〔えいが〕〔ちょっとお耳に〕
どうも。
トド@大晦日のテレビ、観る番組がないです。
さて、このネタを年内に終わらせるつもりだったので、一応最終回(前回はこちら)。
また新しいことがわかったら、逐次増補いたします。
・『勾魂黑薔薇』(1988年、冠人)と『野生之旅』(1989年、威華)
80年代末期に中條カメラマンが手がけた2作品。後者は監督作品ですが、よくよく調べてみると、どちらもいわゆる「成人映画(色情片)」らしいのです。
新東宝で映画修行を開始した中條カメラマンは、新東宝倒産後はピンク映画のカメラマンとして一本立ちを果たしますが、自身のキャリア後期になって再びその原点(?)に還ったのかとも思えますが、『跨世紀台灣電影實錄』(2005年、文建會・國家電影資料館)の1987年1月8日の項には、
國内色情片拍攝數量超過正統影片、新聞局電影處乃採釜底袖薪的方式、函告國内三家電影沖印片廠(中影、台北、大都)不得沖印色情影片、否則將依法辦理。
とあり、当時の台湾で「色情片ブーム」とでも呼ぶべき流れが起こり(旧ブログで取り上げたこの映画も1987年の製作)、前述の2作品もこの流れに乗って製作されたもののようであることがわかります(注)。
ただ、なぜこの時期にこんなブームが起きたのかに関しては不明で、いわゆる「黒電影」の果てに徒花のような色情片大豊作(?)があったのか、それとも何か他の理由があったのか、今後の解明が俟たれるところです。
といったところで、今回のネタ及び今年の拙ブログ更新はおしまい。
皆さま、良いお年を。
注:2作品の製作を手がけている鍾明宏なる人物は、この後『處女的誘惑』(1992年)という色情片も製作していますが、この映画の監督はなんと何夢華です。そういえば、郭南宏監督もそのキャリアの末期には色情片を手がけているようです。
2009年12月31日木曜日
2009年12月30日水曜日
一見鍾申(意味不明) (その4)
〔えいが〕〔ちょっとお耳に〕
どうも。
トド@やっぱり大掃除してますです。
例によって、前回の続き。
・郭南宏監督の作品群
そもそもこの記事を書くことになったきっかけが、郭南宏監督の『少林寺への道(少林寺十八銅人)』の撮影を中條カメラマンが「鍾申」という変名で行っていた、ということからですが、中條カメラマンが郭監督作品の撮影を担当したのは、1974年の『廣東好漢』からのようです。
追記:その後、leecooさんより、1972年の郭南宏監督作品『單刀赴會』において、「鍾伸」名義で撮影を担当している、とのご教示を賜りました。ありがとうございました。
現時点で判明している郭監督&中條カメラマンの組み合わせによる作品は、下記のようになります。
1972年
『單刀赴會』(「鍾伸」名義)
1974年
『少林功夫』、『怒れドラゴン(廣東好漢)』
1975年
『少林寺への道(少林寺十八銅人)』、『風塵女郎』、『小妹(別題:『春花秋月』)』
1976年
『少林寺への道 十八銅人の逆襲(雍正大破十八銅人)』
1977年
『少林寺炎上(火燒少林寺)』、『少林兄弟(別題:『湘西、劍火、幽魂』『湘西趕屍』『劍火金羅衣』)』
1980年
『武當二十八奇』
『郭南宏電影世界』(2004年、高雄市電影圖書館)所収の「郭南宏電影世界訪談」(郭監督のインタビュー)によれば、1950年代、台湾語映画からそのキャリアをスタートさせた郭南宏監督(映画を撮る前は映画館の看板書きをしていたそうです)は、1960年代に入って北京語映画に転じると李翰祥監督率いる國聯に所属、『明月幾時圓』や『深情比酒濃』といった愛情文芸映画をヒットさせ「文藝片大導演」の称号を得ますが、その後、聯邦で撮った武侠映画『一代劍王』が大ヒットすると今度は「武侠大導演」「百萬大導演」の異名を取るようになります。
と、ここで中條カメラマンが担当した作品群を見直してみると、文芸映画と武侠映画(功夫映画)、そのどちらをも受け持っていたことがわかります(『風塵女郎』と『小妹』は、恬妞主演の文芸映画)。
今日、郭南宏監督は台湾映画史に残る偉大な監督としてその名を知られていますが、全盛期の郭監督作品の多くを中條カメラマンが担当していたという事実は、もっともっと評価されて良いのではないかと、不肖せんきちは考えています。
ところで、『少林寺への道(少林寺十八銅人)』の日本公開ヴァージョンが、当初のバージョンに増補改訂を加えた再編集版だったことは有名ですが、その日本公開ヴァージョンが生まれたいきさつに関しても、前掲の「郭南宏電影世界訪談」で詳しく述べられています。
それによると(以下、超訳&要約)、
1982年(監督のお話では「1981年ごろ」とありますが、『少林寺(少林寺)』の日本公開は1982年11月のことなので、勝手に訂正)、日本ヘラルドから香港の宏華公司を通じて「もう一度『少林寺十八銅人』を観てみたい」と連絡がきた。
実はその3、4年前にもヘラルドは『少林寺十八銅人』を配給したいと言ってきていたが、こちらの希望が50万米ドルからだったのに対し、先方は10~20万米ドルしか払えない、というので、そのときには承諾しなかった。
しかし、日本で『少林寺』が上映されて大ヒットすると、彼らは改めて「『少林寺十八銅人』は売れる」と思ったのか、もう一度観たいと言ってきたのだった。
ヘラルドから社長と国際部長が香港にやってきて『少林寺十八銅人』を観た後、「少し時代遅れの感じがする」とのことだったので、主人公の幼少時代の件を新たに撮り直して再編集するというアイデアを出したところ、ヘラルド側も乗り気になったが、あくまでも契約するかしないかは再編集版を観た後で、とのことだった。
その後、新たに撮り直したものを日本へ送ったが彼らは満足せず、もう一度20日ほどかけて新たに増補したものを日本へ送ると4日後に連絡があり、「大変いい」との返事だったので無事契約を結ぶことになった。
との由。
『少林寺』の日本公開が1982年11月3日、『少林寺への道(少林寺十八銅人)』の日本公開が1983年1月29日ですので、わずか2ヶ月半ほどの間に「ヘラルドからの要請→ヘラルド上層部への試写→再編集その1→ボツ→再編集その2→OK→日本公開」という過程を辿ったことになります。
黄家達の少年時代の場面に『八大門派(少林寺への道3)』の映像が流用されているのは、そんなタイトなスケジュールのせいもあったのでしょうか。
この辺り、お詳しい方にぜひとも再検討していただければと思います。
(つづく)
どうも。
トド@やっぱり大掃除してますです。
例によって、前回の続き。
・郭南宏監督の作品群
そもそもこの記事を書くことになったきっかけが、郭南宏監督の『少林寺への道(少林寺十八銅人)』の撮影を中條カメラマンが「鍾申」という変名で行っていた、ということからですが、中條カメラマンが郭監督作品の撮影を担当したのは、
追記:その後、leecooさんより、1972年の郭南宏監督作品『單刀赴會』において、「鍾伸」名義で撮影を担当している、とのご教示を賜りました。ありがとうございました。
現時点で判明している郭監督&中條カメラマンの組み合わせによる作品は、下記のようになります。
1972年
『單刀赴會』(「鍾伸」名義)
1974年
『少林功夫』、『怒れドラゴン(廣東好漢)』
1975年
『少林寺への道(少林寺十八銅人)』、『風塵女郎』、『小妹(別題:『春花秋月』)』
1976年
『少林寺への道 十八銅人の逆襲(雍正大破十八銅人)』
1977年
『少林寺炎上(火燒少林寺)』、『少林兄弟(別題:『湘西、劍火、幽魂』『湘西趕屍』『劍火金羅衣』)』
1980年
『武當二十八奇』
『郭南宏電影世界』(2004年、高雄市電影圖書館)所収の「郭南宏電影世界訪談」(郭監督のインタビュー)によれば、1950年代、台湾語映画からそのキャリアをスタートさせた郭南宏監督(映画を撮る前は映画館の看板書きをしていたそうです)は、1960年代に入って北京語映画に転じると李翰祥監督率いる國聯に所属、『明月幾時圓』や『深情比酒濃』といった愛情文芸映画をヒットさせ「文藝片大導演」の称号を得ますが、その後、聯邦で撮った武侠映画『一代劍王』が大ヒットすると今度は「武侠大導演」「百萬大導演」の異名を取るようになります。
と、ここで中條カメラマンが担当した作品群を見直してみると、文芸映画と武侠映画(功夫映画)、そのどちらをも受け持っていたことがわかります(『風塵女郎』と『小妹』は、恬妞主演の文芸映画)。
今日、郭南宏監督は台湾映画史に残る偉大な監督としてその名を知られていますが、全盛期の郭監督作品の多くを中條カメラマンが担当していたという事実は、もっともっと評価されて良いのではないかと、不肖せんきちは考えています。
ところで、『少林寺への道(少林寺十八銅人)』の日本公開ヴァージョンが、当初のバージョンに増補改訂を加えた再編集版だったことは有名ですが、その日本公開ヴァージョンが生まれたいきさつに関しても、前掲の「郭南宏電影世界訪談」で詳しく述べられています。
それによると(以下、超訳&要約)、
1982年(監督のお話では「1981年ごろ」とありますが、『少林寺(少林寺)』の日本公開は1982年11月のことなので、勝手に訂正)、日本ヘラルドから香港の宏華公司を通じて「もう一度『少林寺十八銅人』を観てみたい」と連絡がきた。
実はその3、4年前にもヘラルドは『少林寺十八銅人』を配給したいと言ってきていたが、こちらの希望が50万米ドルからだったのに対し、先方は10~20万米ドルしか払えない、というので、そのときには承諾しなかった。
しかし、日本で『少林寺』が上映されて大ヒットすると、彼らは改めて「『少林寺十八銅人』は売れる」と思ったのか、もう一度観たいと言ってきたのだった。
ヘラルドから社長と国際部長が香港にやってきて『少林寺十八銅人』を観た後、「少し時代遅れの感じがする」とのことだったので、主人公の幼少時代の件を新たに撮り直して再編集するというアイデアを出したところ、ヘラルド側も乗り気になったが、あくまでも契約するかしないかは再編集版を観た後で、とのことだった。
その後、新たに撮り直したものを日本へ送ったが彼らは満足せず、もう一度20日ほどかけて新たに増補したものを日本へ送ると4日後に連絡があり、「大変いい」との返事だったので無事契約を結ぶことになった。
との由。
『少林寺』の日本公開が1982年11月3日、『少林寺への道(少林寺十八銅人)』の日本公開が1983年1月29日ですので、わずか2ヶ月半ほどの間に「ヘラルドからの要請→ヘラルド上層部への試写→再編集その1→ボツ→再編集その2→OK→日本公開」という過程を辿ったことになります。
黄家達の少年時代の場面に『八大門派(少林寺への道3)』の映像が流用されているのは、そんなタイトなスケジュールのせいもあったのでしょうか。
この辺り、お詳しい方にぜひとも再検討していただければと思います。
(つづく)
2009年12月27日日曜日
一見鍾申(意味不明) (その3)
〔えいが〕〔ちょっとお耳に〕
どうも。
トド@大掃除なんてくそ食らえ!です。
昨日、ラピュタ阿佐ヶ谷へ『二人の銀座』を観に行ったついでに、京王百貨店(新宿店)で開催中の「歳末古書市」に立ち寄ってみますた。
特に何を買うということもなかったのですけれど、1982年に朝日新聞社から出た『昭和写真全仕事 series4 大竹省二』をパラパラめくっていたところ、巻頭グラビア「激情の女」の中に橘ますみたんの写真があるのを発見!、即ゲットいたしますた。
写真にはキャプションがなかったものの、せんきちにはすぐに1970年に『ポケットパンチOh!』のグラビアのために撮られた写真と同時期のものだということがわかりますたです。
屈託のない笑顔が素敵な1枚ですた。
ところで、大竹省二といえば、1961年に尤敏を日本で売り出すための写真を撮っており、その中の一部が『週刊公論』(かつて中央公論社が出していた週刊誌)の表紙写真に用いられていますが、それらの写真は残念ながら収録されていませんでした。
『週刊公論』の表紙写真では、この他にも葉楓を撮影したもの等もあり、今回この本に収められた「年譜」を見たら、なるほど、かつて上海の東亜同文学院で学んでいたんですね、大竹氏は。
だから尤敏や葉楓とも、通訳を介さずに直接コミュニケーションを取ることができたのでしょう。
さて、前回の続き。
・『小飛侠』(1970年、現代電影電視實驗中心)
以前、湯浅浪男監督の作品リストの回でもご紹介した作品。
潘壘監督が設立した製作会社・現代電影電視實驗中心での映画で、中條カメラマンは湯浅監督と共にこの会社の専属スタッフでした。
この映画から湯浅監督は「湯濳」という中国風の変名(後に「湯慕華」となり、この名前で台湾に帰化)を名乗り始めますが、中條カメラマンもこの映画から「鍾申」という変名を用いるようになったようです。
『香港影人口述歴史叢書之五:摩登色彩-邁進1960年代』(香港電影資料館)所収の潘壘監督インタビューによれば、現代電影電視實驗中心の経営が傾いた原因の1つに、湯浅監督と中條カメラマンに払う給料があったとのことで、当時、この2人は台湾映画界の通常のスタッフが貰う以上の高額のギャラを取っていたであろうことが、潘壘監督の証言からは窺えます。
・『朱洪武』(1971年、台旭電影事業公司)
これも以前にご紹介した湯浅浪男監督作品(湯慕華名義)『朱洪武續集劉伯温傳』の正編。
この作品も続編同様お子様向け特撮古装片だった模様(徐大均監督。楊群、游龍、祝菁主演)で、続編の特技を黒石恒生(林黒石名義)が担当していたのに対し、こちらの正編では円谷プロから高野宏一(特技指導)、塚本貞重(操演指導)、鈴木儀雄(美術指導)が駆けつけ、特技製作に当たっています。
先だって安藤達己監督にお話をうかがったさい(詳しくはこちらをご参照下さい)、「円谷プロが特技を担当した台湾映画があるらしい」というお話をなさっていらっしゃいましたが、これがその作品だったということになります。
ということは、高野宏一が特技を担当した台湾映画はこの『朱洪武』が最初で、『海魔』は2本目の作品だったわけですね。
勉強になりました。
(つづく)
付記:顧也魯さんがお亡くなりになりました。享年93歳。1996年に出た『中華電影物知り帖』(キネマ旬報社)に顧也魯、舒適、石霊、陳述、劉瓊の対談(「激動の時代を生き抜いた老名優が語る30年代~50年代中華電影秘話」)が掲載されています。
どうも。
トド@大掃除なんてくそ食らえ!です。
昨日、ラピュタ阿佐ヶ谷へ『二人の銀座』を観に行ったついでに、京王百貨店(新宿店)で開催中の「歳末古書市」に立ち寄ってみますた。
特に何を買うということもなかったのですけれど、1982年に朝日新聞社から出た『昭和写真全仕事 series4 大竹省二』をパラパラめくっていたところ、巻頭グラビア「激情の女」の中に橘ますみたんの写真があるのを発見!、即ゲットいたしますた。
写真にはキャプションがなかったものの、せんきちにはすぐに1970年に『ポケットパンチOh!』のグラビアのために撮られた写真と同時期のものだということがわかりますたです。
屈託のない笑顔が素敵な1枚ですた。
ところで、大竹省二といえば、1961年に尤敏を日本で売り出すための写真を撮っており、その中の一部が『週刊公論』(かつて中央公論社が出していた週刊誌)の表紙写真に用いられていますが、それらの写真は残念ながら収録されていませんでした。
『週刊公論』の表紙写真では、この他にも葉楓を撮影したもの等もあり、今回この本に収められた「年譜」を見たら、なるほど、かつて上海の東亜同文学院で学んでいたんですね、大竹氏は。
だから尤敏や葉楓とも、通訳を介さずに直接コミュニケーションを取ることができたのでしょう。
さて、前回の続き。
・『小飛侠』(1970年、現代電影電視實驗中心)
以前、湯浅浪男監督の作品リストの回でもご紹介した作品。
潘壘監督が設立した製作会社・現代電影電視實驗中心での映画で、中條カメラマンは湯浅監督と共にこの会社の専属スタッフでした。
この映画から湯浅監督は「湯濳」という中国風の変名(後に「湯慕華」となり、この名前で台湾に帰化)を名乗り始めますが、中條カメラマンもこの映画から「鍾申」という変名を用いるようになったようです。
『香港影人口述歴史叢書之五:摩登色彩-邁進1960年代』(香港電影資料館)所収の潘壘監督インタビューによれば、現代電影電視實驗中心の経営が傾いた原因の1つに、湯浅監督と中條カメラマンに払う給料があったとのことで、当時、この2人は台湾映画界の通常のスタッフが貰う以上の高額のギャラを取っていたであろうことが、潘壘監督の証言からは窺えます。
・『朱洪武』(1971年、台旭電影事業公司)
これも以前にご紹介した湯浅浪男監督作品(湯慕華名義)『朱洪武續集劉伯温傳』の正編。
この作品も続編同様お子様向け特撮古装片だった模様(徐大均監督。楊群、游龍、祝菁主演)で、続編の特技を黒石恒生(林黒石名義)が担当していたのに対し、こちらの正編では円谷プロから高野宏一(特技指導)、塚本貞重(操演指導)、鈴木儀雄(美術指導)が駆けつけ、特技製作に当たっています。
先だって安藤達己監督にお話をうかがったさい(詳しくはこちらをご参照下さい)、「円谷プロが特技を担当した台湾映画があるらしい」というお話をなさっていらっしゃいましたが、これがその作品だったということになります。
ということは、高野宏一が特技を担当した台湾映画はこの『朱洪武』が最初で、『海魔』は2本目の作品だったわけですね。
勉強になりました。
(つづく)
付記:顧也魯さんがお亡くなりになりました。享年93歳。1996年に出た『中華電影物知り帖』(キネマ旬報社)に顧也魯、舒適、石霊、陳述、劉瓊の対談(「激動の時代を生き抜いた老名優が語る30年代~50年代中華電影秘話」)が掲載されています。
2009年12月25日金曜日
一見鍾申(意味不明) (その2)
〔えいが〕〔ちょっとお耳に〕
どうも。
トド@なんだかだるいです。
さて、前回の続き。
・『悲器』(1966年、湯浅プロ・国映)
以前、こちらのブログでも取り上げた湯浅浪男(湯慕華)監督の作品ですが、不肖せんきち、湯浅監督と中條カメラマンが共に台湾へ渡ったということから、ついうっかり第7グループ(湯浅監督等が設立した独立プロ)時代から2人はずっと行動を共にしていたと勘違いしておりました。
この作品からだったんですね、2人のコンビは。
で、これも以前に書きましたが、その後日台合作映画『母ありて命ある日』撮影のため、2人は台湾へ渡ることになるのでありました(くわしくは、『台湾映画 2009年』〔2009年、東洋思想研究所〕に掲載された「安藤達己監督インタビュー」をお読み下さい)。
ちなみに、先だって発行された『映画論叢』22号(2009年11月、国書刊行会)所収の「三輪彰監督インタビュー 続」には、三輪彰監督が第7グループで映画を撮ることになった経緯や、三輪監督が第7グループから手を引いた後、湯浅監督自身が映画を撮るようになるまでの過程が詳しく記されています。
それによると、湯浅監督は当時新潟県小千谷市の映画館主で(水戸で働いた後、小千谷に行ったのか!)、湯浅監督の依頼で三輪監督は4本のピンク映画を撮ったものの「もう飽きたよ」と言って脱退、そこで湯浅監督が自分で映画を撮ることになり、三輪監督がコンテを書いて湯浅監督がメガホンを取ったのが『夜の魔性』(1964年。岩佐浪男名義)だったのだそうです。
その頃、第7グループのオフィスは赤坂にあり、そこに出入りしていたのが後に湯浅監督の『血と掟』(1965年)で俳優デビューすることになる安藤昇。
湯浅監督が安藤昇を口説いて映画出演を承諾させ、松竹へその企画を持ち込んで製作したとのことです。
あらら、中條カメラマンの話がいつの間にやら湯浅監督の話になっちゃったわ。
次回は軌道修正します。
(つづく)
どうも。
トド@なんだかだるいです。
さて、前回の続き。
・『悲器』(1966年、湯浅プロ・国映)
以前、こちらのブログでも取り上げた湯浅浪男(湯慕華)監督の作品ですが、不肖せんきち、湯浅監督と中條カメラマンが共に台湾へ渡ったということから、ついうっかり第7グループ(湯浅監督等が設立した独立プロ)時代から2人はずっと行動を共にしていたと勘違いしておりました。
この作品からだったんですね、2人のコンビは。
で、これも以前に書きましたが、その後日台合作映画『母ありて命ある日』撮影のため、2人は台湾へ渡ることになるのでありました(くわしくは、『台湾映画 2009年』〔2009年、東洋思想研究所〕に掲載された「安藤達己監督インタビュー」をお読み下さい)。
ちなみに、先だって発行された『映画論叢』22号(2009年11月、国書刊行会)所収の「三輪彰監督インタビュー 続」には、三輪彰監督が第7グループで映画を撮ることになった経緯や、三輪監督が第7グループから手を引いた後、湯浅監督自身が映画を撮るようになるまでの過程が詳しく記されています。
それによると、湯浅監督は当時新潟県小千谷市の映画館主で(水戸で働いた後、小千谷に行ったのか!)、湯浅監督の依頼で三輪監督は4本のピンク映画を撮ったものの「もう飽きたよ」と言って脱退、そこで湯浅監督が自分で映画を撮ることになり、三輪監督がコンテを書いて湯浅監督がメガホンを取ったのが『夜の魔性』(1964年。岩佐浪男名義)だったのだそうです。
その頃、第7グループのオフィスは赤坂にあり、そこに出入りしていたのが後に湯浅監督の『血と掟』(1965年)で俳優デビューすることになる安藤昇。
湯浅監督が安藤昇を口説いて映画出演を承諾させ、松竹へその企画を持ち込んで製作したとのことです。
あらら、中條カメラマンの話がいつの間にやら湯浅監督の話になっちゃったわ。
次回は軌道修正します。
(つづく)
2009年12月23日水曜日
台湾は招くよ (その7)
〔えいが〕〔ちょっとお耳に〕
歌手の吳鶯音さんがお亡くなりになりました。享年87歳。
許鞍華監督の『生きていく日々(天水圍的日與夜)』のエンディングでは、
彼女の代表曲「明月千里寄相思」が使われていました
(『半生縁』では「斷腸紅」が使われていましたね)。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
どうも。
トド@年賀状作成中です。
えー、昨日の記事の第2回に行く前に、以前取り上げた「台湾映画を撮った日本人監督」に関する記事(その1、その2、その3、その4、その5、その6)の補遺を。
件の記事(台湾は招くよ)の第1回で、1969年の台湾映画『我恨月常圓』の監督・陶南凱が「田中」姓の日本人監督である可能性を示唆しましたが、先だって黄仁氏の『日本電影在臺灣』(2008年、秀威資訊)を読んでいたところ、その謎が解けました。
謎の映画監督・陶南凱の正体は、
田中重雄監督
でした。
んー、なるほど、たしかに「田中」だ。
この映画、楊麗花主演の歌仔戯…じゃなくて、文芸映画(北京語)で、彼女のお相手は關山が勤めました。
ちなみに、共同監督としてクレジットされている黄銘は、1971年の『新座頭市 破れ!唐人剣(獨臂刀大戰盲俠)』では香港側のプロデューサーを勤めている人物で、『新座頭市 破れ!唐人剣(獨臂刀大戰盲俠)』は『我恨月常圓』の製作会社である永聯と勝プロの合作映画なのであります(嘉禾は配給担当)。
ということは、この黄銘なる人物、日本映画界とかなり太いパイプを持つ人物のようです。
ところで、先ほども述べた通り、『我恨月常圓』の主演は楊麗花と關山ですが、黄仁氏の前掲書ではなぜか、
唐菁と若尾文子
主演になっていますた。
どっから出てきたんだ、そのありえねーキャスト?
許鞍華監督の『生きていく日々(天水圍的日與夜)』のエンディングでは、
彼女の代表曲「明月千里寄相思」が使われていました
(『半生縁』では「斷腸紅」が使われていましたね)。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
どうも。
トド@年賀状作成中です。
えー、昨日の記事の第2回に行く前に、以前取り上げた「台湾映画を撮った日本人監督」に関する記事(その1、その2、その3、その4、その5、その6)の補遺を。
件の記事(台湾は招くよ)の第1回で、1969年の台湾映画『我恨月常圓』の監督・陶南凱が「田中」姓の日本人監督である可能性を示唆しましたが、先だって黄仁氏の『日本電影在臺灣』(2008年、秀威資訊)を読んでいたところ、その謎が解けました。
謎の映画監督・陶南凱の正体は、
田中重雄監督
でした。
んー、なるほど、たしかに「田中」だ。
この映画、楊麗花主演の歌仔戯…じゃなくて、文芸映画(北京語)で、彼女のお相手は關山が勤めました。
ちなみに、共同監督としてクレジットされている黄銘は、1971年の『新座頭市 破れ!唐人剣(獨臂刀大戰盲俠)』では香港側のプロデューサーを勤めている人物で、『新座頭市 破れ!唐人剣(獨臂刀大戰盲俠)』は『我恨月常圓』の製作会社である永聯と勝プロの合作映画なのであります(嘉禾は配給担当)。
ということは、この黄銘なる人物、日本映画界とかなり太いパイプを持つ人物のようです。
ところで、先ほども述べた通り、『我恨月常圓』の主演は楊麗花と關山ですが、黄仁氏の前掲書ではなぜか、
唐菁と若尾文子
主演になっていますた。
どっから出てきたんだ、そのありえねーキャスト?
2009年12月22日火曜日
一見鍾申(意味不明) (その1)
〔えいが〕〔ちょっとお耳に〕
どうも。
トド@恥ずかしながら帰って参りますたです。
体調はまだまだ万全ではないのですが、年内に片付けておきたいネタがあるので、そいつを書いてしまいます。
郭南宏監督の『少林寺への道(少林寺十八銅人)』の撮影を台湾へ渡った日本人カメラマン・中條伸太郎(注1)が担当していることは、知っている人なら知っている、知らない人は全く知らない事実ですが、この映画の中で中條カメラマンは「鍾申」という変名を用いています。
これはおそらく、
中條の中
と、
伸太郎の伸
を取り、それぞれの文字に同じ読みの別の漢字(「鍾〔zhong〕」「申〔shen〕」)を当てて作った変名と考えられ、調べてみると、中條カメラマンには他にもこの名義で撮った映画がかなりの本数存在します。
というわけで、今回の調査で判明した鍾申名義の作品に、「日本映画データベース」及び「台灣電影筆記」にある中條カメラマンのフィルモグラフィを加え、この機会に新たな作品リストを作成してみました。
以下が、その作品リストです(太字は鍾申名義の作品・注2)。
(日本での作品)
1965年
『夜の女炎』、『夜のいたずら』
1966年
『女で銭を抱け』、『甘い体臭』、『若い刺激』(ここまで中条伸太郎名義)、『泣かされた女』、『女のふくらみ』、『悲器』、『処女の血脈』
(台湾での作品)
1966年
『霧夜的車站』
1967年
『青春悲喜曲』、『懷念的人』
1968年
『藍衣天使』
1969年
『雨夜花』
1970年
『小飛俠』
1971年
『朱洪武』 、『甘羅拜相』
1972年
『單刀赴會』(「鍾伸」名義。leecooさんよりご教示頂きました。ありがとうございます)
1974年
『森山虎』、『少林功夫』、『怒れドラゴン(廣東好漢)』、
1975年
『少林寺への道(少林寺十八銅人)』、『風塵女郎』、『小妹(別題:『春花秋月』)』
1976年
『少林寺への道 十八銅人の逆襲(雍正大破十八銅人)』、『孫悟空七十二變』(監督作品)
1977年
『少林寺炎上(火燒少林寺)』、『少林寺への道 ラマ僧の復讐(少林叛徒)』、『少林兄弟(別題:『湘西、劍火、幽魂』『湘西趕屍』『劍火金羅衣』)』、『武林客棧(別題:『亡命客棧』)』、『旋風十八騎』
1978年
『新雨夜花』、『十八玉羅漢』
1979年
『戚繼光』
1980年
『古寧頭大戰』、『武當二十八奇』
1981年
『美人國』
1982年
『大小濟公』、『酒色財氣』、『終戰後的戰爭』、『人偷人』
1983年
『午夜蘭花』
1984年
『東京來的小寡婦』
1986年
『今夜微雨』
1988年
『勾魂黑薔薇』、『重犯出擊』
1989年
『野生之旅』(監督作品)
1992年
『末代響馬』
1995年
『邊城皇帝』
製作年不詳
『千里眼順風耳』
次回は、上記作品群の中からいくつか気になったものを取り上げて、少々考察してみることにいたします。
(つづく)
(注1)日本盤ソフトのパッケージや解説等では、なぜか「中条申太郎」となっていますが…。
(注2)「台灣電影筆記」の中條カメラマンのプロフィールには、「手がけた作品は128本ほどある」とありますので、このリストはあくまで作品名が判明したもののみを取り上げています。
どうも。
トド@恥ずかしながら帰って参りますたです。
体調はまだまだ万全ではないのですが、年内に片付けておきたいネタがあるので、そいつを書いてしまいます。
郭南宏監督の『少林寺への道(少林寺十八銅人)』の撮影を台湾へ渡った日本人カメラマン・中條伸太郎(注1)が担当していることは、知っている人なら知っている、知らない人は全く知らない事実ですが、この映画の中で中條カメラマンは「鍾申」という変名を用いています。
これはおそらく、
中條の中
と、
伸太郎の伸
を取り、それぞれの文字に同じ読みの別の漢字(「鍾〔zhong〕」「申〔shen〕」)を当てて作った変名と考えられ、調べてみると、中條カメラマンには他にもこの名義で撮った映画がかなりの本数存在します。
というわけで、今回の調査で判明した鍾申名義の作品に、「日本映画データベース」及び「台灣電影筆記」にある中條カメラマンのフィルモグラフィを加え、この機会に新たな作品リストを作成してみました。
以下が、その作品リストです(太字は鍾申名義の作品・注2)。
(日本での作品)
1965年
『夜の女炎』、『夜のいたずら』
1966年
『女で銭を抱け』、『甘い体臭』、『若い刺激』(ここまで中条伸太郎名義)、『泣かされた女』、『女のふくらみ』、『悲器』、『処女の血脈』
(台湾での作品)
1966年
『霧夜的車站』
1967年
『青春悲喜曲』、『懷念的人』
1968年
『藍衣天使』
1969年
『雨夜花』
1970年
『小飛俠』
1971年
『朱洪武』 、『甘羅拜相』
1972年
『單刀赴會』(「鍾伸」名義。leecooさんよりご教示頂きました。ありがとうございます)
1974年
『森山虎』、『少林功夫』、『怒れドラゴン(廣東好漢)』、
1975年
『少林寺への道(少林寺十八銅人)』、『風塵女郎』、『小妹(別題:『春花秋月』)』
1976年
『少林寺への道 十八銅人の逆襲(雍正大破十八銅人)』、『孫悟空七十二變』(監督作品)
1977年
『少林寺炎上(火燒少林寺)』、『少林寺への道 ラマ僧の復讐(少林叛徒)』、『少林兄弟(別題:『湘西、劍火、幽魂』『湘西趕屍』『劍火金羅衣』)』、『武林客棧(別題:『亡命客棧』)』、『旋風十八騎』
1978年
『新雨夜花』、『十八玉羅漢』
1979年
『戚繼光』
1980年
『古寧頭大戰』、『武當二十八奇』
1981年
『美人國』
1982年
『大小濟公』、『酒色財氣』、『終戰後的戰爭』、『人偷人』
1983年
『午夜蘭花』
1984年
『東京來的小寡婦』
1986年
『今夜微雨』
1988年
『勾魂黑薔薇』、『重犯出擊』
1989年
『野生之旅』(監督作品)
1992年
『末代響馬』
1995年
『邊城皇帝』
製作年不詳
『千里眼順風耳』
次回は、上記作品群の中からいくつか気になったものを取り上げて、少々考察してみることにいたします。
(つづく)
(注1)日本盤ソフトのパッケージや解説等では、なぜか「中条申太郎」となっていますが…。
(注2)「台灣電影筆記」の中條カメラマンのプロフィールには、「手がけた作品は128本ほどある」とありますので、このリストはあくまで作品名が判明したもののみを取り上げています。
2009年12月13日日曜日
2009年12月5日土曜日
最近観た映画のことなど (その3)
〔えいが〕〔しようもない日常〕
どうも。
トド@いつも貧乏暇なしです。
すっかり「週1ブログ」と化してしまい、面目次第もございません。
先週の土曜日、かかりつけのお医者さんがニューオータニ美術館のすぐ近くだったので、診察の帰りがけに「グラフィックデザイナー 野口久光の世界」を見てきました。
オフィシャルサイトには"フランス映画ポスター"とありますが、『制服の処女(Madchen in Uniform)』のポスターもあり、当初案の原画も展示されていました。
これは決定版とはかなり異なるもので、女学生3人が並んでいる画でした。
この他、うちにもある『写真 映画百年史』(筈見恒夫編著)や『殿方御免あそばせ(Une parisienne)』、『必死の逃亡者(The Desperate Hours)』のパンフ等も展示されており、特に『写真 映画百年史』はとても状態のいい本で、「うちのと取り替えて欲しい!」と思ってしまいますた。
『写真 映画百年史』第4巻。
表紙の絵と装丁を野口氏が担当。
中国映画に関する記述も豊富です。
ところで、野口久光さんというと、映画ポスターもさることながら、わたくしにとってはジャズ評論家として印象深い方です。
わたくしの好きなアルバム『リアル・バース・オブ・ザ・クール(The Real Birth of the Cool)』(以前、こちらでも取り上げました)の解説表紙にも、野口さんが書いたクロード・ソーンヒルとギル・エヴァンスの肖像画があったことを思い出します。
向かって左がクロード・ソーンヒル(Claude Thornhill)、
右がギル・エヴァンス(Gil Evans)。
さて。
宿題は片付きそうにありませんが、一応、ノルマを消化。
『北京陳情村の人々(上訪)』
2009年、中国。趙亮監督。
北京南站近くに広がる陳情村に暮らす人々を追ったドキュメンタリー。
一応、メインで扱われているのは江蘇省から陳情にやってきたチーおばさん(漢字不明)になるのかなあ。
彼女は、健康診断中に急死した夫の死の真相を追求するため、10代の娘を連れて北京にやってきたのですが、初めの頃は学校に行けないことをそれなりに気にしながらも殊勝に「お母さんのそばにいなければ」とか何とか言っていた娘が、いつの間にやら彼氏を作って駆け落ちまでするに至ったのにはびっくり仰天・・・というか、夕方のニュースでおなじみ大家族物にありがちな展開、
長女(16歳)妊娠!そのとき肝っ玉母ちゃんは?
と、なぜか同じ匂いを嗅ぎ取ってしまいましたよ。
だいたいさあ、あの彼氏、何者よ?
また、陳情者狩りから逃れる途中、誤って列車に轢かれて亡くなった老夫婦と、彼らを追悼しようと立ち上がった陳情者グループの動き、そして当局の摘発の一部始終も登場しますが、これは田中奈美氏の『北京陳情村』でも詳しく取り上げられています。
映画の中では当局によって逮捕されたグループのリーダー格・劉氏(田中氏の著書の中では「リュウ氏」)の髪型が、釈放後は丸坊主になっていたことに関して何の説明もないため、あたしゃてっきり「怖いなあ。刑務所に入ると強制的に頭を刈られちゃうんだ」と思っていたら、何のこたあない、田中氏の著書によれば、
路上の移動床屋で切った
んですと。
なんーだ。
てなわけで、監督さんの中国の社会や政治に対する懸念や危惧や義憤の情はよーくわかるものの、説明すべき点はもっときちんと説明した方が、あらぬ誤解を生まずに済むのじゃないか、そんな風にも思いましたです、はい。
どうも。
トド@いつも貧乏暇なしです。
すっかり「週1ブログ」と化してしまい、面目次第もございません。
先週の土曜日、かかりつけのお医者さんがニューオータニ美術館のすぐ近くだったので、診察の帰りがけに「グラフィックデザイナー 野口久光の世界」を見てきました。
オフィシャルサイトには"フランス映画ポスター"とありますが、『制服の処女(Madchen in Uniform)』のポスターもあり、当初案の原画も展示されていました。
これは決定版とはかなり異なるもので、女学生3人が並んでいる画でした。
この他、うちにもある『写真 映画百年史』(筈見恒夫編著)や『殿方御免あそばせ(Une parisienne)』、『必死の逃亡者(The Desperate Hours)』のパンフ等も展示されており、特に『写真 映画百年史』はとても状態のいい本で、「うちのと取り替えて欲しい!」と思ってしまいますた。
表紙の絵と装丁を野口氏が担当。
中国映画に関する記述も豊富です。
ところで、野口久光さんというと、映画ポスターもさることながら、わたくしにとってはジャズ評論家として印象深い方です。
わたくしの好きなアルバム『リアル・バース・オブ・ザ・クール(The Real Birth of the Cool)』(以前、こちらでも取り上げました)の解説表紙にも、野口さんが書いたクロード・ソーンヒルとギル・エヴァンスの肖像画があったことを思い出します。
右がギル・エヴァンス(Gil Evans)。
さて。
宿題は片付きそうにありませんが、一応、ノルマを消化。
『北京陳情村の人々(上訪)』
2009年、中国。趙亮監督。
北京南站近くに広がる陳情村に暮らす人々を追ったドキュメンタリー。
一応、メインで扱われているのは江蘇省から陳情にやってきたチーおばさん(漢字不明)になるのかなあ。
彼女は、健康診断中に急死した夫の死の真相を追求するため、10代の娘を連れて北京にやってきたのですが、初めの頃は学校に行けないことをそれなりに気にしながらも殊勝に「お母さんのそばにいなければ」とか何とか言っていた娘が、いつの間にやら彼氏を作って駆け落ちまでするに至ったのにはびっくり仰天・・・というか、夕方のニュースでおなじみ大家族物にありがちな展開、
長女(16歳)妊娠!そのとき肝っ玉母ちゃんは?
と、なぜか同じ匂いを嗅ぎ取ってしまいましたよ。
だいたいさあ、あの彼氏、何者よ?
また、陳情者狩りから逃れる途中、誤って列車に轢かれて亡くなった老夫婦と、彼らを追悼しようと立ち上がった陳情者グループの動き、そして当局の摘発の一部始終も登場しますが、これは田中奈美氏の『北京陳情村』でも詳しく取り上げられています。
映画の中では当局によって逮捕されたグループのリーダー格・劉氏(田中氏の著書の中では「リュウ氏」)の髪型が、釈放後は丸坊主になっていたことに関して何の説明もないため、あたしゃてっきり「怖いなあ。刑務所に入ると強制的に頭を刈られちゃうんだ」と思っていたら、何のこたあない、田中氏の著書によれば、
路上の移動床屋で切った
んですと。
なんーだ。
てなわけで、監督さんの中国の社会や政治に対する懸念や危惧や義憤の情はよーくわかるものの、説明すべき点はもっときちんと説明した方が、あらぬ誤解を生まずに済むのじゃないか、そんな風にも思いましたです、はい。