2010年1月31日日曜日

どの『四谷怪談』ですか?

〔えいが〕〔ちょっとお耳に〕

丘は花ざかり(戀愛三重奏)』。
1955年7月に台湾で上映。

どうも。
トド@海老麻央と聞くと海老マヨを思い出すです。

さて。

先だって、福岡で行われた福岡アジア文化賞20周年記念の市民フォーラム、香港から許鞍華(第19回大賞受賞)、台湾から侯孝賢(第10回大賞受賞)の両監督が駆けつけて、映画の上映と対談があったようですが、報道によると(リンク切れになった時のことも考えて魚拓も取りますた)、対談の内容はお2人の監督がどんな日本映画を観ていたか、ということが中心だった模様。

ああ、聞きたかったよ、それ…。

記事中では、侯監督が子供の頃観た日本映画として『三日月童子』や『四谷怪談』等のタイトルが挙げられていますが、『四谷怪談』といってもいろいろありますし、「監督が観たのは、どの『四谷怪談』かなあ?」などど思いつつ、調べてみた結果を以下にまとめてみますた(注1)。

・『三日月童子』(1954年、東映京都)

東千代之介主演の時代劇。
『三日月童子 第一篇 剣雲槍ぶすま』、『三日月童子 第二篇 天馬空を征く』、『三日月童子 完結篇 万里の魔境』の内、第一篇と完結篇が台湾で上映されています。
上映データは下記の通り(タイトルは台湾でのもの)。

1956年9月 『三日月童子』 (第一篇)
1956年10月『萬里鏡』(完結篇)

・『丹下左膳』(1958年、東映京都)

丹下左膳といっても、侯監督が観たのは大友柳太朗のそれですね、おそらく。
1958年10月に台湾で上映されています。





・『宮本武蔵』(1954年、東宝)

『宮本武蔵』もいろいろありますけれど、これは稲垣浩監督版。
1956年2月に台湾で上映されています。

・『モスラ』(1961年、東宝)

日本での公開は1961年7月30日ですが、それから約5ヶ月後の1961年12月20日に『魔斯拉』のタイトルで台湾でも上映されています。

・『四谷怪談』(1959年、大映京都)

通常、『四谷怪談』の映画化作品というと、わたくしなんぞはすぐに中川信夫監督の『東海道四谷怪談』を思い出すのですが、なぜかこの映画は台湾では劇場公開されずじまいでして、台湾で上映されたのは1959年の大映版だったのでありました(1959年9月)。

・『君の名は』(1953年、松竹)

1955年10月に台湾で上映(中文タイトル:『請問芳名』)。
この映画は台湾語映画として、1964年に『請問芳名』(『君の名は』)、『馬蘭之戀』(『君の名は 第二部』)のタイトルで勝手にリメイクされています。

・『三百六十五夜』

『三百六十五夜』には新東宝版(1948年)と東映版(1962年)がありますが、そのどちらも台湾で上映されています。

1955年1月 『三百六十五夜』(新東宝版。「総集編」)
1962年9月 『三百六十五夜』(東映版)

となると、さて、侯監督が観たのはどちらの『三百六十五夜』なのでしょう?
不肖せんきち、新東宝版しか観たことがございません。

・小津安二郎監督のこと

今でこそ香港や台湾でもその名を轟かせている小津監督ですが、戦後の台湾(1972年の日台断交迄)で劇場公開された作品は、実は『晩春(中文タイトル:『處女心』)』のみで、1963年12月12日に亡くなったさいにも17日になって訃報(「日本電影名導演 小津安二郎病逝」)、19日に追悼記事(黄仁氏「日本偉大的電影藝術家 最近逝世的小津安二郎」。いずれも『聯合報』)が掲載されますが、どちら小津監督の生涯と事跡を紹介する内容でした。

ちなみに、成瀬巳喜男監督や溝口健二監督も同様の有様で、独り黒澤明監督の作品だけがそれなりに上映されていたようです(注2)。
以下、台湾上映黒澤作品テキトーリスト(カッコ内が原題)。

1951年6月 『野良犬』(野良犬)
1953年3月 『羅生門』(羅生門)
1959年4月 『戰國英豪』(隠し砦の三悪人)
1960年6月 『七武士』(七人の侍)
1962年3月 『大鏢客』(用心棒)
1963年3月 『天國與地獄』(天国と地獄)
1967年9月 『紅鬍子』(赤ひげ)

・宝田明のこと

宝田さんが香港で人気があったというのは事実ですけれど、台湾でも大人気だったのですよ。
1964年9月、『最長的一夜』撮影のため初めて台湾を訪れた際には、彼の姿見たさに2万人以上のファンが撮影現場に押し寄せたそうです(1964年9月7日付『聯合報』による)。


ま、だいたいにおいて、当時の台湾で上映された日本映画は娯楽作品中心だったので、台湾における日本映画を考える場合には、その辺りの事情をきちんと勘案する必要があるかと思いますです、はい。

てなわけで、撤収!

(注1)上映データは、黄仁氏『日本映画在臺灣』(2008年、秀威資訊)巻末の「1950~1972年臺灣上映之日本電影片目」及び架蔵の『聯合報』コピーを参照しました。

(注2)成瀬監督作品は川島雄三監督との共同作品である『夜の流れ(中文タイトル:『艶妓』)』、溝口監督は『女性の勝利(中文タイトル:『女性的勝利』)』と日港合作映画である『楊貴妃(中文タイトル同じ)』のみが台湾で上映されています。
これら台湾上映作品の偏った傾向に関しては、李幼新氏の「明星的台灣現象」(『跨世紀台灣電影實錄1898-2000〔2005年、文建會・國家電影資料館〕所収)にも若干の考察があります。

2010年1月28日木曜日

寿之助、香港に現わる

〔えいが〕〔ちょっとお耳に〕

この映画とは何の関係もありません。

どうも。
トド@快便です。

ここのところ、政治ブログのチェックばかりしているせいで(だって、大マスコミは例のオザワ騒動に関して、大本営発表を垂れ流すだけだからさあ。そういや、このニュース、恐ろしいねえ〔敢えてゴミ売、もとい、読売の記事にリンク〕。中国や北朝鮮のことをとやかく言う資格ないよ、この国)、ブログ更新のモチベーションを維持することができず、面目次第もございません(ブログじゃないけど、岩上安身さんのTwitter、面白いよ)。
というわけで、アリバイ作り(?)にちょこっと更新。

あ、その前に告知です。

橘ますみたん情報でも取り上げたフィルムセンターの特集上映「アンコール特集:1995-2004年度の上映作品より」にて、『狼火は上海に揚る(春江遺恨)』が上映されます。
上映スケジュールは、下記の通りです。

1月30日(土) 17:00~
2月10日(水) 13:00~

では本題。

1960年代後半から70年代初頭にかけて、香港の邵氏に招かれて多くの日本人スタッフが海を渡ったことはよく知られていますが、嵐寛寿郎の弟子である「ジノやん」こと嵐寿之助もその1人でした。
『鞍馬天狗のおじさんは 聞書アラカン一代』(1976年、白川書院。後、徳間文庫〔1985年〕及びちくま文庫〔1992年〕に収む)には、下記のような一節があります。


石井輝男の作品で、『神火101・殺しの用心棒』、これは松竹作品やったが香港にロケしました。戦後になって、最初の海外旅行です。(略)香港へ行ったんは他にも理由があった。嵐寿之助、ちょっとご無沙汰しとったあのジノやんが、殺陣師に雇われていっとったんです向うに。日本の監督やらカメラマンやら、当時ようけいきましたんや香港の映画会社に(注1)。
こっちゃ斜陽です。あっちゃは景気よろしい、カラテ映画やら、メロドラマやら何つくっても客がくる。テレビ普及しておりまへんよってな、東南アジアは。それで出かせぎにゆく、ジノやんもそのクチです。香港で苦労しとるやろなあ、ひとつ陣中見舞をかねていってみるかと。
ところがあべこべや、中華料理これかなわん。たまにやったらよろしい、油こいやつを朝昼晩、三日もしたら、食欲全然おまへん。ジノやんの宿舎に毎日通うて日本食、貴重な白米すっくり食べてしもうた。梅干・みそ汁・つけもの、つくだ煮から即席ラーメンまでや。何のことはない、陣中見舞が逆にタカリになってもうた。そのときの義理がある、ジノやんの母親が危篤のときワテ香港まで迎えにいった。飛行機代使うて、ところが入れちがいや、ちゃんと日本に帰ってた。トンチンカンな話や、この男とからむと何もかも喜劇になります(注2)。



中華料理が苦手な嵐寛寿郎が、毎日毎日清水湾の邵氏の宿舎までわざわざ通って、寿之助の部屋にあった日本の食材をすっかり食べ尽くしてしまった、というエピソードは笑えますが、上記の文章の中で寿之助は「殺陣師として香港へ渡った」と書かれています。
『中華電影物知り帖』(1996年、キネマ旬報社)所収の「僕の香港映画製作体験 井上梅次インタビュー」には、1966年に井上監督が香港へ渡ったさい、照明班2班と殺陣班2班(1班8名ずつ)の計32名も邵氏と契約した旨の記述がありますので、おそらくはこの中の1人として香港へ向かったのではないかと考えられますが、具体的にどのような作品に関わったのか、詳細は不明です。また、いつまで香港にいたのかも、もちろん不詳です。

邵氏へ招かれた日本人スタッフに関しては、監督やカメラマン、美術、音楽といった方々のお名前は判明していますが、それ以外ではどのような方々がどのような作品に関わっていたのか、未だにわからないままです。
照明や殺陣、振付等々、沢山の方々が海を渡る中で、1970年4月には照明助手として働いていた日本人スタッフが、撮影所の足場から転落して命を落とすという悲しい事故も発生しました(注3)。

今後は、これら名もなきスタッフの皆さんの足跡を少しでも洗い出していくことが必要なのではないかと、不肖せんきちは感じております。

(注1)『神火101 殺しの用心棒』香港ロケの模様を伝える1966年11月5日付『内外タイムス』(「魔窟を舞台に大活劇」)には、「ショーブラザースでやはり芸能人として働いている」とあり、邵氏に招かれたことがわかります。
(注2)ちくま文庫版299~300頁。なお、上記(注1)記事では、嵐寛寿郎は香港で寿之助と偶然再会した(撮影中の寛寿郎の許を寿之助がひょっこり訪ねてきた)と書かれていますが、ここは寛寿郎の記憶に従うべきでしょう。
(注3)1970年4月7日付『読売新聞』(夕刊)による。

2010年1月23日土曜日

東寶豓星 秋子  補遺

〔えいが〕〔ちょっとお耳に〕


どうも。
トド@毎日にんにく食べてますです。

さて。

『復仇』の邦題(『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』)が長いなあというお話を前の記事でいたしましたが、「長いといえば、清水邦夫の戯曲のタイトルも長いのが多かったよなあ」と思い出し、ちょいとピックアップしてみますた。

『雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた』
『あらかじめ失われた恋人たちよ』
『海賊、海を走ればそれは焔……』
『鴉よ、おれたちは弾丸をこめる』
『泣かないのか?泣かないのか一九七三年のために?』
『ぼくらが非情の大河をくだる時』
『ぼくらは生まれ変わった木の葉のように』
『夜よ おれを叫びと逆毛で充す 青春の夜よ』


不肖せんきち、高校時代は演劇部所属(!)でして、『ぼくらは生まれ変わった木の葉のように』なんぞを先輩方が本読みするのを傍らで聞いておりましたが、皆さん、正式名称だとあまりに長すぎるので単に「木の葉」(のこ←古い)とだけ呼んでおりました。

てなところで、本題。

昨年の4月、かつての東宝スター・若林映子が主演したイタリア映画("Akiko")と西ドイツ映画("Bis zum Ende aller Tage")が台湾で公開されていた、というお話を書きましたが、昨年暮れに出た『映画論叢』22号に掲載された「東宝プログラムピクチャーの世界① 東宝の生んだ国際スタア・若林映子インタビュー」に、上記作品の詳しいストーリーや撮影時のエピソードがありました。

それによると、"Bis zum Ende aller Tage"(遥かなる熱風)で彼女が演じたアンナ・スーは、中国人ではなく中国人と日本人のハーフで、撮影は香港ロケの後ハンブルグの撮影所で続きの撮影を行い、他にもペルゴンという島(おそらく、ここがアンナ・スーと結婚するドイツ人男性・グレンの故郷という設定だったのでしょう)でも2週間ほどの撮影を行ったそうです。
また、この映画のオファーは東和の川喜多長政経由によるものだったとの由。

なるほどねえ。

インタビューの最後には、


やはり私の中では、東宝の協力で抜擢されたヨーロッパの三作品(上記2作品の他にイタリア映画"Le Orientali"・せんきち注)に出演できたことが大きいですね。今はミニシアターがたくさんあって、世界中の映画が輸入されていますけれど、当時はまだそういう時代ではなかったので、日本では公開することが出来ませんでした。(略)映画、娯楽の価値観が大きく変わってしまいましたが、ヨーロッパの三作品を見る機会があれば、私の中でかけがえのない時間の映像ですから、ぜひとも見てみたいと思います。(以下略)


という若林映子のコメントがありましたが、当時、お隣の台湾ではこれらの作品が公開されていたことを考えると、なぜ日本では公開できなかったのかという疑問が再び生じてきます。
そもそも、なにゆえに東和はこれらの作品を配給しなかったのでしょう。
特に"Bis zum Ende aller Tage"(遥かなる熱風)は川喜多長政経由で出演が決まった作品ですから、彼が指示さえすれば日本での公開はそう難しいことではなかったと思うのですが。

なぜなんでしょう?

『復仇』改め『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』オフィシャルサイト

〔えいが〕〔ちょっとお耳に〕


どうも。
トド@そろそろ花粉に襲われつつありますです。

さて。

予定のネタは今夜か明日にでもアップすることにして、今回は情報のみにて失礼。

3月に開催される「大阪アジアン映画祭2010」のオープニング作品として、トー先生の『復仇』改め『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』が上映されることが話題になっていますが、日本版オフィシャルサイトもコソーリ立ち上がっておりました(今のところ〔1月23日現在〕、ググってみてもなぜか上位に来ません)。

冷たい雨に撃て、約束の銃弾を
  http://judan-movie.com/


「絨毯ムービー」、じゃなくて、「冗談ムービー」、でもなくて、「銃弾ムービー」ってことですね。

2010年5月、新宿武蔵野館他にて全国ロードショー

との由。

なんだか長ーい邦題で、記憶力の劣化が進む不肖せんきちの脳みその中ではすでに『恋人よ帰れ!わが胸に』とごっちゃになりつつありますが(ほんとかよ)、3月に大阪へ行けない皆さんは5月を待ちましょう。

わたくしもそういたします。

2010年1月16日土曜日

フィルムセンターでますみたん

〔橘ますみ〕〔ちょっとお耳に〕

なぜこれが「アダルト商品」なんだ?

どうも。
トド@寒ブリ食べたいです。

本題に入る前に。
かつての邵氏明星にして、後には映画美術の方面でも活躍なさった方盈さんが、13日、癌のためお亡くなりになりました。
浅丘ルリ子は知ってるかしら…。

さて、年末年始の休暇を経て、またぞろ「週1ブログ」と化しつつある拙ブログですが、本日は「忘れちゃいやよ」の橘ますみたん情報(ひゃあ、久しぶりだわ)。

来たる1月30日(土)からフィルムセンターで開催される特集「アンコール特集:1995-2000年度の上映作品より」にて、『日本暗殺秘録』(1969年、東映京都。中島貞夫監督)が上映されます。
上映スケジュールは、下記の通り。

2月5日(金) 19:00~
2月11日(木) 16:30~

本作品におけるますみたんの役どころは、農家の娘・友子。
血盟団事件の実行犯の1人である小沼正(千葉ちゃん)と恋に落ち、彼の子を身ごもるという、なかなかに重要な役です。
この映画の後、ますみたんは同じく中島監督の『戦後秘話 宝石略奪』(1970年、東映東京)でヒロインを演じましたが、『日本暗殺秘録』でやはり小沼を巡る女性の1人を演じた賀川雪絵たんが、その後、『戦後秘話 宝石略奪』や『唐獅子警察』(1974年、東映京都)『暴動島根刑務所』(1975年、東映京都)等の中島監督作品で好演しているのを考えると、もうちょっと映画界で頑張っていれば、中島監督から新しい一面を引き出してもらえたのじゃなかろうかと、ファンとしては残念な思いに捉われますです。

ともあれ、フィルムセンターでますみたんの映画が観られるなんて滅多にない機会ですので(しかも重要な役よ!)、既見の方も未見の方も、どうぞ奮ってご来場下さいまし。

と、ここまで書いて、せんきちは考えますた。
石井輝男監督の特集でもやってくれれば、ますみたんの映画がもっと上映されるのではないかと。

そこで、フィルムセンターのホームページにある所蔵フィルム検索で石井輝男監督作品を探してみたところ、ヒットしたのは以下の13本。

『スーパージャイアンツ 鋼鉄の巨人』(1957年、新東宝)
『續 鋼鉄の巨人 スーパージャイアンツ』(1957年、新東宝)
『女体渦巻島』(1960年、新東宝)
『黄線地帯』(1960年、新東宝)
『花と嵐とギャング』(1961年、ニュー東映)
『黄色い風土』(1961年、ニュー東映)
『昭和俠客伝』(1963年、東映東京)
『網走番外地』(1965年、東映東京)
『続 網走番外地』(1965年、東映東京)
『網走番外地 望郷篇』(1965年、東映東京)
『網走番外地 北海篇』(1965年、東映東京)
『網走番外地 南国の対決』(1966年、東映東京)
『爆発!暴走遊戯』(1976年、東映東京)

…無理だな、こりゃ。

付記:『ならず者』と『東京ギャング対香港ギャング』が、ネット上で観られるようになりました。

2010年1月11日月曜日

「阿魯雲伝」3部作

〔ほん〕〔えいが〕


どうも。
トド@眠いけど眠れないです。

さて、これも去年から積み残しになっていた宿題(前回の記事はこちら)。
金綺泳(キム・ギヨン、김기영)監督の『玄海灘は知っている(玄海灘은 알고 있다)』の同名原作小説に始まる「阿魯雲伝」3部作(『玄海灘は知っている』『玄海灘は語らず』『勝者と敗者』)のご紹介。

まず第1部である『玄海灘は知っている』ですが、3分の2ほどの筋は映画と同じで、前回も書いた通り、後半、軍を脱走してからのストーリーが大きく異なります(原作→秀子の女学校時代の先輩を頼って彦根に逃走)。
つまり、映画にある名古屋大空襲下の逃亡劇とその後の群衆大殺到は、映画独自のものということです。
もちろん(?)、観客から笑いが漏れたあの迷場面「ひな祭りの不思議な日本舞踊」や「風呂場で湯女体験」も、原作には登場しません。

また、人物造型も原作と映画とでは異なる部分があり、映画では人間性のかけらもなかった(そのわりに滑稽味漂う人物だったりするのですが)森が、原作では阿魯雲に命を助けられたことによって、人間らしさを取り戻していくという件が見られ、また、阿魯雲に会いに日本へやって来た女性・鄭京姫も、ただ彼に会うためだけでなく、当時、抗日武装闘争の根拠地であった北間島に阿魯雲が脱出をするよう勧める目的を持っていた、ということになっています。
さらに、李家も原作では酒と女をこよなく愛する大男という、かなり豪快な人物に描かれていました(当初は阿魯雲と反目し会うものの、後に大親友になります)。

映画では空襲で亡くなったかと見えた阿魯雲が息を吹き返し、秀子と手を携えて去っていくところで終わりますが、原作は彦根へ逃れた2人のその後を描く第2部『玄海灘は語らず』、終戦後が舞台の第3部『勝者と敗者』へと続きます。
以下は、そのおおまかなストーリー。


『玄海灘は語らず』
秀子の女学校時代の先輩・道代を頼って彦根に来た2人でしたが、やがて居づらくなり、滋賀県大郷村(現・長浜市。このドキュメンタリードラマの舞台になった村です)の朝鮮人集落に身を寄せます。
集落に住む金山の好意で「方泰山」という偽名の協和会会員章を手に入れた阿魯雲は、干拓工事現場で働いた後、金山の仕事を手伝い始めますが、ある日突然徴用されて、秀子と離れ離れの生活を余儀なくされます。
徴用先を脱走した阿魯雲は秀子と2人で愛知へ戻り李家と再会、李家はなじみの女郎・カオルに2人の世話を頼みます。
その後、秀子は病に倒れた母を連れて瀬戸の親戚の許を訪れますが、そこで母の容態が急変、彼女は帰らぬ人となります。
一方、秀子が瀬戸にいることを知らない阿魯雲は彼女を探す途中で機銃掃射を受けて昏倒、軍によって助け出されるのでした。
死んだはずの阿魯雲が生きているとわかり、彼は軍法会議にかけられることになりますが、傷を治すために入院していた陸軍病院でついに終戦を迎えます。

『勝者と敗者』
終戦により軍法会議にかけられることを免れた阿魯雲は、原隊へ戻ることとなりました。
その後、秀子は男の子を出産しますが、李家等の説得に従い、自分と息子(知道)は日本へ残り、阿魯雲が再び日本へやって来る日を待つことにし、阿魯雲には故郷へ帰って祖国建設のために尽力するよう勧める手紙をしたためます。
阿魯雲は李家たちと船に乗り、1人故郷へ帰るのでした。


日本語版『勝者と敗者』は原語版の3分の1弱を削った短縮版になっていますが、第1部で人間性を取り戻したかに見えた森が、原隊に復帰した阿魯雲殺害を企てる件等、登場人物の性格にやや整合性が見られない点が気になりました。
また、秀子と阿魯雲の別れも、「あれしか方法がなかったのかなあ、あの頃は」と思いつつも、その後本当に阿魯雲は妻子を迎えに来ることができただろうかと考えると、少々暗い気持ちにもなりました。
阿魯雲のあの性格だと、故郷へ帰ってからもまた危ない橋を渡りそうですし。

ところで、映画で秀子を演じた孔美都里(コン・ミドリ、인물정보)は、1963年の『玄海灘の雲の橋(현해탄의 구름다리)』では終戦後朝鮮半島に置き去りにされた日本人女性に扮しており、共演した申星一(シン・ソンイル、신성일)との仲が取りざたされたそうです。
ちなみに、1964年6月4日付『読売新聞(夕刊)』掲載の「韓国の映画事情」では、この映画が「好日映画」として紹介され、当時東映で助監督を務めていた韓国出身の朴英勲氏の「統治者の日本は憎かった。しかし、いまの日本に対しては、もっと友好の度をつよめなければと、みな言っているのです。征服者と被征服者の間柄ではなく、お互いに理解し合った形でね」とのコメントが併載されています。

ということで、とりあえず、原作を読んでみてのご紹介でした。
『玄海灘は語らず』、アマゾンのマーケットプレイスだととんでもない値段がついていますが、「日本の古本屋」でなら良心的な値段でお買い求めできますので、皆様もぜひお手に取ってみて下さい。

2010年1月10日日曜日

旅愁の都

〔えいが〕


1962年、宝塚映画・東宝。鈴木英夫監督。宝田明、星由里子、淡路恵子、乙羽信子、藤木悠、上原謙、浜美枝、志村喬、他。

どうも。
トド@休日も働いてます。

都内某所で行われた無料上映会に潜入してきたので、一応メモ(ストーリーは、こちら)。
東宝名物(?)「オレンジ色のニクイ奴(死語)」と化した廃棄寸前のプリントによる上映でしたが、去年の神保町シアターでの上映のさいにもこのプリントを使ったのでしょうか。
なぞだ。

えー、ストーリーをお読み頂くとわかる通り、宝田明が星由里子に一目惚れしてアタックを繰り返すものの、実は星由里子には人には言えないような暗い過去があった…というお話で、その暗い過去というのが、母子家庭で育った星由里子は、稼ぎ手の兄が事故死した上に母親(中北千枝子)が病気で寝込んで経済的に困った末、わずか16歳という年齢でホステスお持ち帰りOKのバーに就職、そんな彼女をお持ち帰りして面倒見ちゃったのが某商事会社の大坂支店長である上原謙だった…って、あんた、それ、援助交際…っていうか、今なら

いんこう(敢えて平仮名表記)



パクられますよ。

しかも、彼女は上原謙の前には幼馴染の藤木悠とも付き合っていたという、なかなかの発展家(?)なのですが、そんな過去を知っても彼女との愛を貫こうとする宝田明の前に立ちはだかるのが淡路恵子。
沖縄出張中の宝田さんを追いかけて行き、オリオンビールを飲ませてお色気攻撃を図ります。
しかし、そんなことに動じない宝田さんは攻撃を難なくかわし、淡路恵子はあえなく玉砕するのでした。

結局、最終的には淡路恵子のはからいで星由里子は沖縄にいる宝田明の許へ飛び、めでたしめでたしとなるんですけど、沖縄でようやく愛を成就させた2人が楽しくドライブする、そのバックにはなぜか不気味な音楽が流れて、あたしゃてっきり車(オープンカー)が横転して2人一緒にあの世へ行っちゃうのかと思ってしまいましたよ。

とまあ、せっかく沖縄が出てくるのに、そこが沖縄である必然性は何も感じられないのが残念ではあるものの(観光映画なのね、よーするに)、何よりも特筆すべきは星由里子の美しさ。
当時の彼女の年齢と同じ19歳という設定でしたが、どこか謎めいた、憂いを含んだ表情に、せんきちの妄想(上原謙とい、いんこう…。藤木悠とはど、どこまで…)は膨らみっぱなしですた。
また、淡路恵子も大人の女の色香十分で、女優さんたちの美しさを堪能できたのが、何よりの収穫でありました。

次はぜひ、きれいなプリントで観てみたいものです。

2010年1月6日水曜日

春美栄光堂のブロマイド

〔えいが〕〔ちょっとお耳に〕

今日発売のDVDマガジン『映像で見る国技大相撲』。
創刊号は、せんきちの永遠のアイドル・初代貴ノ花初優勝の特集。
あのときのことは、今でもありありと思い浮かびます。
しかし、かの有名な「竹ぼうき事件」が「竹刀」になっていたのは、なぜ?

どうも。
トド@「小沢ガールズ」と聞くと「ケントンガールズ」(注)を思い出すです。

さて。

いろいろ調査中のネタもあるのですが、滑り出しはちょいと軽めに…というか、これも前から書こう書こうと思いつつそのままになっていた小ネタ。
昨日、NHKのBS2で『欲望という名の電車(A Streetcar Named Desire)』をやっていたのを観て、ちょいと思い出したので今更うpいたしやす。

昔々(といっても、そう遠い昔じゃないと思うけど)、春美栄光堂という名前のブロマイド屋さんがありますた。
戦前(やっぱり昔々か)は自前の雑誌を出す等ブイブイ言わせていたようですけれど、せんきちが中学生の頃は通販専門でブロマイドを販売する業者さんでした。
とはいえ、戦前からある老舗だけにその在庫数は豊富、せんきちも往年の俳優さんたちのブロマイドをずいぶん購入いたしました。
購入したブロマイドはその後押入れの中にしまいっぱなしになっていましたが、ここ数年の引越騒ぎで久々に日の目を見ましたので、虫干しを兼ねてこちらで一部ご紹介いたします。

当時はヴィヴィアン・リー(Vivien Leigh)のファン
だったので、圧倒的に彼女のものが多いです。

通信販売のリストは、「誰々(スターの名前) 何種類」というような簡素なものだったため、「何度も注文する場合には同じものが来るといやなのでどうしたらよいか?」と手紙で問い合わせたところ、「お手元にある分のかんたんなイラストをお送り下さい。それとは別なものをお送りします」という返事が到着、その後せんきちは新たに注文する際には手持ちのブロマイドをせっせとイラストにして送っていました(すげー手間)。

わたしは誰でしょう?(正解した方、特に景品はございません)

注文を受ける毎に新たにブロマイドを焼いて送ってくれるのか、届いたブロマイドには現像液のにおいがほのかに漂っていました。

再びわたしは誰でしょう?(正解した方、特に景品はございません)

住所を拝見したところ、うちから自転車でそう遠くない距離だったので、「今度、直接買いに行ってもいいですか?」とやはり手紙で問い合わせたら、「今は通信販売のみで、店売りは行っておりません」という返事が来ました。
電話をすると、いつもおばあさんが出た記憶があります。

その他もろもろ。

春美栄光堂の膨大なコレクションは、現在、フィルムセンターが所蔵しているそうですが、展覧会でもやってくれないかしら、いつか。



注:ケントンガールズ(Kenton Girls)とは、

この方や、


この方や、


この方のことを言います。

2010年1月3日日曜日

謹んで新春のお慶びを申し上げます

〔しようもない日常〕

毎日がお正月。

どうも。
トド@退屈です。

えー、そういえば、新年のごあいさつがまだでした。
今年もよろしくお願いいたします。

では(おいおい!)。

付記:新年早々、吳鎮宇がとんでもねえことになってるようですね。ちなみに、不肖せんきちもこの不景気で仕事が減ってとんでもねえことになっています。今年1年無事に生きられるだろうか…(暗いな、正月から)。

2009年12月31日木曜日

一見鍾申(意味不明) (その5)

〔えいが〕〔ちょっとお耳に〕


どうも。
トド@大晦日のテレビ、観る番組がないです。

さて、このネタを年内に終わらせるつもりだったので、一応最終回(前回はこちら)。
また新しいことがわかったら、逐次増補いたします。

・『勾魂黑薔薇』(1988年、冠人)と『野生之旅』(1989年、威華)

80年代末期に中條カメラマンが手がけた2作品。後者は監督作品ですが、よくよく調べてみると、どちらもいわゆる「成人映画(色情片)」らしいのです。
新東宝で映画修行を開始した中條カメラマンは、新東宝倒産後はピンク映画のカメラマンとして一本立ちを果たしますが、自身のキャリア後期になって再びその原点(?)に還ったのかとも思えますが、『跨世紀台灣電影實錄』(2005年、文建會・國家電影資料館)の1987年1月8日の項には、


國内色情片拍攝數量超過正統影片、新聞局電影處乃採釜底袖薪的方式、函告國内三家電影沖印片廠(中影、台北、大都)不得沖印色情影片、否則將依法辦理。


とあり、当時の台湾で「色情片ブーム」とでも呼ぶべき流れが起こり(旧ブログで取り上げたこの映画も1987年の製作)、前述の2作品もこの流れに乗って製作されたもののようであることがわかります(注)。
ただ、なぜこの時期にこんなブームが起きたのかに関しては不明で、いわゆる「黒電影」の果てに徒花のような色情片大豊作(?)があったのか、それとも何か他の理由があったのか、今後の解明が俟たれるところです。

といったところで、今回のネタ及び今年の拙ブログ更新はおしまい。
皆さま、良いお年を。

注:2作品の製作を手がけている鍾明宏なる人物は、この後『處女的誘惑』(1992年)という色情片も製作していますが、この映画の監督はなんと何夢華です。そういえば、郭南宏監督もそのキャリアの末期には色情片を手がけているようです。

2009年12月30日水曜日

一見鍾申(意味不明) (その4)

〔えいが〕〔ちょっとお耳に〕


どうも。
トド@やっぱり大掃除してますです。

例によって、前回の続き。

・郭南宏監督の作品群

そもそもこの記事を書くことになったきっかけが、郭南宏監督の『少林寺への道(少林寺十八銅人)』の撮影を中條カメラマンが「鍾申」という変名で行っていた、ということからですが、中條カメラマンが郭監督作品の撮影を担当したのは、1974年の『廣東好漢』からのようです

追記:その後、leecooさんより、1972年の郭南宏監督作品『單刀赴會』において、「鍾伸」名義で撮影を担当している、とのご教示を賜りました。ありがとうございました。

現時点で判明している郭監督&中條カメラマンの組み合わせによる作品は、下記のようになります。

1972年
『單刀赴會』(「鍾伸」名義)
1974年
『少林功夫』、『怒れドラゴン(廣東好漢)』
1975年
『少林寺への道(少林寺十八銅人)』、『風塵女郎』、『小妹(別題:『春花秋月』)』
1976年
『少林寺への道 十八銅人の逆襲(雍正大破十八銅人)』
1977年
『少林寺炎上(火燒少林寺)』、『少林兄弟(別題:『湘西、劍火、幽魂』『湘西趕屍』『劍火金羅衣』)』
1980年
『武當二十八奇』

『郭南宏電影世界』(2004年、高雄市電影圖書館)所収の「郭南宏電影世界訪談」(郭監督のインタビュー)によれば、1950年代、台湾語映画からそのキャリアをスタートさせた郭南宏監督(映画を撮る前は映画館の看板書きをしていたそうです)は、1960年代に入って北京語映画に転じると李翰祥監督率いる國聯に所属、『明月幾時圓』や『深情比酒濃』といった愛情文芸映画をヒットさせ「文藝片大導演」の称号を得ますが、その後、聯邦で撮った武侠映画『一代劍王』が大ヒットすると今度は「武侠大導演」「百萬大導演」の異名を取るようになります。

と、ここで中條カメラマンが担当した作品群を見直してみると、文芸映画と武侠映画(功夫映画)、そのどちらをも受け持っていたことがわかります(『風塵女郎』と『小妹』は、恬妞主演の文芸映画)。

今日、郭南宏監督は台湾映画史に残る偉大な監督としてその名を知られていますが、全盛期の郭監督作品の多くを中條カメラマンが担当していたという事実は、もっともっと評価されて良いのではないかと、不肖せんきちは考えています。

ところで、『少林寺への道(少林寺十八銅人)』の日本公開ヴァージョンが、当初のバージョンに増補改訂を加えた再編集版だったことは有名ですが、その日本公開ヴァージョンが生まれたいきさつに関しても、前掲の「郭南宏電影世界訪談」で詳しく述べられています。
それによると(以下、超訳&要約)、

1982年(監督のお話では「1981年ごろ」とありますが、『少林寺(少林寺)』の日本公開は1982年11月のことなので、勝手に訂正)、日本ヘラルドから香港の宏華公司を通じて「もう一度『少林寺十八銅人』を観てみたい」と連絡がきた。
実はその3、4年前にもヘラルドは『少林寺十八銅人』を配給したいと言ってきていたが、こちらの希望が50万米ドルからだったのに対し、先方は10~20万米ドルしか払えない、というので、そのときには承諾しなかった。
しかし、日本で『少林寺』が上映されて大ヒットすると、彼らは改めて「『少林寺十八銅人』は売れる」と思ったのか、もう一度観たいと言ってきたのだった。
ヘラルドから社長と国際部長が香港にやってきて『少林寺十八銅人』を観た後、「少し時代遅れの感じがする」とのことだったので、主人公の幼少時代の件を新たに撮り直して再編集するというアイデアを出したところ、ヘラルド側も乗り気になったが、あくまでも契約するかしないかは再編集版を観た後で、とのことだった。
その後、新たに撮り直したものを日本へ送ったが彼らは満足せず、もう一度20日ほどかけて新たに増補したものを日本へ送ると4日後に連絡があり、「大変いい」との返事だったので無事契約を結ぶことになった。

との由。

『少林寺』の日本公開が1982年11月3日、『少林寺への道(少林寺十八銅人)』の日本公開が1983年1月29日ですので、わずか2ヶ月半ほどの間に「ヘラルドからの要請→ヘラルド上層部への試写→再編集その1→ボツ→再編集その2→OK→日本公開」という過程を辿ったことになります。
黄家達の少年時代の場面に『八大門派(少林寺への道3)』の映像が流用されているのは、そんなタイトなスケジュールのせいもあったのでしょうか。
この辺り、お詳しい方にぜひとも再検討していただければと思います。

(つづく)

2009年12月27日日曜日

一見鍾申(意味不明) (その3)

〔えいが〕〔ちょっとお耳に〕


どうも。
トド@大掃除なんてくそ食らえ!です。

昨日、ラピュタ阿佐ヶ谷へ『二人の銀座』を観に行ったついでに、京王百貨店(新宿店)で開催中の「歳末古書市」に立ち寄ってみますた。
特に何を買うということもなかったのですけれど、1982年に朝日新聞社から出た『昭和写真全仕事 series4 大竹省二』をパラパラめくっていたところ、巻頭グラビア「激情の女」の中に橘ますみたんの写真があるのを発見!、即ゲットいたしますた。
写真にはキャプションがなかったものの、せんきちにはすぐに1970年に『ポケットパンチOh!』のグラビアのために撮られた写真と同時期のものだということがわかりますたです。
屈託のない笑顔が素敵な1枚ですた。

ところで、大竹省二といえば、1961年に尤敏を日本で売り出すための写真を撮っており、その中の一部が『週刊公論』(かつて中央公論社が出していた週刊誌)の表紙写真に用いられていますが、それらの写真は残念ながら収録されていませんでした。
『週刊公論』の表紙写真では、この他にも葉楓を撮影したもの等もあり、今回この本に収められた「年譜」を見たら、なるほど、かつて上海の東亜同文学院で学んでいたんですね、大竹氏は。
だから尤敏や葉楓とも、通訳を介さずに直接コミュニケーションを取ることができたのでしょう。

さて、前回の続き。

・『小飛侠』(1970年、現代電影電視實驗中心)

以前、湯浅浪男監督の作品リストの回でもご紹介した作品。
潘壘監督が設立した製作会社・現代電影電視實驗中心での映画で、中條カメラマンは湯浅監督と共にこの会社の専属スタッフでした。
この映画から湯浅監督は「湯濳」という中国風の変名(後に「湯慕華」となり、この名前で台湾に帰化)を名乗り始めますが、中條カメラマンもこの映画から「鍾申」という変名を用いるようになったようです。

『香港影人口述歴史叢書之五:摩登色彩-邁進1960年代』(香港電影資料館)所収の潘壘監督インタビューによれば、現代電影電視實驗中心の経営が傾いた原因の1つに、湯浅監督と中條カメラマンに払う給料があったとのことで、当時、この2人は台湾映画界の通常のスタッフが貰う以上の高額のギャラを取っていたであろうことが、潘壘監督の証言からは窺えます。

・『朱洪武』(1971年、台旭電影事業公司)

これも以前にご紹介した湯浅浪男監督作品(湯慕華名義)『朱洪武續集劉伯温傳』の正編。
この作品も続編同様お子様向け特撮古装片だった模様(徐大均監督。楊群、游龍、祝菁主演)で、続編の特技を黒石恒生(林黒石名義)が担当していたのに対し、こちらの正編では円谷プロから高野宏一(特技指導)、塚本貞重(操演指導)、鈴木儀雄(美術指導)が駆けつけ、特技製作に当たっています。
先だって安藤達己監督にお話をうかがったさい(詳しくはこちらをご参照下さい)、「円谷プロが特技を担当した台湾映画があるらしい」というお話をなさっていらっしゃいましたが、これがその作品だったということになります。
ということは、高野宏一が特技を担当した台湾映画はこの『朱洪武』が最初で、『海魔』は2本目の作品だったわけですね。

勉強になりました。

(つづく)

付記:顧也魯さんがお亡くなりになりました。享年93歳。1996年に出た『中華電影物知り帖』(キネマ旬報社)に顧也魯、舒適、石霊、陳述、劉瓊の対談(「激動の時代を生き抜いた老名優が語る30年代~50年代中華電影秘話」)が掲載されています。

2009年12月25日金曜日

一見鍾申(意味不明) (その2)

〔えいが〕〔ちょっとお耳に〕


どうも。
トド@なんだかだるいです。

さて、前回の続き。

・『悲器』(1966年、湯浅プロ・国映)

以前、こちらのブログでも取り上げた湯浅浪男(湯慕華)監督の作品ですが、不肖せんきち、湯浅監督と中條カメラマンが共に台湾へ渡ったということから、ついうっかり第7グループ(湯浅監督等が設立した独立プロ)時代から2人はずっと行動を共にしていたと勘違いしておりました。
この作品からだったんですね、2人のコンビは。

で、これも以前に書きましたが、その後日台合作映画『母ありて命ある日』撮影のため、2人は台湾へ渡ることになるのでありました(くわしくは、『台湾映画 2009年』〔2009年、東洋思想研究所〕に掲載された「安藤達己監督インタビュー」をお読み下さい)。

ちなみに、先だって発行された『映画論叢』22号(2009年11月、国書刊行会)所収の「三輪彰監督インタビュー 続」には、三輪彰監督が第7グループで映画を撮ることになった経緯や、三輪監督が第7グループから手を引いた後、湯浅監督自身が映画を撮るようになるまでの過程が詳しく記されています。
それによると、湯浅監督は当時新潟県小千谷市の映画館主で(水戸で働いた後、小千谷に行ったのか!)、湯浅監督の依頼で三輪監督は4本のピンク映画を撮ったものの「もう飽きたよ」と言って脱退、そこで湯浅監督が自分で映画を撮ることになり、三輪監督がコンテを書いて湯浅監督がメガホンを取ったのが『夜の魔性』(1964年。岩佐浪男名義)だったのだそうです。
その頃、第7グループのオフィスは赤坂にあり、そこに出入りしていたのが後に湯浅監督の『血と掟』(1965年)で俳優デビューすることになる安藤昇。
湯浅監督が安藤昇を口説いて映画出演を承諾させ、松竹へその企画を持ち込んで製作したとのことです。

あらら、中條カメラマンの話がいつの間にやら湯浅監督の話になっちゃったわ。
次回は軌道修正します。

(つづく)

2009年12月23日水曜日

台湾は招くよ (その7)

〔えいが〕〔ちょっとお耳に〕

歌手の吳鶯音さんがお亡くなりになりました。享年87歳。
許鞍華監督の『生きていく日々(天水圍的日與夜)』のエンディングでは、
彼女の代表曲「明月千里寄相思」が使われていました
(『半生縁』では「斷腸紅」が使われていましたね)。
謹んでご冥福をお祈りいたします。

どうも。
トド@年賀状作成中です。

えー、昨日の記事の第2回に行く前に、以前取り上げた「台湾映画を撮った日本人監督」に関する記事(その1その2その3その4その5その6)の補遺を。

件の記事(台湾は招くよ)の第1回で、1969年の台湾映画『我恨月常圓』の監督・陶南凱が「田中」姓の日本人監督である可能性を示唆しましたが、先だって黄仁氏の『日本電影在臺灣』(2008年、秀威資訊)を読んでいたところ、その謎が解けました。
謎の映画監督・陶南凱の正体は、

田中重雄監督

でした。

んー、なるほど、たしかに「田中」だ。

この映画、楊麗花主演の歌仔戯…じゃなくて、文芸映画(北京語)で、彼女のお相手は關山が勤めました。
ちなみに、共同監督としてクレジットされている黄銘は、1971年の『新座頭市 破れ!唐人剣(獨臂刀大戰盲俠)』では香港側のプロデューサーを勤めている人物で、『新座頭市 破れ!唐人剣(獨臂刀大戰盲俠)』は『我恨月常圓』の製作会社である永聯と勝プロの合作映画なのであります(嘉禾は配給担当)。
ということは、この黄銘なる人物、日本映画界とかなり太いパイプを持つ人物のようです。

ところで、先ほども述べた通り、『我恨月常圓』の主演は楊麗花と關山ですが、黄仁氏の前掲書ではなぜか、

唐菁と若尾文子

主演になっていますた。

どっから出てきたんだ、そのありえねーキャスト?

2009年12月22日火曜日

一見鍾申(意味不明) (その1)

〔えいが〕〔ちょっとお耳に〕


どうも。
トド@恥ずかしながら帰って参りますたです。

体調はまだまだ万全ではないのですが、年内に片付けておきたいネタがあるので、そいつを書いてしまいます。

郭南宏監督の『少林寺への道(少林寺十八銅人)』の撮影を台湾へ渡った日本人カメラマン・中條伸太郎(注1)が担当していることは、知っている人なら知っている、知らない人は全く知らない事実ですが、この映画の中で中條カメラマンは「鍾申」という変名を用いています。
これはおそらく、

中條の中

と、

伸太郎の伸

を取り、それぞれの文字に同じ読みの別の漢字(「鍾〔zhong〕」「申〔shen〕」)を当てて作った変名と考えられ、調べてみると、中條カメラマンには他にもこの名義で撮った映画がかなりの本数存在します。

というわけで、今回の調査で判明した鍾申名義の作品に、「日本映画データベース」及び「台灣電影筆記」にある中條カメラマンのフィルモグラフィを加え、この機会に新たな作品リストを作成してみました。
以下が、その作品リストです(太字は鍾申名義の作品・注2)。

(日本での作品)
1965年
『夜の女炎』、『夜のいたずら』
1966年
『女で銭を抱け』、『甘い体臭』、『若い刺激』(ここまで中条伸太郎名義)、『泣かされた女』、『女のふくらみ』、『悲器』、『処女の血脈』

(台湾での作品)
1966年
『霧夜的車站』  
1967年
『青春悲喜曲』、『懷念的人』  
1968年
『藍衣天使』  
1969年
『雨夜花』
1970年
『小飛俠』
1971年
『朱洪武』『甘羅拜相』
1972年
『單刀赴會』(「鍾伸」名義。leecooさんよりご教示頂きました。ありがとうございます) 
1974年
『森山虎』、『少林功夫』『怒れドラゴン(廣東好漢)』
1975年
『少林寺への道(少林寺十八銅人)』『風塵女郎』『小妹(別題:『春花秋月』)』
1976年
『少林寺への道 十八銅人の逆襲(雍正大破十八銅人)』、『孫悟空七十二變』(監督作品)
1977年
『少林寺炎上(火燒少林寺)』『少林寺への道 ラマ僧の復讐(少林叛徒)』『少林兄弟(別題:『湘西、劍火、幽魂』『湘西趕屍』『劍火金羅衣』)』『武林客棧(別題:『亡命客棧』)』、『旋風十八騎』
1978年
『新雨夜花』『十八玉羅漢』
1979年
『戚繼光』
1980年
『古寧頭大戰』『武當二十八奇』
1981年
『美人國』
1982年
『大小濟公』、『酒色財氣』、『終戰後的戰爭』、『人偷人』  
1983年
『午夜蘭花』  
1984年
『東京來的小寡婦』
1986年
『今夜微雨』
1988年
『勾魂黑薔薇』『重犯出擊』
1989年
『野生之旅』(監督作品)
1992年
『末代響馬』
1995年
『邊城皇帝』
製作年不詳
『千里眼順風耳』

次回は、上記作品群の中からいくつか気になったものを取り上げて、少々考察してみることにいたします。

(つづく)

(注1)日本盤ソフトのパッケージや解説等では、なぜか「中条申太郎」となっていますが…。
(注2)「台灣電影筆記」の中條カメラマンのプロフィールには、「手がけた作品は128本ほどある」とありますので、このリストはあくまで作品名が判明したもののみを取り上げています。

2009年12月13日日曜日

ひさびさに発熱

〔しようもない日常〕


どうも。
トド@健康悪化中です。

えー、週1どころか月1ブログになりそうな今日この頃、久しぶりに熱を出して寝込んでしまいました。
既に熱は6度台まで下がっていますが、鼻と喉の調子が依然としてよくありません。

そんなわけで、健康体に戻るまでしばらくお休みいたします。

あしからず、ご了承下さい。

2009年12月5日土曜日

最近観た映画のことなど (その3)

〔えいが〕〔しようもない日常〕


どうも。
トド@いつも貧乏暇なしです。
すっかり「週1ブログ」と化してしまい、面目次第もございません。

先週の土曜日、かかりつけのお医者さんがニューオータニ美術館のすぐ近くだったので、診察の帰りがけに「グラフィックデザイナー 野口久光の世界」を見てきました。

オフィシャルサイトには"フランス映画ポスター"とありますが、『制服の処女(Madchen in Uniform)』のポスターもあり、当初案の原画も展示されていました。
これは決定版とはかなり異なるもので、女学生3人が並んでいる画でした。



この他、うちにもある『写真 映画百年史』(筈見恒夫編著)や『殿方御免あそばせ(Une parisienne)』、『必死の逃亡者(The Desperate Hours)』のパンフ等も展示されており、特に『写真 映画百年史』はとても状態のいい本で、「うちのと取り替えて欲しい!」と思ってしまいますた。

『写真 映画百年史』第4巻。
表紙の絵と装丁を野口氏が担当。
中国映画に関する記述も豊富です。

ところで、野口久光さんというと、映画ポスターもさることながら、わたくしにとってはジャズ評論家として印象深い方です。
わたくしの好きなアルバム『リアル・バース・オブ・ザ・クール(The Real Birth of the Cool)』(以前、こちらでも取り上げました)の解説表紙にも、野口さんが書いたクロード・ソーンヒルとギル・エヴァンスの肖像画があったことを思い出します。

向かって左がクロード・ソーンヒル(Claude Thornhill)、
右がギル・エヴァンス(Gil Evans)。


さて。

宿題は片付きそうにありませんが、一応、ノルマを消化。

『北京陳情村の人々(上訪)』
2009年、中国。趙亮監督。


北京南站近くに広がる陳情村に暮らす人々を追ったドキュメンタリー。
一応、メインで扱われているのは江蘇省から陳情にやってきたチーおばさん(漢字不明)になるのかなあ。
彼女は、健康診断中に急死した夫の死の真相を追求するため、10代の娘を連れて北京にやってきたのですが、初めの頃は学校に行けないことをそれなりに気にしながらも殊勝に「お母さんのそばにいなければ」とか何とか言っていた娘が、いつの間にやら彼氏を作って駆け落ちまでするに至ったのにはびっくり仰天・・・というか、夕方のニュースでおなじみ大家族物にありがちな展開、

長女(16歳)妊娠!そのとき肝っ玉母ちゃんは?

と、なぜか同じ匂いを嗅ぎ取ってしまいましたよ。
だいたいさあ、あの彼氏、何者よ?

また、陳情者狩りから逃れる途中、誤って列車に轢かれて亡くなった老夫婦と、彼らを追悼しようと立ち上がった陳情者グループの動き、そして当局の摘発の一部始終も登場しますが、これは田中奈美氏の『北京陳情村』でも詳しく取り上げられています。
映画の中では当局によって逮捕されたグループのリーダー格・劉氏(田中氏の著書の中では「リュウ氏」)の髪型が、釈放後は丸坊主になっていたことに関して何の説明もないため、あたしゃてっきり「怖いなあ。刑務所に入ると強制的に頭を刈られちゃうんだ」と思っていたら、何のこたあない、田中氏の著書によれば、

路上の移動床屋で切った

んですと。
なんーだ。

てなわけで、監督さんの中国の社会や政治に対する懸念や危惧や義憤の情はよーくわかるものの、説明すべき点はもっときちんと説明した方が、あらぬ誤解を生まずに済むのじゃないか、そんな風にも思いましたです、はい。

2009年11月27日金曜日

『生きている台湾』の中の陳鴻烈

〔ちょっとお耳に〕〔えいが〕

『我是一片雲』より。

どうも。
トド@脂肪ますます蓄積中です。

昨晩、池袋の東京芸術劇場にて開催中の「アジア舞台芸術祭2009東京」で、台湾の世紀當代舞團と日本のニブロールとの共同制作による『Pub, APAF 2009 version』(振付:姚淑芬)を観てきましたが、最前列で鑑賞していた不肖せんきち、客席に下りてきた台湾人ダンサーのお姉さん(阿妹似)に促されるまま、その場で、

トドのタコ踊り

を披露する羽目に…。

知り合いがいなくてよかったわ。

さて。

24日、男優・映画監督の陳鴻烈が急逝しましたが、1979年に刊行された『生きている台湾 知られざる自由中国』(小久保晴行著。20世紀社)に、彼のインタビューが掲載されているので、追悼がてらその紹介をしたいと思います。

この本の中で陳鴻烈が登場するのは、「第10章 文化と芸能界」の第3節「芸能界は花ざかり」の件。
ここでは彼の他、楊麗花、紫茵等にも取材を試みており、また、谷名倫の自死や成龍が台湾で人気急上昇中であること等が取り上げられています。
とりあえず、ここでは陳鴻烈のインタビュー部分を一部引用しておきます。


―陳鴻烈さんは何本くらい監督するのですか?
陳 年2本です。
―始めてから何年くらいですか。
陳 監督は3年で、その前15年間は俳優です。
―監督していて、一番問題なのはどんなところですか。
陳 台湾は新聞局の権限で、検閲されていますが、ホンコンでは何でも自分の思ったようにやりました。台湾は国情の関係でいろいろ制約があります。
―自由な映画を作るのはホンコンに行くのですか。
陳 中国は5千年の歴史の関係で、例えば、半裸身でも禁止されているので、儒教思想も強くて制約があるのはやむをえないです。色気が少し多くてもなかなか難しいです。
―どちらの生まれで、おいくつですか。
陳 37歳で上海市の生まれです。
(略)
―これからどんな映画を作りたいですか。
陳 中国の武劇(チャンバラ)が得意なのですが、これからは現代劇をやりたいと思います。
―台湾にはどうして170以上の映画会社があるのですか。
陳 財力と実力のあるものが勝ちです。170の会社があっても、実質的にはそんなに多く活動していません。
(略)
―日本ともっと交流したらいかがですか。
陳 まったくそう思います。交流すべきです。
(略)
―将来の映画についてどう考えられますか。
陳 世界各国をよく見て、先進国の良いところを学んで水準を突破しなければならないと思います。



質問の内容はごく初歩的ではあるものの(「日本との交流」って、当時は日本映画が上映禁止だったことを知っていたのだろうか)、性描写に関するコメントは彼の監督作品である『狼吻』が成人映画だったらしいことと関連する内容となっており、また、「現代劇をやりたい」という抱負も、当時の流行とリンクした愛情文芸映画が彼の監督作品の多くを占めることと関係があるのではないかと考えられます。
本の中では、陳鴻烈の監督作品として『我是一片雲』、『我伴彩雲飛』、『花落水流紅』が挙げられていますが、これまでに確認できた監督作品を参考までに明記しておきます。

1975年:『狼吻』(アジア映画祭撮影賞受賞)
1976年:『我是一片雲』
1977年:『沖天炮』(73年、74年説あり)
1978年:『我伴彩雲飛』
1979年:『辣手小子』『花落水流紅』

このときのインタビューの会場は德威影藝公司という映画会社の台北オフィス(本社は香港)、陳鴻烈はこの会社の次回作『白色的忘憂草』(林青霞、秦漢主演)を監督する予定でしたが、残念ながらこれは製作されなかったようです。

ところで、ご存知の通り、陳鴻烈の前妻は女優の潘迎紫。
潘迎紫と離婚後、彼女の陰謀(?)によって陳鴻烈は台湾での仕事が激減したそうですけれど、恐るべし小龍女の怨念・・・っていうか、『片腕必殺剣(獨臂刀)』のキャラそのまんまじゃねえか!
可愛い顔してキツすぎや、あんた。

ということで、改めてご冥福をお祈りします。

2009年11月23日月曜日

紅葉と酒とお料理と

〔しようもない日常〕〔これでも食らえ!〕

紅葉がきれいよ。

どうも。
トド@冬眠準備中です。

昨日は、婆さんの一周忌法要ですた。
法要はうちの墓がある東京郊外の霊園で行ったのですが、婆さんの位牌を忘れるという大失態を演じ、お坊さんや親戚の失笑を買ってしまいますた。
でもまあ、なんとか無事に済んでよかったです。

法要の後、車で10分程の所にある「うかい鳥山」でお食事をしました。
あの辺りはちょうど紅葉の見頃で、思いがけず紅葉狩りも楽しんでしまいました。

てなわけで、食べたもののご報告でも。

東京なのに、深山幽谷の趣き。


紅葉だよ、全員集合!


受付入口。ここで受付を済ませた後、
離れのお座敷に案内してもらいます。


受付内部。民芸調です。


食したのは地鶏炭火焼のコース。
まずは、胡麻豆腐から。


つくねと海老芋の炊き合わせ。
柚子の風味が効いていますた。


佐久鯉の洗い。


きの子汁。


いよいよメインのご登場。


厚切りの地鶏を焼き焼きしていただきます。


動画でどうぞ。


炭火焼と平行して岩魚の塩焼もガブリ!


最後は麦とろとお味噌汁。


ダメ押しのデザート・胡桃餅。

法要にかこつけてうまいもの食って紅葉狩りも楽しんだ、そんな日曜日でありますた。

2009年11月20日金曜日

せんきちの「今週気になったもの」

〔しようもない日常〕

ブス店内無料開放中。

どうも。
トド@天候不順で体調不良です。

宿題がまだ片付いていませんが、婆さんの一周忌法要やら何やらでバタバタしておりますゆえ、今日はどうでもいい他愛無いネタでご容赦。

1、紗季に何が起こったか?

11月16日に放映されたTBSのスペシャルドラマ『父よ、あなたはえらかった』。
オフィシャルサイトで「あらすじ」を読んだせんきちは、その内容よりもキャスティングに目が釘付けになりますた。
以下、あらすじからの引用。


62歳になる小野寺利一(西田敏行)は、長年勤めあげた会社で延長雇用の3年目。しかし、金融不況のあおりを食った会社が、真っ先に手を打ったのは利一への退職勧告。常務(小野武彦)から、辞職を促された利一は、同じ環境の同僚を居酒屋に集めて「会社のいいなりにはならない」と檄を飛ばす。同志たちを連れて妻・春美(泉ピン子)が待つ自宅へとなだれ込む利一だが、妻はあきれて言葉も出ない。しかし、会社側は利一の活発な動きを察知したかのように、次男・優(加藤成亮)の就職を餌に退職を迫る。
優は、大学を卒業したあとも定職につかず、プロの漫画家を目指して、日々実家の机でペンを走らせていた。利一は、同志たちに後ろめたさを感じながらも、息子のためにと会社側の要求を呑む覚悟で優に就職を勧めるのだが、優は優で親にレールを決められることは嫌だと反抗し、家を飛び出してしまう。「恋人もいない、友達もいない、仕事もない、俺」と、優は漠然とビルの屋上から夜景を眺めていた…。と、そのとき、カラスの鳴き声に視線を逸らした瞬間、カラスが目の前に迫り足を踏み外してしまう。
気がついた瞬間、若者たちと警官隊の一団が優を取り囲んでいた。何がなんだか分からない優を助けたのは、若き日の利一(堤下敦)だった。優の傷の手当てのために利一の下宿するラーメン屋へと向かう二人。出迎えたのは若くて美しい当時の春美(相武紗季)だった。(以下略)



相武紗季が泉ピン子に…。

制服姿の宮崎あおいが突如泉ピン子に変貌するイリュージョンドラマ『ちょっと待って、神様』(ドラマ自体は名作です。ほぼ毎回号泣)をしのぐ晩秋のホラーか?と思っていたら、脚本は『ちょっと待って~』を手がけた浅野妙子。

っつーことは、浅野妙子のリクエストですか、ピン子のキャスティングは?

わざわざ「若くて美しい」とか注釈を加えちゃってる辺りに、局側の苦心がうかがえますですね。

で。

肝心のドラマの内容ですけれど…。

すいません、怖くて観られませんですた。

不肖せんきち、今後は浅野妙子のことを

テレビドラマ界の引田天功

と呼ぶことにいたします。

そういや、引田天功とハリウッドスターの結婚って、どうなったんだろ?




2、カンチョー!

今週の月曜日(16日)。
副業のお仕事から帰ってテレビをつけたら、『だいこんの花』をやっていますた。
森繁さん追悼企画らしいっす。
不肖せんきち、生まれて初めて森繁さんを見たのがこのドラマであります。
巡洋船「日高」(戦艦じゃないよ)の艦長だった森繁さんのことを、元部下の大坂志郎は、

カンチョー!

と呼んでいるのですが、まだ小さかった私は「艦長」という言葉を知らなかったので、

「この人はなんで浣腸!浣腸!と叫んでいるのだろう?」

と不思議に思った記憶があります。

40年近く経った今再見して、森繁さん、加藤治子、竹脇無我、大坂志郎、川口晶のことは覚えていたが、武原英子や砂塚秀夫のことはすっかり忘れていたのに気が付きました。

ちなみに、第1回のゲストは江美早苗ですた。
この方が亡くなった事件はかなりショッキングな出来事ですたけれど、あれから何年経つのでせうか。

川口晶はのりピーの大先輩に当たる方ですが、母である三益愛子がかつて「母もの」で名を馳せた女優さんだっただけに、マスコミの攻撃も容赦なかったことを思い出します。
三田佳子のときも、これと似ていたような。



というわけで、落ち着いたらまた宿題に取り組みます。

2009年11月14日土曜日

最近観た映画のことなど (その2)

〔えいが〕


どうも。
トド@今度は爆睡期に突入です。

今日の午後、森繁さんのお蔵入りドラマ(『銀色の恋文』)が追悼番組として関東ローカル(なぜ?)で放映されますたが、その中で、昨年お亡くなりになった女優・水原英子さんが奈良岡朋子の家の嫁役を演じているのに気づきました。
水原さんは、せんきちが子供の頃近所にお住まいでいろいろ交流もあったので、非常に懐かしく思ったことでありますたよ(フィルムセンターの「逝ける映画人を偲んで 2007‐2008」でも取り上げられていたけれど、うっかり見逃しちゃってたもんで)。
でもこれ、「番組編成の都合で未放送となっていた」といいますけれど、本当にそんなつまらない理由だったんですかねえ。
久しぶりに落ち着いて観ていられる、ホームドラマの王道を行く一品だと思ったのですが(フジというよりは、TBSっぽかったけど)。

ということで、さあ、とっとと宿題を片付けるわよ。

『波止場で悪魔が笑うとき』
1962年、第一プロ・大宝。中川順夫監督。牧真史、泉京子主演。


別題:『マリンタワーは知っている』。
例の「幻の大宝作品」企画、最後の上映作品。
マドロスやってた牧真史が、弟の死の謎を探るアクション。
別題の通り、前年に開業したばかりのマリンタワー大フューチャー映画でした。
せんきちお目当ての泉京子は、大蔵新東宝における三原葉子のような役どころ。
のっけから、ゆるーいセクシーダンスを疲労、もとい、披露してくれますが、三原葉子のムチムチボディか、それとも泉京子のスレンダーボディか、殿方のお好みも分かれるところでしょう。
筑紫あけみがこの映画ではバリバリの女ジャーナリストの役どころで、それはそれでなかなか颯爽としていてよかったです。
フィルムの状態がかなり悪く、なんだか線香花火のような模様が出る箇所がずいぶんありましたが、なるほど、フィルムってこういう劣化の仕方をするのだと、むしろ感心した次第。

『誠意なる婚活(非誠勿擾)』
2008年、中国・香港。馮小剛監督。葛優、舒淇、方中信主演。


「2009東京中国映画週間」の一。
本作のプロデュースを担当した陳國富には『徵婚啟事』という婚活映画がありますが、この映画は男性、それも中年男性の婚活を描いています。
また、『徵婚啟事』では主役の劉若英が不倫の恋に悩んでいましたが、ここでは舒淇が不倫の恋に悩んでいます。

己のみっともなさも何もかもさらけ出して舒淇に尽くす葛優の姿が涙ぐましくもあるものの、それを受けてあの思い切った行動に出るまでの舒淇の心の動きがやや見えづらいのが残念。
北海道の景色はきれいですた。
徐若瑄と葛優のお見合いでのやりとりも、かなり笑えます。

阿寒湖畔の居酒屋「四婆」、もとい、「四姉妹」の場面で、二宮さよ子、磯村みどり、雪代敬子、松浪志保のベテラン勢が登場したのにはちとびっくり。
そういえば、雪代敬子は民視の白冰冰伝記ドラマ『菅芒花的春天』でも、加勢大周の母親役をやっていますたね。

すでにご存知の通り、この映画、ニトリの子会社が買ったそうですけれど(邦題『狙った恋の落とし方』)、今回の映画祭上映に当たってもいろいろドラマがあったらしいっす(以下自粛)。
とりあえず、文法的におかしい邦題じゃなくなってよかったよ(なんだい、誠意「なる」って。「ある」じゃねえのか?一瞬、『完全なる結婚』を思い出しちまったわ)。

『シャングリラ(這兒是香格里拉)』
2009年、中国・台湾。丁乃箏監督。朱芷瑩、呉中天主演。


幼い息子をひき逃げ事故で亡くした母親の、鎮魂と再生の物語。
台湾を代表する劇団・表演工作坊がひさびさに映画製作に乗り出した作品で、原作は表演工作坊の同題のミュージカル。
観終わった後、静かだが深い余韻に包まれる、そんな一品でおますた。

上映後、恒例のロビーサイン会があったので、主演の朱芷瑩嬢にサインを頂きますたが、彼女も表演工作坊の女優さん(『色・戒』でヒロインの親友・頼秀金を演じています)。
14年前に不肖せんきち、台北の表演工作坊の稽古場で彼女の師匠である頼聲川せんせいにお目にかかったことがある旨をお伝えところ、大変びっくりしていらっしゃいました。
ちなみに、頼せんせいは笑顔の素敵な、とても気さくな方でした。

おまけ:台北で観た時、この伍佰の登場シーンで
なぜか場内大爆笑になったのでありました。

2009年11月11日水曜日

もしもし

〔ちょっとお耳に〕

タイトルはこの映画
台詞から取りますた。

どうも。
トド@寝汗がひどいわです。

というわけで、「芸能界のおくりびと」こと(おいおい)森繁さんがついにお亡くなりになりますたが、その前にもう一つ訃報を。

歌手の胡美芳さんがお亡くなりになりました。享年82歳。



謹んでご冥福をお祈りいたします。

歌う胡美芳、踊る万里昌代が
楽しめる1本。もれなく
万里昌代の腋毛が付いて来ます。
(製品にじゃないよ)


さて。

森繁さんの膨大な出演映画の内、香港ロケ物『社長洋行記』(目下、学芸員Kさんのブログで詳しい考察が進行中です)や台湾ロケ物『社長学ABC』(以前書いたヘタレな感想文はこちら)、あるいは「李香蘭」なる中華料理店を経営する怪しい満州帰りのおっさんを演じた『東京の休日』辺りはご存知の方も多いと思いますので、こちらでは森繁さんが元京劇役者だったと思しき中国の老人を演じた『戦場にながれる歌』をちょっこしご紹介しようかと思います。

戦場にながれる歌』は、1965年の東宝映画。
作曲家・團伊玖磨の『陸軍軍楽隊始末記』を原作に、松山善三が脚本・監督を担当した作品です。
前述した通り、森繁さんの役どころはかつて京劇役者だったであろう老人。
今は娘とその許婚と共に静かに暮らしています。

ひゃあ、何、この顔は!
(紫道士臉というやつね)


屋根の上でヴァイオリン弾く前は
中国で京劇やってましたー!


娘・愛蘭を演じるのは「台製之寶」張美瑤。
これが日本初御目見得作品となりました。


娘の許婚を演じるのは「元祖台流スター」林沖


しかし、そこへ飛び込んできたのが日本の軍楽隊。
老人は娘に命じて彼らに食事を与えますが、隊員の中には老人や娘を殺そうとする者もいて(その理由は本編をご覧下さい)、そんな彼らに老人が浴びせるのが下記の言葉。

※一応、日中対照にいたしましたが、森繁さんの話す中国語がほとんど暗号に近いため、聞き取り不能な箇所もございます(自信がない箇所は括弧で括ってあります)。

あなた方は南京で罪もない二万人のひとを殺しました。
你們在南京殺了兩萬多無辜的(整個)老百姓。


日本の兵隊は鬼です。
你們日本兵全都是魔鬼啊。

今なら「自虐史観丸出し」と集中砲火を浴びそうな台詞ですけれど、ま、こんな役も演じていたよということで、まずはこれぎり。

香港で見てきたものは
香港娘の世界一の足ばかり。


付記:森繁さんが戦中、満州でアナウンサーをしていたことはよく知られていますが、奥様は台湾の台北第一高女OGだそうで、1962年3月の『社長洋行記』香港ロケのさいには、乗り継ぎで立ち寄った台北で奥様のために「なつかしの絵ハガキ」を購入したそうです(1962年3月31日付『日刊スポーツ』による)。



おまけ:このシリーズもまた観たくなった。

2009年11月6日金曜日

最近観た映画のことなど (その1)

〔しようもない日常〕〔えいが〕


どうも。
トド@若年性更年期障害かしら?です。

さて、大した本数は観ていないのですけれど、いちおう東京国際映画祭とNHKアジア・フィルム・フェスティバルのメモ。
書けた順から適当にうpしやす。

『玄海灘は知っている(玄海灘은 알고 있다)』
1961年、韓国。金綺泳(キム・ギヨン、김기영)監督。金雲夏(キム・ウナ、김운하)、孔美都里(コン・ミドリ、공미도리)主演。

昭和19年の名古屋を舞台にして、朝鮮人学徒兵・阿魯雲(アロウン、아로운)(金雲夏)と日本人女性・秀子(孔美都里。在日の女優さんだそうです)の恋を軸に、日本軍の非人道性を暴いていく作品。
原作は、今年8月に亡くなった韓雲史(ハン・ウンサ、한운사)による同名の自伝的小説(注)・・・ってことは、


これも史実なんですかー?
(ボクは死にましぇーん!)

(注)こちらこちらのサイトによれば、この作品はまず1960年にラジオドラマ(KBS)として発表された後、1961年に小説&映画化、さらに1968年にはテレビドラマ化(KBS)された模様。
主人公の名前である「阿魯雲(アロウン)」の「阿」は魯迅の『阿Q正傳』の「阿」、「魯」は魯迅の「魯」、「雲」は韓雲史の「雲」を取ったもので、"alone"の意味も掛けてあるとの由(『玄海灘は知っている』〔日本語版〕の訳者解説及びこちらのサイトによる)。
また、こちらのコラムによると、韓雲史は阿魯雲同様「1943年末、朝鮮人学徒志願兵壮行会の席上、来賓の小磯国昭・朝鮮総督に向かって「閣下はわれらが出征の後、朝鮮2500万人の将来を確実に保証し得るや、返答を乞います!」と質問し、会場からつまみ出された」経験があるそうです。

追記:日本語版の解説によれば、小説『玄海灘は知っている』は「阿魯雲伝」の第1部で、第2部『玄海灘は語らず』(1961年)、第3部『勝者と敗者』(1963年)の計3部からなるとのことで、第1部の『玄海灘は知っている』は阿魯雲が軍を脱走して秀子と共に逃走、彦根を目指すところで終わります。
したがって、第2部である『玄海灘は語らず』も映画の原作と考えるのが妥当でしょう。←と、いったんは書きますたが、今日到着した『玄海灘は語らず』にざっと目を通したところ、映画とは異なるストーリーになっていました。てなわけで、読了後に改めて詳しく取り上げてみたいと考えております。

朝鮮人と日本人がどう違うのか(どこの違いだよ)を確かめるため、「日本では客がくると女性が背中を流す習慣がある」と偽って阿魯雲が入浴中の浴室に侵入する秀子の間違った積極性や、秀子の妊娠を知った秀子の母ちゃんが、阿魯雲に向かって「(軍隊を脱走して)2人で逃げろ!」と堂々の非国民発言を行う件等々、日本人女性の逞しさ(?)を改めて認識した次第(おいおい)。
終盤の名古屋大空襲~群集雪崩込みの執拗な迫力も見もの。
せんきち的には今年の東京国際映画祭最大のヒット!ですた。

DVD出ないかなあ。

原作は1992年に日本語版が出ています。
また、1993年には第2部及び第3部の日本語版も出ております。
(『玄海灘は語らず』に『勝者と敗者』も収録)


『龍虎豹シリーズ/第6集(龍虎豹:第六集)』
1976年、香港。許鞍華監督。李欣頤、江毅、石修主演。

「アジアの風」の小特集「アン・ホイ南無&禅」、じゃなくて、「アン・ホイNow&Then」の一。
初期のテレビ作品です(TVB)。

別題:『許鞍華の「林檎殺人事件」』。
「どーするどーなる?続きはまた来週!」状態のまま、唐突に終了するサスペンス。
『藪の中』系のお話なので、これでいいのかとは思うけれど、それにしても、あの女、誰よ?

『北斗星シリーズ/アー・ツェ(北斗星:阿詩)』
1976年、香港。許鞍華監督。黄杏秀、伍衛國、呉孟達、劉松仁主演。

同上(TVB)。

大陸からマカオの親戚を頼って密入国した14歳の少女・阿詩が、どこまでも転落していく姿を描いています。

売春で金を稼ぐことを覚えてしまった阿詩がまじめに働く気になれず、恋人の両親が住む家を出てまたしても娼婦となる姿が生々しいっす。
父親のわからない子供を産み落としたばかりか、その養育を別人に押し付けた阿詩が行方知れずになったまま物語は終わり、彼女がこれからも行くあてのない人生を辿るであろう事が暗示されています。

呉孟達がまるで別人だったのも、違った意味で生々しかったっす。

『獅子山下シリーズ/ベトナムから来た少年(獅子山下:來客)』
1978年、香港。曾泉盛、李國松、張堅庭、方育平主演。

同上(香港電台)。

ベトナムから香港へ密航してきた少年と、彼を取り巻く人々の物語。
後の『獣たちの熱い夜(胡越的故事)』や『望郷 ボートピープル(投奔怒海)』のルーツとも言える作品ですが、従兄が殺され、兄貴分がマカオに強制送還されて1人ぼっちになってしまった少年は、これからどこへ行くのでせう。

ストーリーとは全然かんけーないけど、廟街を散策する場面で少年と従兄(だったよね?すでに記憶があやふや)が仲良く腕を組んでいるのがけっこー気になりますた。
女同士のそれは今も日常茶飯事ですが、当時は男同士でもそうだったのでせうか。
何しろ、「盧泰愚と全斗煥」以来だったもので…。

『獅子山下シリーズ/橋(獅子山下:橋)』
1978年、香港。許鞍華監督。ティム・ウィルソン(Tim Wilson)、 施南生、黄新、黄莎莉、張瑛主演。

バラック群と公共住宅の間に横たわる龍翔道。そこにかかる歩道橋の撤去工事が突如始まったことから起こる騒動を、イギリス人記者の視点から描いています。
記者が自らのラジオ番組の中で政庁批判を繰り広げるが、香港電台でこういうドラマがOKだったのは意外。
とはいえ、最後に記者は夢破れて香港を後にするので、結果は痛み分けということでしょうか。

どーでもいーけど、高志森って年を取らない顔なのね。

『獅子山下シリーズ/路(獅子山下:路)』
1978年、香港。許鞍華監督。黄淑儀、黄曼、鄭裕玲、陳玉蓮主演。

同上(香港電台)。

麻薬中毒の女性たちの群像。
元朗に住む母子、舞庁で働く女性の2つの事例が同時進行で進みます。
どうにも救いようのない『阿詩』に比べると、こちらのオチはやや安易な印象ですたが、中身より何より、すっぴん眉毛なしの鄭裕玲が一番怖かったっす。

とりあえず、今日はここまで!
この人、尤敏とも共演してるんだよなあ。

2009年11月4日水曜日

けちんぼ

〔しようもない日常〕〔ちょっとお耳に〕


どうも。
トド@中途覚醒です。

さて。

大人の事情で(うそうそ)年に1度は必ず足を運ぶ世田谷区民会館
1959年竣工のコンクリート打ちっぱなしの建物は既に老朽化が進んでいますが(建替計画進行中。保存運動も起こっている模様)、先だって訪問したさい、建設当時協賛金を寄付した企業・個人を銘記したプレートがあるのを発見、


仔細に観察してみたところ・・・

新東宝の名前を発見!

寄付金の額は2万円(以上)也。
当時の公務員初任給が1万円ちょっとらしいですから、現在の金額に換算すると40万そこそこといった感じでしょうか。

「断末魔状態だった大蔵新東宝にしては、がんばったクチね」と思いつつ、視線を移すと・・・

10万円以上の所に東宝の名前が!

その差は5倍。

・・・けちんぼ。

2009年11月2日月曜日

札幌・横浜・名古屋・雄琴・博多 トルコ渡り鳥

〔えいが〕

つい最近まで、五反田の池上線高架下に「松竹」という名前の
お風呂がありますたが、小津の『東京暮色』であの界隈が
出てきたことからのネーミングだったのでせうか(おいおい)。

1975年、東映京都。関本郁夫監督。芹明香、東龍明主演(ナレーション・山城新伍)。

というわけで、個人的なメモ。
3日間の上映期間の内、監督のトークショーがあった後半2日間は仕事の都合で足を運べなかったため、あくまで作品内容のみに関する備忘録です。

1969年の『にっぽん'69 セックス猟奇地帯』(以前書いたヘタレな感想はこちら)に始まる、いわゆる「東映セックス・ドキュメント」シリーズの1本として企画された作品ですが、実際の映画は20歳の泡姫・ひろみ(青森県出身。芹明香)とそのヒモ・利夫(和歌山県出身、27歳。南の男が北の女に寄生するという構図ね。東龍明)が、各地のお風呂で働きつつ日本列島を放浪する姿をセミドキュメンタリータッチで描いています。
したがって、『キネマ旬報』にあるような(『東映ピンキーバイオレンス浪漫アルバム』もこの記述を踏襲)、


尼僧スタイルの風俗嬢が恭しく客を迎える「尼僧ソープ」。ロビーいっぱいにジェット機の爆音が響き、中からスチュワーデス姿の風俗嬢が出てくる「スチュワーデス・ソープ」。詰襟の学生服の男子従業員、おさげ髪の風俗嬢の「女学校ソープ」。小児科、肛門科、性器吸入科等の看板を下げ、風俗嬢は看護婦スタイルの「病院ソープ」。


なんていう紹介映像は、1つも出てきません。
ホテトルのはしりみたいな「出張トルコ」と女性専用トルコ(トルコ伯爵。ビキニブリーフ穿いた泡王子が2人がかりで女性にご奉仕)が申し訳程度に出てきますが、これは「セックスドキュメント」としてのアリバイ作りの色彩が濃厚です(他にも、横浜から博多に流れてきたハーフの泡姫への取材あり)。
それよりは、ひろみの出身地が青森・下北半島である点等、後の『処女監禁』や『天使の欲望』(ヒロインの出身地が同じ)の原点にあたる作品と考える方が妥当でしょう。

冒頭、札幌のビジネス旅館の窓から放尿していた芹さんが、ラストでは列車最後部のデッキからまたしても盛大に放尿、「芹さんの放尿に始まって放尿に終わる映画」でおました。
途中の「自動車車内からビール噴射」も、放尿の暗示でせうか。
一度は喧嘩別れ(というか、雄琴で壮絶な暴力沙汰を起こした後、芹さんはパンティ一丁のままタクシーに乗って逃走。北へ舞い戻った芹さんは、「ハワイ」という名のお風呂に就職。北国のトルコがハワイ…)した利夫とヨリを戻した後、立ち寄った食堂でさっそく利夫の股間に手を伸ばすひろみが、いかにも好き者なんですけど憎めません。
喧嘩別れの原因となったポニーちゃんのエピソードには、しんみりさせられましたです。

中盤、何の前触れもなく菅原通済や榎美沙子(懐かしいね。生きてるんだろか)といった当時の出たがり識者(?)が大挙登場、トルコに関する見解を披瀝しているのには大爆笑。
若き日の黒鉄ヒロシが、したり顔でトルコ擁護論をぶっていました。

ところで、これは内容とはかんけーないのですけれど、近年では上海でもブイブイいわせているお風呂(こちらこちらをご参照下さい)、この映画にも「香港」や「蘇州城」といった中華系の店名を冠したお風呂の看板が出てきまして、なるほど、中華とお風呂って昔からけっこう相性がよかったのだなあと、改めて認識した次第です。

ちなみに、11月21日(土)からシネマヴェーラ渋谷で開催される山城新伍特集でも上映されるらしいです。
今回見逃した皆様は、ぜひその機会にご覧になってみて下さい。

こちら、戦前の上海で発行されていた英字紙に
掲載された正統派お風呂の広告。オーナーが日本女性と
いうのが気になりますです。


あ、そうそう、陰毛のお手入れ映像、大変勉強になりました。
もちろん、自分は実行できないと思うけど…。

おまけ:識者の1人として登場するトルコ・コンサルタントの垣沼健司氏、せんきちの中学時代の愛読書である『陰学探検』にインタビューが掲載されていました。

『陰学探検』は、現在、ちくま文庫から2分割&
タイトル変更されて好評発売中(垣沼氏のそれは『色の道~』の方に収録)。
小沢昭一氏の著書だと、『小沢大写真館』(これもせんきちの中学時代の
愛読書)にも泡姫へのアンケート調査があります。