:石山健二郎 → 詹森
ヒロインの友人で社長の愛人:赤座美代子 → 白璐

てな具合になります。
ちなみに、『女殺手』の殺しのターゲットには石山健二郎みたいな腹黒い大物感は皆無で、正直ミスキャストではないかと思いました。

次にストーリーその他の比較ですが、おおまかなストーリーは同じだった(ほぼ忠実なリメイク)ものの、冒頭の殺しの場面(マンションの通路 → 遊園地)や、ターゲットの殺害現場(プール → ボーリング場)、ラスト(逃走 → 警察へ出頭)等に異同が見られました。
特にラストの相違は、村山三男(穆時傑)監督の邵氏作品『殺機』(『ダイヤルMを廻せ!』の男女逆転リメイク)でも見られたもので、「いかなる理由があるにせよ、罪を犯した者は裁きを受けなければならない」と考える良識派市民に配慮したのでしょうが、この辺りに当時の邵氏作品の限界(保守性)があるとも言えるでしょう。

また、殺しに使う道具は、『女殺し屋 牝犬』が指輪に仕込んだ針だったのに対し、『女殺手』ではコンパクトに仕込んだ針を発射させて相手を殺すというものでしたが、『女殺し屋 牝犬』の針は発射タイプではないので、冒頭のマンション通路での殺しのシーンではかなり無理な姿勢で針を突き刺していました。
こと殺しの道具に関しては、『女殺手』の方がより工夫されていたと言えます。
『女殺手』の脚本段階のタイトルが『毒針』だったのも、この針の仕掛けに対する脚本家(日本人が何らかの形で関わっているはずなのですが、詳細は未詳)の並々ならぬ熱意(?)を感じさせます。

以上、ざっくりと両者の比較を行ってきましたが、どうにもわからないのはなぜ大映作品のリメイクを日活の監督が撮ったのか、ということ。
ハリウッド作品のリメイクである『殺機』も同じようなケースなので、これに限ったことではないと言ってしまえばそれまでなのですが、井上梅次監督や中平康監督、島耕二監督が自作のリメイクを多く撮っていたのに比べると、やはり違和感を感ぜずにはいられません。
松尾監督が鬼籍に入られた今となっては、その理由は永遠に謎、ということになってしまうのでしょうか。
(オチのないまま終了)

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