2009年5月9日土曜日

「シンガポールの夜は更けて』 のマレー人女優

〔ちょっとお耳に〕〔えいが〕

ラストはスルタン・アブ・バカール・モスク。

どうも。
トド@耳鼻科に行きますたです。

今朝早く第一報が流れた「国内(日本ね)初の新型インフルエンザ感染者発生」のニュース
午前8時30分からの厚生労働大臣による記者会見は、NHKだけでなく民放も生中継していましたが、そんな中、悠然とアニメを流していたのが我らがテレ東。


おかげさまで、心温まるひとときを過ごすことができました。

さて。

4年前にこちらで取り上げた1967年の松竹映画『シンガポールの夜は更けて』。
腹違いの妹・李白蘭を探してジョホール・バルへやって来た橋幸夫ご一行(この頃はまだ自毛…〔以下自粛〕)、白蘭が住んでいるという集落でマレー人に取り囲まれますが、そのとき登場するマレー人女優の名前を調べよう調べようと思いながらすっかり忘れてしまい、先日、ようやく調査しましたので本日ご報告いたします(カッコ内のカタカナ表記は、『シンガポールの夜は更けて』におけるクレジット)。


まずは、日本軍に両親を殺された恨みつらみを橋幸夫にぶつける女優さん。
彼女の名は、Siput Sarawak(シプー・サラワク)。
娘である歌手Anita Sarawakは日本でも有名ですが、彼女も歌う女優でした。
1920年生まれなので、この作品の撮影時には40代後半だった、ということになります(1999年没)。
残念ながら本作では橋幸夫をさんざん罵った挙句に突き倒す、というだけの役でした。
できれば、2人でデュエットしてほしかったところです。

歌うSiput Sarawak。


ついでに娘さんも。

Siput Sarawakに突き飛ばされて橋幸夫が気落ちしていると、若い女性がやってきて「私は白蘭の友人です。白蘭の居場所を知っています」と告げますが、


この女優さんの名前は、Roseyatimah(ローズ・ヤデマ)。
1959年、P.ラムリー(P. Ramlee)に抜擢されて"Pendekar Bujang Lapok"で映画デビュー、1968年の"Anak Bapak"を最後に引退、1987年に乳がんで亡くなったときには、まだ44歳という若さだったそうです。
ということは、この映画の撮影時には24歳位だったことになります。

"Cucu Datok Merah"(1963年、Cathay Keris Film)より。

しかし、橋幸夫が彼女に連れられてたどり着いた先は、白蘭の墓地でした。
白蘭は、孤独の中、自ら死を選んだのでありました(続きが気になる人は映画を観てね)。

Roseyatimahのご主人であるDato' Mustapha Maarof。



この映画には上記の女優さんたちの他、子役のお兄ちゃん(画像向かって右)も達者な演技を見せていますが、彼の詳しいプロフィールは残念ながら不明です(クレジットはラーマン・ラエム)。

ところで、今回調査のために久しぶりにこの映画を観ましたが、由美かおる演じる王明芳の両親が父・シンガポールの富裕な華人、母・日本人という設定になっているのは、どうやら1961年に胡文虎の子息・一虎に日本人女性が嫁いだ事実にヒントを得ているのかなあと思いました。
明芳の日本名が明子(あきこ)というのも、一虎夫人の名前(暁子〔あきこ〕)と音が同じですし。
ただし、明芳の年齢(20代前半?)から推測するに、両親が結婚したのは戦時中か戦後まもなくということになり、そう考えると相当無理のある設定といわざるを得ないのですが。
ま、そこまで深い考えはなかったのかも知れません。

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