どうも。
トド@睡眠障害です。
年末のワイドショー、どこの局も飯島愛一色になっていますが、せんきち的には、
藤田憲子が改名宣言「憲子」から「紀子」に
が、この暮れの超特大B級芸能ニュースです。
ついでに姓も花田に戻してみたらどうでしょう?
さて。
南国ネタに行く前に、まだまだ寄り道。
2006年、こちらのブログで「香港の純情歌手」というタイトルの記事を書きますたが、その中で取り上げた沈夢さんの詳しいプロフィールが先日入手した古雑誌(『週刊朝日』1962年8月24日号)に掲載されていましたので、今回改めて執筆することにいたしました。
で。
件の古雑誌のモノクログラビア「沈夢小姐 香港から飛んで来たウグイス」には、彼女の略歴が、こんな風に記されています。
・・・・広東語、北京語、英語の達者な彼女は、上海生まれの香港育ち。五年前イートン・イングリッシュ・スクールを卒業、作曲家梁楽音氏に歌の指導をうけ、ナイトクラブ「月宮」などに出演して売れっ子になり、ミュージカル映画「臥薪嘗胆」や、尤敏といっしょに映画「零雁」に出演、香港のテレビやラジオでは、すでにおなじみのスターである。約三ヵ月間の日本滞在中、松竹映画「学生芸者」出演もきまり、ビクターからレコードも売出すそうだ。(略)
なるほど、梁樂音のお弟子さんなのですね、ふむふむ。
そこで、香港で出演したという2本の映画(いずれも1956年。『臥薪嘗膽』は広東語版ではなく、北京語版〔馬徐維邦監督〕の方)を『香港影片大全 第4巻』(2003年、香港電影資料館)で調べてみますたが、彼女の名前はなく、どうやら端役での出演だった模様。
しかし、松竹の『学生芸者 恋と喧嘩』には、たしかに本人役でゲスト出演していました。
ただし、日本でレコードを出していたか否かに関しては、目下調査中であります。
ところで、この沈夢小姐が何故に日本へ呼ばれることになったのか、その経緯も同じ雑誌の「日本のタレントに輸出ブーム? 興行師は「呼び屋」から「送り屋」へ」に詳しい記述があります。
少し長くなりますが、引用してみましょう。
・・・・ところで、このビクター芸能(ビクター芸能株式会社・せんきち注)であるが、この会社は、日本のショー・ビジネスの海外市場開拓について、ちょっと面白い構想を持っている。一口でいうと、日本人にこだわらず、広く東南アジアの隠れたタレントを発掘、それを国際スターに仕立てた上で、海外のルートに乗せようというのである。
最近、ラスベガスを起点に、サンフランシスコ、ホノルル、東京、大阪を経て、那覇、香港、マニラ、シンガポール、シドニー、メルボルンに至るという一大ルートが、国際ショー・ビジネスの世界に結ばれつつあるので、このルートにドンピシャリ通用するタレントを育成しようというわけだが、日本の芸能界にはめずらしく規模雄大なところが、なにより取柄というべきだろう。
もっとも、この"國際ルート"で通用させるのには、タレントにいくつかの条件が要求される。第一に、英語がたんのうであること。第二に、アメリカのポピュラー曲が歌えるということ。そして、女性の場合とくに、美人でグラマーで東洋的なエキゾチシズムにあふれていなければならない。だが、そんななにもかもそろったタレントなど、せまい東京の空の下に、そうたくさんいるものじゃない。
そこで目をつけたのが、香港のナイト・クラブで歌っていた無名のジャズ歌手、沈夢小姐だ。
七月末、来日したばかりだが、二十歳のはち切れそうな肢体に、中国女性特有の妖しさをただよわせているせいか、たちまちジャーナリズムから騒がれ出した。日本でのスケジュールは十月中旬までマンパイとかで、"ジャズ界のユーミン"になりかねまじきいきおいである。
「東京で、人気スターになればしめたもの。彼女をシンに、日本の歌手やダンサー、足芸や奇術を加えて"ファーイースト・ショー"を編成して、ラスベガスだろうが、メルボルンだろうが、打って出るよ」
と佐藤邦夫ビクター芸能企画課長(付記参照)は、えらい鼻息で吹きまくっている。(略)
結局、沈夢小姐がその後本当にラスベガスへ行ったのかどうかはわからないままですが、映画界だけでなく、歌謡界も45年も前からアジアを股にかけた交流が行われていたのでありますた。
(付記)佐藤邦夫氏はその後フリーとなってからは韓国のエンターテインメントを日本で紹介することに尽力、「韓流の父」とされている人物です(詳しい略歴はこちらをお読み下さい。また、下記のような本もあります)。
ちなみに、「日本のタレントに輸出ブーム?~」は音楽評論家・安倍寧氏の署名記事です。
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