2009年5月9日土曜日

「シンガポールの夜は更けて』 のマレー人女優

〔ちょっとお耳に〕〔えいが〕

ラストはスルタン・アブ・バカール・モスク。

どうも。
トド@耳鼻科に行きますたです。

今朝早く第一報が流れた「国内(日本ね)初の新型インフルエンザ感染者発生」のニュース
午前8時30分からの厚生労働大臣による記者会見は、NHKだけでなく民放も生中継していましたが、そんな中、悠然とアニメを流していたのが我らがテレ東。


おかげさまで、心温まるひとときを過ごすことができました。

さて。

4年前にこちらで取り上げた1967年の松竹映画『シンガポールの夜は更けて』。
腹違いの妹・李白蘭を探してジョホール・バルへやって来た橋幸夫ご一行(この頃はまだ自毛…〔以下自粛〕)、白蘭が住んでいるという集落でマレー人に取り囲まれますが、そのとき登場するマレー人女優の名前を調べよう調べようと思いながらすっかり忘れてしまい、先日、ようやく調査しましたので本日ご報告いたします(カッコ内のカタカナ表記は、『シンガポールの夜は更けて』におけるクレジット)。


まずは、日本軍に両親を殺された恨みつらみを橋幸夫にぶつける女優さん。
彼女の名は、Siput Sarawak(シプー・サラワク)。
娘である歌手Anita Sarawakは日本でも有名ですが、彼女も歌う女優でした。
1920年生まれなので、この作品の撮影時には40代後半だった、ということになります(1999年没)。
残念ながら本作では橋幸夫をさんざん罵った挙句に突き倒す、というだけの役でした。
できれば、2人でデュエットしてほしかったところです。

歌うSiput Sarawak。


ついでに娘さんも。

Siput Sarawakに突き飛ばされて橋幸夫が気落ちしていると、若い女性がやってきて「私は白蘭の友人です。白蘭の居場所を知っています」と告げますが、


この女優さんの名前は、Roseyatimah(ローズ・ヤデマ)。
1959年、P.ラムリー(P. Ramlee)に抜擢されて"Pendekar Bujang Lapok"で映画デビュー、1968年の"Anak Bapak"を最後に引退、1987年に乳がんで亡くなったときには、まだ44歳という若さだったそうです。
ということは、この映画の撮影時には24歳位だったことになります。

"Cucu Datok Merah"(1963年、Cathay Keris Film)より。

しかし、橋幸夫が彼女に連れられてたどり着いた先は、白蘭の墓地でした。
白蘭は、孤独の中、自ら死を選んだのでありました(続きが気になる人は映画を観てね)。

Roseyatimahのご主人であるDato' Mustapha Maarof。



この映画には上記の女優さんたちの他、子役のお兄ちゃん(画像向かって右)も達者な演技を見せていますが、彼の詳しいプロフィールは残念ながら不明です(クレジットはラーマン・ラエム)。

ところで、今回調査のために久しぶりにこの映画を観ましたが、由美かおる演じる王明芳の両親が父・シンガポールの富裕な華人、母・日本人という設定になっているのは、どうやら1961年に胡文虎の子息・一虎に日本人女性が嫁いだ事実にヒントを得ているのかなあと思いました。
明芳の日本名が明子(あきこ)というのも、一虎夫人の名前(暁子〔あきこ〕)と音が同じですし。
ただし、明芳の年齢(20代前半?)から推測するに、両親が結婚したのは戦時中か戦後まもなくということになり、そう考えると相当無理のある設定といわざるを得ないのですが。
ま、そこまで深い考えはなかったのかも知れません。

2009年5月6日水曜日

女子大学生 私は勝負する

〔えいが〕


1959年、東京映画・東宝。板谷紀之監督。原知佐子、三橋達也、露口茂、横山道代、他。

どうも。
トド@「欽ちゃんの仮装大賞」が「欽ちゃんのカツオ大将」に聞こえるです。

不肖せんきち、この黄金周は伯母の一周忌で外出した他にはどこにも行かず引きこもり生活を送っていますたが、昨日飛び込んできたのがこのおめでたいニュース。

汪明荃羅家英 終成眷屬

超熟年夫婦の誕生ですが、どうぞ末永くお幸せに。

さて、ここで告知です。

この告知をするために「不完全作品リスト」なんぞを無理して作成してしまったわけなのですが(こちらこちら)、ただいまラピュタ阿佐ヶ谷で開催中のレイトショー企画「60年代まぼろしの官能女優たち」にて、5月9日(土)から15日(金)まで湯浅浪男監督の『悲器』が上映されます。
わたくしもぜひ足を運びたいと思っております。

で、本題。

以前、衛星劇場で放映されるという告知だけしてそれっきりになっていた映画のメモ。
告知のさいにご紹介した通り、1961年4月と5月に香港で上映されてセンセーションを巻き起こした作品です(中文タイトル『飛女慾潮』)。
たしかに、この映画で描かれている大学生の奔放な生活ぶりは、香港の皆様を震撼させるに十分だったとは思いますけれど、映画自体は別に取り立ててどうこういうほどのものではないかと。
ま、とっぽい(死語)大学生やってる川合伸旺やら、つまらない遊び人やってる露口茂やら、おネエ言葉を操る米倉斉加年やら、「人に歴史あり」な映画として観る分にはそこそこ楽しめますです(蜷川幸雄も出てるらしいが、ようわからん、と思ったら…↓)。

幸雄、発見!


くわしいストーリーはこちらをご参照頂くとして、当時の現役女子大生・門脇順子の小説(というよりも、手記に近いと思います)『女子大学生』を原作にした映画で、原作小説は発表当時「女太陽族」等と言ってもてはやされたそうです……が、彼女の小説はこれ以外残っていない模様です(俗にいう「一発…〔以下自粛〕)。

建築デザイナーを目指す女子大生・順子(原知佐子)が二宮(川合伸旺)とレイプ同然の初体験を済ませた後、代議士の息子・大木真(露口茂)と恋愛関係になって同棲を始めるものの、父親の金で遊びまわる真とはすぐにうまくいかなくなり、挙句彼の子どもを堕ろす羽目に。
真と同棲していたアパートを出た順子はアルバイト先の上司・平河(三橋達也)の部屋に一晩泊めてもらい、やがて彼に惹かれるようになる……って、たしかにレイプ野郎や代議士のおバカボンボン(こいつもヤリたがり)より、知的な上に経済力もあって、適度にマッチョなくせに性的にガツガツしていない大人の男が魅力的に見えるのはわかりますが、平河の方までこの小生意気な女子大生のことが気に入って「ヨーロッパについてこないか?」とか言っちゃうのが解せませんねえ。

また、最後はストーカー同然になっていたとはいうものの、一度は愛した男があんな形で死を迎えたこと(モーターボートで事故死)に対して何の感情も抱かない、というのも不思議と言えば不思議です。
事故現場であれだけ泣いていた真の妹(柏木優子)が、告別式の会場ではケロッとしていたのも同様。
それが当時の新しい女子大生像だった、と言われればそれまでなのですけれど。

劇中、妊娠中絶をした順子を見舞う真の妹たちが意外なほど冷淡、というか、「ヘマをした」ぐらいの認識しか持ち合わせていない姿を見て、なぜか三島由紀夫の『美徳のよろめき』(1957年)で中絶を繰り返すヒロインを思い出してしまいますた。
妊娠中絶をめぐる驚くべき「お手軽感覚」は、今に至るまで消えていないような気もいたします。

なお、東京映画と東宝は、本作の公開にあたり、真の妹を演じた柏木優子に野川美子、檜麻子を加えた3人に「コメットスターズ」という愛称を付けて売り出そうとしたようですが、みごと不発に終わったようです。

というわけで、とりあえずメモまで。

付記:平河が建築技師として関わっているビルの建築現場、周囲に国会議事堂(側面)や皇居がある点からみて、当時建築中だった国立国会図書館本館ではないかと思うのですが、撮影協力なんかするかなあ、国会図書館が(平河町近辺で仕事をしているから平河って名前なのか?)。

2009年5月3日日曜日

40元でお願いします!(通販口調で)

〔ちょっとお耳に〕

当時の報道(『聯合報』)によれば、小林旭一行は
台北の他、高雄の市立体育館でも歌った(5月24日)そうです。

どうも。
トド@引きこもり中です。
引きこもりで暇を持て余す中、ふと目に留まったのが下記の記事。


馬英九政権、日本側に抗議 「台湾地位未定」発言で

日本の対台湾窓口機関、交流協会台北事務所の斎藤正樹代表が1日、南部の大学で開かれたシンポジウムで、台湾の国際的地位は決まっていないとの趣旨の発言を行い、台湾外交部(外務省)は「われわれの立場とは異なる見解で受け入れられない」として、代表を呼び出して抗議した……



上記『産経新聞』の記事は共同通信配信のものですが、実はこの記事にはまだ続きの文章があって、それが下記『東奥日報』の記事。


馬英九政権、日本側に抗議 「台湾地位未定」発言で

(以下、『産経新聞』がカットした部分を抜粋)

李登輝元総統、陳水扁前総統は「日本の主権放棄後、主権は未定」として、馬政権とは異なる立場を取っていた。
同事務所などによると、斎藤代表はシンポジウムで日本の見解を示した上で、地位未定論について言及。抗議を受け、発言は個人的見解だったとして撤回した。



「カットした部分があった方が発言の背景がわかりやすいのに、なんで『産経新聞』はカットしちゃったのかなー?」という素朴な疑問は置いておくとして、ようするに政権交代後の政治姿勢の変化に気づかなかった代表がうっかり本音を洩らしてしまったってことになりそうですけれど、「南部(記事には南部、とのみありますが、正確には嘉義)だし、本土意識の強い所だから、まっいいかー」って思っちゃったんでしょうかねえ。
ただ、今回の発言の舞台となった嘉義では3月にこんな出来事(事件?)もありましたし、ちょいと(というか、個人的にはかなり)気になる事件ではあります。

追記:上記報道のその後を追っていたら、4月29日付のこんな記事(「「地位未定論」を否定=57年前に「移譲」と見解-台湾総統)が見つかりました(「その後」じゃないけど)。
馬英九側としては「ここまで言ってやってるんだから、まさかそんなこと(斎藤発言)にはならないだろう」とタカを括っていたら今回の発言で(馬英九の面目丸潰れ)、こうなると「うっかり」ではなくむしろ「確信犯」だったのではないかという気もしてきます。
発言自体、予想されたことではありますけれど、藍と緑では評価が正反対ですし。
と、そうこうするうちに大陸の方もイッチョカミしてきましたねえ。
あ、そうそう、産経新聞の自前の記事もその後出ましたけれど、前述の素朴な疑問が消えるどころかむしろ増幅するような内容ですた。

では、本題に。

『台湾映画 2008年』(東洋思想研究所)所収の論考「台湾での日本スターの活躍」(川瀬健一氏)の中に、小林旭が1966年5月に台北で公演を行った際の入場料の最高額が260元で、65年10月から11月にかけて同じく台北公演を行った美空ひばりの(公演の)入場料の最高額・230元を上回っていた、とあり、これが台湾の(当時の)物価水準に照らしていかに破格のお値段であったかということが書かれています(一部抜粋した文章がこちらで読めます)。

小林旭、美空ひばりという当時の日本を代表するスターの大物ぶりがよくわかるエピソードといえますが、ただし、すべての日本のスターがこんなに高い料金で公演を行っていたかというと、必ずしもそうではなかったという事実を示すのが、下記の新聞広告。

1961年7月23日付『聯合報』。

日本で活動している台湾人歌手・楊超が、台北で里帰り公演を行った際、灰田勝彦や二葉あき子も助っ人、というかゲストとして公演に参加していますが、このときの入場料金の最高額がなんと40元。
小林旭が来台する5年前のこととはいえ、えらい違いです。
思うに、これは公演会場の収容人数の違いや食事付きかそうではないか(美空ひばりと小林旭は食事込)、ということの他、あくまで(公演の)主役である楊超が故郷に綿、じゃなくて(お約束のボケ)、錦を飾るための公演であったため、採算を度外視している、というか、(公演資金の)かなりの部分が楊超個人の持ち出しだったのではないか、とも考えられます。

と、ここまで書きながら公演のメインの人物である楊超の詳しいプロフィールを、不肖せんきち、全く存じておりません。
ご存知の方、ご教示くだされば幸いです。

ところで、小林旭が来台した1966年には、和田弘とマヒナスターズ with 松尾和子や雪村いづみ、松島アキラといったスター達も来台しています。

『淘氣姑娘』とは『ジャンケン娘』
の台湾でのタイトルです。



このうち、松島アキラは観光での来台だったようですが、マヒナ with 松尾和子と雪村いづみは公演を行いました。
ただし、残念ながら入場料金は不詳です。
わかれば、(美空ひばりや小林旭と)比較できるのですけどね。

付記:戦前から戦中にかけて、灰田勝彦は「台湾軍の歌」、二葉あき子は「青い星」(『海の豪族』主題歌)といった台湾と縁のある曲を歌っていますが、これらの曲を台北公演で歌ったのかは不明です。

2009年5月1日金曜日

あと1回だけになりますたが

〔ちょっとお耳に〕〔えいが〕

荒井注は蚊帳の外ですか?

どうも。
トド@未だにお鼻ぐずぐずです。

さて。

先日の告知のさい、うっかり取りこぼしてしまった分を1つだけ。

川崎・しんゆり芸術祭アルテッカしんゆり2009アルテリオ・シネマ特別企画「いまに生きる今村昌平」にて(長いな、名前)、『女衒 ZEGEN』が上映中です。
以前にも書きましたが、この映画、香港という設定ながら台湾で撮影が行われており、石段の街・九份も登場、嘘かまことか東京大学で学んだという柯俊雄も、かなりおいしい役で出演しております。

ほんとかなあ。


別のサイトではこんな感じ。

3回ある上映の内、すでに2回が終了しておりまして、残るは5月5日(火)16:30よりの1回のみとなっております。
お時間のある方はどうぞ。

2009年4月29日水曜日

アナタハン、どなたはん?

〔えいが〕〔しようもない日常〕

スタンバーグ(Josef von Sternberg)ヴァージョンの1部。
やっぱり「安里屋ユンタ」。

どうも。
トド@車もないし免許も持っていないので高速料金1000円なんて全く関係ないよです。

今日はお天気がよかったので、フィルムセンターへ行ってきました(やっぱり関係ないよ)。
以下は、ちょっとしたメモ。


『剣劇女優とストリッパー』

1953年、新大都映画。平澤譲二監督。大都あけみ、奥山紗代、三島百合子、空飛小助、キャロル都、他。

言っとくけど、『セーラー服と機関銃』じゃないよ、『剣劇女優とストリッパー』だよ。
フィルムセンターの公式サイトにある解説によれば、「1953年頃に際物作品をわずかに残して瞬く間に映画史から消えていった新大都映画の作品」だそうですが、不肖せんきち、詳しいことは全く存じておりません。
とりあえず、観たままを。

乳母みたいな婆さん(だと思う)に背負われた白木みのるみたいな堀部安兵衛(空飛小助)が、哺乳瓶のミルク飲みつつ高田馬場へ向かっていると、突如場面は飛んで主役の女優さん(大都あけみ・役名も同じ)の大立ち回りになります。
最初に書き忘れたけれど、1953年なのになぜかサイレントで活弁の解説入り。
剣劇だから?

「吾妻八景」の「佃の合方」が延々と流れる中、ひとしきりチャンバラが終わると、そこは映画の撮影現場。
例の安兵衛と婆さんも息せき切って駆け付けるものの、「お呼びでない」とばかりに「狼なんか怖くない(Who's Afraid Of The Big Bad Wolf?)」(言っとくけど、石野真子じゃないよ)が流れる中、2人は退場(安兵衛はいつの間にやら三輪車に乗っていました)。
と、そこへあけみの恩人である芝居小屋の座元の女性が面会にやってきます。
撮影の休憩時間に語り合う2人、あけみがここまで来るのには苦しい下積みの時代があったのでした…。

かつてあけみは「市松あけみ」という芸名(市松延見子となんか関係あんのか?)で歌舞伎一座を率いる女役者でしたが、小屋はガラガラ、赤字は膨らむ一方で、太夫元からは暗に枕営業を勧められる始末。
しかし、この窮地を救ったのが、座元。
東京から帰ってくる彼女の妹がストリッパーをやっているので、歌舞伎と一緒にストリップを上演しようと提案したのでした…って、

そんなのアリかー!!!

座元の目論見通り、身体を張った甲斐あって興行は黒字に好転、座元の妹(キャロル都?役名はミミー・ローズとか言っていました)に深く感謝したあけみは、ミミーへの弟子入りを志願します・・・・って、

再びそんなのアリかー!!!

しかし、ミミーと座元はあけみに女優としての道を究めように諭し、ミミーの紹介で新大都映画へ入社したあけみは、剣劇女優・大都あけみとして活躍するようになりました、めでたしめでたし…って、

三たびそんなのアリかー!!!

「映倫のフィルム審査でストリップ場面の部分的な削除が要請されている」(解説より)そうで、たしかに、ストリップが歌舞伎を救ったはずなのにその過程は無しで、いきなり「あけみの芝居も大人気になりました」とか何とかいう活弁と共に「三人吉三」の劇中劇がだらだらと続くんですけれど、いや、これがつまらないの何のって。
女役者がお嬢吉三やっても何の面白みもないのよ。
なんでお坊吉三をやらないんだろ?

以上、あらすじを書くだけで全ての労力を使いはたしてしまいましたが、ストリッパーのお姉さん(2名確認。1名は体形が豊満な割に貧乳。もう1名はそれなりって、大きなお世話ね)は腋毛をきれいに処理しており、乳首には、

頂きました、星2つ!(by.堺正章)

とばかりに、光るニップレスみたいなのをくっ付けていました。

追記:あらすじでおわかりの通り、本作自体はしようもない映画なのですけれど、「歌舞伎=古くさい」「ストリップ、女剣劇=新しい」という対比(主人公は歌舞伎に見切りをつけて女剣劇に活路を見出す)から見ると、この映画の製作された1953年を挟んで歌舞伎界に起こった一連の動き(武智歌舞伎の上演、歌舞伎役者の映画界への転身、東宝歌舞伎と高麗屋父子の東宝移籍、東宝歌舞伎の対抗勢力としての東映歌舞伎…等々)とリンクしている部分もあるのかなあ…と考えられなくもないのですが、ま、気のせいでしょう、たぶん。


『アナタハン島の眞相はこれだ!!』

1953年、新大都映画。吉田とし子監督。比嘉和子、髙野眞、小泉郁之介、諏訪孝介、加藤勇、佐伯徹、熊木浩介、里木三郎、大塚周夫、他。

かの有名なアナタハン島事件の映画化。
「当事者である比嘉和子本人が主演する」というのがミソです。
監督は通常言われているような「盛野二郎」ではなく、「吉田とし子」という女性で、この女流監督が比嘉和子に演技指導(らしきもの)を行っている場面から映画は始まります。

和子の服装が、

ワンピース→余り布で手作りしたらしいビキニ風スタイル→腰蓑と乳当て

と薄着(?)になっていくにつれ、男たちの欲望もむき出しになっていくものの、なぜか戦争が終わると、和子の服装は再び真新しいワンピースに逆戻りしていますた。

持ってたなら、始めから着ろよ。

当時のマスコミによって「毒婦」「女王蜂」等というレッテルを貼られた和子ですが、正直、見た目は「冴えない小太りのおばさん」で、「なぜこんな女を(以下省略)」という思いしか抱くことができませんでした。
しかし、「なぜこんな女を(以下省略)」という、おそらくせんきちと同様、当時の男たちも抱いたであろうこのどうしようもない違和感とその根底にある侮蔑の感情が、彼女のネガティヴなイメージを一層増幅させる起爆剤になったに違いありません…と書くと、何か深ーい含蓄のある映画みたいですが、別に何にもなかったっすよ、かなり退屈だったし。

ただ、この事件を下敷きにした桐野夏生の小説『東京島』もそうだったけれど、「女ってやっぱりすげーなー」と映画の出来とは全く別の次元で女性の持つ逞しさと生命力に関心しちゃいますたし、この(女性の)生命力への(男たちの)惧れと嫌悪が、「比嘉和子悪女伝説」の根底にはあるのかなあと考えたりもいたしますた。

ところで、こちらのサイトによると、和子の出身地である沖縄では1954年1月に


「全琉話題の映画・本日大公開!もっとも良い映画と、もっとも悪い映画の異色豪華二本立て」という宣伝文句で、その『アナタハン』と前述の『アナタハン島の真相はこれだ』が二本立てで上映


されているそうです。

…参りました!

追記:比嘉和子を比嘉和子本人が演じるという点が、この映画の際物性をより強化していることは間違いないのですけれど、考えようによっては「男たちに追い回される(男たちが奪い合う)女は、若くて美しくて官能的でなければならない」という思いこみ(幻想?)を嘲笑うかのようなキャスティングである、と言えなくもないかも…って、やっぱりこれも気のせいか。
映画の中身も、あくまで和子目線…というか、ひたすら和子の都合のみですた。

2009年4月25日土曜日

『野郎に国境はない』と『特警009』

〔えいが〕〔ちょっとお耳に〕

DVDがないので、せめて音楽だけでも。

どうも。
トド@日本の経済成長率が主要7カ国中最低になりますたが、「日本経済はハチに刺された程度」と語った某大臣よ、責任とれや!です。

えー、ただいまラピュタ阿佐ヶ谷にて中平康監督の特集が行われていますので、この機会に『野郎に国境はない』(以下、日活版と表記)と『特警009(Interpol)』(以下、邵氏版と表記)を観比べてみることにいたしますた。
まずは、主なキャストの対照から(左:日活版、右:邵氏版)。

小林旭-唐菁
鈴木ヤスシ-李昆
廣瀬みさ-杜娟
アンヂェラ浅丘-沈依
郷鍈治-谷峰
富士真奈美-何莉莉
チコ・ローランド-お名前失念
秋山庄太郎-よく知らない人

小林旭→唐菁

という時点で、小太りの金漢が色魔にしか見えない『狂戀詩』(『狂った果実』)と同様、

「勝負あった!」

といった感じなのですが、それじゃあ、張沖ではどうか?と考えてみても、張沖ってどちらかといえば三橋達也系だと思うので(あっしの勝手な偏見かも知れないけど)、それもあまりしっくりきません。
ならば、王羽は?といきたくなるものの、これも若すぎる感がぬぐえず…。

とりあえず、男優探しはここまでにして、内容の検討に移ると、まず、タイトルバックは邵氏版の方が圧倒的におしゃれです。



ストーリー的にも細かい部分を除けば日活版と邵氏版はほぼ同じで、登場する都市こそ

日活版:パリ→バンコク→東京(→香港)
邵氏版:英語圏のどこか→マニラ→香港(→東京)

といった違いはあるものの、犯罪計画の名前(ジョッキープラン)も大ボスの名前(なんとかロビンソン…だったよね?)も同一、日活版でチコ・ローランドが演じたコステロもお名前変更無しだったので、どこからどうみても中国系の顔なのに


名前はコステロという(画像向かって右)、無理やり過ぎるキャスティングになっていますた(フィリピン人って設定なのかも、よく考えてみると)。

ただし、ラストのカーチェイスは、日活版では

ヘリコプターに乗る小林旭と鈴木ヤスシ→途中で車に乗り換えて犯罪組織の車と追っかけっこ&銃撃戦

と移動があるのに対して、邵氏版では唐菁と李昆は終始セスナ機に乗ったままで、空と陸とで銃撃戦が繰り広げられる、という違いがありました。
さらに、組織の車が崖下に転落した後、日活版では廣瀬みさと小林旭が別れの言葉を交わす件がありますが、邵氏版ではこれがきれいさっぱり削除されて杜娟が偽札に埋もれて死ぬだけ、という情緒もへったくれもないオチになっています。

また、日活版ではパリ帰りの小林旭がフランス語を連発したり、鈴木ヤスシがいつも不二家のチョコボールを食べていたり、といった登場人物の特徴付けがあるのに比べ、邵氏版では登場人物(特に唐菁と李昆)にこれといった特徴がなく、全体的に遊び心が足りない、というか、やる気なさげなお仕事の目立つ点が、ちと残念でありますた。

ま、そうは言っても、結局、一番大きな違いは、

唐菁は歌を歌わない

ってことだったりするんですけどね。

パ~パパパパパ~(「無国籍者の唄」の歌いだしで、ヨロピク)。

(いちおうおしまい)

2009年4月23日木曜日

死霊の裸踊り

〔しようもない日常〕


草彅君に捧げる歌。
お酒を飲んでも、飲まれないようにしてね。

追記:日本から全面撤退したかと思われていたひげちょう、金沢の2店舗がしぶとく生き残っていますた。
すごいぞ、金沢。

2009年4月22日水曜日

超豪華2本立が実現

〔ちょっとお耳に〕

女性刈ると通う」って、どこを刈ってどこへ通うんだ?
(製品案内はこちら。特典付きはこちら)。

どうも。
トド@今日は暑かったですねです。

昨日の夕方、テレビで第一報が流れた衝撃的なニュース(清水由貴子さんが父の墓前で硫化水素自殺)。
せんきち的には、長門裕之の老老介護よりも身につまされる出来事でしたし、あまりの痛ましさにテレビを観ながら涙してしまいましたよ。
せんきちも、そう長くはなかった婆さんの介護生活の中で、「こんなことなら、死んじまった方がまし」と思った瞬間が何度かありました。
特に最初の頃は1人で何でも抱えがちで常にテンぱっていますたが、その後いろいろな方からアドバイスを頂いて介護保険の申請や認知症の専門医受診等もなんとか済ませ、他の家族に婆さんを押しつける(というか、世話を頼む)テクニックも身につけました。
歌手として芸能界デビューした時から一家の大黒柱として家計を支えていたといいますから、介護疲れだけではない、長年積もり積もった疲れがあったのでしょう。
今はただ、「安らかに」と願うばかりです。

さて、たまにはちょっくら告知でも。

1、『なんでかフラメンコ』じゃなくて『星のフラメンコ』

5月から6月にかけて、チャンネルNECOにて台湾ロケ映画『星のフラメンコ(天倫淚)』(1966年、日活)が放映されます。
今のところ、くわしい放映スケジュールは5月分しか判明していませんですが、最初の放映は5月31日(日)19:00~の模様です。
主演はもちろん西郷輝彦、台湾からは汪玲、歐威、等が出演しています。
汪玲の妹を演じている藍芳(井上清子)は後の光川環世、本名は李月随、台中出身の旅日明星でした(李泉溪監督の姪)。

日活は汪玲を本作に起用する際、当時彼女が所属していた國聯ではなく汪玲の母親(香港在住)と契約を結んでしまったため李翰祥が激怒、結局、汪玲は台湾を去ることになっただけでなく、國聯に違約金を支払った上に新聞に謝罪公告を掲載する羽目に陥ったといいます。
日活もとんだヘマをしたものです。
ちなみに、現在シネマート六本木で開催中の「爾冬陞映画祭」で上映される『門徒』の出品人の1人である韓世灝は、汪玲の子息です。

追記:『星のフラメンコ』に汪玲が出演することになったことを伝える1961年6月22日付『読売新聞』夕刊には、共演者としてジュディ・オング(翁倩玉)の名前が挙げられており、当初は藍芳(井上清子)ではなくジュディさんを汪玲の妹役に起用する予定だったようです。

2、石井輝男の異常香港路線(そんな路線は存在しません)

5月28日(木)から新文芸坐で開催される特集「孤高のスタア 高倉健」にて、

『東京ギャング対香港ギャング』



『ならず者』



夢の超豪華2本立

が実現しました。

6月3日(水)1日限り

の上映です(上映時間未詳)。

平日ですが、皆様、お見逃しのなきよう。

不肖せんきち、『ならず者』のラストの南田洋子を観たら今の彼女のことを思い出して号泣しちゃいそうだな、あんまり切なくて。

2009年4月20日月曜日

「尤敏ゆかりの土地巡り」在庫一掃セール (その四)

〔たび〕〔尤敏〕

先週の金曜日(17日)の『朝日新聞』夕刊。

どうも。
トド@「100年に1度の経済危機」というけれど、この間の大恐慌からまだ80年ぐらいしか経っていないよーん!です。

先ほどまで、テレ朝のドキュメンタリーとは言い難いドキュメンタリー番組『報道発 ドキュメンタリ宣言』を観ていますた。
もはやこの番組はこの夫妻のためにあるのではないかと思う、長門裕之・南田洋子夫妻のその後を取り上げていましたが、気になったのがアルツハイマー病に関するナレーション。
「この病気になったらただひたすらボケていくだけ」みたいなナレーションで、たしかに根本的な治療法はまだ解明されていないものの、進行を遅らせる薬はあるんですよ、ちゃんと。
南田洋子の表情や受け答えの様子を見ながら「なんだか、うちの死んだ婆さんに似てるなあ」と思いつつ、このままでは巷にあふれる「壮絶人生もの」の1つとしてこの夫妻のエピソードも消費されていくだけなのではないかと、正直危惧しております。
長門裕之はネットなんかチェックしないだろうけど、せめて事務所のスタッフや番組のスタッフはこのサイトこのブログを読んでお勉強してほしいものです。

と、ひとしきり語ったところで本題に突入。

・旧・ヤマハホール(ただいま新ビル建築中、だそうです)

前回の記事では第7回アジア映画祭の開会式及び授賞式、閉会式の会場であるホテルニュージャパンを取り上げますたが、今回ご紹介するヤマハホールは参加作品の上映会場となった所であります。


皆様おなじみの場所なのであえて解説することもないかとは思いますが、ヤマハホールは、銀座ヤマハビル(銀座7丁目)の階上にあったコンサートホールです(1953年オープン)。
せんきちの記憶が確かなら、かつてはお隣にあったガスホール(2005年閉館。現在はこんなビルが建っています)と緊急時には屋上から行き来できるような構造になっていて、その旨を記した案内板が場内に掲げてあった・・・・ような気がします。
現在、ヤマハビルの建て替えに伴いホールも閉鎖、ガスホールは新しいビルに戻ってくることはありませんでしたが、こちら(ヤマハホール)は新しいホールになって帰ってくるはずです。
不肖せんきち、カーメン・マクレエ(Carmen Mcrae)のピアノ弾き語りをここで聴いた記憶があります。たしかこれが彼女の最後の来日公演になったような記憶が(って、おぼろげな記憶の話ばっかりね)。


ということで、在庫一掃処分はひとまずこれまで。
引き続き、現地踏査を続けていきます。

(ひとまずおしまい)

2009年4月16日木曜日

「尤敏ゆかりの土地巡り」在庫一掃セール (その三)

〔たび〕〔尤敏〕

葉牡丹の花、狂い咲き中。

どうも。
トド@「コンビニ」が「ポン引き」に聞こえるです。

前回の続き。

・プルデンシャルタワー(旧・ホテルニュージャパン)

赤坂(正確な住所は千代田区永田町)にそびえる外資系保険会社(&森ビル)の超高層タワー


ご存じの通り、かつてこの場所にはあるホテルが建っていました。

そのホテルの名は、ホテルニュージャパン。

1982年2月8日未明に起こった大火災で、多数の死傷者を出したホテルです。


この大火災の後(当然のことながら)ホテルは閉鎖するものの、新たな持ち主がなかなか見つからず、その後も長い間廃墟と化した建物が赤坂の目抜き通りに無残な姿をさらし続けることになりました(タワーの完成は2002年暮)。

そんな忌まわしい末路を辿ったホテルニュージャパンですが、1960年の開業当時はピッカピカの高級ホテルで、同年に東京で開催された第7回アジア映画祭(現・アジア太平洋映画祭)では開会式と授賞式、閉会式の会場に選ばれ、参加国(日本、インドネシア、台湾〔中華民国〕、香港、韓国、マラヤ、シンガポール、フィリピン)の映画人が一堂に会したのでありました。
当時の報道(『毎日新聞』『日本経済新聞』)による映画祭のスケジュールは、下記の通りです。

4月5日(火):午前10時から参加作品上映。午後5時からホテルニュージャパンで開会式。
4月6日(水):午前10時から参加作品上映。午後2時から総理官邸で岸信介総理の招待パーティ。午後6時から赤坂コパカバーナにて堀久作映連(日本映画製作者連盟)会長の招待パーティ。
4月7日(木):午前10時から参加作品上映。午後6時から椿山荘で日本映画6社招待のパーティ及び各国俳優交歓会。
4月8日(金):午前10時から参加作品上映。
4月9日(土):午後1時30分から作品賞受賞作品(『後門』)上映。午後5時からホテルニュージャパンで授賞式及び閉会式。

この第7回アジア映画祭で、尤敏は前年に続き2度目の主演女優賞を受賞、当時のニュース映画には鍾啓文と共にトロフィーを受け取る尤敏の姿が遺されています。

ところで、上記のスケジュールの内、赤坂コパカバーナとあるのは高級ナイトクラブの名称で、あのデヴィ夫人がお勤めしていたのもここだったそうです(現在はオフィスビルになっています)。
当時はコパカバーナの他にも、ニューラテンクオーター(ホテルニュージャパン地下)や銀馬車といったナイトクラブが大いに流行っていた時代で、『香港の星(香港之星)』に出てくるミカドもこの流れに乗ってオープンした巨大ナイトクラブでした。

(つづく)

2009年4月13日月曜日

「尤敏ゆかりの土地巡り」在庫一掃セール (その二)

〔たび〕〔尤敏〕

染井吉野もいいけれど、八重桜も捨てがたいわね。

どうも。
トド@同志社大学の浜矩子教授が岩井志麻子センセに見えるです。

さて。

昨年、こちらで在庫一掃処分を行うと宣言しながら1回こっきりで挫折していた「尤敏ゆかりの土地巡り」(メインサイトの同コーナーはこちら)。
「今度こそ在庫一掃するぞ!」と一念発起してお届けする第2回です。
掛け声倒れにならないようがんばりますので、ヨロピクね。

・ラコルダ弦巻(旧・昭和薬科大学世田谷校舎)

『香港の星(香港之星)』(1962年)で、香港からの留学生・尤敏が通っていた大学は、日本女子医科大学という架空の女子医大。
このロケ撮影で使われたのが、かつて世田谷区弦巻にあった昭和薬科大学

この場面ね。他にも、
尤敏がキャンパスを闊歩する
場面がありますた。

大学本体は1990年に町田市へ移転、現在、その跡地には「ラコルダ弦巻」という巨大マンションが建っています。

マンションのエントランス。
巨大な建物が何棟も建っています。


弦巻通り沿いの1棟。
並びの棟は外壁改修中ですた。


マンション脇の遊歩道に
ひっそりとたたずむ記念碑。


碑文にある「延べ一万人」の中に
尤敏は入っていません、当たり前ですけど。


馬事公苑西通り@当時のバス通り・・・・だと思う。
先ほどの場面(尤敏を待ち伏せする宝田明)の後、尤敏は
小田急バスに乗って去っていきますが、当時のバス路線を
調べたところ、実際に大学行きのバスを走らせていたのは
小田急ではなく東急バスでした。撮影用に特注したのね。

ちなみに、(これも何度も書いていますが)『バンコックの夜(曼谷之夜)』で加山雄三が通っていた医大も、こちらで撮影していました。

(つづく)

2009年4月11日土曜日

早すぎた『柔道龍虎榜』

〔ちょっとお耳に〕〔えいが〕

やればできるといいけどね。

どうも。
トド@体調最悪です。

えー、柔道の話題が出たついでに、こちらも柔道ネタ。

1957年の電懋作品『四千金』。
4人姉妹の中でいち早く結婚した四女(蘇鳳)は、御亭主(田青)と新婚旅行先の日本から戻り、実家に転がり込みます。
若い2人のこと、実家の寝室でもいちゃいちゃ・・・・と思いきや、何やら取っ組み合いを始めました。

なんと、日本で学んできたという柔道をご披露。
へっぴり腰が気になりますが・・・・


次の瞬間、御亭主をえいやっ!と
投げ飛ばしますた。
これがまた、なかなか見事な一本背負いで、
早すぎた『柔道龍虎榜』の一幕でした。


以下、『四千金』に関するその他の小ネタ。

1、母亡きあと、母親代わりになって妹たちの面倒を見てきた長女(穆虹)。
ボーイフレンドといい感じになる度に、フェロモン垂れ流しの二女(葉楓)が出てきて邪魔をされてしまいます。
三女(林翠)はそんな姉のために映画館でのデートを画策しますが、肝心の上映作品が
ベビイドール(Baby Doll)』では、なんだかよくないんじゃないの?と思っていたところ、案の定、今度も長女は次女に油揚げをかっさらわれてしまうのでありました(陶秦監督、狙ったのでしょうか)。

こちらは日本公開時(1957年)のパンフ。


2、映画の冒頭、姉妹が行きつけの士多で父への誕生日プレゼントを買う件(揃いも揃ってみんなが同じパイプを購入)で流れているのが、ティト・ロドリゲス(Tito Rodriguez)の「マンボ・マニラ(Mambo Manila )」。

この場面ね。二女とボーイフレンド。
まだパッとしない頃の楊群。

ずいぶん渋い選曲だなあと思ったのですが、この曲、元から使われていたのか、リマスターのさいに新たに挿入されたのかが判然といたしません。
もし元から使われていたとすると、日本では「マンボ(Mambo)=ペレス・プラード(Perez Prado)」だった時代に、香港では(日本とは)一味違うマンボの受容形態があったのではないか、と考えられるのですけれど、本当のところはどうなのでしょう。

このCDで聴けます。


3、これも音楽にまつわるネタですが、長女が澳門へ赴く際に流れる曲が「ポルトガルの四月(April In Portugal)」。

澳門といっても、この場面以外は


セット撮影みたいです。

澳門がポルトガルの植民地であるところから連想された選曲と考えられるものの、これまた元から使われていたものか、新たに挿入されたものなのかは不明です。
「マンボ・マニラ(Mambo Manila )」同様、それなりに渋い選曲だと思うのですが。

『四千金』で使われているのはたぶんこっち
(レス・バクスター〔Les Baxter〕)だけど、


せんきちはこれ
(ぺレス・プラード〔Perez Prado〕)も好きです。

2009年4月7日火曜日

東寶豓星 秋子

〔ちょっとお耳に〕〔えいが〕


どうも。
トド@お昼に卵かけご飯を食べてお腹を壊しましたです。

さて。

往年の名女優(月並みな表現でスマソ)若林映子が、その若き日、イタリア映画2本と西ドイツ映画1本に出演していたことはよく知られています。
このうち最もよく知られているのは、イタリア映画"Akiko"(アキコ)ですが、残念ながら日本で公開されることはなかったようです。

が。

海を隔てたお隣・台湾(台北)では、1961年10月に劇場公開されており、こんな新聞広告が残されています。

まさかこの恰好で柔道はしないと思うけどね。

映画のタイトルであり、ヒロインの名前であるAkikoを若林映子の映子ではなく、

秋子

という、てっとり早い漢字表記にしている点はご愛敬ですが、当時、台湾ではイタリア映画も人気があったようなので(特にインテリ層)、その縁での台湾上映かしらん、と思っていたところ、こんどは1962年3月の紙面にこんな映画の広告を見つけました。

中文タイトルは『香港之戀』。
「この映画は『スージー・ウォンの世界』の
姉妹作です」云々といった惹句が躍ります。


キャストの欄には「東寶豓星 秋子」の名が。
そして男優の名前には「西德小生」とあります。


ひょっとして、これって、若林映子が出たという西ドイツ映画『遥かなる熱風』のこと?

と閃いたわたくしは、さっそく調査を開始、Imdbにある若林映子の作品リストを調べましたが、それらしき映画が見当たりません。
「おかしーなー。おかしーなー」と悩むものの、何しろこの映画の原題が全くわからないため、真相を確かめることができません。
男優さんの名前の中文表記(荷黙格廉)から元のドイツ語表記を推測する、という無謀な試みも行いましたが、これも失敗。

そんなこんなで、無駄な歳月を過ごすこと2年余り。

先日、ひょんなことから、この映画の原題が"Bis zum Ende aller Tage"であることが判明、詳しい解説も発見いたしました。
それによると、この映画は、

香港にやってきたドイツ人水夫・グレンが、現地の女性であるアンナ・スーと恋に落ち、グレンはアンナを連れて生まれ故郷の村に帰るものの、村人からは差別を受け、そのため夫婦の間もぎくしゃくするようになり、ある日アンナはグレンの目の前からこっそり姿を消してしまいます。
驚いたグレンは彼女を探しますが、はたして…。

とかいう内容で、若林映子はヒロインであるアンナを演じています。
しかし、その折の名前の表記がAkiko Wakabayashiではなく、単にAkikoであったため、Imdbは別人と判定、作品リストから漏れてしまったもののようです。

てなわけで、ちいとばかし回り道したものの、台湾上映時の広告を偶然見つけたおかげで、いろいろなことがお勉強できました。

それにしても、なんでこの映画も日本では上映されなかったんでしょ。
変なの。

最後に。

念のため、"Bis zum Ende aller Tage"が日本語で『遥かなる熱風』になるのか、ドイツ語翻訳サイトで試みたところ、

日中の終わりまで

という日本語訳になりました。

あれ?

2009年4月3日金曜日

台湾は招くよ (その6)

〔ちょっとお耳に〕

小林悟監督がメガホンを取った日台合作映画
沖縄怪談 逆吊り幽霊 支那怪談 死棺破り(試妻奇寃)』の
台湾上映時の新聞広告。

どうも。御無沙汰してすいません。
トド@不景気っていやあねです。
金策に走っていました(半分ホント)。

こんなつもりはなかったのに、回を重ねて第6回となってしまった出稼ぎネタ、一応今回で終了ということにしたいと思うのですが、のちほどもう1回だけ「番外編」をお届けしたいと思います。
では、さっそく本題。

・小林悟監督

小林悟監督の台湾での活動に関しては、薩摩剣八郎氏のオフィシャルサイト(http://www.fjmovie.com/satsuma/menu.html)内にある小林監督へのインタビュー「追悼・小林悟監督」(http://www.fjmovie.com/satsuma/kobayashi/kobayashi1.html)に詳しい記述があり、また、不肖せんきちも小林監督が1982年に台湾で撮ったという『終戰後的戰争』(鶴田浩二主演)についてちょっこし取り上げたことがありますが、台湾映画のデータベースである「台灣電影資料庫」において小林悟監督作品とされている映画をピックアップしてみると、下記の6本が該当しました。

『神龍飛俠』(1967年、新高有限公司。台湾語映画)
『月光大俠』(1967年、新高有限公司。邵寶輝監督との共同監督。脚本も担当。台湾語映画)
『飛天怪俠』(1967年、新高有限公司。邵寶輝監督との共同監督。脚本も担当。台湾語映画)
『孽情』(1968年、天祥有限公司。葉春伸監督との共同監督。台湾語映画)
『望你早歸』(1969年、彩虹有限公司。脚本も担当。台湾語映画)
『太太的煩惱』(1971年、南亞有限公司。台湾語映画)

また、『台灣電影百年史話』上(2004年、中華影評人協會)所収の台湾語映画のリストでは、1966年の欄にある『孫田水』という作品が小林監督の映画とされており、主演は何と、

松井康子

だそうです。
この映画、台北の國家電影資料館にフィルムがあるそうですので、観てみたいですねえ。

と、ここまで挙げた映画(『終戰後的戰争』を除く)は、いずれも台湾語映画ですが、前掲の「追悼・小林悟監督」には、1970年の北京語映画『紅豔女飛龍』(華興有限公司。韓湘琴、 唐威、 雷鳴主演)が小林監督の作品とされています。
しかし、「台灣電影資料庫」にある監督名は「徐天榮」で、小林監督の名前はありません。

これはおそらく、前にも書いた通り、台湾語映画と北京語映画における日本人監督の氏名表記の扱いの違い(台湾語映画:実名、北京語映画:中国風の変名ないしはノンクレジット)に由来するものと思われ、そうなると、小林監督は『紅豔女飛龍』以外にも北京語映画を撮っていたと考えられます。
事実、「追悼・小林悟監督」には、


― 台湾で何本くらい撮られたんですか?

小林 ええとねえ。北京語映画が7本くらいと、その前に台湾語映画っていうのをね。これ全部白黒ですけどね、これも日本円にすると300万くらいですがね(笑う)。それが7、8本くらいかな。カンフーとか、喜劇なんかも撮りましたよ。今、台湾語映画って一切全くないんですよ。北京語映画は最低でも3000万くらいですし、カラーでしたから太刀打ちできないんですよ。



とあり、『紅豔女飛龍』の他にも6本の北京語映画を監督したようです。
これらの作品群のタイトルを特定することも、今後の課題でしょう。

そんなわけで、まずはひとまずこれぎりにて。

付記:『台灣電影百年史話』下・519頁に掲載された『終戰後的戰争』とされる写真は、東宝の『連合艦隊』(1981年)の誤りで、「中立者鶴田浩二」とある人物は、実際には小林桂樹です。
しかし、どこをどう間違ったら、鶴田浩二と小林桂樹を取り違えられるんだろか。

(ひとまずおしまい。番外編は次回以降に)

2009年3月28日土曜日

台湾は招くよ (その5)

〔ちょっとお耳に〕

今日の『朝日新聞』夕刊から。
邦訳の予定はないのかしらん?


どうも。
トド@山本山のお尻見ちゃったです。

先日、乳がん検診を受けますたが、超音波検査のとき、技師の方から、

「おっぱいの中に水の入った袋がありますね」

と言われますた。

不肖せんきち、別に包茎、じゃなくて、放尿、てもなくて、豊胸手術は受けていませんが・・・・。

調べてみたら、乳腺嚢胞という病気ですた。

特に治療の必要はないそうですけれど、甲状腺やら何やら、そこらじゅうに嚢胞ができているようでして、いやあ、困りますたです。

前回の続き。

・沢賢介監督

『跨世紀台灣電影實錄』中巻(2005年、文建會・國家電影資料館)の1972年5月の項(640頁)には、


新成立的擎天柱公司將與日本製片人澤賢介合作拍攝新片《百萬美金追蹤》。該片將在台北先拍部分内景、再轉往東京、香港、曼谷與新加坡等地拍攝外景。



とあり、沢賢介監督と台湾の擎天柱公司によって『百萬美金追蹤』という日台合作映画が企画されていたことがわかります。
しかし、その後まもなくして日本は台湾(中華民国)と絶交したため、結局、この映画は製作されずに終わったようです。

沢監督は、1944年に日本映画社に入社、1950年に退社後は『娘を売る街 赤線区域』(1953年)、『脱衣室の殺人』(1958年)と2本の劇映画(いずれも新東宝配給)を監督しましたが、1960年代に入るとピンク映画の世界に身を投じることとなります。
鈴木義昭氏の『ピンク映画水滸伝 その二十年史』(1983年、青心社)には、


沢賢介、彼は小林(悟・せんきち注。以下同)、関(孝二)、本木(荘二郎)、北里(俊夫)、三輪(彰)についでピンク映画六人目の監督として登場、今日までピンク映画をつくり続けている職人的映画人である。


と、あります。
その作品リストによれば、『(秘)香港人肉市場』なんてタイトルの映画もあり、すごーく気になります。

『百萬美金追蹤』のことに話を戻すと、台湾の製作会社である擎天柱公司は本作のために設立した会社のようで、この他の映画は製作していません。
また、キャストの記載もないので、北京語映画だったのか台湾語映画だったのかも不明ですが、香港やバンコク、シンガポールでも撮影を行う予定だったこととタイトルからみて、どうやらアクション映画だったのではないかと思われます。

・小川欽也監督

ピンク映画の世界においては言わずもがなの大監督ですが、前述した『ピンク映画水滸伝 その二十年史』には、


時には台湾へも渡り、現地スタッフを指導して映画を監督している。
いわく「台湾の映画は、日本より十年遅れている」。フリー時代の仲間が多数渡り、映画製作をしているという台湾では「センセイ、センセイ」と大歓迎されるそうだ。
(85頁)

とあって、小川監督も台湾で映画を撮っていた模様です。
ただ、現在のところ、作品名やどのような名義を用いていたのか等は不明で、今後も引き続き調査していきたいと考えています(ご本人に聞くのが一番早いんだけどね、何でも)。
また、上記の引用文章によれば、これまであげた監督たちの他にも多数の映画監督が台湾へ渡っていたようで、こちらの解明も今後の課題としていきたいです。

(第6回に続く)

2009年3月25日水曜日

台湾は招くよ (その4)

〔ちょっとお耳に〕

何基明監督(向かって左。右は弟である何錂明)。

どうも。
トド@鼻づまりです。

まず、ちょいと告知。

以前、こちらでもちょっこしご紹介したドキュメンタリー映画『雨が舞う~金瓜石残照~(雨絲飛舞~金瓜石殘照~)』が、3月28日(土)からユーロスペースで公開(モーニングショー)されます。
詳しいスケジュールは、下記の通りです。

3月28日(土)~4月10日(金)
渋谷・ユーロスペースにて
連日・10:00~

3月28日(土)、29日(日)、4月4日(土)、5日(日)は上映前(9:45より)に林雅行監督による舞台挨拶があるそうです。

この映画、知人のKさん(いつものKさんです)がイッチョカミしてるんですけど、不肖せんきち、Kさんに、

「あたしさー、今まで金瓜石のことを、

かねうりいし

って読んでたよ」

と言ったところ(通常は「きんかせき」)、

「あんたねえ、よく見てみなよ、真ん中の字。

瓜(うり)じゃないよ、爪(つめ)だよ!

とバカにされたのですが・・・・・。

あのー、よく見てみましたけれど、

やっぱり瓜ですよ

Kさん。

前回の続きです。

・南部泰三監督

前回までは北京語映画を撮った監督さんたちでしたが、今回は台湾語映画。
当時、ピンク映画の世界で活躍していた南部泰三監督は、1967年に何基明監督と共同で『霧夜香港』を撮っています(小林, 張清清, 易原, 山田恵美子、他出演)。
内容は不明ですが、タイトルから類推するに舞台は香港、日本人キャストも参加しているところからみて、日本人と台湾人の悲恋物・・・・だったのかな、と思います。
製作会社である玉山有限公司は、この映画を製作するためだけに設立された会社のようです。

北京語映画において日本人監督は中国風の変名を使わなければならなかったのに対して、この映画では南部監督は変名を用いておらず、台湾語映画では日本名をそのまま使用、というか、日本人監督の映画であることをむしろ積極的にアピールしているかのような感があります。
これは、両者の観客層の違い(北京語映画:外省人、台湾語映画:本省人)が大きな要因になっていると考えられますが、この問題に関しては前述した通りいずれ稿を改めて考察してみたいと思います。

南部監督は1936年に大都映画に入社したのを皮切りに、毎日新聞社映画部(1940年)→日本映画社(1942年)→満洲映画協会(1943年)と渡り歩いた人物で、1949年に帰国後は独立プロを設立、1964年からピンク映画の製作・配給を行う第8芸術映画プロを主宰して活動する一方、1965年には東南アジアの映画・テレビのスタッフ及びタレントを養成する第8芸術集団を設立、本作もこの関係で製作されたものと考えられます。

ところで、ご存知の通り、何基明監督は、戦後最初の35mm台湾語劇映画(『薛平貴與王寶釧』、1955年)を製作した「台湾語映画の父」ともいうべき人物で、主宰していた製作会社(華興製片廠)では新人俳優の育成にも力を入れ、後に台湾映画界を代表する男優となりながら30代の若さで夭逝した歐威や、香港に渡って電懋の専属男優となった洪洋等もここから巣立ちました。
しかし、1960年代初めに経営難から会社は閉鎖、何監督は日本で映像関係の仕事に従事しますが、この映画はそんな何監督が撮った最後の劇映画になりました。
が、何監督はその後も劇映画製作への情熱を抱き続け、1990年代に至っても日本と合作映画を撮る構想を練っていたといいます(Rick Miya氏「台湾を代表する映画監督・何基明と私」〔『台湾映画』秋号、2007年11月、東洋思想研究所〕による)。
終世「カツドウヤ」だった何監督が、この映画を最後に40年近くも映画を撮れないまま亡くなった(1994年没)という事実に、わたくしは一抹の寂しさを感ぜずにはいられません。

付記:南部泰三監督のプロフィールに関しては、『日本映画監督全集』(改訂版。1980年、キネマ旬報)を参照しました。

(若干しんみりしたところで第5回へ続く)

2009年3月22日日曜日

台湾は招くよ (その3)

〔ちょっとお耳に〕

民視のニュース。

どうも。
トド@新潟の伯父が脳梗塞で倒れますたです。

さて。

去る3月18日の『台灣蘋果日報』の潜入ルポ(蘋果直擊 白色恐怖檔案曝光 調查局亂棄史料 驚見滿屋文件屍罐)。


目下のところ、日本のメディアからは黙殺されているようですが(朝日はこれを無視して、こちらを紙面で取り上げていますた。いかにもやりそうなことだけど)、この手のネタに真っ先に食いつきそうな産経が沈黙しているというのは、何か意味があるのかしらん?(Web版調べたけれど、記事にした形跡なし。紙面にはあるのかなあ)
ま、産経も元をただせば「反中共、親国府」というスタンスでしたから、国民党のことをどうこう言える立場にはなかったりするのですけれど。




ところが、どうした風の吹き回しか大陸のサイトがこの記事に飛びついています。
自分たち(共産党)が当事者じゃないから、「全然オッケー!」ってな考えなのでせうか。
そういえば、共産党も昔は二二八事件を「国民党の圧政にノーを突きつけた台湾民衆の革命的行為」ってな解釈に基づいて称賛していたんですよね、たしか。
やれやれ。

というわけで、前回の続きです。

・山内鉄也監督

山内鉄也監督というと、邵氏で撮った『梅山收七怪』(1971年から撮影に入っていたものの、公開は1973年)がよく知られていますが、それに先立つこと2年、1969年に台湾の東影有限公司に招かれて古装物の特撮映画『封神榜』(北京語映画)を撮っています。
キャストは葛香亭、盧碧雲、陳慧美、謝玲玲、脚本は丁善璽です。

ただし、この映画、「台灣電影資料庫」では林重光が監督を務めたことになっています。
その理由を考えるに、山内監督は『梅山收七怪』では本名で通しているようですので、この映画でも本名を使うことを主張して変名を拒否、ゆえに林重光名義になったのではないか?というのが現時点での仮説です。
ただ、台湾や香港の映画データベースの場合、データベースの表記と実際のクレジットとの間に齟齬が生じている場合が若干見られますので、もしかしたら、実際には変名を使っている可能性もあります。
ご本人に聞いてみるのが、一番確実なんですけどね。

(まだまだ続くぞ。第4回を待て!)

2009年3月21日土曜日

台湾は招くよ (その2)

〔ちょっとお耳に〕

天地総子か・・・・。

どうも。
トド@イチローの被っているニットキャップが腹巻に見えるです。

前回の続き。

・福田晴一監督

福田晴一監督がメガホンを取った台湾映画『龍王子』(1969年)に関して、かつて拙ブログ(双子のリリーズ、台湾上陸! )でも取り上げたことがありますが、ウィキペディアによればこれは「本作(『怪獣王子』・せんきち注)の特撮部分のみを流用した」合作映画で、その後の追跡調査によれば、どうもこの他に変名で2本、特撮物の台湾映画(北京語映画)を撮っているようです。
で、下記がその詳細。

『神龍大戰宇宙人』(1969年、新佳興有限公司)
出演:江青、武家麒、方光徳(野村光徳)、戴良 他

『神俠飛童』(1969年、新和興有限公司)
演員: 徐蘭香、馮海、羅斌、高来福 他


上記の2作の内、前者は前述の拙ブログで引用した『聯合報』の記事にあった『神俠小飛龍』のことと考えられます。
また、『神俠小飛龍』のカメラは芦田勇が担当しており、『龍王子』『神俠飛童』も芦田がカメラを担当した可能性大です。

なお、福田監督はこの2作において船床監督や日高監督同様、

徐福田

という中国風の変名を名乗っており、どうやら台湾の北京語映画の場合、

合作映画は本名でもOKだが、純台湾映画の場合は変名でないとNG

という不文律があったようなのですが、その点については後ほど改めてくわしく考察してみたいと思います。

しかし、徐福田っていう変名、自分の姓を名前に持って来て、あとはてきとーに徐という姓をくっつけただけの、日高監督以上にお手軽、というか、もうどうにでもなれ!ってな感じの命名センスですわね。

付記:福田監督はこの後、1971年10月と72年7月にはインドネシアへ渡り、インドネシア映画(タイトル未詳)の脚本及び監督を担当しているそうです(『日本映画監督全集』〔改訂版。1980年、キネマ旬報〕による)。
また、福田監督は1960年代後半からはピンク映画を手掛けるようになりますが、その内、『続・悪徳医 女医篇』が"Madame O"のタイトルでDVD化されています。 

(しつこく第3回につづく)

2009年3月18日水曜日

台湾は招くよ (その1)

〔ちょっとお耳に〕

週刊少年漫画50周年(マガジン、サンデー)らしいっす。
せんきちの小学生時代は、「月曜:ジャンプ、水曜:マガジン&
サンデー、金曜:チャンピオン&キング」というスケジュールですた。

どうも。
トド@花粉&黄砂と格闘中です。

1960年代後半、台湾映画界には湯浅浪男監督の他にも日本人監督が招かれて、彼の地でメガホンを取った作品があります。
今回は、それらの監督及び作品を取り上げてみたいと思います。

・船床定男監督

船床監督は、1969年に『銀姑』という武侠映画(北京語映画)を監督しています。
おそらくは、東映で撮った『隠密剣士』等の作品が評価されての起用かと・・・・思います。
この映画、脚本は倪匡、撮影は陳坤厚というなかなかの豪華メンバー。
ただし、本名ではなく、

傅南篤(ふーなんどぅー)

という、船床監督の姓をもじった中国名を用いています。
この辺りの変名のセンスは、邵氏と同様ですね。
映画の製作会社である永聯有限公司は、この作品を作るために設立された会社らしく、本作の後にもう1本 『我恨月常圓』という楊麗花主演の映画を製作していますが、『我恨月常圓』の監督は、

陶南凱(たおなんかい)

と、「田中」をもじったような名前で(本作以外に監督作なし)、もしかしたら田中という姓の日本人だった可能性もあります。

・日高繁明監督

日高監督は、1868年に『劊子手』という武侠映画(北京語映画)を監督しています。
主演は、東宝と台製の合作映画『香港の白い薔薇(香港白薔薇)』や『バンコックの夜(曼谷之夜)』にも出演していた馬驥。
船床監督の変名はその姓をもじったものでしたが、日高監督の場合は、日高繁明から日の字を1字取って、

高繁明

という、さらにお手軽なネーミング。
製作会社の永裕有限公司は、合作映画がポシャった湯浅監督一行に「安藤監督主演で1本撮らない?」と持ちかけて、『霧夜的車站』を作った会社。
その当時は台湾語映画を主に作っていたようですが、1968年頃になると北京語映画が中心になっていたようです。
日高監督の作品リストによれば、1962年以降、監督は映画を撮っていませんが、なんらかの経緯によって台湾へ招かれたもののようです。
『霧夜的車站』の製作過程から類推するに、「誰か日本人の監督さんいないかなあ」と物色(?)の末、隠居状態だった日高監督を一本釣りした可能性も考えられます。

ということで、続きはまた。

(その2につづく)

2009年3月16日月曜日

伸びたり縮んだり

〔ちょっとお耳に〕

これはお蝶夫人。
こんな高校生が実在したら
・・・・やだな。

どうも。
トド@花粉症で苦しんでますです。
NHK BS-2では、今日から3日間「『無限道』まつり」の模様です。
下半身問題には誰よりも敏感なはずの「みなさまのNHK」ですが、彼はすでに「無罪放免」のようです。

さて。

昨日、何気なく、このたび香港で開催される易文監督の回顧上映「兒女情長:易文電影」のプログラムをチェックしていたところ、『蝴蝶夫人』が相変わらず「粵語配音」だったので、

「おいおいおい、新華なら、フランスから里帰りしたフィルムが台北(國家電影資料館)にあるだろが!それ(もち、國語版ね)でも借りてかけろや!」

と、1人毒づいていたところ(別に観に行くわけじゃないんだけどね)、台北にある國語版

上映時間84分

なのに対し、香港にある粵語配音版は、

上映時間95分

であることに気づきました。

っつーことは、台湾での上映時に大幅カットされたってこと?

こうなったら、せっかくの回顧上映なんだし、この機会に両方上映してみて、どこが国府の気に入らなかったのかを観比べてみればいいのに、などと思いつつ、『跨界的香港電影』(2000年、康樂及文化事務署)に掲載された『蝴蝶夫人』(粵語配音版)のデータを確認してみたら、おや~、

上映時間100分

だって!

なんじゃこりゃ!(By:松田優作)

付記:『蝶々夫人』ネタの映画というと、『蝴蝶夫人』(1956年)の前年に製作された邵氏の『自君別後』(王引監督。趙雷、石英主演)も『蝶々夫人』に材を取った作品で、日本でロケを行い、東宝が撮影に協力、カメラも日本人が担当し(氏名不詳)、日本人を演じる石英と紅薇には専門の所作指導が付いた、とのことです(「石英的演藝生涯回顧」〔『電影欣賞』第83/84期、1996年12月、國家電影資料館〕による)。

(本日もオチなしですた)

1955年、李麗華が来日した際
表紙を飾った『世界画報』4月号
(1955年4月、国際情報社)。

2009年3月13日金曜日

海辺のキャセイ

〔ちょっとお耳に〕

海沿い?

どうも。
トド@次は乳がん検診です。

首のしこり、病理検査の結果が出ました。

甲状腺の結節の方は、「グレーゾーンですが、とりあえず悪性ではないでしょう」とのことで、3ヶ月に1回通院して様子をみることになりました。
将来的には手術をして切除する方針のようです。
もう1つ、甲状腺の検査をする過程で見つかった正中頸嚢胞も、今すぐとは言わないけれど細菌が入って炎症を起こすと厄介なので、いずれは手術をして切除した方がよい、との由。
どのみち、

いずれは入院・手術

のようです。

さて。

昨年暮れから『週刊新潮』誌上で連載が始まった桐野夏生の小説『ナニカアル』。
戦時中の林芙美子を描いた小説で、林の一人称(私)の語りで物語は進みます。



ちょうど昨日発売された3月19日号(第14回)では、昭和17年(1942)、陸軍省の委嘱で南方に赴いた芙美子が、最初の寄港地である昭南(シンガポール)に到着した件で、芙美子と共にこの視察に参加していた水木洋子も登場したりしてなかなか興味深く読んだのですが、文中に1ケ所、非常に違和感を持った描写がありますた。
以下が、その部分。


部屋の大きな窓から、海沿いに建つキャセイホテルがはっきりと見えた。階段状の敷地に建つ、白い豪華な建物は、昭南が日本よりも遥かに豊かで、大金を投じて造られた街であることを示していた。この素敵な街が日本のものになったのだ。私の中で、密かに浮き立つものがある。 が、これは夢ではないかと危ぶむ気持ちもあった。


昭南に着いた日、劣悪な環境の軍施設に宿泊した芙美子が、その翌朝、窓からの景色を眺める場面なのですが・・・・、でもさあ、キャセイホテル(かつてのキャセイビル〔Cathay Building〕、現在のザ・キャセイ〔the Cathay〕内にあったホテル。昭南時代には日本軍の宣伝工作本部が置かれた)の場所って、あれ、海沿いですか?

ご存知の通り、キャセイホテル、現在のザ・キャセイ(the Cathay)は、ドービー・ゴード(Dhoby Ghaut)に位置する建物で、手元に古い地図がないのでとりあえず1972年のガイドブックに載っていた地図で確認すると、


ちょうどYMCAの右斜め上、小さな赤い丸印のある辺りがその場所のはずです。
たしかに、戦時中と現在では海岸線に多少の変化はあるかと思いますけれど、しかし、それにしても、もし本当にキャセイホテルが海沿いに建っていたとしたならば、ラッフルズ・ホテル(Raffles Hotel)は水没してしまうのではないかと思います。

まあ、当時の日本人にとってはそのぐらい印象的な建物だった、というか、シンガポールの象徴のような建物だったのでしょうが、戦後、このビルの主と映画を通じて新たな交流が生まれるとは、どの日本人も思いもつかなかったに違いありません。

(今日もオチのないまま撤収)


付記:林芙美子の南方視察に関して、くわしくは『林芙美子とボルネオ島-南方従軍と『浮雲』をめぐって-』をご参照下さい。

2009年3月9日月曜日

ふしぎな2本立

〔ちょっとお耳に〕

衛詩(Jill Vidal)逮捕のニュースを
聞いて、なぜかこの人を思い出した私。

どうも。
トド@検査続きです。

先月の健康診断で首にしこりが見つかりまして、そちらはただいま悪性か良性かを病理検査中、尿検査も血尿&蛋白尿で、明日再検査の予定です。

とほほ・・・・。

そんなこんなで、本日はてきとーな古新聞ネタ。

下の画像は、1960年9月13日付『聯合報』に載っていた広告。


大蔵新東宝が誇る(?)アイドル・星輝美たん主演の『思春の波紋』(「純潔教育を主題にした映画」らしいのですが、あらすじを読む限り「早すぎた『ある女子高校医』シリーズ」のようです)が『少女情波』という中文タイトルで上映されており、「んー、やっぱり大蔵新東宝の映画は台湾でバカ受けだったのね」と思っていたところ、おや・・・・・?


別の映画のタイトル(『玉女之悲戀』)が・・・・。
山口淑子(李香蘭)と池辺良主演ってことは、当たり前のことですけれど輝美たんの映画とは全く無関係の作品、しかし、日本語のタイトルがありません。

いったい、この映画、何よ?

山口淑子の作品リストによれば、池辺良との共演作品は、『帰国(ダモイ)』の第4話、『暁の脱走』『白夫人の妖恋』『アンコールワット物語 美しき哀愁』ですが、『白夫人の妖恋』の中文タイトルは『白蛇傳』なのでまずアウト、また、『アンコールワット物語 美しき哀愁』における池辺良の相手役は安西郷子なのでこれもアウト(それにこの映画なら2本立ではなく、単独で上映するはず)。
となると、残るは『帰国(ダモイ)』か『暁の脱走』ということになるものの、広告にある上映時間表を見ると、どう考えても2時間20分ほどの時間で『思春の波紋』と『暁の脱走』をセットで上映することは不可能です(『暁の脱走』は白黒だし)。
つまり、最終的に生き残るのは『帰国(ダモイ)』の第4話になります。
『思春の波紋』を単独で上映するには上映時間が短すぎるため、オムニバスである『帰国(ダモイ)』の第4話を続けて上映することにした、というところまでは何となく推測できますけれど、しかし、なんでこんな組み合わせの上映になったのでしょうねえ。
だいいち、『帰国(ダモイ)』って、総天然色でしたっけ?

謎だ。


追記:呂訴上の『台灣電影戯劇史』(1961年、銀華出版部)によれば、『帰国(ダモイ)』は、戦後の台湾で一番最初に公開された日本の劇映画で(1950年9月)、となると、既に当局の上映許可済の作品ということになりますので、『思春の波紋』の付け合わせとして一部を上映する、なんてのは、けっこうたやすいことだったのかも知れません。

(オチのないまま何となく退散)

同じ日の『聯合報』に載っていた
『美女と液体人間』の広告。
『東京怪物』って、身も蓋もないタイトルだな。

2009年3月1日日曜日

もう1つの亞太影展

〔ちょっとお耳に〕

葛蘭が観たら、何と言うだろうか。

どうも。
トド@引き続き病院通いです。

えー、先日こちらでお知らせしたシネマヴェーラ渋谷での『離魂』の上映、3月12日(木)にもあるようです。
というわけで、以下にタイムテーブルを。

3月8日(日):12:45、16:15、19:45(『不貞の女』と2本立)。
3月12日(木):17:00、20:05(『肉屋』『最後の人』と3本立)。

さて。

先だって、ちまちました記事を書いたアジア映画祭、すなわち現在のアジア太平洋映画祭(Asia-Pacific Film Festival.1983年〔一説に1984年〕に現名称に改称)、この映画祭を中華圏では亞太影展と呼び習わしておりますが、実は1970年代にもう1つ「亞太影展」と呼ばれる映画祭がありました。
それは、1966年、韓国で設立されたアジア太平洋協議会(ASPAC.亞洲暨太平洋理事會。設立当時の加盟国は、韓国、日本、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピン、タイ、マレーシア、南ベトナム、中華民国〔台湾〕、ラオス〔オブザーバー参加〕。1972年以降に自然消滅)のプロジェクトである文化社会センター(亞洲太平洋文化社會中心)が主催していた"Asian and Pacific Film Show"(日本語での呼称は不詳)のことで、1970年に第1回が催されたようです。
目下のところ、データが確認できたのは第5回、第7回、第9回の3回分だけなのですが、とりあえず、判明している分だけを下記に掲げておきます。


第5回(1974年4月):開催地・韓国(ソウル)。参加国・韓国、中華民国(台湾)、ニュージーランド、タイ、フィリピン。
上映作品の詳細は不明だが、台湾からは『愛の大地(愛的天地)』が出品された。

第7回(1976年4月):開催地・韓国(ソウル)。参加国・韓国、中華民国(台湾)、フィリピン、日本。
上映作品の詳細は不明だが、台湾からは『愛心與信心』(ドキュメンタリー)及び『長青樹』が出品された。

第9回(1978年6月):開催地・中華民国(台湾〔台北〕)。参加国・中華民国(台湾)、韓国、オーストラリア、ドイツ、イギリス、イタリア、香港、インド、インドネシア、フィリピン、シンガポール、マレーシア、タイ、アメリカ、パナマ、日本。
テーマは「電影與文化(映画と文化)」。
ピーター・グレイブス(Peter Graves)による講演「美国演員地位的変遷(アメリカにおける俳優の地位の変遷)」の他、3つの講演が行われ、シシリー・タイソン(Cicely Tyson)等もゲストとして招かれた。
上映作品の詳細は不明だが、台湾からは『蒂蒂日記』『永恆的愛』及び『台湾漁業』(ドキュメンタリー)が出品された。




データを一瞥して、不思議だなと思うのが、親組織であるアジア太平洋協議会が自然消滅した後も、そのプロジェクトである社会文化センターは存続していて、これまでと変わりなく映画祭を実施している点。
ただし、この点に関しては、やはりアジア太平洋協議会のプロジェクトだった食糧肥料技術センターが現在でも存続していることから見て、どうやら親組織の消滅とは関係なく、独立した一機関として活動を行っていたと考えることができそうです。

データが判明している3回の映画祭からわかることは、通常の映画祭のようなコンペ形式のものでなかったのは勿論のこと、むしろ映画を媒介とした外交の場だったのではないか、ということです。
特に、台北で開催された第9回(1978年)は、当時国際的に孤立を深めつつあった国府台湾にとって非常に重要な外交の舞台だったようで、アジア太平洋諸国はおろか、ヨーロッパ各国からも代表団が参加しています。
当時の報道を収載した『跨世紀台湾電影実録 1898-2000』(2005年、文建会、国家電影資料館)では、この亞太影展のことを


・・・・亞太影展是由「亞洲太平洋文化社會中心」發起的影展、影展性質定位在學術和文化交流、與商業氣息濃厚的亞洲影展截然不同。 (以下略。1978年6月30日の項)


と定義付け、その意義を強調しています。

しかし、そんな亞太影展もその後ほどなくして自然消滅したらしく、映画を媒介にした外交という国府台湾の目論見は失敗に終わったのでありました。

めでたしめでたし・・・・で、いいのか?

(とりあえず、おしまい)