〔えいが〕
どうも。
トド@珍しく連投です。
さて、『裸屍痕』に続き、中平康(楊樹希)監督が邵氏で撮った『飛天女郎』も観ることが出来ましたので、それにまつわるお話をいくつか。
中平康監督が「楊樹希」名義で邵氏に残した作品は4本(『特警009』『飛天女郎』『狂戀詩』『獵人』)ですが、『飛天女郎』を除く3作品はソフト化されたにも関わらず、どういうわけかこれだけはソフト化されずじまいでした。
念のため、おおまかなストーリーを記すと、
母親を亡くし、博打狂いの父親と知的障害のある(と、香港電影資料館ホームページの解説にはありましたが、ぱっと見そんな感じはしませんでした)弟を養うために工場で働く少女・李婷玉(方盈)は、工場が閉鎖されるかも知れないと聞き隣家の王老人(顧文宗)に相談しますが、かつて空中ブランコ乗りだったという王老人は彼女にサーカスの素晴らしさを話し、婷玉はサーカスへの憧れを抱くようになります。
ある日、父親が博打場で知り合った女(高寶樹)を妊娠させたことを知った婷玉は家を飛び出し、ふと見かけたサーカス団に頼み込んで入団することとなります。
その後、空中ブランコ乗りのスター・劉耀武(羅烈)からパートナーに指名された婷玉は練習に励むものの、女たらしの耀武は彼女の体が目当てで、酒を飲ませた上で犯そうとしますが、団員の羅天行(岳華)に阻まれます。
天行もかつては空中ブランコ乗りだったのですが、パートナーが事故死した後、ブランコに乗るのを止めてしまったのでした。
しかし、婷玉の熱意に打たれた天行は再びブランコに乗ることを決意、婷玉への熱血指導が始まりました。
やがて2人は恋に落ちますが、嫉妬に駆られた耀武は婷玉を襲い、婷玉は妊娠してしまいます。
逆上した天行は耀武と格闘になり、耀武は持っていたナイフで自分の腹を誤って刺し、この騒動が原因でサーカス団にいられなくなった天行は姿を消すのでした。
どうしても天行のことが諦めきれない婷玉は、子供を堕ろした後一人天行を探し始めます。
天行はヤクザの手下になっていました。
一度は婷玉を冷たく追い払った天行でしたが、結局ヨリを戻し、天行のアパートで愛を確かめ合います。
と、そこへ、婷玉の美貌に目をつけたヤクザのボスとその手下(天行の兄弟分)が押しかけ、天行と争いになりますが、駆けつけた警察に天行も逮捕されてしまいます。
その後、サーカス団の公演で婷玉は空中ブランコに乗りますが、空中を舞う彼女を待っていたのはなんと釈放された天行でした…。
というものです(あくまで「おおまか」)。
作品の感想としては、他の3作品に比べるとソフト化されなかったこれもそう悪くない出来ではないかな、と思いました。
あくまで、可もなく不可もなく、といった程度でしたが。
が、ここで問題にしたいのは、他の3作品が自作(『狂った果実』『猟人日記』『野郎に国境はない』)のリメイクだったのに対し、これだけがそうではないという点。
ウィキペディアではこれについて、渡辺祐介監督の脚本(ノンクレジット)を映画化したとあるようですが、邱淑婷の博士論文『香港・日本映画交流史:アジア映画ネットワークのルーツを探る』所収の村田啓三へのインタビュー(注1)には、村田が『特警009』と『飛天女郎』の脚本及び助監督を務めたということが詳細に記されています。
以下、そのインタビューから少し引用してみます。
…(1967年の・せんきち注)5月頃から僕は小林旭のアクションもの2本、これを香港に行ってやろうと言われて、それを香港向けに書き直して、2ヶ月ぐらい毎日麻布十番(中平のマンション・せんきち注)に行って書いたの。
…(『飛天女郎』の脚本は)日本語で書いたが、香港側の戴さん(戴振翮・せんきち注)が中国語に直したわけ。
…要するに啓徳空港は危ないとこで、狭くてっていう普通の知識はぜんぶ勉強しました。ホテルに帰って夜は暇だったから尖沙咀に行ったり、ビクトリア・ピークに行ったり、船の所に食べに行ったり。つまり、香港のことを吸収しながらこれ(『飛天女郎』・せんきち注)を書いたわけ。
…中平さんは夜お酒飲んで、朝になるともう寝てるわけでしょ、撮影現場に行って、「イーベキャメラ!」と言ったのは、私なんです。
…西本さん(西本正〔賀蘭正〕・せんきち注)と私と、そして桂さん(桂治洪。邵氏側の助監督・せんきち注)と相談して撮ったわけ。
ここまではっきりとした証言があると、「『飛天女郎』=渡辺祐介脚本説」には首を傾げざるを得ないのですが、たしかに渡辺監督が邵氏に招かれて映画を撮るという計画自体は西本正の証言によればあったようです。
しかし、邵逸夫が渡辺監督に直接「いくら払ったら香港に来てくれるか?」といった内容の電話をしたことで渡辺監督の香港行きに対する意欲が萎え、この話は立ち消えになったそうですから(注2)、この時点で邵氏向けの脚本が完成していない限り「『飛天女郎』=渡辺祐介脚本説」は成り立たないことになります。
ところで、先述の邱論文に収められた市古聖智(村田同様、中平監督の邵氏作品、さらには井上梅次監督作品でも助監督を務めた)へのインタビューには、
邵氏は渡辺祐介監督の作品をリメイクしたがったが、渡辺監督の映画を中平監督がリメイクするのはまずいということでボツになった。
といった趣旨の証言があり、その作品は『ひも』であったと記されています。
仮にこれが東映の「夜の青春」シリーズの『ひも』だったとすると、
渡辺監督作品ではないので(関川秀雄監督)おかしいということになりますが、渡辺監督は同じく「夜の青春」シリーズの1本である『いろ』の脚本を担当しているので、あるいはこの映画の間違いだった可能性もあります。
ところが、ここでもう一度仔細に『飛天女郎』のストーリーを検討してみると、あれ?これって、
渡辺祐介監督の『あばずれ』(1966年、緑魔子主演。渡辺祐介・神波史男脚本)のストーリーとほとんど同じ!
なんですよ。オチが違うだけ。
となると、『飛天女郎』そのものの脚本の執筆者に関しては村田啓三で間違いないようであるものの、実際の流れとしては(以下、せんきちの勝手な推測)、
一度はボツになった『あばずれ』リメイク企画→しかし、オチを変えれば問題なかろう、ということになる→『あばずれ』を基にした香港版の脚本を村田啓三が執筆
といったような按配で、それらが巡り巡って「『飛天女郎』=渡辺祐介脚本説」となったのではないでしょうか。
当時の香港では緑魔子の作品がけっこう人気で(注3)、本家『あばずれ』も1967年4月に香港で劇場公開されており(中文タイトル:玉女情狂)、香港での上映から1ヵ月後には既に中平監督側に邵氏から『あばずれ』リメイク企画が持ちかけられていた可能性があります。
なんたる早業…(感心してる場合じゃないか)。
そんなわけで、次回は『飛天女郎』と『あばずれ』のキャスト比較や『飛天女郎』制作にまつわる話題、さらには邵氏におけるその他の中平作品に関する逸話等も取り上げてみたいと思います。
注1:邱論文の論考部分は香港と日本でそれぞれ公刊されていますが(『港日電影関係:尋找亞洲電影網絡之源』〔2006年、天地圖書〕『香港・日本映画交流史:アジア映画ネットワークのルーツを探る』〔2006年、東京大学出版会〕。他に
英文版もあり)、インタビュー部分に関しては昨年香港で中文版(『港日影人口述歴史化敵爲友』、香港大學出版社)が出たのみです。
注2:『香港への道 中川信夫からブルース・リーへ』(2004年、筑摩書房)による。
注3:当時、香港で劇場公開された緑魔子の作品には(いずれも中文タイトル。原題がわかるものはカッコ内に明記)、『蕩婦淫魔(おんな番外地 鎖の牝犬?)』『都市悪魔』『三雄爭奪戰(ギャング頂上作戦)』『玉女情狂(あばずれ)』『龍爭虎鬥(暗黒街仁義)』等があり、1968年1月には『日本應召女郎(夜の悪女)』が残念ながら香港で上映禁止になった旨の報道も見られます(『工商日報』『華僑日報』による)。また、この他にもいくつかの緑魔子出演作が香港で上映を禁じられており、それらについては拙ブログの過去記事(
こちらと
こちら)をご参照下さい。
(つづく)