2010年5月6日木曜日

群星會 (Stardust)

〔えいが〕


1970(69)年、台湾(中影)。李行監督。甄珍、王戎、陳莎莉、他。

どうも。
トド@今日からまた早寝早起きの日々です。

GWは、母方の伯母の3回忌やらなにやらでバタバタしておりました。
伯母と婆さんは同じ年(一昨年)に亡くなったのですが、伯母が亡くなる頃には婆さんは既にボケていまして、「亡くなったんだよ」と話しても上の空でありました。

では、本題。

ナイトクラブで働く歌手たちの人生模様を描いた李行監督の作品。
タイトルは、おそらく同名のテレビ番組から若干のヒントを得ているのではないかと思われます。

映画は複数のストーリーが平行して進みますが、メインとなるのは病に倒れた父に代わって家計を支えるために歌手となった嘉嘉(甄珍)と幼馴染のボーイフレンド・克勤(王戎)の恋の行方。
克勤は自分を捨てた母親がやはりナイトクラブの歌手であったことからこの職業を毛嫌いしており、折あるごとに嘉嘉に歌手を辞めるよう勧めます。
しかし、歌を愛する嘉嘉にはそれができず、2人の間には諍いが絶えません。

最終的には再会した母親と克勤が和解して(克勤は母親に捨てられたと思いこんでいたが、実は父親とおじが母親と克勤の間を引き裂いていただけだったことが判明←ありがちなパターンね)、嘉嘉が歌手を続けることに克勤も賛成するようになり、2人の仲もハッピーエンドになりますが、作品を通して透けて見えるのは「ナイトクラブの歌手=どこか後ろ暗い職業」という当時の社会通念です。

劇中では克勤のみならず嘉嘉の母もナイトクラブの歌手に対して偏見を抱いており、娘にはあくまで歌だけに専念するように厳命、同僚や贔屓客と夜食を食べたり酒を飲みに行ったりすることを禁じています。
もちろん、元が北京の名門の出という嘉嘉の父には、娘がナイトクラブで働いていることは秘密です。

まあ、そういった社会通念があったがゆえに、ナイトクラブの歌手をヒロインに据えた身分違いの恋を描いたメロドラマがこの時期好んで作られたと言えなくもないのですが、どうせなら芸に悩み芸に生きる女のドラマを観たかったなあというのが正直なところです。

メインのストーリー以外では、離婚を渋る夫から「60万元くれたら離婚してやる」という条件を突きつけられ、働きづめに働いた末に3人の子供を残して亡くなる紫黛の話が印象的に描かれていましたが、他の登場人物の話(我が子を1人前の歌手にしようと奮闘するステージママ、パトロンと歌手の関係…等)はやや尻切れトンボのまま終わっていました。

というわけで、ストーリー的には食い足りなさが残るものの、角度を変えてみると、劇中に散りばめられた歌唱シーンは当時右肩上がりで急成長中だった台湾製北京語歌謡の状況を知る格好の教科書と言えますし、蒋光超が甄珍の追っかけを演じているのも、香港の北京語映画の俳優たちがこの時期から台湾へ仕事の拠点を移しつつあったという状況を窺わせるものとして興味深いものがありました(逆に甄珍や柯俊雄といった台湾の俳優たちは、この後香港へ進出していくのですけれど)。
また、王戎が巨大なプラスチック工場で働いているという設定は、『新娘與我』や『家在台北』で繊維産業が取り上げられていたのと同様、「わが国の最先端の産業を誇示する」という意図が見え、この辺りは国府の政策に沿ったキャラクター設定なのなのでしょう。

ところで、克勤を演じていた王戎は、当時の中影で活躍した男優の1人ですが、台湾で映画デビューする前は日本の芸能界入りを目指していたことが1963年3月7日付『聯合報』の記事には見えます。
それによると、「東京電影株式会社」に所属する映画監督「米谷楨夫」と会社の責任者である「有島一郎」が国立芸専(現・台湾芸術大学)で新人を発掘したさい目に留まったのが卒業生の王戎。
そこで王戎は4月から日本へ渡り、3ヶ月の訓練を受けることになった…とのことなのですけれど、結局日本でのデビューはお流れになったようです。
記事中、「東京電影」とあるのは普通に考えると「東京映画」で、「有島一郎」はあの「有島一郎」で間違いないようなのですが、よくわからないのが「米谷楨夫」氏のこと。
それに、有島一郎って東京映画の責任者…だったんですか?
ま、それはともかく、記事には松山空港で林沖の励ましを受ける王戎の写真も掲載されていますので、日本で俳優としての訓練を受けたことだけは間違いないようです。

以上、話が大幅に横道にそれたところでまずはこれぎり。

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