〔ちょっとお耳に〕
「コバルトの風」→「放射性物質を含んだ風」を
連想してしまうあたくし。どうも。
トド@猫の介護中です。
えー、うちのバカ猫みーちゃん(13歳5ヶ月。雄。タマ無し)、ただいま初期の慢性腎不全と診断されて闘病中なのですけれど、病院で処方された腎臓病用のキャットフードを
全然食べてくれましぇん(泣)。死ぬぞ、お前。
え?オレのこと?
だって、まずいもん食いたくないもーん!さて。
先日、某ヤフオクで香港の昔の地図を購入したのですが、中環周辺の建造物をチェックしていたところ、おや?
香港希爾頓酒店(ヒルトンホテル。現・長江集團中心)
の場所に「美國酒店」の文字が。在りし日のヒルトンホテル。もしや、ヒルトンの開業前、ここには美國酒店(アメリカンホテル)なるホテルが建っていたのか?と思い、
こちらのサイトで他の古地図を探したところ、
1953年。
一帯はグラウンド
(戦前は美利操場)でした。1963年。
あらやっぱり美國酒店だ。1967年。
ここでやっとこさヒルトンに。なるほど、古地図を辿る限りでは、たしかにヒルトン開業以前、そこには美國酒店というホテルがあったようです。
となると、気になるのが「いつからヒルトンに衣替えしたのか」ということ。
てなわけで、同じサイトで今度は古新聞を捜索、するとすると、面白いことがわかりましたよ。
美利操場跡地にホテルを建てようという話になったとき、まず当初の計画段階では、
馬哥孛羅酒店(マルコポーロホテル)という名前だったのが、1961年のホテル建築中、「香港で初めてのアメリカ人出資によるホテルなのだから」という理由で、ホテルの持ち主である永高有限公司(Wynncor Ltd. この会社はイギリス資本らしいんですけど。また、出資したアメリカ人の素性も不詳)が、
美國酒店(アメリカンホテル)と改称、しかし1963年のホテル開業時には、
香港希爾頓酒店(ヒルトンホテル)に落ち着いたらしいのです。
っつーことは、美國酒店として営業した実績はなかったってことね。
おそらくは、持ち主の意向で一度は美國酒店になったものの、ホテルの運営自体はヒルトンが行うので、そんなこんなの理由で香港希爾頓酒店になったといった感じなのでしょうか。
このあたり、東急とヒルトンの合弁だった東京ヒルトンホテル(キャピトル東急ホテル)とおんなじ経営形態ってことになるのか知らん。
ちなみに、1963年6月の開業式典には日本から五島昇(東急のオーナー)夫妻も出席したそうです。
これもヒルトン繋がりね。
以上、1枚の地図から始まった素朴な疑問は、意外とあっさり解消されましたが、もう一度手元の地図をよーく見てみたら、な、なんと、
一九七三年増訂版の文字が。
……。
ちっとも増訂されてねーじゃねーか!
この地図、マンダリン(香港文華東方酒店)の
ある場所には「皇后酒店」と書いてあるよ。これも謎だ。付記:どーでもいいけど、中文版ウィキペディアの「
香港希爾頓酒店」の項にある「1961年正式開幕及營業」って、何を根拠にしているのだろうか?