2009年3月25日水曜日

台湾は招くよ (その4)

〔ちょっとお耳に〕

何基明監督(向かって左。右は弟である何錂明)。

どうも。
トド@鼻づまりです。

まず、ちょいと告知。

以前、こちらでもちょっこしご紹介したドキュメンタリー映画『雨が舞う~金瓜石残照~(雨絲飛舞~金瓜石殘照~)』が、3月28日(土)からユーロスペースで公開(モーニングショー)されます。
詳しいスケジュールは、下記の通りです。

3月28日(土)~4月10日(金)
渋谷・ユーロスペースにて
連日・10:00~

3月28日(土)、29日(日)、4月4日(土)、5日(日)は上映前(9:45より)に林雅行監督による舞台挨拶があるそうです。

この映画、知人のKさん(いつものKさんです)がイッチョカミしてるんですけど、不肖せんきち、Kさんに、

「あたしさー、今まで金瓜石のことを、

かねうりいし

って読んでたよ」

と言ったところ(通常は「きんかせき」)、

「あんたねえ、よく見てみなよ、真ん中の字。

瓜(うり)じゃないよ、爪(つめ)だよ!

とバカにされたのですが・・・・・。

あのー、よく見てみましたけれど、

やっぱり瓜ですよ

Kさん。

前回の続きです。

・南部泰三監督

前回までは北京語映画を撮った監督さんたちでしたが、今回は台湾語映画。
当時、ピンク映画の世界で活躍していた南部泰三監督は、1967年に何基明監督と共同で『霧夜香港』を撮っています(小林, 張清清, 易原, 山田恵美子、他出演)。
内容は不明ですが、タイトルから類推するに舞台は香港、日本人キャストも参加しているところからみて、日本人と台湾人の悲恋物・・・・だったのかな、と思います。
製作会社である玉山有限公司は、この映画を製作するためだけに設立された会社のようです。

北京語映画において日本人監督は中国風の変名を使わなければならなかったのに対して、この映画では南部監督は変名を用いておらず、台湾語映画では日本名をそのまま使用、というか、日本人監督の映画であることをむしろ積極的にアピールしているかのような感があります。
これは、両者の観客層の違い(北京語映画:外省人、台湾語映画:本省人)が大きな要因になっていると考えられますが、この問題に関しては前述した通りいずれ稿を改めて考察してみたいと思います。

南部監督は1936年に大都映画に入社したのを皮切りに、毎日新聞社映画部(1940年)→日本映画社(1942年)→満洲映画協会(1943年)と渡り歩いた人物で、1949年に帰国後は独立プロを設立、1964年からピンク映画の製作・配給を行う第8芸術映画プロを主宰して活動する一方、1965年には東南アジアの映画・テレビのスタッフ及びタレントを養成する第8芸術集団を設立、本作もこの関係で製作されたものと考えられます。

ところで、ご存知の通り、何基明監督は、戦後最初の35mm台湾語劇映画(『薛平貴與王寶釧』、1955年)を製作した「台湾語映画の父」ともいうべき人物で、主宰していた製作会社(華興製片廠)では新人俳優の育成にも力を入れ、後に台湾映画界を代表する男優となりながら30代の若さで夭逝した歐威や、香港に渡って電懋の専属男優となった洪洋等もここから巣立ちました。
しかし、1960年代初めに経営難から会社は閉鎖、何監督は日本で映像関係の仕事に従事しますが、この映画はそんな何監督が撮った最後の劇映画になりました。
が、何監督はその後も劇映画製作への情熱を抱き続け、1990年代に至っても日本と合作映画を撮る構想を練っていたといいます(Rick Miya氏「台湾を代表する映画監督・何基明と私」〔『台湾映画』秋号、2007年11月、東洋思想研究所〕による)。
終世「カツドウヤ」だった何監督が、この映画を最後に40年近くも映画を撮れないまま亡くなった(1994年没)という事実に、わたくしは一抹の寂しさを感ぜずにはいられません。

付記:南部泰三監督のプロフィールに関しては、『日本映画監督全集』(改訂版。1980年、キネマ旬報)を参照しました。

(若干しんみりしたところで第5回へ続く)

2 件のコメント:

  1. 私は縁あり、ホーキービンさんの晩年を一緒にすごし、あちこちと調査に出かけたものです。最後にやや羽目を外して無理をして、お金も散在されて、私とJTの新藤氏と葬儀委員として最後を送りました。ホーさんの得意満面の時代の写真懐かしく見させていただきました。悲しいかな作品は夜霧の香港以外は散逸しており、まぼろしの映画監督でした。

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  2. ゾクチェクさん
    お返事が遅くなり申し訳ございません。
    貴重な情報ありがとうございました。

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