これにしてほしかったんだけどなあ。
どうも。
トド@省エネ家電にエコポイント付けて「買え買え」と言いつつ、高速料金1000円でCO2垂れ流しを奨励してるのはどこのどいつだ?です。
さて。
湯浅浪男(湯淺浪男、湯濳、湯慕華)監督の『悲器』(1966年、湯浅プロ・国映)を観てきました。
茨城の大洗を舞台に、多額の借金を残したまま失踪した夫の帰りを待ちつつ港のスナックで春をひさぐ子持ちの女・芳江(香取環)と、若い漁師・哲也(井村弘史)との束の間の恋を軸にしてスナックで働く女たちの人間模様を描いた作品で、小さな娘を育てるためには身体を売って生きていくしかない芳江の姿にショックを受けた哲也が海に向かって
バカヤロー!
と叫んだり、哲也に誤解された芳江が涙に暮れていると、いきなり雨が降り出して
芳江、びしょ濡れ!
になったりと、かなりベタベタコテコテの展開ではありましたが、浴衣姿で日傘を差して歩く香取環は美しかったです。
台湾の漁村を舞台にしてもいけそうな感じ(王童監督、陸小芬主演で。古すぎや!)。
監督の名前はラピュタのチラシでは湯浅浪男監督のみでしたが、実際のクレジットでは安藤達己監督との共同名義になっていました。
ところで、これはストーリーとは全く関係ないのですけれど、哲也の船が出港するその日の朝、「今日はお赤飯よ。あなたの門出を祝って」と言う香取環の目の前に置かれたちゃぶ台の上にはなぜか生卵が……。
かけるんか、赤飯に!
大洗、といえば、湯浅監督はかつて水戸の映画館で働いていたそうです…と、書いたついでに『日本映画監督全集』(改訂版、1980年、キネマ旬報社)の湯浅監督プロフィールからちょっこし抜粋。
…水戸の映画館に八年間つとめたのを含め、約二十年間映画館に勤務。生来の映画好きから見よう見まねで映画づくりを始める。
監督が当初所属していた独立プロ・第7グループは、1963年、地方の映画館の館主たちによって作られたプロダクションで、当初は三輪彰監督を招いて映画製作を始めたそうですが、三輪監督がテレビ業界に去った後に監督として映画を撮り始めたのが湯浅監督だったようです
で。
先日、新たに得た情報を。
「その2」において、わたくしは「しかし、1972年以降、湯浅監督の関わった台湾映画を見出すことは残念ながらできませんでした」と書きましたが、その後、1970年の『二郎神楊戩』(錦華有限公司)が、1976年4月24日から30日までの間再映されていることが判明いたしました(『聯合報』等による)。
そうなると、一度は日本へ戻ってきた湯浅監督が再び台湾へ舞い戻ることになったきっかけは、この再映にあると考えられ、これ以降も敢えて名前は出さずに映画製作に携わっていた可能性が出てきました。
引き続き、調査を進めていきたいと思います。
そしてそして!
4月30日に湯浅監督の台湾語映画『懷念的人』のDVDがリリースされました。
発売元は、中影のDVDでおなじみ豪客唱片。
この映画の他にも『王哥柳哥遊台灣』等、なつかしの台湾語映画のDVDが続々リリース中です。
くわしくは、こちらのサイトをご覧下さい。
付記:これも何度となく書いていますが、『悲器』でカメラを担当した中條伸太郎も湯浅監督と同じく台湾に骨を埋めることになった映画人です。台湾での作品リストは、こちらをご参照下さい。
2 件のコメント:
へぇー!私が共同監督にねぇ。脚本を手伝ったのは覚えているけどーー推理物の要素を取り入れた作品だったような気がする。
ああ、台湾の映画:東條民枝:女優さん、確か演歌歌手だったと言ってたと思う。”夜霧”の映画、東條さんが私の妹役でした。現地の俳優さん高鳴(男)が東條さんの恋人役で私のお母さん役は英々さんでした。勿論、私は日本語で芝居をし、後で台湾語と北京語の声優さんがアテレコしました。つまり台湾語と北京語の2バージョンで封切られました。以上:安藤達己
安藤監督
再びお越しいただき、恐縮です。
そうなんです、共同監督になっていました。
東條さんは、歌手だったのですね。
高鳴は、その後香港へ渡ってショウ・ブラザース(邵氏)所属の役者になりました。
いろいろご教示くださいまして、ありがとうございます。
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