どうも。
トド@次は乳がん検診です。
首のしこり、病理検査の結果が出ました。
甲状腺の結節の方は、「グレーゾーンですが、とりあえず悪性ではないでしょう」とのことで、3ヶ月に1回通院して様子をみることになりました。
将来的には手術をして切除する方針のようです。
もう1つ、甲状腺の検査をする過程で見つかった正中頸嚢胞も、今すぐとは言わないけれど細菌が入って炎症を起こすと厄介なので、いずれは手術をして切除した方がよい、との由。
どのみち、
いずれは入院・手術
のようです。
さて。
昨年暮れから『週刊新潮』誌上で連載が始まった桐野夏生の小説『ナニカアル』。
戦時中の林芙美子を描いた小説で、林の一人称(私)の語りで物語は進みます。
ちょうど昨日発売された3月19日号(第14回)では、昭和17年(1942)、陸軍省の委嘱で南方に赴いた芙美子が、最初の寄港地である昭南(シンガポール)に到着した件で、芙美子と共にこの視察に参加していた水木洋子も登場したりしてなかなか興味深く読んだのですが、文中に1ケ所、非常に違和感を持った描写がありますた。
以下が、その部分。
部屋の大きな窓から、海沿いに建つキャセイホテルがはっきりと見えた。階段状の敷地に建つ、白い豪華な建物は、昭南が日本よりも遥かに豊かで、大金を投じて造られた街であることを示していた。この素敵な街が日本のものになったのだ。私の中で、密かに浮き立つものがある。 が、これは夢ではないかと危ぶむ気持ちもあった。
昭南に着いた日、劣悪な環境の軍施設に宿泊した芙美子が、その翌朝、窓からの景色を眺める場面なのですが・・・・、でもさあ、キャセイホテル(かつてのキャセイビル〔Cathay Building〕、現在のザ・キャセイ〔the Cathay〕内にあったホテル。昭南時代には日本軍の宣伝工作本部が置かれた)の場所って、あれ、海沿いですか?
ご存知の通り、キャセイホテル、現在のザ・キャセイ(the Cathay)は、ドービー・ゴード(Dhoby Ghaut)に位置する建物で、手元に古い地図がないのでとりあえず1972年のガイドブックに載っていた地図で確認すると、
ちょうどYMCAの右斜め上、小さな赤い丸印のある辺りがその場所のはずです。
たしかに、戦時中と現在では海岸線に多少の変化はあるかと思いますけれど、しかし、それにしても、もし本当にキャセイホテルが海沿いに建っていたとしたならば、ラッフルズ・ホテル(Raffles Hotel)は水没してしまうのではないかと思います。
まあ、当時の日本人にとってはそのぐらい印象的な建物だった、というか、シンガポールの象徴のような建物だったのでしょうが、戦後、このビルの主と映画を通じて新たな交流が生まれるとは、どの日本人も思いもつかなかったに違いありません。
(今日もオチのないまま撤収)
付記:林芙美子の南方視察に関して、くわしくは『林芙美子とボルネオ島-南方従軍と『浮雲』をめぐって-』をご参照下さい。
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