2009年3月28日土曜日

台湾は招くよ (その5)

〔ちょっとお耳に〕

今日の『朝日新聞』夕刊から。
邦訳の予定はないのかしらん?


どうも。
トド@山本山のお尻見ちゃったです。

先日、乳がん検診を受けますたが、超音波検査のとき、技師の方から、

「おっぱいの中に水の入った袋がありますね」

と言われますた。

不肖せんきち、別に包茎、じゃなくて、放尿、てもなくて、豊胸手術は受けていませんが・・・・。

調べてみたら、乳腺嚢胞という病気ですた。

特に治療の必要はないそうですけれど、甲状腺やら何やら、そこらじゅうに嚢胞ができているようでして、いやあ、困りますたです。

前回の続き。

・沢賢介監督

『跨世紀台灣電影實錄』中巻(2005年、文建會・國家電影資料館)の1972年5月の項(640頁)には、


新成立的擎天柱公司將與日本製片人澤賢介合作拍攝新片《百萬美金追蹤》。該片將在台北先拍部分内景、再轉往東京、香港、曼谷與新加坡等地拍攝外景。



とあり、沢賢介監督と台湾の擎天柱公司によって『百萬美金追蹤』という日台合作映画が企画されていたことがわかります。
しかし、その後まもなくして日本は台湾(中華民国)と絶交したため、結局、この映画は製作されずに終わったようです。

沢監督は、1944年に日本映画社に入社、1950年に退社後は『娘を売る街 赤線区域』(1953年)、『脱衣室の殺人』(1958年)と2本の劇映画(いずれも新東宝配給)を監督しましたが、1960年代に入るとピンク映画の世界に身を投じることとなります。
鈴木義昭氏の『ピンク映画水滸伝 その二十年史』(1983年、青心社)には、


沢賢介、彼は小林(悟・せんきち注。以下同)、関(孝二)、本木(荘二郎)、北里(俊夫)、三輪(彰)についでピンク映画六人目の監督として登場、今日までピンク映画をつくり続けている職人的映画人である。


と、あります。
その作品リストによれば、『(秘)香港人肉市場』なんてタイトルの映画もあり、すごーく気になります。

『百萬美金追蹤』のことに話を戻すと、台湾の製作会社である擎天柱公司は本作のために設立した会社のようで、この他の映画は製作していません。
また、キャストの記載もないので、北京語映画だったのか台湾語映画だったのかも不明ですが、香港やバンコク、シンガポールでも撮影を行う予定だったこととタイトルからみて、どうやらアクション映画だったのではないかと思われます。

・小川欽也監督

ピンク映画の世界においては言わずもがなの大監督ですが、前述した『ピンク映画水滸伝 その二十年史』には、


時には台湾へも渡り、現地スタッフを指導して映画を監督している。
いわく「台湾の映画は、日本より十年遅れている」。フリー時代の仲間が多数渡り、映画製作をしているという台湾では「センセイ、センセイ」と大歓迎されるそうだ。
(85頁)

とあって、小川監督も台湾で映画を撮っていた模様です。
ただ、現在のところ、作品名やどのような名義を用いていたのか等は不明で、今後も引き続き調査していきたいと考えています(ご本人に聞くのが一番早いんだけどね、何でも)。
また、上記の引用文章によれば、これまであげた監督たちの他にも多数の映画監督が台湾へ渡っていたようで、こちらの解明も今後の課題としていきたいです。

(第6回に続く)

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