2009年12月25日金曜日

一見鍾申(意味不明) (その2)

〔えいが〕〔ちょっとお耳に〕


どうも。
トド@なんだかだるいです。

さて、前回の続き。

・『悲器』(1966年、湯浅プロ・国映)

以前、こちらのブログでも取り上げた湯浅浪男(湯慕華)監督の作品ですが、不肖せんきち、湯浅監督と中條カメラマンが共に台湾へ渡ったということから、ついうっかり第7グループ(湯浅監督等が設立した独立プロ)時代から2人はずっと行動を共にしていたと勘違いしておりました。
この作品からだったんですね、2人のコンビは。

で、これも以前に書きましたが、その後日台合作映画『母ありて命ある日』撮影のため、2人は台湾へ渡ることになるのでありました(くわしくは、『台湾映画 2009年』〔2009年、東洋思想研究所〕に掲載された「安藤達己監督インタビュー」をお読み下さい)。

ちなみに、先だって発行された『映画論叢』22号(2009年11月、国書刊行会)所収の「三輪彰監督インタビュー 続」には、三輪彰監督が第7グループで映画を撮ることになった経緯や、三輪監督が第7グループから手を引いた後、湯浅監督自身が映画を撮るようになるまでの過程が詳しく記されています。
それによると、湯浅監督は当時新潟県小千谷市の映画館主で(水戸で働いた後、小千谷に行ったのか!)、湯浅監督の依頼で三輪監督は4本のピンク映画を撮ったものの「もう飽きたよ」と言って脱退、そこで湯浅監督が自分で映画を撮ることになり、三輪監督がコンテを書いて湯浅監督がメガホンを取ったのが『夜の魔性』(1964年。岩佐浪男名義)だったのだそうです。
その頃、第7グループのオフィスは赤坂にあり、そこに出入りしていたのが後に湯浅監督の『血と掟』(1965年)で俳優デビューすることになる安藤昇。
湯浅監督が安藤昇を口説いて映画出演を承諾させ、松竹へその企画を持ち込んで製作したとのことです。

あらら、中條カメラマンの話がいつの間にやら湯浅監督の話になっちゃったわ。
次回は軌道修正します。

(つづく)

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