2005年8月31日水曜日
演博所蔵日港合作映画シナリオ 落穂ひろい 続
今日の昼下がり。
NHK総合の『お昼ですよ!ふれあいホール』の特集「そっくり!?戦後歌謡史」に新田純一が登場、マッチのそっくりさんとして『ギンギラギンにさりげなく』を歌っていました。
出る方も出る方だし、出す方も出す方だな。
さて、一昨日のネタの続き。
『聊齋志異より 崔猛傳(仮題)』(香港〔株〕ゴールデン・勝プロダクション)
裏表紙に「46.6.22 100部」とのペン書があります。
内部には「製作 香港株式会社ゴールデン・勝プロダクション ゴールデン・ハーヴェスト」「製作 勝新太郎 脚本 吉田哲朗 監督 安田公義 撮影 武田千吉郎」との記載がありました。
おおまかなストーリー:粗野だが正義感の強い男・崔猛は、劉家の若旦那・錫九に浚われた娘・秀々を救いますが、そのとき劉家の家宝である香炉を崔猛が壊したことに腹を立てた劉家の主人は、崔猛の家へ押しかけて来ます。
崔猛の母・楽娘は劉家の主人が見ている前で崔猛を罰し、その場はそれで収まるものの、崔猛に危険が及ぶことを察知した楽娘は、崔猛を旅に出します。
しかし、懲りない錫九は、今度は崔猛の親友・李申の妻・小倩を浚うのでした。
小倩を救おうとした李申は捕らえられて拷問にかけられ、錫九の慰み者になるのを潔しとしない小倩は石に顔を打ち付けて顔をつぶし、その姿を気味悪がった錫九は小倩を生きたまま壁の中に塗りこめて殺してしまいます。
旅から帰ってきた崔猛は錫九を殺害して逃亡しますが、李申が犯人と間違えられて捕まったことを知り、罪を告白して獄へ繋がれます。
そんなある日、獄中の崔猛のもとを、1人の美しい女性が訪ねてくるのでした・・・・。
1971年、『新座頭市 破れ!唐人剣(獨臂刀大戰盲侠)』の後に企画された嘉禾と勝プロの提携作品第2弾のシナリオと思われますが、残念ながら製作されずに終わった模様です。
『新座頭市 破れ!唐人剣』が香港で訴訟沙汰になったことも影響しているのかもしれません。
ちなみに、「香港〔株〕ゴールデン・勝プロダクション」とは、嘉禾と勝プロが香港で設立した合弁会社(勝禾公司)のことです。
両者の提携がいつ頃解消されたのかは定かでありませんが、『ドラゴン怒りの鉄拳(精武門)』の日本人キャストに勝プロがイッチョカミしていることから考えると、1972年頃にはまだ関係があったようです。
勝禾公司がなくなった後、嘉禾は1975年に今度は東宝東和との合弁会社(東禾公司)を設立しています。
内容及び主人公の人物造型から類推するに、主役である崔猛はおそらく王羽を予定していたのではないかと思います。
勝新さんは何の役の予定だったのか、あまりぴったりの役がなく、もしかしたら製作に専念するつもりだったのでしょうか。
いずれにしても、お蔵入りが惜しまれる作品です。
(もうちょっと続く)
お知らせ:昨日からコメントスパムがひどいので、コメントを頂戴するさい、画像として現われる文字を入力して頂く認証システムを導入いたしました。お手数をおかけいたしますが、何卒ご了承下さいませ。
アヤパン、乱入
ジェイ・チョウ、杉本彩から悩殺光線
中華圏NO・1人気の台湾ミュージシャン、ジェイ・チョウ(26)が30日、初主演映画「頭文字(イニシャル)D」(9月17日公開)のイベントを都内で開催し、激励にきた女優杉本彩(37)に悩殺された。胸元の大きく開いたセクシードレスを見たチョウは、杉本から離れ、視線をそらしたまま。日本語で「恥ずかしい」と漏らした・・・・
(31日付『日刊スポーツ』)
関連報道は、こちら。
今朝の『日刊スポーツ』紙面(芸能欄)で読んでびっくり。
急遽、更新を決定いたしました(おいおい)。
なにゆえに、杉本彩たん。
しかも激励ですと。
何を激励するのやら。
このまま化膿姉妹(仮名)のパチモンへの道を歩んでしまうのか、彩たん!
んー、ますます目が離せない!
・・・・って、ジェイの話じゃなくなってるじゃん。
付記:アヤパンの由来に関しては、こちらを参照。決して高島アナのことではありません。
2005年8月30日火曜日
ネグリジェ、いりませんか
(昨日のネタはちょっとお休みします)
『頭文字D』のイベント&プレミア、大盛況だったようですね。
実は日本でも、1966年に「原作:香港の漫画(らしいっす)、劇中の登場人物:ほぼ全員香港人、主要キャスト:ほぼ全員日本人、台詞:日本語」という裏『頭文字D』のような映画(『神火101 殺しの用心棒』)が製作されているので、いずれ取り上げてみたいと思っているのですが、今日は公開を記念して正しいお豆腐屋さんの内部写真なんぞを。
ウニウニウニーと擂り潰されて出てきます。
少しの振動でもぱっくり亀裂が入ってしまいます。
配達には熟練の技が必要ですね。
で、以下は、イベントにこじつけたネタ。
あの尤敏小姐も、映画の宣伝のためにデパートの屋上(!)アトラクションに参加していました。
会場は池袋東口・丸物百貨店屋上。
現在の池袋パルコです。
当日の模様を伝えるスポーツ新聞(1961年7月1日付『報知新聞』8面)によると、この日のイベントは映画の宣伝の他、小児まひ救済基金募集慈善サイン会という側面も持っていたそうで、サイン入りブロマイド及び色紙(1枚50円)の売り上げは、都内の病院に寄付されました。
尤敏はファンの差し出すブロマイドや色紙に一所懸命サインした後、取材陣に対して、
香港では年1回老人や貧しい人たちのためにサイン会を開いています。私がお役に立つならばいつでもこうした会には出席します。
と、語っています。
またしても最後はB級芸能ニュースになってしまいました。
おあとがよろしいようで。
おまけ:民主党、「年金一元化」とか叫んでいるが、どうせなら「議員年金廃止」と言ったらどうか。そうなれば政権奪回は確実だけど、無理だろうね、やっぱり。
2005年8月29日月曜日
演博所蔵日港合作映画シナリオ 落穂ひろい
上海の影視楽園で撮影したシーンがあると聞き、『広島・昭和20年8月6日』を観ておりましたが、あまりにも現在からの視点であの時代を描きすぎだなあと思い、いささか辟易。
灯火管制やら、軍事郵便の検閲やら、こまかい部分の考証がどうにも気になり・・・・。
劇中、なぜか『虹の彼方に』を口ずさむ件がありましたが、『オズの魔法使』(1939年)って、日本で公開されたのはたしか1950年代に入ってからのはず。
歌だけは入ってきていたってことなのかしらん?
で、問題の影視楽園部分ですけど、朝鮮人女学生と彼女をかばうヒロインの1人(3人姉妹の3女。下に1人弟がいます)を被服工場の教官(軍人)が「気に入らん!」と追い掛け回す件もここで撮影されており、「中国人の住んでいるところよ」と叫びつつ2人の娘っ子は里弄へ逃げ込むのでありました。
広島の街に里弄・・・・。
里弄を逃げ惑ういたいけな娘っ子たち。
それを執拗に追い回すサイドカーに乗った帝国軍人(ちょび髭はないけど)。
まるで抗日映画のようだわ。
さてさて。
便乗企画第3弾。
ちょっこし前に調べたまま塩漬けになっていたネタを、いまさら掘り起こしてみました。
以前、メインサイトのほうで、早稲田大学演劇博物館にある邵氏作品の日本語シナリオに関しての報告を執筆しましたが、今回はその他の日港合作映画のシナリオに関する報告ざます。
『鬼仇』(日活・香港榮華)
裏表紙に「44.11.10 30部」とのペン書があります。
内部には「監督 森永健次郎 撮影 松橋梅夫 助監督 飯塚二郎」との記載がありました。
おおまかなストーリー:仙霞領飛雲洞から宝剣・寒雲剣を盗み、霊雲剣客・張分域を殺害した劉昌を捕らえようとした張の弟子・馮は劉に敗れて傷を負いますが、ある老人に助けられます。
が、老人の住まいは、若い女性の幽霊が住む化け物屋敷でした。
幽霊の正体は、かつて劉昌に手ごめにされて亡くなった娘・顧柴蘭。
ここから、馮と柴蘭の不思議な関係が始まり、2人は力を合わせて劉に復讐するのでした。
タイトル及び監督名、さらにストーリーからみて、このシナリオは1971年の『一劍勾魂(The Ghost's Revenge)』のものと考えられます。
が、今日のデータでは、 『一劍勾魂』は日活と榮華の合作ではなく、榮堅(吳「榮」華と關志「堅」で「榮堅」。わかりやすいね)の製作で、監督も森永健次郎と楚原の共同監督になっています。
これはいかなることやらんと思うに、「44(昭和44年=1969年).11.10」とシナリオに書かれたこの作品が、じっさいに完成して公開されたのが、1971年5月27日のこと。
つまり、1年半以上も時間がかかったということになります。
その1年半の間に経営が左前になった日活はこの映画から「イチ抜けた!」と手を引き、榮華サイドは仕方がないので楚原を後釜に据えて撮影を続け、關志堅にもバックアップを仰いでどうにかこうにか公開にこぎつけた、というのが実態ではないかと、あっしは踏んでおります。
シナリオにキャストの記載はありませんが、上映データから類推するに陳思思が顧柴蘭、狄娜が顧家に仕えるちょっぴりエッチな侍女、で、田青が・・・・おそらく馮なのだと思うのですが、劉昌の可能性もあり、どっちなんだかよくわかりません。
ストーリー的にはコミック武侠映画なので、それじゃあやっぱり馮かな。
ということで、今日はこの辺で(なんとなく続く)。
2005年8月28日日曜日
尤敏、小津監督に会う
午後、お呼ばれして行った先で空きっ腹なのにビールをしこたま飲んでしまい、まだ気分が悪いです(当然の報いね)。
さて、「早期港、日電影交流展」開催記念便乗企画第2弾に入る前に、嬉しいお知らせです。
昨晩、連絡をもらったのですが、台湾の樂迷の方々が中心になって作成中だった樂蒂の研究書が、9月7日、ついに発売の運びと相成りました。
タイトルは、そのものずばりの『古典美人 樂蒂』。
研究書といっても、写真多めのビジュアル的にも楽しめる本に仕上がっているようなので、興味のある方は、ぜひお買い求めになって下さい。
実はあっしも、東映が彼女を売り出そうとしたときの資料(『東映の友』、新聞・雑誌記事など)をちょこっと提供したんですが、中文翻訳などはせずに(だってできないだもん。逆ならともかく)そのまま送ったので、どの程度役に立ったものやら・・・・。
では、本題です。
先月、尤敏が美智子妃殿下(当時)に会わせてとせがんだものの、結局叶わなかったというB級芸能ニュースをお届けしましたが、こんな方とはご対面していました。
全くきれいだネ! 尤敏の訪問喜ぶ小津監督
小津安二郎監督の「小早川家の秋」は、いま宝塚映画のスタジオでクランクたけなわだが、この映画のセットに来日中の香港スター、ユー・ミンが宝田明に案内されてひょっこり顔をあらわし、小津監督を喜ばした。(略)
奥座敷の一隅から店先までを、独特のロー・アングルにカメラを据え、自ら腹ばいになってルーペをのぞいて細かい演技指導をする小津監督の姿に少しおどろきの表情のユー・ミンは、やがてカメラのそばをはなれた小津監督とニコニコ堅い握手をかわした。
ユー・ミンは「日本映画界の巨匠である小津先生とおあいすることが出来て、こんなにうれしいことはありません」と美しい瞳を輝かせれば、小津監督も「ユー・ミンさんはうわさにたがわぬ美人だ。セットにパッと花が咲いたようだね」と明るいユーモアをとばし、思わぬ美人の訪れに目を細めていた。
(1961月7月10日付『スポーツニッポン(大阪版)』8面)
「日本映画界の巨匠である小津先生とおあいすることが出来て、こんなにうれしいことはありません」とは、なんだか当たり障りのない尤敏のコメントですが、その1年前、1960年4月に東京で開催された第7回アジア映画祭で主演女優賞を受賞したさいのインタビューでは、
「日本映画はあまりみたことありませんが、『無法松の一生』はみました。とてもいい映画でした。外国の俳優ではイングリット・バーグマンがいちばんすきです。男優?さア・・・・」
(1960年4月11日付『朝日新聞(夕刊)』4面。「こまかい演技 女優主演賞のユー・ミンさん」より)
と答えているところからみて、小津監督の映画を観たことがない可能性もあり、そんなこんなでこのようなコメントに落ち着いたのでしょう。
記事には小津監督の横に並んで立つ尤敏の姿をおさめた写真も掲載されていますが、尤敏がいささか緊張気味の表情なのに対して、小津監督はにこやかで柔和な表情をしています。
以上、本日のB級芸能ニュースでした。
ところで。
今年、アジア太平洋映画祭(亞太影展。旧・アジア映画祭)はめでたく50回目を迎えるそうですが、映画祭の創設メンバーの1人(というか、生き残り?)である邵逸夫(ランラン・ショウ)が、9月28日から10月1日までクアラルンプールで開催される第50回映画祭で「終身成就賞」を受賞するそうです(ただし、授賞式には欠席)。
永田雅一がまだ生きていたとしたら、やっぱり彼が受賞するのでしょうか、終身成就賞。
きれいどころが勢ぞろい。
付記:小津監督って、1961年の第8回アジア映画祭で監督賞(『秋日和』)を受賞しているはずなんですけど、あんまり話題には上らないみたいですね。
2005年8月27日土曜日
留餘齋
「早期港、日電影交流展」開催記念便乗企画第1弾。
尤敏&宝田明の「香港3部作」(というけれど、ほんとは4作目〔『再会』〕も予定されていたのよ)の3作目である『ホノルル・東京・香港(香港・東京・夏威夷)』で、尤敏はハワイ大学生・呉愛玲なる華僑女性を演じていましたが、劇中、両親(実は養父母。王引&王萊)が営む中華料理店として登場するのが、ワイキキの老舗中華料理店「留餘齋(LAU YEE CHAI. ラウ・イー・チャイ)」。
上に掲げた写真は、ちょうど映画の撮影当時の新聞広告です。
世界最大、豪華な支那料理
料理がうまいのでお客様は大喜び
日本からのお客様や米本土、他島からの方々を御招待して必ず皆様が御満足することうけあい。
支那式の装飾の豪華さ、すぐれたサービス。お値段は手頃
布哇名物 ワイキキ ラウ・イー・チャイ
電話(番号省略)
創立 一九二九年 社長 米谷克巳
あら、てっきり華僑の方の経営だと思っていたら、社長さん、日系人なのね。
映画では、加山雄三が勝手に応募した「ミス・ハワイ・コンテスト」で優勝しちゃった尤敏が、ミス・ハワイの王冠と笏、マントを愛車に積んで帰宅したときに外観が映りますが、彼女は店には入らず隣接するビル内(自宅はこちら)にそのまま直行するのでした。
なるほど、職住隣接ですね。
現在、留餘齋は別の場所に移転、そこにはホテルが建っています。
不肖せんきち、中国のハワイには行ったことがあるものの、本物のハワイにはまるで縁がないため、現地の地理は不案内なのですが、いずれ機会があったら訪ねてみたいなあと思っております。
2005年8月26日金曜日
ホイ台風襲来
本題に入る前に、『一条さゆり 濡れた欲情』、じゃなかった、『SAYURI(さゆり)』の予告編です。
「12月10日(土)、日米同時公開」だってさ。
しかし、アメリカさんがきれいだと思う色彩が、あっしには「なんだかくすんでて汚いなあ」としか思えないのは、単に好みが違うからだけなのでせうか?
こないだの京都行きのさい、以前からお世話になっている長唄の先生(直接の師匠ではないんですが)の京都のお弟子さんたちのお浚い会が先斗町歌舞練場の大広間であったので聴きに行ってきたんですけど、場所柄、お弟子さんたちは先斗町の芸舞妓さんたちがほとんどで、お姐さん方の演奏にじっと耳を傾けている仕込さんの姿がとても印象的でした。
あっしはそのとき、顔がきれいだとか年が若いだとか、そんなことよりももっと大切なのは、なんというか、たたずまいの美しさなのだとつくづく感じましたね。
話が横道に逸れついでに、昨日のネタに繋がる写真。『最長的一夜』撮影中のスナップ(1964年8月)。新婚旅行から帰ってきた尤敏が、スタジオを訪問したさいの1枚。向かって一番右が易文監督、1人おいて樂蒂、尤敏、宝田明。
ということで、今日はこの辺で。というのは冗談で、いよいよ昨日のレポートです(長文ご容赦)。
昨日は朝からお腹を壊してしまい、午後はちょこっと横になってたんですが、出かける前になって腹痛がひどくなり、仕方がないので超強力止寫薬を2カプセル服用。
その後、念のため映画館に電話したところ、試写会は「予定通り開催します」との由。
無理やり家を出ました。
ほんとは午後6時前に着くはずだったのですが、電車がとろくて6時10分過ぎに会場である「ユナイテッドシネマとしまえん」着。
係の人の誘導で列に加わりました。
「6時30分開場、7時開演」だというのに、先客はまだ20人ほど。
おいおい、ちゃんと満員になるのかい?
と思ううちになんとなく列も長くなり、定刻に入場。
でもね、結果的にお客さんの入りは半分ほど。
台風が来てるからといっても、これはちょっとホイ先生に申し訳なかったです。
そして7時。
客席後方のドアから、ホイ先生と広川太一郎・・・・は欠席だったため、代わりに広川太一郎の物真似で有名な(?)イジリー岡田(無理やりだなあ)が中華鍋を持って入場。
ちょうどあっしの座っている横を通ったので、どさくさまぎれに握手してもらいました。
ちょっと冷たかったけど、柔らかい手でした。
そしてトーク。
こないだの香港でのトークショーでは、日本人への皮肉(というか、悪口)をネタにしていたみたいなので、何をお話しになるのかしらんと思っていたところ、「日本人は情に厚い」という最大級の賛辞を頂戴いたしました。
それから、客席のファンが持参していたソーセージヌンチャクを拝借してのヌンチャクショー。
入場者の中から抽選で2名様に「ホイ先生直筆サイン入り中華鍋プレゼント」という、お楽しみイベントもありました(残念ながら、選に漏れました)。
そんなこんなで和気藹々の雰囲気の中トークは無事終了、最後にホイ先生から「100年後にまたここでお会いしましょう」とのメッセージを頂きました。
そして、若さと健康の秘訣は「笑うこと」だとの、ありがたいお言葉も。
なるべく笑って過ごすようにします(他人から笑われることの方が断然多いんだけど)。
そういや、もにかるさんのブログによれば、ホイ先生、この日の昼間の記者会見で太一郎さんに初めて会ったそうですが、『ローマの休日』の美容師さんは、自分が日本であんなことになってるのをご存知なのでしょうか?(それ以前にもう故人だろうな、たぶん)
で、トークの後、『Mr.BOO!ミスター・ブー(半斤八両)』の日本語吹替版が上映されました。
ホイ先生の声はもちろん太一郎さん、で、サムがビートたけし、リッキーがビートきよしという「あのツービートが吹替に挑戦!」な布陣。
サムがいきなり、
コマネチ!
と叫ぶのも、今となってはご愛敬。
さんざん笑って、9時過ぎにお開きとなりました。
思い出に残る一夜でした。
『Mr.BOO!』で浮気現場を押えられちゃう恐妻家をやってた朱牧さん。『星星 月亮 太陽』にも出ていました。
2005年8月25日木曜日
早期港、日電影交流展
というわけで、台風の中、ホイ先生見たさにユナイテッドシネマとしまえんまで行ってきました。
先ほどずぶ濡れになりながらも無事帰宅、今日の報告を書こうと思ったところ、香港の尤敏ファンサイトの管理人さんからメールが届いているのに気付き、さっそくチェック。
うわっ!すごいニュースです。
香港電影資料館將於2005年9月23日至10月9日舉辦《早期港、日電影交流展》,放映尤敏小姐及樂蒂小姐主演的名作《香港之夜》(香港の夜)、《香港之星》(香港の星)、《香港‧東京‧夏威夷》(ホノルル・東京・香港)、《最長的一夜》共四部。
資料館特地從日本邀請這四部電影的男主角寶田明先生蒞港參加座談會及與觀眾見面。
との由。
でもさ、宝田さん、香港でも「尤敏が俺に惚れてた」とか言うんだろうか。
それだけは勘弁してほしいもんです。
期間中、この他にも、『斷鴻零雁記』『海棠紅』『蝴蝶夫人』が上映される予定です。
『斷鴻零雁記』は國際(電懋の前身)の日本ロケ作品で広東語映画。松竹が協力しています。
後の2本は新華作品。『海棠紅』は東和との合作で、香港最初のカラー映画です。
しかし、この公式サイト、人名の誤記が多いな。
『最長的一夜』、観たいけど・・・。
DVD発売まで、気長に待ちます(泣)。
ホイ先生イベントの模様は、また明日にでも書きますね。
2005年8月24日水曜日
東京-台北 往復160米ドル
まだまだ注目の広島6区、しずかちゃんの応援に、あの
広能さんが
駆けつけた模様です。
こうなったら、ホリエモンは武田さんを呼ぶしかない?
さて、今日は台湾の古新聞から拾ったネタ。
1955年7月29日付『聯合報』の1面に台湾の航空会社である民航空運公司(たしか、陸運濤はここの飛行機に乗っていて事故死したはず)の広告が載っていましたが、それによれば、当時の羽田-台北の往復運賃は、
160米ドル
でした。
ご周知の通り、当時は1ドル=360円の時代ですから、そのレートで計算すると、
5万7600円
ざます。
以前、こちらで取り上げた香港旅行ネタでは、1961年の羽田-香港の往復運賃が10万2945円ですので、それよりはぐっとお安いのかも知れませんが、その頃(1955年)のサラリーマンの月給が1万円強だとすると、ほぼ6ヶ月分の給料に相当します。
今の感覚なら、お安く見積もっても100万円ほどにはなりますわね。
やっぱり、高いよ。
でも、広告のコピーは、
エコノミーのお値段で、ファーストクラスのサービス(超訳)
でしたわ。
やっぱり、「夢のまた夢」の海外旅行だったのね。
2005年8月23日火曜日
こがぁな本が売れとるようじゃ 続
というわけで、たまには「即断、即決、即実行」もいいのではないかと思い、今日、本屋さんで買ってきましたよ、あの本。
さっそく読みました。
・・・・・。
かなり急いで作ったみたいですね。
いろいろ指摘したいことはあるのですが、とりあえず、重要と思われることだけ。
○珠海の買春騒動を報じる現地紙(44ページ)の部分に切り貼りしてある記事、これって、全くかんけーのない両岸関係に関する記事ですわよ。
50~51ページにかけての西安留学生寸劇事件の新聞記事部分にも、44ページと同じものが切り貼りしてあったので、「いったいどこから引っぱってきたんだろう?」と思い、よーく見てみたところ、端っこに小さく、
亞洲週刊
という文字が。
あらら、アジア・ウィークから持ってきちゃったのね。
で、元の記事を探してみました。
奥さん、これでしたよ。
違った方面(台湾)からクレームがつきそうな気が。
なお、これらと同種のことは203ページ(「中国の軍事紙に掲載された記事」なる切り貼り)でも行われており、そこには『亞洲週刊』の別の記事が貼り付けてありました。
○「一九二六年の二月でしたわよねえ (蒋介石は・せんきち注)反共クーデターを起こして共産党員を次々逮捕したの」(119ページ)→おそらく「中山艦事件」のことでしょうけれど、これって3月じゃありませんでしたっけ?
○「いい 一九四三年に中共七全大会が開かれて」(139ページ)→1945年ですよね(汗)。
○「スプラトリー諸島でも経済水域をめぐりフィリピンと争い 南沙諸島では南シナ海諸国と争う・・・・」(196ページ)→あのー、スプラトリー諸島=南沙諸島では・・・・(滝汗)。
○「識字率は人口の二五%」(218ページ)→公式発表では95%に達しているはずなんですが。どちらのデータなんでしょう?(やっぱり汗)
○プーチンの似顔絵が「眉毛アリ」と「眉毛ナシ」の2バージョン存在するため(手分けして書いたのね)、それらが同一人物と気付くまでにけっこう時間がかかりました。
似てない似顔絵も多いし。いまだに誰なんだかわからん人も数人存在。
○金正日の似顔絵が この本の金正日にどことなく似ているみたいなんですけど、気のせい?
たしかに、あの国の政治体制にはかなり問題があるとあっしも感じていますが、でも、批判するならこういう基本的な事項はきちんとおさえておいた方がいいと思いますよ。
1575円、はっきり言って損したかも。
こうなったら『嫌韓流』も買ってみますわ。
2005年8月22日月曜日
こがぁな本が売れとるようじゃ
なにかと話題の『マンガ嫌韓流』の次は中国だ!とばかりに売れてるみたいです、この本。
うちの近所の本屋にも平積みになっていました。
でもねえ、「監修:黄○雄」という時点で「読まなくてもわかったような」状態に。
こちらに詳しい紹介がありますけれど、絵も見難そうだな、『アシュラ』系(ジョージ秋山)だし。
ま、そのうち読んでみます。
それにしても、しばらくはこんな状態が続くのか知らん。
ふう・・・・。
おまけ:今朝の日刊スポーツに松田聖子台湾公演の記事が載っていましたが、「松田聖子の台湾公演のもようを大きく報じる現地紙」という写真の中に、
松田聖子開唱 黃牛半價拋售入場券
なる見出しを掲げた新聞も混じっていました。
ヤバすぎ。
2005年8月21日日曜日
トラベル・バトン
「なんだか粤っぽい ~小心ものは地を滑る」の胤雄さんからバトンを強奪、もとい、頂戴しました。
というわけで、さっそく本題に入りましょう。
1、今までで一番良かった国内旅行先
えー、いろいろありますが、強いて1つだけ挙げるならば、別府の竹瓦温泉。
もう15年前に1度行っただけですけれど、立地条件も強烈(ソープ街。温泉の裏には「桃山御殿」なる、ゴージャスな名前のソープがありました)なら、入浴方法も強烈でした。
すっぽんぽんで入る砂湯(大事なところにだけタオルをかける)。
同行した友人は「熱くて耐えられない」と不満たらたらでしたが、あっしはあまりの心地よさに寝ちゃいました。
その友人も6年前に急逝して今は天国に。
もう1度一緒に旅がしたかったです。
2、今までで一番良かった海外旅行先
なにしろ、あっしの行ったことのある海外の旅行先といったら、
中国(大連、旅順、北京、上海、周荘、蘇州、西安、福州、漳州、泉州、莆田、厦門、武夷山、広州、深圳、海南島)、香港、澳門、台湾、シンガポール
と、とてつもない偏り方なので、あれこれ言えるほどのこともないのですけれど、そうですねえ、海南島が面白かったっす。
2002年、当時海口に住んでいた知人に誘われて、香港経由で1人ふらふらと行ってまいりました。
「中国のハワイ」といいながら、道路の真ん中で水牛が寝そべっていたり、ブリブリうん○たれてるようなのどかなド田舎でおました。
紅色娘子軍の故郷であることと関係あるのかないのかわかりませんが、総じておねーちゃん方がしっかりしていて、男どもは皆だらしなかった印象が。
七仙嶺温泉という山の中のひなびた温泉が最高でしたが、本格的な観光開発が行われるらしい記事が現地の新聞に載っていたので、今はどうなんでしょ。すっかり歓楽温泉になっちゃったのかなあ。
通什(五指山市)のお茶屋でしこたまお茶を買い、帰国後、お茶屋のおじさんが写っている写真を送ったところ、しばらくしてドドンとお礼の緑茶が届いた、なんてこともありました。
そういや、お茶工場にも乱入したっけ。
で、そんなのんびりゆったりな海南島ですが、日本が軍政を布いていた時期もあり、そのせいなのか、
こんな彫像が海口のホテル前に置かれたこともありましたね、去年。
でも、いいとこでしたよ。
山亀のスープもおいしかったです。
3、これから行きたい国内旅行先
何度も行っているけれどそれでも行きたいのは、大観光地・京都。
あとは、沢渡温泉(群馬)。
侯孝賢監督の『ミレニアム・マンボ(千禧曼波)』に出てくる北温泉(栃木)にも、行ってみたいですね。
4)これから行きたい海外旅行先
香港でしょうか、とりあえず。
以前ちょこっと書いたことがあるかもしれませんが、フォスター・プランで陝西省の農村のお子ちゃまと文通しているので(本人はまだ手紙が書けないため、いつも姉ちゃんの代筆)、いつかその子に会いに行きたいなあとも思っております。
5)最後にこのバトンを渡す方
んー、それではピンポイント攻撃。
といきたいところなのですが、興味のある方、ご自由にお持ち下さい。
2005年8月20日土曜日
超極私的ロケ地めぐり in 京都 三
話題の広島6区、しずかちゃんとドラえもんならぬ、
しずかちゃんとホリエモン
の
仁義なき戦い 広島死闘篇
になってしまいましたね。
のび太、どうするよ?
さて、『やくざ刑罰史 私刑(リンチ)!』(第2話)のロケ地めぐりも、今回で一応の区切りです。
前回までは梅宮神社でしたが、今回は今宮神社(トップの写真は随身門)。
あぶり餅で有名な、あそこです。
劇中では、「浅草寺別院」として登場します。
悪人・岩切が尾形(大木実)、雨宮(山本豊三)それぞれの名を騙って出した果たし状を読み、まんまと罠に嵌められた2人(尾形、雨宮)は、果たし合いの場所である浅草寺別院へ向かいます。
尾形はこの橋を渡り、
境内横にある東門から参道に出ます。
そして参道(東門から見たところ)では、雨宮が待ちかまえていました。
2人の対決をなんとしても止めたいさよ(橘ますみたん)は、雨宮の後を追って浅草寺別院へ駆けつけますが、時すでに遅し。
2人は切ったはったの事態に。
東門を出たばかりのところにある常夜燈付近で、2人の果たし合いを見守るさよなのでありました。
こちらは、駐車場側から見た参道。
両側に並ぶのが、あぶり餅屋さん。
向かって左がかざりや、右が一和です。
さよのためを思い、雨宮はわざと尾形に斬られて、さよの未来を尾形に託すのでした。
雨宮が息を引き取るのはかざりやの前ですが、夜間なのでもちろん閉店後のことです。
尾形と雨宮、2人まとめて片付けようとした岩切ですが、結局は尾形に斬られて絶命します。
この橋の上で、尾形と岩切の子分たちが大立ち回りを演じます。
写真撮影の後は、名物のあぶり餅で一服。
これは一和のものです。
1人前500円也。
2005年8月19日金曜日
尤敏小姐、お誕生日おめでとう@で、いいの?
また今日も飲んじまいました。
はあ・・・・。
さて、今日、8月19日は香港のファンサイト「尤敏紀念網頁」によると、尤敏小姐のお誕生日(1936年8月19日)です。
天国の尤敏小姐、お誕生日おめでとう!
・・・・と、言いたいところなのですが、我らが尤敏小姐の生年月日には諸説ありまして、香港電影資料館のデータでは1935年4月25日、また、『國泰故事』(2002年、香港電影資料館)では1935年5月7日となっております。
あっしも初めて「尤敏紀念網頁」を閲覧したとき、そのことに疑問を抱いたもんで管理人さんにお尋ねしたところ、尤敏小姐が母親の借金に絡んで訴訟沙汰に巻き込まれたとき、裁判所に届け出た生年月日が1936年8月19日だったので、これを採用したとのお答えを頂きました。
というわけで、拙サイトでも1936年8月19日という生年月日を採用しているのですが、1961~63年にかけての日本の報道を見てみると、尤敏小姐の生年月日がこりゃまた実に様々と出てくるのでございます。
まずは1961年4月30日付『報知新聞』8面。
東宝「香港の夜」(監督千葉泰樹)に出演のため滞日中の香港女優ユー・ミンをかこんで、彼女の誕生日のお祝パーティーを開こうという計画がある。
今月はじめ同作品で香港ロケしたとき、東宝司葉子、宝田明、藤木悠、上原謙らが個人的にユー・ミンの自宅へ招かれごちそうになったので、その返礼というわけ。ユー・ミンの本当の誕生日は五月十九日だが、日本には十二日までしかいないので、くり上げてお祝いしようというもの。(以下略)
なるほど、5月生まれのおうし座ですか。
これが翌1962年になると、下記のように変わります。
ゆう・みん 本名・畢玉儀。1937年(旧暦)5月4日生まれ。(以下略)
(「宮田輝おしゃべりジャーナル ボーイフレンド」より。『週刊平凡』1962年5月31日号所収)
おお!今度は旧暦で来ましたね。
芸能人の常として2歳はサバ読んでいると踏んで、新暦(太陽暦)におきかえると、
1935年6月4日生まれ。
になり、1936年だと6月22日生まれ、37年だと6月12日生まれとなります。
双子座か・・・・。
ところが、1963年にはまたまた別の誕生日になります。
尤敏さんが、香港でも有数のゼントルマン、高福球さんと婚約したことは、すでに知られています。(略)
尤敏さんが、この高さんの愛情の深さを、身にしみて感じたのは、日本で迎えた彼女の誕生日のこと。彼女の誕生日をちゃんと覚えていた高さんが香港から直接、生きいきしたバラの花(ローズ)を贈ってきたのです。ローズは彼女がいちばん愛している花でした。(以下略)
(「尤敏さんが9月に結婚!? バラの花は愛のシンボル」より。『明星』1963年9月号より)
1963年、彼女は4月半ばに来日して5月30日には帰国していますので、高氏からバラが届いたのはその間、4月下旬から5月中ということになります。
ということは、おうし座か双子座。
以上、諸説をまとめてみると、尤敏小姐は「おうし座説」が最も多く、次いで「双子座説」、そして最後に「しし座説」ということになるのであります。
これはあくまであっしの直感ですが、尤敏小姐の性格及び言動から見て、どうもおうし座というのが一番しっくりくるように思えてなりません。
ということは、もしかしたらかつて日本にもあったような、実際の誕生日と公的機関に出生届を出した日が違うことからきた混乱なのではないか、ともあっしは思うのですけれど、ま、そんなことよりも、ビデオやDVD、あるいはVCDで彼女の在りし日の姿を偲ぶのが、ファンとして一番ふさわしい態度なのかも知れませんね。
尤敏小姐、いつもありがとう。
付記:ついでに書き添えておくと、キネマ旬報社の『日本映画人名辞典 女優編 下巻』の「尤敏」の項では、「1936年8月生」になってます。ファンサイトと同じだけど、この本の刊年は1995年(サイトの開設は1999年)。何を参考にしたの?
2005年8月18日木曜日
「めるききめ」はありません
友人からお声がかかり、新大久保でカラオケしてきました。
2人で3時間。
まだ歌い足りない・・・・。
なんだかものすごーく久しぶりに、2人で『傻瓜』(蘇慧倫)なんぞを歌っちゃいましたが、そういや、『藍月』が東京国際映画祭に出品されてターシーが来日したのが、ちょうどこのアルバムと同じ時期(1997年)で、
傻瓜力量大
と書かれたプラカードを掲げた台湾のおっかけさんが文化村に来ていたよなあ、なんてことを思い出しました。
「天天素」ネット販売で初の逮捕 東京の業者
国内未承認の成分が入ったダイエット用健康食品「天天素(てんてんそ)」をインターネットで広告し、販売していたとして、愛知県警は18日、東京都新宿区新宿5丁目の健康食品販売業、山崎義章容疑者(52)を薬事法違反(無許可販売など)の疑いで逮捕した。中国製とみられる天天素が原因の疑いがある健康被害が全国各地で報告されているが、販売業者が逮捕されたのは初めてという・・・・
以前、こちらのブログでも取り上げた殺人(!)痩せ薬「天天素」、ついに販売業者が逮捕されました。
1箱4000円で販売していたそうですが、おそらく元値はその半分以下ではないかと思います。
しかし、天天素を摘発しても、他の類似の痩せ薬がその隙間を埋めるようにネットで販売される、というのが実情でしょうから、江西省、もとい、厚生省は、今後こういった問題にもっと本気で取り組むべきなのかも知れません。
と、お固い話になってきたところで、まずはこれぎり。
2005年8月17日水曜日
超極私的ロケ地めぐり in 京都 二
やっぱり暑いですね。
「自民党が亀井静香への刺客として東ちづるを検討している」とかいう報道が出ましたが、ここはひとつ、和泉節子を起用して夢のマナカナ対決を実現させてほしいものです。
すごい絵面になりそうですね。
冗談はさておき。
「なんだか粤っぽい ~小心者は地を滑る」の胤雄さんからトラベルバトンをお預かりしているのですが、まずは1回書いただけでほかしておいた橘ますみたんロケ地めぐりルポにケリをつけておこうかと。
一応、『やくざ刑罰史 私刑(リンチ)!』(第2話)だけで3回分あるもんで。
思いがけず、石井輝男監督追悼企画のようになってしまいましたけれど。
えー、今回も前回と同じく梅宮神社。
随身門をくぐって右手にある隠れた花の名所・神苑です。
あ、今頃気付いたけど、ここって、まるで梅宮辰ちゃん神社のようだわ。
読み方違うけどさ。
昔の恋人・尾形(大木実)と今の亭主・雨宮(山本豊三)との因縁対決(尾形は雨宮の親分を斬った男。だから、雨宮にとっては仇)をなんとか止めさせたいさよ(ますみたん)は、ひそかに尾形と会い、浅草から立ち去るよう彼に頼みます。
さよを待つ尾形は、この常夜燈の前に佇んでいました(上の写真)。
と、そこへ現われるさよ。
この門からまずみたん登場(上の写真)。
菖蒲&杜若のきれいなお庭をそぞろ歩きながら2人は語り合いますが、しかし、さよの懇願にも関わらず、尾形と雨宮は果し合いに至ってしまうのでした(これも岩切の差し金だったんですけど)。
花盛りの季節をとうに過ぎていたため、群生する草ばかりで失敬。
ちなみにこの神苑、入園料が500円かかります。
今はちょっと?ですが、梅や椿、菖蒲&杜若、あじさい等の季節にはおすすめいたします。
2005年8月16日火曜日
インド語班の木下さん
地震、びっくらこきました。
でも、午後は、フィルムセンターへ。
『特別任務班 日露戦争秘史 興亜の人種』
1941年、旭日映画。山下元廣監督。浅岡信夫、福田満州主演。
「日露戦争時の歴史的人物である横川省三と沖禎介を主人公にした戦意高揚映画。北京において結成された「特別任務班」の一員として、ロシア軍に対する諜報活動を行っていた横川省三と沖禎介らは、1904年に鉄道爆破を図ったがロシア軍に捕らえられて銃殺される」(解説より)。
チベット仏教の僧に化けた横川さんと沖さんが正体を見破られてロシア軍に捕らえられたそのきっかけが、僧が持っているはずのない物を持っていたためだった、というあたり、言っちゃあなんだがとてつもなくま○け(ちょっと自粛表現にしてみました)な気が・・・・。
だもんで、捕らえられた後の2人の態度の立派さ(つまりは日本精神の立派さってことね)にロシア人が感心したというエピソードをこれでもかこれでもかと見せられても、「はじめにま○けありき」だったもんだから、説得力ほとんど感じず。
白系ロシア人を大挙動員したハルピンロケ映像は、興味深く観ました。
『姿なき敵』
1945年、大映東京。千葉泰樹監督。宇佐美淳、佐伯秀男、山本冬郷主演。
「太平洋戦争下、アジア各地で対敵プロパガンダ放送に従事した「放送決死隊」の活躍を描いたもので、メディア戦争の系譜を知る上で貴重な作品。日本放送協会(NHK)の協力のもとに製作された。主人公がラジオ放送によって反日運動に参加している中国人を説得するシーンの一部が欠落しているが、話の流れをつかむことは可能である」(解説より)。
千葉監督、こんな映画も作っていたのね。
ビルマでイギリス軍のプロパガンダ放送に従事している中国人の声が、かつて自分の父親が可愛がっていた留学生・陳青雲(劉青雲じゃなくて)の声に違いないと確信した北京語班の女性アナウンサーが、放送決死隊に参加してビルマに向かう英語班の男性アナウンサーに、「彼の日本人に対する誤解を解いてほしい」(誤解じゃないってば)と頼みます。
で、ビルマへ行った男性アナウンサーは放送を通じて陳君の説得を試み、その結果、陳君ったら対日協力派になるのでありました。
それ以前のプロパガンダ映画に登場する反日中国人が女性だったのに対し、ここでは男性がその役割を担っています(ま、愛だの恋だのというネタでもないですしね)。
ただそうなると、よく語られる図式「日本人男性=正義の象徴によって愚かな誤解から救い出され、真実に目覚める中国人女性=劣ったもの」はどうなるんでしょ。
さらに遡って考えると、今回の特集で上映された『民族の叫び』(1928年)できわめて親日的な中国人が登場していたのは、15年戦争突入前だったせいなのでしょうか。
っつーことは、
開戦前:親日中国人(男女問わず。国際ロマンスあり)→開戦後前期:反日中国人(女性。日本人男性により親日に転換)→開戦後後期:反日中国人(男性。日本人男性により親日に転換)
てな登場人物の系譜になるのかしらん。
ところで、始めのうち観ていてすっごく謎の人物だったのが、ターバン巻いて黒塗りをしたインド語班の木下さん。
いったい何人なのかが全くつかめなかったのですが、その後、唐突に正体が判明。
インド国民軍の参謀・ナントカカントカ(なんかむずかしい名前で、よく聞き取れませんでした)。
木下って、誰がつけた日本名なんだろ。
この木下さん、シンガポール陥落後は自由インド仮政府の幹部となり、ビルマで英語班のアナウンサーと再会いたします。
ただし、この時代になると現地ロケなんてできる状況ではなかったため、富士山麓あたりをビルマに見立てているようです。
寒そう、ビルマ。
それから、シンガポール陥落時に挿入される記録映像の中で、ちらりと映るのがキャセイ・ビルディング。
日本軍に接収されたから映るのも当然なんだけど、何たる運命の不思議。
この映画から16年後の1961年、千葉監督はそのビルの元の主であるキャセイ・オーガニゼーションと東宝の合作映画『香港の夜』を撮るのでありましたよ。
ついでに言うと、キャセイのオーナー・陸運濤は、戦時中に乗っていた船が日本軍に攻撃されて大怪我を負ったものの九死に一生を得たという逸話の持ち主。
そんな陸運濤は、戦後の1960年、「日本映画の紹介に尽力した」功績を称えられ、勲四等瑞宝章を受けています。
これも、運命の不思議?
(於:フィルムセンター)
日本大胃王@噛むな、飲み込め!
小林尊さん、香港の早食い競争で優勝=12分間で肉まん100個
日本の早食いチャンピオン小林尊さんが14日、香港で開かれた早食い競争「ストマック・オブ・ザ・ワールド」に出場、12分間で肉まん100個を平らげ見事優勝を果たした。
小林さんは、2004年には、12分間でホットドック53個半、8分間でハンバーガー69個という、2つの世界記録を樹立している。(14日付 ロイター)
現地報道は、こちらとこちらとこちら。
肉まん、というか、叉焼包(この人が作ったものではありません)なんですけど。
小林さんは13日に行われた準決勝の餃子早食い競争から参加、予選の麺食い競争を勝ち抜いた香港の大食い自慢30人を相手に、8分間で83個の餃子を平らげて1位に輝きました(会場は、おなじみ蔡瀾美食坊)。
そして翌14日の決勝戦ではさらに厳選された5人と対戦、結果は上記の通り、叉焼包100個を食べて優勝いたしました。
テレビ東京では「びっくり人間大集合」的なノリを帯びていた大食いが、ある種の競技、というか、格闘技として鑑賞に堪えうる作品になった(なっちゃった)のは、小林さん(とTBS)の一連の啓蒙活動(?)の成果なのでしょうが、あっしは誰がなんと言おうと赤坂尊子さんの大ファンなので、別にキワモノでも何でもよかったんだけどな。
"フードファイター"たるアスリート・小林さんとしては、もしかしたら"日本大胃王"という称号自体、あんまりお気に召さないものかも。
よい子のみんなは決してマネしないでね!
2005年8月15日月曜日
たこ、受難
まだまだ暑いですね。
今日は静かに過ごしました。
13日に観た映画の感想を、ちょこっとだけ。
『海魔陸を行く』
1950年、ラジオ映画。伊賀山正徳監督。タコ、うつぼ、かえる、蝶々、蛇、蜘蛛、カマキリ夫人主演。
「漁師に生け捕られた蛸が酢ダコにされる直前に蛸壺から脱出し、さまざまな天敵に遭遇しながらも故郷の海を目指すという荒唐無稽な実写映画」(解説より)。徳川夢声が、ナレーションを担当しています。
「逆『およげ!たいやきくん』」みたいな映画ですが、いったい何杯の蛸を犠牲にしたのか心配になるぐらい、様々な責め苦(焼けた地面を歩いて移動、斜面から落下、蛇に襲われる、機関車に轢かれそうになる、等々)を蛸に課しております。
他にも、蜘蛛の犠牲になる蝶、カマキリ夫人に食われるダメ男カマキリ、蛇に丸呑みされるかえるの映像が延々と映し出されて、楽しいけれどかなり悪趣味な仕上がりでおました。
先ほどちょっこし調べてみたら、こちらの原作を書いた今村貞雄にはこんな作品もあるので、ようするに、こういうネタが好きな人なのでしょうね、はい。
『西遊記 鐡扇公主の巻 (鐵扇公主)』
1941年、中国(中聯)。萬籟鳴、萬古蟾監督。
「中国におけるアニメーション映画の創始者・萬兄弟が1941年に製作したアジア初の長篇アニメーション」の、日本語吹替版。徳川夢声が演出を担当。
べらんめえ調でしゃべる江戸っ子孫悟空と、これまた江戸弁を使うド助平猪八戒とのやりとりは、まるで落語。
こういう言葉遣いも今ではほとんど絶滅状態なので、懐かしい言語資料として観てしまいました。
そういえば、CCTVでやってるアニメ観てると、いまだにこれと似たキャラクター造型の絵が出てくるんですが、時代は変わってもデフォルメの仕方はあまり変わらないということなのでしょうか。
(於:フィルムセンター)
2005年8月14日日曜日
2度目の『萬世流芳』
今日は、フィルムセンターでの2度目の『萬世流芳』上映日。
先日、既に鑑賞済みでしたが、李香蘭の歌う『賣糖歌』と『戒煙歌』があまりにも素晴らしかったため、やっぱりもう1度観ておこうと思い、足を運びました。
前回、平日昼間の上映ながら満員札止めになっていたので、今回は「お盆&日曜」ということを考慮、開場時間(午後3時30分)の2時間前、午後1時30分にフィルムセンターに到着。
が、早くも50人ほどの先客が。
瞬く間にずんずん人が増え、午後3時過ぎにはもう定員に達しておりました。
しかし、この間の大騒ぎ(開場前に定員に達したため、以降は入場お断り)があまり知られていなかったのか、その後も続々とお客さんが。
あっしもちょこっと書いたんだけどなあ・・・・。
前回同様、ほとんどの皆さんが李香蘭目当てだったせいか、後ろに座ったおばはん連中なんか、(李香蘭の出番が終了した)映画の終盤になったら平気でおしゃべりを始めて、ちと閉口いたしました。
以上、まずはご報告まで。
ちなみに、昨日(13日)は『鉄扇公主』の日本語吹替版等を観ましたので、そちらの感想はまた明日にでも。
以下は、別の話題。
東京にいるので行けそうにありませんが、12日から台北之家(光點電影院)で、下記のような特集上映が行われています。
聲影紀事 台灣及華語電影的音楽情旅
「うわー!これ観てーよー!!!」と思うような映画が目白押しなのですが、とりあえず、ラインナップだけでもご紹介(原題と英文タイトルのみで失敬)。
桃色Colour Blossoms
遊園驚夢 Peony Pavilion
鳳冠情事 Breaking the Willow
江山美人 The Kingdom And The Beauty
梁山伯與祝英台 The Love Eterne
金玉良緣紅樓夢The Dream of the Red Chamber
大紅燈籠高高掛 Raise the Red Lantern
霸王別姬 Farewell My Concubine
夜奔 Fleeing by Night
鍾無艷 Wu Yen
馬路天使 Angels In The Street
王哥柳哥遊台灣
西施 Hsih-Shih, Beauty of Beauties
藍與黑 The Blue and the Black
小城故事 The Story of a Small Town
滾滾紅塵 Red Dust
五個女子和一根繩子 Five Girls and a Rope
沙河悲歌 Lament of the Sand River
桃花江 Songs of the Peach Blossom River
採西瓜的姑娘 Sweet as a Melon
歌迷小姐 Miss Songbird
香江花月夜 Hong Kong Nocturne
喜怒哀樂 Joy Anger Sadness Happiness
絕地反擊 Striking Back
藍月 Blue Moon
魔法阿媽 Grandma And Her Ghosts
情人的眼淚 Melody of Love
原鄉人 China My Native Land
阿爸的情人 The Daughter-in-Law
周璇から松坂慶子まで(?)、かなり強力なラインナップです。
個人的には新華の歌謡映画(『桃花江』『採西瓜的姑娘』)と張美瑤主演の『情人的眼淚』が特に観たいのですが、『情人的眼淚』はストーリーを読む限りでは『不了情』や『藍與黒』、あるいは『何日君再来』系の映画みたいですね。
歌手がヒロインだと、やっぱりこういうパターンになっちゃうのかな。
こちらに、撮影中の映像があります。
写真は、『落花時節』の張美瑤。
2005年8月13日土曜日
2005年8月12日金曜日
石井監督、さようなら
「網走番外地」映画監督・石井輝男さん死去
「網走番外地」や「徳川女系図」など数多くの娯楽作品を手掛けた映画監督の石井輝男(いしい・てるお、本名・北川輝男=きたがわ・てるお)さんが、12日午前9時43分、肺がんのため死去した。81歳だった。
告別式は近親者のみで行い、後日、「お別れの会」が開かれる予定。自宅は公表していない。
東京都出身。東宝に入社後、1947年の新東宝設立に参加し、57年の「リングの王者 栄光の世界」で監督デビューした。
「黒線地帯」などの「地帯」シリーズや、「女王蜂」シリーズなどで人気を集め、61年に東映と契約してからは、「花と嵐とギャング」をはじめとする「ギャング」ものなど、スピーディーなアクション映画を次々と発表。
65年には、高倉健さん主演の「網走番外地」を大ヒットさせ、東映アクションの看板シリーズとした。このほか、「徳川いれずみ師 責め地獄」など、型破りな娯楽作で日本映画を活気づけた。
80年以降は主にテレビドラマを演出していたが、93年に、つげ義春さん原作の映画「ゲンセンカン主人」で健在なところを示し、その後も「無頼平野」「ねじ式」「地獄」など、“鬼才”と呼ばれるにふさわしい作品を発表した。(12日付 読売新聞)
先ほど、某ミクシィで知りました。
大ショックです・・・・。
共同通信配信の訃報には、
61年に東映に移り、任侠(にんきょう)映画で頭角を現した。
なんて書いてありますが、それを言うならギャング映画で、監督ご自身は任侠映画が苦手だったようです(作ってることは作ってるけど)。
先ほどまで何も知らずに、次回のロケ地探訪予定作品『異常性愛記録 ハレンチ』のビデオを観直していたところだったので、よけい衝撃が大きく・・・・。
お休み前に、大好きな『セクシー地帯』でも観てから寝ることにします。
謹んでご冥福をお祈りします。
付記:「そういえば、20日(土)の成瀬巳喜男監督のシンポジウムにゲストで出るはずだったんだよな、石井監督」と思い、サイトをチェック。フィルムセンター、こういうお仕事は早いっす。
師匠の生誕100年の年に亡くなったというのも、何かの縁かもしれません。
あっ!誰か、ウー先生(呉宇森)からコメントとって下さい。
これでいいのか、さゆりちゃん
さゆりちゃんのおニューなフォト。
旧ブログでも取り上げましたが、とってもマーヴェラスな髪型(『ムーミン』のミー風)と着付(衿抜きまくり)ですね。
東洋の神秘の国の、美しきMIYAKOのお・は・な・し・・・・。
2005年8月11日木曜日
2005年8月10日水曜日
超極私的ロケ地めぐり in 京都 一
少しごぶさたの橘ますみたんネタ。
京都へ行ったついでに、ますみたん出演作品に出てくるロケ地を2ヶ所、探訪いたしました。
まずは、梅宮神社。
お酒と安産・子授けの神様でおま。
上(とトップ)の写真にある随身門は、ますみたんにとって最後の石井輝男監督作品となった『やくざ刑罰史 私刑(リンチ)!』(第2話)で2度登場。
1度目は、組の代貸・岩切に騙されて敵対する組の親分を斬って関東所払いにされた尾形(大木実)が、恋人のさよ(ますみたん)にそのことを知らせようと、ここでさよを待つ場面。
しかしさよは現われず、代わりにやってきた警察(これも代貸の差し金)に尾形は逮捕されてしまいます。
2度目は、岩切に絡まれているさよを助けた雨宮(←尾形が斬った組長の子分。山本豊三)が、ここで岩切の子分たちと一戦交える場面。
ちなみに、第2話は大正~昭和初期頃の浅草が舞台なのですが、ここはそのまま「梅宮神社」として登場していました。
京都のお寺が浅草にワープ(死語)。
門前は駐車場として整備されていました。
映画では、尾形を罠に嵌めた岩切の子分たちが、物陰に隠れながら尾形が逮捕されるのを見物する場面がありましたが、これでは隠れようがありませんね。
本殿の鈴にはこんな名前が!
近藤サトに近藤勇。
あんたら、親戚だったんか?
2005年8月9日火曜日
あの世と交信してきました in 京都
というわけで、昨晩遅く、京都から帰ってまいりました。
本業の方の用事で行ったのですが、用が済んだらさっさと観光、とばかりに、京都のお盆行事の一つである「六道まいり」に潜入してきました。
黄昏時、四条通から花見小路をずんずん南下、建仁寺の伽藍を通過後、さらに南下して松原通に出たら右折、まずは西福寺へ(トップと上の写真)。
押しあいへしあいしながら、皆さんお参りしていらっしゃいます。
ここはなんと言っても、地獄絵の展覧が名物。
高校時代、『地獄草紙』『餓鬼草紙』『病草紙』が愛読書だったあっしにとっては、たまらなくそそる展示でしたが、同行したギャルは本気で怖がっておりました。
西福寺を出た後、東大路通方面へ坂を上ると、本日のメイン・六道珍皇寺です。
閻魔大王に仕えていたという伝説を持つ小野篁(上の写真・中央の人物)は、この寺にある井戸から冥府へ通っていたのだそうです。
が、残念ながら、8月中は井戸の見学は不可。
ご覧になりたい方は、それ以外の時期に訪問しましょう。
こちらは、小野篁作と言われている(ほんとかよ)閻魔大王像。
そういや、脱衣婆がいねえな。
東京では「迎え火」を焚いてご先祖様をお迎えしますが、こちら京都では「迎え鐘」を撞きます(上の写真)。
でも、ゴーンと撞くのではなく、ヒモを引っ張るのね。
お参りのお作法は、こちらにもある通り、
参道の売店(いろいろな花屋さんが出店しています)で「高野槙」を買う→本堂で亡くなった方の俗名と戒名を水塔婆に書いてもらう→線香の煙で水塔婆を清める→石地蔵の前で今度は高野槙を用いて水塔婆を洗い清め、お寺にお納めする→その高野槙にはご先祖様の霊が宿っているので、それを持ち帰ってお供えする
という順序らしいっす(あれ、鐘はいつ撞くのさ?)。
しかし、あっしの場合、
高野槙を持ち帰る途中、道で転ぶ→ご先祖様の霊が振り落とされる→が、そのまま気付かずに帰宅→ご先祖様は道端へ置き去りに
となりそうな気がいたします。
京都人じゃなくてよかった。
潜入後、東大路通をぶらぶら歩いて北上、八坂神社そばの小料理屋さんで精進落とし(?)をいたしました。
生ビール、おいしかったっす。
お参りのお土産はこちら。
夜な夜な幽霊が赤ん坊に舐めさせるために買いに来ていたという飴。
一粒がどでかくて、しかもゴツゴツしているため、まだ舐めていません。