2006年7月3日月曜日

昇天しまーす。

〔ちょっとお耳に〕

邵氏版『梁山伯と祝英台(梁山伯與祝英台)』のラスト、2人が昇天するシーンがそれに先立つ東宝・邵氏合作映画『白夫人の妖恋(白蛇傳)』からの引用であることは以前にも書きました
たしかに、仔細に眺めてみると、全く同じでして、

『白夫人の妖恋』


『梁山伯と祝英台』

つまり、『梁祝』のラストで昇天するのは、

凌波と樂蒂

ではなく、

池部良と山口淑子

なのでございます。

もちろん、李翰祥監督とて初めからこんな風に引用しようなどとは夢にも思っておりませんで、日本で円谷英二指導の下、「哭墳」(祝英台が梁山伯のお墓の前で号泣してると、嵐が起ってお墓がぱっくり割れる所ね)を撮影したさい、一緒に「化蝶」(2人が蝶々になって昇天するシーン)も撮影したのですが、どうも思ったような効果が得られなかったため、それをボツにしてしまったのだそうです(『我愛黄梅調』〔2005年、牧村圖書〕による)。
そんなわけで、急遽スタジオに蝶々の模型を吊るしてそれが雲上へ飛んでいく様を撮影、それに『白夫人の妖恋』の昇天シーンをくっ付けて、今日あるようなラストシーンが出来上がったらしいのですわ。

ふーん。

最後に『白夫人の妖恋』をくっ付けるというアイデアを誰が出したのか、それは定かではありませんが、『白夫人の妖恋』においてその原拠である『白蛇傳』や直接の原作『白夫人の妖術』にもない昇天シーンを考え出したのは豊田四郎監督で、廣澤榮の「私のなかの豊田四郎」(『日本映画の時代』所収。1990年、岩波書店。2002年、岩波現代文庫に収む)には、


 その昇天シーンはもちろん中国の原典にはない。林房雄の原作にも、八住利雄のシナリオにもない、豊田が自分だけで思いついたシーンである。豊田がそのイメージをうかべたとき、スタッフの誰彼ともつかず「昇天はええやろ、いい思いつきやろう」などと、しきりに同意をもとめていた。
 つまり、豊田のコンテによれば、《女の愛のきわみ》のイメージであり、
 《高らかに雲の彼方へ舞い昇ってゆく二人の姿》
 としるされている。


とあります。
このとき、豊田監督は昇天に関して「むしろそれは西欧的なイメージでしょう」とする中国学者(吉岡義豊)をも強引に説き伏せて、自説を押し通してしまったといいます。

で、そうなると気になるのがあれをどうやって撮ったのかしらんということですが、それも廣澤の前掲書にあるのでちょっこし引用しておきます。


 それはパラシュートの応用で、ちょうど自転車のサドルのようなものをつくって腰に着用し、それをピアノ線で吊る。それを約三〇メートルほどあるステージの天井に滑車をつけて吊り上げるという仕掛けであった。
 その装具を着用の上にそれぞれの衣裳を着けた許仙・池部良、白夫人・山口淑子が「上げてーっ」という合図の声で吊り上げられ、ふわっと空中に浮き上った。その二人の位置はちょうど互いに手をとりあうぐらいの距離、つまり、豊田コンテによれば、
 《二人は手に手をとって、舞うように天に昇ってゆく》
 となるわけで、その舞いの振付は日劇ダンシングチームの舞踊家がやってくれた。


凌波によると『梁祝』の「化蝶」も、日本の振付師から舞を習った上で蝶々の衣裳を着け、ピアノ線で吊るされながら撮ったとのことですので(「凌波訪談」。『古典美人 樂蒂』所収。2005年、大塊文化)、『白夫人の妖恋』の昇天シーンと同様の方法で撮影が行われたようです(ちなみに、凌波は「化蝶」カットの原因は「知らない」と言っています)。
しかしながら、李翰祥監督の求める世界に合わなかったのかそれはボツとなり、「女の愛のきわみ」を撮りたいという一念で豊田四郎監督が考案した昇天シーンが最終的に李監督を救うことになったのでありました、はい。

(いつもながらの強引なオチで終了)

0 件のコメント:

コメントを投稿