2005年9月13日火曜日

香港に流れる"服部メロディー"

〔ちょっとお耳に〕

教えて!

昨晩吹っ飛んだネタの後半。
教我如何不想她』DVD&VCDリリース記念企画・・・・というよりは、例によって国会図書館で古新聞漁りをしていたところ、偶然この作品で音楽を担当した服部良一の香港でのお仕事レポートが見つかったので、それをちょっこしご紹介という次第。


香港に流れる"服部メロディー"
キャセイ映画の作曲を担当 歌手も指導、毎日ニ曲

東芝の作曲家服部良一氏は、十月十五日から香港のリッツ・ホテル(麗斯酒店・せんきち注)に滞在、キャセイ映画「教我如何不想她」(映画題名 Because of her 監督易文〔実際には王天林との共同監督・せんきち注〕)の作曲にかかっている。日本の作曲家が外国映画の作曲を担当するのは珍しい。香港ではりきる服部良一氏の仕事ぶりをのぞいた。

リッツ・ホテルは、香港九竜の繁華街から少し離れたオースチン通りにある。部屋にピアノをもちこむため、この静かなホテルを借りたというが、四〇六号室には連日、易文監督はじめ、主演の女優葛蘭二枚目俳優雷震がつめかけ、通訳格の台湾俳優洪洋(『社長洋行記』で尤敏の兄を演じていた俳優さん・せんきち注)を中心にてんやわんや。中国語、英語、日本語が部屋中にあふれ、その間にピアノが鳴り、歌声が流れる。(略)
服部氏が五線譜に書いたメロディーを、葛蘭と雷震が歌う。(略)
服部氏がキャセイの仕事をひきうけたのは四年前の「女秘書艶史」以来で、尤敏主演の「快楽天使」「喜相逢」「野玫瑰之恋」などすでに四本手がけている。
『上海時代の弟子姚敏がキャセイの作曲をしている関係で紹介されたんですが、つぎつぎ仕事を頼まれることをみると評判がいいんでしょう。毎日二曲ずつ書いていますが「香港ムチャチャ」(『天下一家』・せんきち注)というのは前景気もいいようです。このあと尤敏主演の「小児女」(『家族』・せんきち注)の音楽もやることになっているので、十一月いっぱいはかかりそうです。外国での仕事は言葉の障害や慣習のちがいなどめんどうなことが多いのですが、これからの日本の若い作曲家のためにも開拓者の役目を果たそうと思っているんです』
監督とうちあわせ、歌手に歌の指導-とふなれな英語に悩まされながらも忙しく活動する服部氏だった。
(1962年11月2日付『報知新聞』8面より。人名のカタカナ表記は、適宜漢字に改めました)


当時の報道(『報知新聞』『日刊スポーツ』)によると、この時の香港行きは夫人同伴によるもので、服部が仕事をしている間、夫人は街で買い物三昧の日々を送っていたとか。
また、この時はキャセイ(電懋)だけでなく、香港百代(香港EMI)からも正式に招聘されての渡港だったそうです。
これはおそらく、コロムビアからEMIと関係の深い東芝レコード(現・東芝EMI)に移籍したことによって、レコード会社間の障壁がなくなったせいによるものと思われます。

近年、日本人作曲家が音楽を担当した中華圏映画が徐々に増えてきているようですが、服部の「これからの日本の若い作曲家のためにも開拓者の役目を果たそうと思っているんです」という果敢な試みが、40年以上経った今、ようやく実を結びつつあると言えるのかもしれません。

2 件のコメント:

  1. せんきちさん、今晩は。
    記事、興味深く拝見いたしました。
    これでまたひとつ香港における服部良一の仕事についての事柄が追加されましたね。
    【ぼくの音楽人生 エピソードでつづる和製ジャズ・ソング史/服部良一:日本文芸社 1993年3月15日発行】や【上海ブギウギ1945 服部良一の冒険/上田賢一:音楽之友社 2003年7月10日第一刷発行】には、少ししか触れられていませんが、丹念に様々な資料を探すとまだまだ出てきそうですね。

    日本歌謡史的に、海外から依頼されて数々の曲を作った最初の日本人作曲家という視点からみて、もうすこしまとまったものが出てもいいように思うのですけれど…。
    『香港映画における服部良一』のCDとか…。

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  2. 胤雄さん

    こんにちわ。
    お役に立てたようで幸いです。
    >丹念に様々な資料を探すとまだまだ出てき
    >そうですね。
    はい。当時の雑誌や新聞記事を探せば、まだいろいろと出てくると思います。
    ということで、これからさっそく香港の古新聞を捜索してみます。
    >『香港映画における服部良一』
    日本と香港の共同企画で出してほしいですね。
    かなり充実した内容になりそうですが。

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