2010年2月27日土曜日

踊るポンポコリンじゃなくてニュウ・ヨーク

〔しようもない日常〕〔えいが〕

浅田真央ちゃんに捧げる歌。
泣いてもいいから前を見ろ。
次は世界選手権だ!

どうも。
トド@メタボ脱出(BMIが正常値に戻りますた)です。

さて。

昨日はねえ、残念だったねえ。
悔しくて、真央ちゃんの演技直後のインタビュー見ながら一緒に泣いちゃいましたよ。
負けたことも悔しいけど、何より自分の最高の演技ができなかったことが一番悔しいよね。

しかし、それにしても、ヨナちゃんの演技はすごかった。
かつてのミシェル・クワン(Michelle Kwan)の「ミス・パーフェクト」の称号を、彼女に送りたいぐらいでした。
でも、150点って高すぎ…かなあ。
なにせGOEが、他の選手(男子含む)とは比べ物にならないぐらい高いっす。
このGOE、かつてのフィギュアの不透明採点と同じ悪しきシステムを産む温床になりつつあるような気がするのですけれど・・・。

ま、何はともあれ、負けは負け。
しかし、己のスタイルを貫き通して堂々と負けた真央ちゃんは、武士(もののふ)の心を持った乙女だと思います。
あっぱれでありました。

てなわけで、昨日は悔しさを胸に秘めつつ、フィルムセンターで『踊るニュウ・ヨーク(Broadway Melody of 1940)』(1940年、MGM)を観てきますた。
日本語字幕無しの16ミリ上映ですたが、十分楽しめますた。

主役の2人(フレッド・アステア〔Fred Astaire〕、エレノア・パウエル〔Eleanor Powell〕)もさることながら、作詞・作曲がコール・ポーター(Cole Porter)、音楽監督がアルフレッド・ニューマン(Alfred Newman)、編曲が後にプロデューサーとなったロジャー・イーデンス(Roger Edens)と、これまた豪華な布陣です。

これもロジャー・イーデンスのお仕事。


劇中歌で有名なのはなんと言っても『ザッツ・エンターテイメント(That's Entertainment)』でも引用された"Begin the Beguine"でしょうが、


"I've Got My Eyes on You"や "I Concentrate on You"も大好きな曲なので、メロディを聴いただけでうきうきでありました。
特に"I've Got My Eyes on You"、アステアのピン芸が冴えわたります。


女性の写真を前に踊るまくるというのは、後の『恋愛準決勝戦(Royal Wedding)』(1951年、MGM)に通じる趣向のような気もいたします。


上映後、自然と客席から拍手が巻き起こりました。
わたくしももちろん拍手いたしました。
幸せな夜でした(おい、さっき「悔しい」って言ってたのはどこ行ったんだ!)。

あ、どーでもいいけど、ジョージ・マーフィー(George Murphy)って甄子丹に似てねえか?

付記:女子フィギュア、ライバルが韓国だけにその結果をめぐってネット上では本筋とは全く関係のないところで祭りになってるようですな。とほほ。

2010年2月20日土曜日

花咲く乙女たち

〔えいが〕

今日の脳内BGM(本題とは無関係です)。
オリンピックのアイスダンス規定で
タンゴを聴き過ぎたもんで・・・。

1965年、日活。柳瀬観監督。山内賢、舟木一夫、西尾三枝子、堺正章主演。

どうも。
トド@健康診断「血尿」で再検査です。

そういえば。
健康診断、去年のそれでは内科の問診で、

「あなた、甲状腺に結節があるよ!」

との指摘を受けて甲状腺腫瘍が判明、検査の結果、「良性&甲状腺の機能にも異常なし」で事なきを得たのですけれど、今回の問診では、

「その後、(甲状腺の方は)どうですか?」

と経過を聞かれることもなく、

「特に異常はありませんね」

と言われてあっさり終了。

去年の先生と違う人だったということもあるのでしょうが、しかし、それにしても、これでいいんだろうかねえ。

というわけで、本題。
先日、CSで観た映画のメモ。

繊維工場で働く女工さんたちで賑わう愛知県尾西市(現在は一宮市に編入)を舞台に、岐阜からやってきたチンピラ2人組と給食センターで働く青年との友情を軸に、女工さんとのロマンスが絡むという作品で、最後はチンピラたちも無事に更正してめでたしめでたしというお話です。

映画の内容としては、チンピラはやくざの暗部を知ることもなく明るく更正し(指1本差し出しますけれど)、がんに冒された父の治療費を稼ぐためキャバレー勤めを始めようとする女工さんも仲間の友情に救われるという予定調和なオチなのですが、興味深かったのは映画の中で描かれていた女工さんたちの生態。

不肖せんきちはちっとも知らなかったのですが、尾西市というのは毛織物で栄えた街で、日本各地からやって来たうら若き女工さんたちがせっせと仕事に励む姿は、まるで今の中国・深圳のようでした(そういえば、お隣の岐阜市には繊維関係の問屋街があったわね)。

で、思い出したのが、陳秋霞の出ていた台湾映画『一個女工的故事』。

これは1979年の映画ですが、どちらも「経済成長期における女工さん」(いわゆる「女工哀史」的なものではなく)が登場する映画という共通点があるように感じられます。

一方、香港映画で「経済成長期における女工さん」が登場する映画を考えてみると、「女工+女番長」という変り種映画ではありますが、1976年の『沙膽英』あたりがそれかなあとも思うものの(邵音音がすっぽんぽんでサイクリングしちゃう映画ね)、広東語映画の方でもっとぴったりくる映画があるかも知れません。

いずれにしても、経済成長期に入った国あるいは地域において安価な労働力として重宝された女工さんたちを映画の主人公に据える、というのは、いずこの地においても見られた現象のようで、その辺りのことを調べてみるのもちょっと面白いのではないかなあと感じた次第です(既に調べた方がいらっしゃるかも知れませんが)。

付記:女工さんたちの中に、井上清子(光川環世〔李月随〕)の姿もありました。

2010年2月17日水曜日

2010年2月14日日曜日

あゝ忠臣蔵(第33話)内蔵助危機一髪

〔橘ますみ〕〔テレビ〕

あたしのジェミーが帰ってくるわ!
田島令子万歳!

1969年11月15日、関西テレビ・東映。山村聡主演。

どうも。
トド@恭喜發財です。

さて。

初めに、前回の与謝野馨「言霊」発言の続き。
与謝野馨の意気込みとは裏腹に、早くもブーメラン化しつつあるようです、この発言。


首相本人の無心、「聞いていない」 鳩山邦夫氏

 自民党の鳩山邦夫元総務相は13日、都内の個人事務所で記者会見し、兄である鳩山由紀夫首相が母親に資金提供を求めたことを示唆したとも受けとれる自らの12日の発言について「兄が母に金を無心したとは聞いていないし、私も全く知らない」と述べ、首相自身が資金を要請したかどうかは不明との認識を示した…

あらら・・・。

しかし、この記者会見が開かれた頃、東京から遠く離れた宮崎にいた谷垣総裁殿は何も知らずに意気軒昂でおました。


谷垣氏「首相自ら証人喚問で」 母の資金提供問題で追及姿勢

 自民党の谷垣禎一総裁は13日、宮崎市内で講演し、鳩山由紀夫首相への実母からの資金提供問題に関して、「家族の中でいろんな話があったのではないかとの議論が出てきた。首相自ら証人喚問で疑惑を晴らしていかなければならない」と首相自身の喚問の可能性に言及、追及姿勢を一段と強めた。
 谷垣氏は、実弟の自民党の鳩山邦夫元総務相が、首相側の資金要求をうかがわせる実母との会話内容を明らかにしたことを受け、「首相はでっち上げだと気色ばんでいるが、それなら自分か、どなたかが明快な説明をしなければいけない」と指摘、説明責任を果たすよう強く求めた…



これじゃ、かつての民主党の「偽メール事件」よりお粗末だよ。

それに脱税云々を言うのなら、鳩山邦夫だって由紀夫と同じように子供手当を申告していなかったんだから(バレたら慌てて納税・下記画像参照)、由紀夫1人をつかまえて「平成の脱税王」よばわりするのは、いかにも不公平な感じがするわな。





ということで、続報おしまい。
本題に入ります。

橘ますみたんがゲスト出演したテレビ時代劇『あゝ忠臣蔵』の第33話。

ますみたんの役どころは、日本橋の旅籠・小山屋の仲居おきよ。

思いを寄せる番頭が、泊り客であるしの(俵星玄蕃の妹。大原麗子)に対して何かと親切にすることに嫉妬、出入りの岡っ引きに「あやしい人たちが泊まっている」と、素性を隠して投宿中の内蔵助(山村聡)一行のことを告げ口してしまいます。
無論、おきよはその人が実は大石内蔵助であることなど知る由もなく、単に腹いせのために告げ口をしただけだったのですが、これが吉良勢の耳に入り、内蔵助たちの身に危険が迫るのでした…。

この『あゝ忠臣蔵』、ますみたんが主役に抜擢された『大奥』の後番組で、『大奥』でメインキャストを務めた女優さん方もばんばん顔を見せており、そんなこんなでのゲスト出演だったと考えられます。
役柄的には重要とはいえ、演技的には特に見るべきところのない、ごくごく平凡なものでした。

この時期(1969年11月)のますみたんというと、京都から東京へ仕事の基盤を移しつつあった頃で、そう考えてみると、このドラマは1970年1月公開の『日本女侠伝 真赤な度胸花』と共に京都撮影所での最末期の作品といえるかも知れません(注)。

東京へ行く前のささやかな置土産だと思って、観ることにいたします。

おまけ:劇中、小池朝雄演じる片岡源五右衛門とますみたんが会話するシーンがあって、撮影がわし尾元也なんで、その瞬間だけなんだか異常性愛路線ですた。

(注)正確には、『シルクハットの大親分 ちょび髭の熊』(1970年)も京都撮影所作品ですが、この作品は1970年11月公開なので、東京からの出張仕事と見るべきでしょう。

2010年2月12日金曜日

日本暗殺祭り

〔しようもない日常〕〔橘ますみ〕

おつまみはユーカリですか?

どうも。
トド@いろいろ大変です。

さて、今日はブログ更新停滞の言い訳を兼ねたつまらない近況報告…をするつもりだったのですが、その前にちょっと一言。

なんだか、今日の衆議院予算委員会で与謝野馨が鳩山由紀夫のことを「平成の脱税王」と罵倒したばかりか、「一度口に出した言葉は魂を持って地上をさまよう。だから『言霊』と言うんだ」云々(一言一句そのままじゃないけど、だいたいこんな意味)と説教垂れてたけど、よもやご自分の発したこのお言葉(下の画像参照。傍線は不肖せんきちが付させて頂きました)、お忘れになった訳ではありますまいな?

さまよえるお言葉・その1


さまよえるお言葉・その2


またぞろ自民党お得意の「ブーメラン現象」になりそうだな、この「言霊」発言。

と、ひとしきりストレス発散をしたところで、本題に入ります(って、単なる近況報告なんだけど)。

先週末から今週初めの温暖な気候のせいで、不肖せんきち、早くも

体内花粉濃度が100%越え

を記録してしまい、慌てて耳鼻科へ行ってきましたが、9日(火)なんざ、地獄の苦しみでした。

ここ数日は寒い日が続いているのと、雨降りなのでだいぶ助かっていますが、今回、耳鼻科で処方された薬は以下の3種類。

アレロック:『野良猫ロック』や『番格ロック』の姉妹作みたいな名前ですけど、アレルギーの薬らしいっす。
オノンカプセル:元は喘息の薬だったのが、花粉症への効能も認められて処方されるようになったんだとか。

「新しいイソップ童話」
お前が落としたのは、金のオノンかえ?銀のオノンかえ?
・・・斧です。

ナゾネックス:「謎のクリネックス」の略ではなく、1日1回で効果ばつぐんの点鼻薬。たしかに、鼻の通りがよくなっただけでなく、荒れた鼻粘膜が急速に修復されていくのがわかりましたです。

花粉症でお悩みの皆さん、ナゾネックスは超おすすめです。
お医者さんでおねだりしてみましょう。

てなわけで花粉症も小康状態となった昨日、フィルムセンターで『日本暗殺秘録』を観てまいりました。
この映画、月末には浅草名画座でも上映されるし、来月には東映チャンネルでも放映されるので、今回はそんなに混まないだろうとタカを括っていたわたくしでしたが、甘かったですよ、あなた。

満席ですた。

ま、橘ますみたん目当ての客は不肖せんきち1人だったと思いますけれど、フィルムセンターのスクリーンでますみたんの姿を拝むのは、いつもとはまた違った、実に晴れがましい気分でありますた。

そんなこんなで花粉症の具合を見つつブログ更新ということになりそうですが、気長にお付き合い下されば幸いです。

まずはご報告まで。

おまけ

2010年2月6日土曜日

『長い鼻』と『神秘の国インド』

〔えいが〕〔ちょっとお耳に〕
 

どうも。
トド@午後3時から飲み続けて悪酔いしましたです。

さて。

先日、国会図書館で本業(といっても開店休業状態)のお調べ物の合間に『キネマ旬報ベストテン全集 1946-1959』(2000年、キネマ旬報社)をパラパラと捲っていたところ、1958年の公開作品リストにある『長い鼻』と『神秘の国インド』の製作に永田雅一と邵逸夫(ランラン・ショウ)の名前が並んでいるのを発見、その調査の途中経過を以下にご報告するだす。

『長い鼻』と『神秘の国インド』は1958年5月14日から大映系劇場及び日比谷みゆき座で公開された映画で、監督(『神秘の国インド』では構成)はあの『海魔陸を行く』(原作)や『白い山脈』(監督)を手がけた動物映画の巨匠(?)・今村貞雄が務めています。

前記2本の内、『長い鼻』は今村監督が『白い山脈』の後にメガホンを取った作品で、新聞広告によれば、

世界で最初の長篇動物劇映画

との由。

たしかに、当時『キネマ旬報』に掲載されたあらすじを読むと、ある象の一家の物語らしいのですが、『白い山脈』で危ない演出満載の映像を繰り出した今村監督のこと、おそらくこの映画でもやりたい放題の自由な演出をしたであろうことは、想像に難くありません(注1)。
事実、インドロケの模様を伝える1958年2月13日付『読売新聞』(夕刊)では、


…インドの道路には白地に黒文字の道標が実に整然と立てられていますが、密林に入ると逆に黒字の角石に白文字のものです。不思議に思って調べたところゾウは白色を見ると興奮して、けたおしてしまうのだそうです。私はしめたと思い、撮影中木の上から白布を垂らしてゾウをおびきよせましたが彼等の方が利口なのでしょう。一度も攻撃してくれませんでした。(以下略)


という演出上の失敗談を披露、さらには主役のゾウ君たち&調教師と思しき人々と今村監督以下メインスタッフが仲良く写った集合写真も掲載されています。

・・・いいんだよね、劇映画なんだし、ドキュメンタリーじゃないんだからさ(と、自分に言い聞かせる)。

それでは、何ゆえに上記2作品に邵逸夫がイッチョカミしているのか、その理由ですが、以下は不肖せんきちの全くの想像による考察。

大映傘下の生物映画研究所で製作した『白い山脈』がカンヌ映画祭で賞を獲得するという大成功を収めた今村貞雄監督、「今度はいっちょ海外の動物映画でも作るべえ」と考えて永田雅一におねだりしたものの、ネックになったのは撮影資金をどうするかということ。
何しろ人間様の劇映画とは違いますから、撮影期間もそれなりにかかります(注2)。
おまけに当時は、外貨の持ち出し制限もあったはずです。
と、そこへ助け舟を出した(のか永田雅一が頼ったのかは定かではありませんが)のが、邵氏の総帥・邵逸夫。
「なんだ、そんなこと。僕に任せてよ。資金なら都合してあげるから。ただし、香港や東南アジアの配給権はうちに頂戴ね。ついでに共同製作者ってことにしておいてくれるといいなあ」
とか何とか言って、鼻、じゃなくて、首を突っ込んできたのではないか…と思います(注3)。


一方、『神秘の国インド』は『長い鼻』の撮影と同時進行で製作されたドキュメンタリー映画ですが、新聞広告には、


見たこともない不思議な出来事!神秘な伝説!古いインドと新しいインドの珍しい風物を描いて興味深々!


とあり、これまたなんとなーくいかがわしい雰囲気が漂っています。

ちなみに、この2作品、『邵氏電影初探』(2003年、香港電影資料館)巻末の作品リストにはもちろん載っておりませんし、今のところ、日港合作なのか否かに関しては不明なのですが、『楊貴妃』以外にも永田雅一と邵逸夫がタッグを組んだ作品があった、ということは紛れもない事実です。

最後にもう一つ書き添えておくと、2作品とも、

文部省選定

のありがたーいお墨付きを得ていました(この他、「優秀映画鑑賞会推薦」やら「青少年映画審議会推薦」やら「東京都教育映画等審査会選定」の肩書も)。

うーん、でも、やっぱり、妖しい臭いがぷんぷんするなあ。

注1:今村貞雄監督と『白い山脈』に関しては、鷲谷花さんのブログ(「帰ってきたハナログ」)の中に、詳しい考察があります。
今村貞雄と動物(虐待)映画の系譜
http://d.hatena.ne.jp/hana53/20090310/1236655015
白い山脈(1957)
http://d.hatena.ne.jp/hana53/20090310/1236655016

注2:新聞広告の惹句には「インドの密林に象の群を追って1ヵ年」とありますが、上記『読売新聞』の記事によれば、スタッフは1957年7月に現地入りした後、10月に入ってクランクイン、公開が1958年5月ですから、実際の撮影期間は半年ほどのようです。

注3:1955年、松竹が『亡命記』で香港ロケを行ったさいにも、人的援助は國際(電懋の前身)が行いましたが、資金面での援助は邵逸夫が行ったそうです(『キネマ旬報』1955年3月下旬号による)。

2010年2月2日火曜日

2010 阿密特/張惠妹世界巡廻演唱會 日本公演

〔ちょっとお耳に〕


どうも。
トド@再来週の健康診断が怖いです。

さて、本日はうれしいお知らせ。

表記の通り、来日公演が実現する運びとなりました。

2010 阿密特/張惠妹世界巡廻演唱會

とき:2010年4月18日(日)(16:15開場、17:00開演)
ところ:赤坂BLITZ 
料金(税込):スタンディング 8,400円(3才以上のよい子の皆さんはチケットが必要です)

一般発売は3月6日(土)からですが、ただいま、jingさんのA*mei-project内特設ページにおいて先行予約を受け付けております(2月15日〔月〕23:00まで)。
詳しくはそちらをご参照下さい。

皆さまお誘いあわせの上、ご来場下さいまし。

2010年1月31日日曜日

どの『四谷怪談』ですか?

〔えいが〕〔ちょっとお耳に〕

丘は花ざかり(戀愛三重奏)』。
1955年7月に台湾で上映。

どうも。
トド@海老麻央と聞くと海老マヨを思い出すです。

さて。

先だって、福岡で行われた福岡アジア文化賞20周年記念の市民フォーラム、香港から許鞍華(第19回大賞受賞)、台湾から侯孝賢(第10回大賞受賞)の両監督が駆けつけて、映画の上映と対談があったようですが、報道によると(リンク切れになった時のことも考えて魚拓も取りますた)、対談の内容はお2人の監督がどんな日本映画を観ていたか、ということが中心だった模様。

ああ、聞きたかったよ、それ…。

記事中では、侯監督が子供の頃観た日本映画として『三日月童子』や『四谷怪談』等のタイトルが挙げられていますが、『四谷怪談』といってもいろいろありますし、「監督が観たのは、どの『四谷怪談』かなあ?」などど思いつつ、調べてみた結果を以下にまとめてみますた(注1)。

・『三日月童子』(1954年、東映京都)

東千代之介主演の時代劇。
『三日月童子 第一篇 剣雲槍ぶすま』、『三日月童子 第二篇 天馬空を征く』、『三日月童子 完結篇 万里の魔境』の内、第一篇と完結篇が台湾で上映されています。
上映データは下記の通り(タイトルは台湾でのもの)。

1956年9月 『三日月童子』 (第一篇)
1956年10月『萬里鏡』(完結篇)

・『丹下左膳』(1958年、東映京都)

丹下左膳といっても、侯監督が観たのは大友柳太朗のそれですね、おそらく。
1958年10月に台湾で上映されています。





・『宮本武蔵』(1954年、東宝)

『宮本武蔵』もいろいろありますけれど、これは稲垣浩監督版。
1956年2月に台湾で上映されています。

・『モスラ』(1961年、東宝)

日本での公開は1961年7月30日ですが、それから約5ヶ月後の1961年12月20日に『魔斯拉』のタイトルで台湾でも上映されています。

・『四谷怪談』(1959年、大映京都)

通常、『四谷怪談』の映画化作品というと、わたくしなんぞはすぐに中川信夫監督の『東海道四谷怪談』を思い出すのですが、なぜかこの映画は台湾では劇場公開されずじまいでして、台湾で上映されたのは1959年の大映版だったのでありました(1959年9月)。

・『君の名は』(1953年、松竹)

1955年10月に台湾で上映(中文タイトル:『請問芳名』)。
この映画は台湾語映画として、1964年に『請問芳名』(『君の名は』)、『馬蘭之戀』(『君の名は 第二部』)のタイトルで勝手にリメイクされています。

・『三百六十五夜』

『三百六十五夜』には新東宝版(1948年)と東映版(1962年)がありますが、そのどちらも台湾で上映されています。

1955年1月 『三百六十五夜』(新東宝版。「総集編」)
1962年9月 『三百六十五夜』(東映版)

となると、さて、侯監督が観たのはどちらの『三百六十五夜』なのでしょう?
不肖せんきち、新東宝版しか観たことがございません。

・小津安二郎監督のこと

今でこそ香港や台湾でもその名を轟かせている小津監督ですが、戦後の台湾(1972年の日台断交迄)で劇場公開された作品は、実は『晩春(中文タイトル:『處女心』)』のみで、1963年12月12日に亡くなったさいにも17日になって訃報(「日本電影名導演 小津安二郎病逝」)、19日に追悼記事(黄仁氏「日本偉大的電影藝術家 最近逝世的小津安二郎」。いずれも『聯合報』)が掲載されますが、どちら小津監督の生涯と事跡を紹介する内容でした。

ちなみに、成瀬巳喜男監督や溝口健二監督も同様の有様で、独り黒澤明監督の作品だけがそれなりに上映されていたようです(注2)。
以下、台湾上映黒澤作品テキトーリスト(カッコ内が原題)。

1951年6月 『野良犬』(野良犬)
1953年3月 『羅生門』(羅生門)
1959年4月 『戰國英豪』(隠し砦の三悪人)
1960年6月 『七武士』(七人の侍)
1962年3月 『大鏢客』(用心棒)
1963年3月 『天國與地獄』(天国と地獄)
1967年9月 『紅鬍子』(赤ひげ)

・宝田明のこと

宝田さんが香港で人気があったというのは事実ですけれど、台湾でも大人気だったのですよ。
1964年9月、『最長的一夜』撮影のため初めて台湾を訪れた際には、彼の姿見たさに2万人以上のファンが撮影現場に押し寄せたそうです(1964年9月7日付『聯合報』による)。


ま、だいたいにおいて、当時の台湾で上映された日本映画は娯楽作品中心だったので、台湾における日本映画を考える場合には、その辺りの事情をきちんと勘案する必要があるかと思いますです、はい。

てなわけで、撤収!

(注1)上映データは、黄仁氏『日本映画在臺灣』(2008年、秀威資訊)巻末の「1950~1972年臺灣上映之日本電影片目」及び架蔵の『聯合報』コピーを参照しました。

(注2)成瀬監督作品は川島雄三監督との共同作品である『夜の流れ(中文タイトル:『艶妓』)』、溝口監督は『女性の勝利(中文タイトル:『女性的勝利』)』と日港合作映画である『楊貴妃(中文タイトル同じ)』のみが台湾で上映されています。
これら台湾上映作品の偏った傾向に関しては、李幼新氏の「明星的台灣現象」(『跨世紀台灣電影實錄1898-2000〔2005年、文建會・國家電影資料館〕所収)にも若干の考察があります。

2010年1月28日木曜日

寿之助、香港に現わる

〔えいが〕〔ちょっとお耳に〕

この映画とは何の関係もありません。

どうも。
トド@快便です。

ここのところ、政治ブログのチェックばかりしているせいで(だって、大マスコミは例のオザワ騒動に関して、大本営発表を垂れ流すだけだからさあ。そういや、このニュース、恐ろしいねえ〔敢えてゴミ売、もとい、読売の記事にリンク〕。中国や北朝鮮のことをとやかく言う資格ないよ、この国)、ブログ更新のモチベーションを維持することができず、面目次第もございません(ブログじゃないけど、岩上安身さんのTwitter、面白いよ)。
というわけで、アリバイ作り(?)にちょこっと更新。

あ、その前に告知です。

橘ますみたん情報でも取り上げたフィルムセンターの特集上映「アンコール特集:1995-2004年度の上映作品より」にて、『狼火は上海に揚る(春江遺恨)』が上映されます。
上映スケジュールは、下記の通りです。

1月30日(土) 17:00~
2月10日(水) 13:00~

では本題。

1960年代後半から70年代初頭にかけて、香港の邵氏に招かれて多くの日本人スタッフが海を渡ったことはよく知られていますが、嵐寛寿郎の弟子である「ジノやん」こと嵐寿之助もその1人でした。
『鞍馬天狗のおじさんは 聞書アラカン一代』(1976年、白川書院。後、徳間文庫〔1985年〕及びちくま文庫〔1992年〕に収む)には、下記のような一節があります。


石井輝男の作品で、『神火101・殺しの用心棒』、これは松竹作品やったが香港にロケしました。戦後になって、最初の海外旅行です。(略)香港へ行ったんは他にも理由があった。嵐寿之助、ちょっとご無沙汰しとったあのジノやんが、殺陣師に雇われていっとったんです向うに。日本の監督やらカメラマンやら、当時ようけいきましたんや香港の映画会社に(注1)。
こっちゃ斜陽です。あっちゃは景気よろしい、カラテ映画やら、メロドラマやら何つくっても客がくる。テレビ普及しておりまへんよってな、東南アジアは。それで出かせぎにゆく、ジノやんもそのクチです。香港で苦労しとるやろなあ、ひとつ陣中見舞をかねていってみるかと。
ところがあべこべや、中華料理これかなわん。たまにやったらよろしい、油こいやつを朝昼晩、三日もしたら、食欲全然おまへん。ジノやんの宿舎に毎日通うて日本食、貴重な白米すっくり食べてしもうた。梅干・みそ汁・つけもの、つくだ煮から即席ラーメンまでや。何のことはない、陣中見舞が逆にタカリになってもうた。そのときの義理がある、ジノやんの母親が危篤のときワテ香港まで迎えにいった。飛行機代使うて、ところが入れちがいや、ちゃんと日本に帰ってた。トンチンカンな話や、この男とからむと何もかも喜劇になります(注2)。



中華料理が苦手な嵐寛寿郎が、毎日毎日清水湾の邵氏の宿舎までわざわざ通って、寿之助の部屋にあった日本の食材をすっかり食べ尽くしてしまった、というエピソードは笑えますが、上記の文章の中で寿之助は「殺陣師として香港へ渡った」と書かれています。
『中華電影物知り帖』(1996年、キネマ旬報社)所収の「僕の香港映画製作体験 井上梅次インタビュー」には、1966年に井上監督が香港へ渡ったさい、照明班2班と殺陣班2班(1班8名ずつ)の計32名も邵氏と契約した旨の記述がありますので、おそらくはこの中の1人として香港へ向かったのではないかと考えられますが、具体的にどのような作品に関わったのか、詳細は不明です。また、いつまで香港にいたのかも、もちろん不詳です。

邵氏へ招かれた日本人スタッフに関しては、監督やカメラマン、美術、音楽といった方々のお名前は判明していますが、それ以外ではどのような方々がどのような作品に関わっていたのか、未だにわからないままです。
照明や殺陣、振付等々、沢山の方々が海を渡る中で、1970年4月には照明助手として働いていた日本人スタッフが、撮影所の足場から転落して命を落とすという悲しい事故も発生しました(注3)。

今後は、これら名もなきスタッフの皆さんの足跡を少しでも洗い出していくことが必要なのではないかと、不肖せんきちは感じております。

(注1)『神火101 殺しの用心棒』香港ロケの模様を伝える1966年11月5日付『内外タイムス』(「魔窟を舞台に大活劇」)には、「ショーブラザースでやはり芸能人として働いている」とあり、邵氏に招かれたことがわかります。
(注2)ちくま文庫版299~300頁。なお、上記(注1)記事では、嵐寛寿郎は香港で寿之助と偶然再会した(撮影中の寛寿郎の許を寿之助がひょっこり訪ねてきた)と書かれていますが、ここは寛寿郎の記憶に従うべきでしょう。
(注3)1970年4月7日付『読売新聞』(夕刊)による。

2010年1月23日土曜日

東寶豓星 秋子  補遺

〔えいが〕〔ちょっとお耳に〕


どうも。
トド@毎日にんにく食べてますです。

さて。

『復仇』の邦題(『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』)が長いなあというお話を前の記事でいたしましたが、「長いといえば、清水邦夫の戯曲のタイトルも長いのが多かったよなあ」と思い出し、ちょいとピックアップしてみますた。

『雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた』
『あらかじめ失われた恋人たちよ』
『海賊、海を走ればそれは焔……』
『鴉よ、おれたちは弾丸をこめる』
『泣かないのか?泣かないのか一九七三年のために?』
『ぼくらが非情の大河をくだる時』
『ぼくらは生まれ変わった木の葉のように』
『夜よ おれを叫びと逆毛で充す 青春の夜よ』


不肖せんきち、高校時代は演劇部所属(!)でして、『ぼくらは生まれ変わった木の葉のように』なんぞを先輩方が本読みするのを傍らで聞いておりましたが、皆さん、正式名称だとあまりに長すぎるので単に「木の葉」(のこ←古い)とだけ呼んでおりました。

てなところで、本題。

昨年の4月、かつての東宝スター・若林映子が主演したイタリア映画("Akiko")と西ドイツ映画("Bis zum Ende aller Tage")が台湾で公開されていた、というお話を書きましたが、昨年暮れに出た『映画論叢』22号に掲載された「東宝プログラムピクチャーの世界① 東宝の生んだ国際スタア・若林映子インタビュー」に、上記作品の詳しいストーリーや撮影時のエピソードがありました。

それによると、"Bis zum Ende aller Tage"(遥かなる熱風)で彼女が演じたアンナ・スーは、中国人ではなく中国人と日本人のハーフで、撮影は香港ロケの後ハンブルグの撮影所で続きの撮影を行い、他にもペルゴンという島(おそらく、ここがアンナ・スーと結婚するドイツ人男性・グレンの故郷という設定だったのでしょう)でも2週間ほどの撮影を行ったそうです。
また、この映画のオファーは東和の川喜多長政経由によるものだったとの由。

なるほどねえ。

インタビューの最後には、


やはり私の中では、東宝の協力で抜擢されたヨーロッパの三作品(上記2作品の他にイタリア映画"Le Orientali"・せんきち注)に出演できたことが大きいですね。今はミニシアターがたくさんあって、世界中の映画が輸入されていますけれど、当時はまだそういう時代ではなかったので、日本では公開することが出来ませんでした。(略)映画、娯楽の価値観が大きく変わってしまいましたが、ヨーロッパの三作品を見る機会があれば、私の中でかけがえのない時間の映像ですから、ぜひとも見てみたいと思います。(以下略)


という若林映子のコメントがありましたが、当時、お隣の台湾ではこれらの作品が公開されていたことを考えると、なぜ日本では公開できなかったのかという疑問が再び生じてきます。
そもそも、なにゆえに東和はこれらの作品を配給しなかったのでしょう。
特に"Bis zum Ende aller Tage"(遥かなる熱風)は川喜多長政経由で出演が決まった作品ですから、彼が指示さえすれば日本での公開はそう難しいことではなかったと思うのですが。

なぜなんでしょう?

『復仇』改め『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』オフィシャルサイト

〔えいが〕〔ちょっとお耳に〕


どうも。
トド@そろそろ花粉に襲われつつありますです。

さて。

予定のネタは今夜か明日にでもアップすることにして、今回は情報のみにて失礼。

3月に開催される「大阪アジアン映画祭2010」のオープニング作品として、トー先生の『復仇』改め『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』が上映されることが話題になっていますが、日本版オフィシャルサイトもコソーリ立ち上がっておりました(今のところ〔1月23日現在〕、ググってみてもなぜか上位に来ません)。

冷たい雨に撃て、約束の銃弾を
  http://judan-movie.com/


「絨毯ムービー」、じゃなくて、「冗談ムービー」、でもなくて、「銃弾ムービー」ってことですね。

2010年5月、新宿武蔵野館他にて全国ロードショー

との由。

なんだか長ーい邦題で、記憶力の劣化が進む不肖せんきちの脳みその中ではすでに『恋人よ帰れ!わが胸に』とごっちゃになりつつありますが(ほんとかよ)、3月に大阪へ行けない皆さんは5月を待ちましょう。

わたくしもそういたします。

2010年1月16日土曜日

フィルムセンターでますみたん

〔橘ますみ〕〔ちょっとお耳に〕

なぜこれが「アダルト商品」なんだ?

どうも。
トド@寒ブリ食べたいです。

本題に入る前に。
かつての邵氏明星にして、後には映画美術の方面でも活躍なさった方盈さんが、13日、癌のためお亡くなりになりました。
浅丘ルリ子は知ってるかしら…。

さて、年末年始の休暇を経て、またぞろ「週1ブログ」と化しつつある拙ブログですが、本日は「忘れちゃいやよ」の橘ますみたん情報(ひゃあ、久しぶりだわ)。

来たる1月30日(土)からフィルムセンターで開催される特集「アンコール特集:1995-2000年度の上映作品より」にて、『日本暗殺秘録』(1969年、東映京都。中島貞夫監督)が上映されます。
上映スケジュールは、下記の通り。

2月5日(金) 19:00~
2月11日(木) 16:30~

本作品におけるますみたんの役どころは、農家の娘・友子。
血盟団事件の実行犯の1人である小沼正(千葉ちゃん)と恋に落ち、彼の子を身ごもるという、なかなかに重要な役です。
この映画の後、ますみたんは同じく中島監督の『戦後秘話 宝石略奪』(1970年、東映東京)でヒロインを演じましたが、『日本暗殺秘録』でやはり小沼を巡る女性の1人を演じた賀川雪絵たんが、その後、『戦後秘話 宝石略奪』や『唐獅子警察』(1974年、東映京都)『暴動島根刑務所』(1975年、東映京都)等の中島監督作品で好演しているのを考えると、もうちょっと映画界で頑張っていれば、中島監督から新しい一面を引き出してもらえたのじゃなかろうかと、ファンとしては残念な思いに捉われますです。

ともあれ、フィルムセンターでますみたんの映画が観られるなんて滅多にない機会ですので(しかも重要な役よ!)、既見の方も未見の方も、どうぞ奮ってご来場下さいまし。

と、ここまで書いて、せんきちは考えますた。
石井輝男監督の特集でもやってくれれば、ますみたんの映画がもっと上映されるのではないかと。

そこで、フィルムセンターのホームページにある所蔵フィルム検索で石井輝男監督作品を探してみたところ、ヒットしたのは以下の13本。

『スーパージャイアンツ 鋼鉄の巨人』(1957年、新東宝)
『續 鋼鉄の巨人 スーパージャイアンツ』(1957年、新東宝)
『女体渦巻島』(1960年、新東宝)
『黄線地帯』(1960年、新東宝)
『花と嵐とギャング』(1961年、ニュー東映)
『黄色い風土』(1961年、ニュー東映)
『昭和俠客伝』(1963年、東映東京)
『網走番外地』(1965年、東映東京)
『続 網走番外地』(1965年、東映東京)
『網走番外地 望郷篇』(1965年、東映東京)
『網走番外地 北海篇』(1965年、東映東京)
『網走番外地 南国の対決』(1966年、東映東京)
『爆発!暴走遊戯』(1976年、東映東京)

…無理だな、こりゃ。

付記:『ならず者』と『東京ギャング対香港ギャング』が、ネット上で観られるようになりました。

2010年1月11日月曜日

「阿魯雲伝」3部作

〔ほん〕〔えいが〕


どうも。
トド@眠いけど眠れないです。

さて、これも去年から積み残しになっていた宿題(前回の記事はこちら)。
金綺泳(キム・ギヨン、김기영)監督の『玄海灘は知っている(玄海灘은 알고 있다)』の同名原作小説に始まる「阿魯雲伝」3部作(『玄海灘は知っている』『玄海灘は語らず』『勝者と敗者』)のご紹介。

まず第1部である『玄海灘は知っている』ですが、3分の2ほどの筋は映画と同じで、前回も書いた通り、後半、軍を脱走してからのストーリーが大きく異なります(原作→秀子の女学校時代の先輩を頼って彦根に逃走)。
つまり、映画にある名古屋大空襲下の逃亡劇とその後の群衆大殺到は、映画独自のものということです。
もちろん(?)、観客から笑いが漏れたあの迷場面「ひな祭りの不思議な日本舞踊」や「風呂場で湯女体験」も、原作には登場しません。

また、人物造型も原作と映画とでは異なる部分があり、映画では人間性のかけらもなかった(そのわりに滑稽味漂う人物だったりするのですが)森が、原作では阿魯雲に命を助けられたことによって、人間らしさを取り戻していくという件が見られ、また、阿魯雲に会いに日本へやって来た女性・鄭京姫も、ただ彼に会うためだけでなく、当時、抗日武装闘争の根拠地であった北間島に阿魯雲が脱出をするよう勧める目的を持っていた、ということになっています。
さらに、李家も原作では酒と女をこよなく愛する大男という、かなり豪快な人物に描かれていました(当初は阿魯雲と反目し会うものの、後に大親友になります)。

映画では空襲で亡くなったかと見えた阿魯雲が息を吹き返し、秀子と手を携えて去っていくところで終わりますが、原作は彦根へ逃れた2人のその後を描く第2部『玄海灘は語らず』、終戦後が舞台の第3部『勝者と敗者』へと続きます。
以下は、そのおおまかなストーリー。


『玄海灘は語らず』
秀子の女学校時代の先輩・道代を頼って彦根に来た2人でしたが、やがて居づらくなり、滋賀県大郷村(現・長浜市。このドキュメンタリードラマの舞台になった村です)の朝鮮人集落に身を寄せます。
集落に住む金山の好意で「方泰山」という偽名の協和会会員章を手に入れた阿魯雲は、干拓工事現場で働いた後、金山の仕事を手伝い始めますが、ある日突然徴用されて、秀子と離れ離れの生活を余儀なくされます。
徴用先を脱走した阿魯雲は秀子と2人で愛知へ戻り李家と再会、李家はなじみの女郎・カオルに2人の世話を頼みます。
その後、秀子は病に倒れた母を連れて瀬戸の親戚の許を訪れますが、そこで母の容態が急変、彼女は帰らぬ人となります。
一方、秀子が瀬戸にいることを知らない阿魯雲は彼女を探す途中で機銃掃射を受けて昏倒、軍によって助け出されるのでした。
死んだはずの阿魯雲が生きているとわかり、彼は軍法会議にかけられることになりますが、傷を治すために入院していた陸軍病院でついに終戦を迎えます。

『勝者と敗者』
終戦により軍法会議にかけられることを免れた阿魯雲は、原隊へ戻ることとなりました。
その後、秀子は男の子を出産しますが、李家等の説得に従い、自分と息子(知道)は日本へ残り、阿魯雲が再び日本へやって来る日を待つことにし、阿魯雲には故郷へ帰って祖国建設のために尽力するよう勧める手紙をしたためます。
阿魯雲は李家たちと船に乗り、1人故郷へ帰るのでした。


日本語版『勝者と敗者』は原語版の3分の1弱を削った短縮版になっていますが、第1部で人間性を取り戻したかに見えた森が、原隊に復帰した阿魯雲殺害を企てる件等、登場人物の性格にやや整合性が見られない点が気になりました。
また、秀子と阿魯雲の別れも、「あれしか方法がなかったのかなあ、あの頃は」と思いつつも、その後本当に阿魯雲は妻子を迎えに来ることができただろうかと考えると、少々暗い気持ちにもなりました。
阿魯雲のあの性格だと、故郷へ帰ってからもまた危ない橋を渡りそうですし。

ところで、映画で秀子を演じた孔美都里(コン・ミドリ、인물정보)は、1963年の『玄海灘の雲の橋(현해탄의 구름다리)』では終戦後朝鮮半島に置き去りにされた日本人女性に扮しており、共演した申星一(シン・ソンイル、신성일)との仲が取りざたされたそうです。
ちなみに、1964年6月4日付『読売新聞(夕刊)』掲載の「韓国の映画事情」では、この映画が「好日映画」として紹介され、当時東映で助監督を務めていた韓国出身の朴英勲氏の「統治者の日本は憎かった。しかし、いまの日本に対しては、もっと友好の度をつよめなければと、みな言っているのです。征服者と被征服者の間柄ではなく、お互いに理解し合った形でね」とのコメントが併載されています。

ということで、とりあえず、原作を読んでみてのご紹介でした。
『玄海灘は語らず』、アマゾンのマーケットプレイスだととんでもない値段がついていますが、「日本の古本屋」でなら良心的な値段でお買い求めできますので、皆様もぜひお手に取ってみて下さい。

2010年1月10日日曜日

旅愁の都

〔えいが〕


1962年、宝塚映画・東宝。鈴木英夫監督。宝田明、星由里子、淡路恵子、乙羽信子、藤木悠、上原謙、浜美枝、志村喬、他。

どうも。
トド@休日も働いてます。

都内某所で行われた無料上映会に潜入してきたので、一応メモ(ストーリーは、こちら)。
東宝名物(?)「オレンジ色のニクイ奴(死語)」と化した廃棄寸前のプリントによる上映でしたが、去年の神保町シアターでの上映のさいにもこのプリントを使ったのでしょうか。
なぞだ。

えー、ストーリーをお読み頂くとわかる通り、宝田明が星由里子に一目惚れしてアタックを繰り返すものの、実は星由里子には人には言えないような暗い過去があった…というお話で、その暗い過去というのが、母子家庭で育った星由里子は、稼ぎ手の兄が事故死した上に母親(中北千枝子)が病気で寝込んで経済的に困った末、わずか16歳という年齢でホステスお持ち帰りOKのバーに就職、そんな彼女をお持ち帰りして面倒見ちゃったのが某商事会社の大坂支店長である上原謙だった…って、あんた、それ、援助交際…っていうか、今なら

いんこう(敢えて平仮名表記)



パクられますよ。

しかも、彼女は上原謙の前には幼馴染の藤木悠とも付き合っていたという、なかなかの発展家(?)なのですが、そんな過去を知っても彼女との愛を貫こうとする宝田明の前に立ちはだかるのが淡路恵子。
沖縄出張中の宝田さんを追いかけて行き、オリオンビールを飲ませてお色気攻撃を図ります。
しかし、そんなことに動じない宝田さんは攻撃を難なくかわし、淡路恵子はあえなく玉砕するのでした。

結局、最終的には淡路恵子のはからいで星由里子は沖縄にいる宝田明の許へ飛び、めでたしめでたしとなるんですけど、沖縄でようやく愛を成就させた2人が楽しくドライブする、そのバックにはなぜか不気味な音楽が流れて、あたしゃてっきり車(オープンカー)が横転して2人一緒にあの世へ行っちゃうのかと思ってしまいましたよ。

とまあ、せっかく沖縄が出てくるのに、そこが沖縄である必然性は何も感じられないのが残念ではあるものの(観光映画なのね、よーするに)、何よりも特筆すべきは星由里子の美しさ。
当時の彼女の年齢と同じ19歳という設定でしたが、どこか謎めいた、憂いを含んだ表情に、せんきちの妄想(上原謙とい、いんこう…。藤木悠とはど、どこまで…)は膨らみっぱなしですた。
また、淡路恵子も大人の女の色香十分で、女優さんたちの美しさを堪能できたのが、何よりの収穫でありました。

次はぜひ、きれいなプリントで観てみたいものです。

2010年1月6日水曜日

春美栄光堂のブロマイド

〔えいが〕〔ちょっとお耳に〕

今日発売のDVDマガジン『映像で見る国技大相撲』。
創刊号は、せんきちの永遠のアイドル・初代貴ノ花初優勝の特集。
あのときのことは、今でもありありと思い浮かびます。
しかし、かの有名な「竹ぼうき事件」が「竹刀」になっていたのは、なぜ?

どうも。
トド@「小沢ガールズ」と聞くと「ケントンガールズ」(注)を思い出すです。

さて。

いろいろ調査中のネタもあるのですが、滑り出しはちょいと軽めに…というか、これも前から書こう書こうと思いつつそのままになっていた小ネタ。
昨日、NHKのBS2で『欲望という名の電車(A Streetcar Named Desire)』をやっていたのを観て、ちょいと思い出したので今更うpいたしやす。

昔々(といっても、そう遠い昔じゃないと思うけど)、春美栄光堂という名前のブロマイド屋さんがありますた。
戦前(やっぱり昔々か)は自前の雑誌を出す等ブイブイ言わせていたようですけれど、せんきちが中学生の頃は通販専門でブロマイドを販売する業者さんでした。
とはいえ、戦前からある老舗だけにその在庫数は豊富、せんきちも往年の俳優さんたちのブロマイドをずいぶん購入いたしました。
購入したブロマイドはその後押入れの中にしまいっぱなしになっていましたが、ここ数年の引越騒ぎで久々に日の目を見ましたので、虫干しを兼ねてこちらで一部ご紹介いたします。

当時はヴィヴィアン・リー(Vivien Leigh)のファン
だったので、圧倒的に彼女のものが多いです。

通信販売のリストは、「誰々(スターの名前) 何種類」というような簡素なものだったため、「何度も注文する場合には同じものが来るといやなのでどうしたらよいか?」と手紙で問い合わせたところ、「お手元にある分のかんたんなイラストをお送り下さい。それとは別なものをお送りします」という返事が到着、その後せんきちは新たに注文する際には手持ちのブロマイドをせっせとイラストにして送っていました(すげー手間)。

わたしは誰でしょう?(正解した方、特に景品はございません)

注文を受ける毎に新たにブロマイドを焼いて送ってくれるのか、届いたブロマイドには現像液のにおいがほのかに漂っていました。

再びわたしは誰でしょう?(正解した方、特に景品はございません)

住所を拝見したところ、うちから自転車でそう遠くない距離だったので、「今度、直接買いに行ってもいいですか?」とやはり手紙で問い合わせたら、「今は通信販売のみで、店売りは行っておりません」という返事が来ました。
電話をすると、いつもおばあさんが出た記憶があります。

その他もろもろ。

春美栄光堂の膨大なコレクションは、現在、フィルムセンターが所蔵しているそうですが、展覧会でもやってくれないかしら、いつか。



注:ケントンガールズ(Kenton Girls)とは、

この方や、


この方や、


この方のことを言います。

2010年1月3日日曜日

謹んで新春のお慶びを申し上げます

〔しようもない日常〕

毎日がお正月。

どうも。
トド@退屈です。

えー、そういえば、新年のごあいさつがまだでした。
今年もよろしくお願いいたします。

では(おいおい!)。

付記:新年早々、吳鎮宇がとんでもねえことになってるようですね。ちなみに、不肖せんきちもこの不景気で仕事が減ってとんでもねえことになっています。今年1年無事に生きられるだろうか…(暗いな、正月から)。

2009年12月31日木曜日

一見鍾申(意味不明) (その5)

〔えいが〕〔ちょっとお耳に〕


どうも。
トド@大晦日のテレビ、観る番組がないです。

さて、このネタを年内に終わらせるつもりだったので、一応最終回(前回はこちら)。
また新しいことがわかったら、逐次増補いたします。

・『勾魂黑薔薇』(1988年、冠人)と『野生之旅』(1989年、威華)

80年代末期に中條カメラマンが手がけた2作品。後者は監督作品ですが、よくよく調べてみると、どちらもいわゆる「成人映画(色情片)」らしいのです。
新東宝で映画修行を開始した中條カメラマンは、新東宝倒産後はピンク映画のカメラマンとして一本立ちを果たしますが、自身のキャリア後期になって再びその原点(?)に還ったのかとも思えますが、『跨世紀台灣電影實錄』(2005年、文建會・國家電影資料館)の1987年1月8日の項には、


國内色情片拍攝數量超過正統影片、新聞局電影處乃採釜底袖薪的方式、函告國内三家電影沖印片廠(中影、台北、大都)不得沖印色情影片、否則將依法辦理。


とあり、当時の台湾で「色情片ブーム」とでも呼ぶべき流れが起こり(旧ブログで取り上げたこの映画も1987年の製作)、前述の2作品もこの流れに乗って製作されたもののようであることがわかります(注)。
ただ、なぜこの時期にこんなブームが起きたのかに関しては不明で、いわゆる「黒電影」の果てに徒花のような色情片大豊作(?)があったのか、それとも何か他の理由があったのか、今後の解明が俟たれるところです。

といったところで、今回のネタ及び今年の拙ブログ更新はおしまい。
皆さま、良いお年を。

注:2作品の製作を手がけている鍾明宏なる人物は、この後『處女的誘惑』(1992年)という色情片も製作していますが、この映画の監督はなんと何夢華です。そういえば、郭南宏監督もそのキャリアの末期には色情片を手がけているようです。

2009年12月30日水曜日

一見鍾申(意味不明) (その4)

〔えいが〕〔ちょっとお耳に〕


どうも。
トド@やっぱり大掃除してますです。

例によって、前回の続き。

・郭南宏監督の作品群

そもそもこの記事を書くことになったきっかけが、郭南宏監督の『少林寺への道(少林寺十八銅人)』の撮影を中條カメラマンが「鍾申」という変名で行っていた、ということからですが、中條カメラマンが郭監督作品の撮影を担当したのは、1974年の『廣東好漢』からのようです

追記:その後、leecooさんより、1972年の郭南宏監督作品『單刀赴會』において、「鍾伸」名義で撮影を担当している、とのご教示を賜りました。ありがとうございました。

現時点で判明している郭監督&中條カメラマンの組み合わせによる作品は、下記のようになります。

1972年
『單刀赴會』(「鍾伸」名義)
1974年
『少林功夫』、『怒れドラゴン(廣東好漢)』
1975年
『少林寺への道(少林寺十八銅人)』、『風塵女郎』、『小妹(別題:『春花秋月』)』
1976年
『少林寺への道 十八銅人の逆襲(雍正大破十八銅人)』
1977年
『少林寺炎上(火燒少林寺)』、『少林兄弟(別題:『湘西、劍火、幽魂』『湘西趕屍』『劍火金羅衣』)』
1980年
『武當二十八奇』

『郭南宏電影世界』(2004年、高雄市電影圖書館)所収の「郭南宏電影世界訪談」(郭監督のインタビュー)によれば、1950年代、台湾語映画からそのキャリアをスタートさせた郭南宏監督(映画を撮る前は映画館の看板書きをしていたそうです)は、1960年代に入って北京語映画に転じると李翰祥監督率いる國聯に所属、『明月幾時圓』や『深情比酒濃』といった愛情文芸映画をヒットさせ「文藝片大導演」の称号を得ますが、その後、聯邦で撮った武侠映画『一代劍王』が大ヒットすると今度は「武侠大導演」「百萬大導演」の異名を取るようになります。

と、ここで中條カメラマンが担当した作品群を見直してみると、文芸映画と武侠映画(功夫映画)、そのどちらをも受け持っていたことがわかります(『風塵女郎』と『小妹』は、恬妞主演の文芸映画)。

今日、郭南宏監督は台湾映画史に残る偉大な監督としてその名を知られていますが、全盛期の郭監督作品の多くを中條カメラマンが担当していたという事実は、もっともっと評価されて良いのではないかと、不肖せんきちは考えています。

ところで、『少林寺への道(少林寺十八銅人)』の日本公開ヴァージョンが、当初のバージョンに増補改訂を加えた再編集版だったことは有名ですが、その日本公開ヴァージョンが生まれたいきさつに関しても、前掲の「郭南宏電影世界訪談」で詳しく述べられています。
それによると(以下、超訳&要約)、

1982年(監督のお話では「1981年ごろ」とありますが、『少林寺(少林寺)』の日本公開は1982年11月のことなので、勝手に訂正)、日本ヘラルドから香港の宏華公司を通じて「もう一度『少林寺十八銅人』を観てみたい」と連絡がきた。
実はその3、4年前にもヘラルドは『少林寺十八銅人』を配給したいと言ってきていたが、こちらの希望が50万米ドルからだったのに対し、先方は10~20万米ドルしか払えない、というので、そのときには承諾しなかった。
しかし、日本で『少林寺』が上映されて大ヒットすると、彼らは改めて「『少林寺十八銅人』は売れる」と思ったのか、もう一度観たいと言ってきたのだった。
ヘラルドから社長と国際部長が香港にやってきて『少林寺十八銅人』を観た後、「少し時代遅れの感じがする」とのことだったので、主人公の幼少時代の件を新たに撮り直して再編集するというアイデアを出したところ、ヘラルド側も乗り気になったが、あくまでも契約するかしないかは再編集版を観た後で、とのことだった。
その後、新たに撮り直したものを日本へ送ったが彼らは満足せず、もう一度20日ほどかけて新たに増補したものを日本へ送ると4日後に連絡があり、「大変いい」との返事だったので無事契約を結ぶことになった。

との由。

『少林寺』の日本公開が1982年11月3日、『少林寺への道(少林寺十八銅人)』の日本公開が1983年1月29日ですので、わずか2ヶ月半ほどの間に「ヘラルドからの要請→ヘラルド上層部への試写→再編集その1→ボツ→再編集その2→OK→日本公開」という過程を辿ったことになります。
黄家達の少年時代の場面に『八大門派(少林寺への道3)』の映像が流用されているのは、そんなタイトなスケジュールのせいもあったのでしょうか。
この辺り、お詳しい方にぜひとも再検討していただければと思います。

(つづく)

2009年12月27日日曜日

一見鍾申(意味不明) (その3)

〔えいが〕〔ちょっとお耳に〕


どうも。
トド@大掃除なんてくそ食らえ!です。

昨日、ラピュタ阿佐ヶ谷へ『二人の銀座』を観に行ったついでに、京王百貨店(新宿店)で開催中の「歳末古書市」に立ち寄ってみますた。
特に何を買うということもなかったのですけれど、1982年に朝日新聞社から出た『昭和写真全仕事 series4 大竹省二』をパラパラめくっていたところ、巻頭グラビア「激情の女」の中に橘ますみたんの写真があるのを発見!、即ゲットいたしますた。
写真にはキャプションがなかったものの、せんきちにはすぐに1970年に『ポケットパンチOh!』のグラビアのために撮られた写真と同時期のものだということがわかりますたです。
屈託のない笑顔が素敵な1枚ですた。

ところで、大竹省二といえば、1961年に尤敏を日本で売り出すための写真を撮っており、その中の一部が『週刊公論』(かつて中央公論社が出していた週刊誌)の表紙写真に用いられていますが、それらの写真は残念ながら収録されていませんでした。
『週刊公論』の表紙写真では、この他にも葉楓を撮影したもの等もあり、今回この本に収められた「年譜」を見たら、なるほど、かつて上海の東亜同文学院で学んでいたんですね、大竹氏は。
だから尤敏や葉楓とも、通訳を介さずに直接コミュニケーションを取ることができたのでしょう。

さて、前回の続き。

・『小飛侠』(1970年、現代電影電視實驗中心)

以前、湯浅浪男監督の作品リストの回でもご紹介した作品。
潘壘監督が設立した製作会社・現代電影電視實驗中心での映画で、中條カメラマンは湯浅監督と共にこの会社の専属スタッフでした。
この映画から湯浅監督は「湯濳」という中国風の変名(後に「湯慕華」となり、この名前で台湾に帰化)を名乗り始めますが、中條カメラマンもこの映画から「鍾申」という変名を用いるようになったようです。

『香港影人口述歴史叢書之五:摩登色彩-邁進1960年代』(香港電影資料館)所収の潘壘監督インタビューによれば、現代電影電視實驗中心の経営が傾いた原因の1つに、湯浅監督と中條カメラマンに払う給料があったとのことで、当時、この2人は台湾映画界の通常のスタッフが貰う以上の高額のギャラを取っていたであろうことが、潘壘監督の証言からは窺えます。

・『朱洪武』(1971年、台旭電影事業公司)

これも以前にご紹介した湯浅浪男監督作品(湯慕華名義)『朱洪武續集劉伯温傳』の正編。
この作品も続編同様お子様向け特撮古装片だった模様(徐大均監督。楊群、游龍、祝菁主演)で、続編の特技を黒石恒生(林黒石名義)が担当していたのに対し、こちらの正編では円谷プロから高野宏一(特技指導)、塚本貞重(操演指導)、鈴木儀雄(美術指導)が駆けつけ、特技製作に当たっています。
先だって安藤達己監督にお話をうかがったさい(詳しくはこちらをご参照下さい)、「円谷プロが特技を担当した台湾映画があるらしい」というお話をなさっていらっしゃいましたが、これがその作品だったということになります。
ということは、高野宏一が特技を担当した台湾映画はこの『朱洪武』が最初で、『海魔』は2本目の作品だったわけですね。

勉強になりました。

(つづく)

付記:顧也魯さんがお亡くなりになりました。享年93歳。1996年に出た『中華電影物知り帖』(キネマ旬報社)に顧也魯、舒適、石霊、陳述、劉瓊の対談(「激動の時代を生き抜いた老名優が語る30年代~50年代中華電影秘話」)が掲載されています。

2009年12月25日金曜日

一見鍾申(意味不明) (その2)

〔えいが〕〔ちょっとお耳に〕


どうも。
トド@なんだかだるいです。

さて、前回の続き。

・『悲器』(1966年、湯浅プロ・国映)

以前、こちらのブログでも取り上げた湯浅浪男(湯慕華)監督の作品ですが、不肖せんきち、湯浅監督と中條カメラマンが共に台湾へ渡ったということから、ついうっかり第7グループ(湯浅監督等が設立した独立プロ)時代から2人はずっと行動を共にしていたと勘違いしておりました。
この作品からだったんですね、2人のコンビは。

で、これも以前に書きましたが、その後日台合作映画『母ありて命ある日』撮影のため、2人は台湾へ渡ることになるのでありました(くわしくは、『台湾映画 2009年』〔2009年、東洋思想研究所〕に掲載された「安藤達己監督インタビュー」をお読み下さい)。

ちなみに、先だって発行された『映画論叢』22号(2009年11月、国書刊行会)所収の「三輪彰監督インタビュー 続」には、三輪彰監督が第7グループで映画を撮ることになった経緯や、三輪監督が第7グループから手を引いた後、湯浅監督自身が映画を撮るようになるまでの過程が詳しく記されています。
それによると、湯浅監督は当時新潟県小千谷市の映画館主で(水戸で働いた後、小千谷に行ったのか!)、湯浅監督の依頼で三輪監督は4本のピンク映画を撮ったものの「もう飽きたよ」と言って脱退、そこで湯浅監督が自分で映画を撮ることになり、三輪監督がコンテを書いて湯浅監督がメガホンを取ったのが『夜の魔性』(1964年。岩佐浪男名義)だったのだそうです。
その頃、第7グループのオフィスは赤坂にあり、そこに出入りしていたのが後に湯浅監督の『血と掟』(1965年)で俳優デビューすることになる安藤昇。
湯浅監督が安藤昇を口説いて映画出演を承諾させ、松竹へその企画を持ち込んで製作したとのことです。

あらら、中條カメラマンの話がいつの間にやら湯浅監督の話になっちゃったわ。
次回は軌道修正します。

(つづく)