2006年9月29日金曜日

感恩歳月 (Honor Thy Father)

〔えいが〕


1989年、台湾(中影)。何平監督。午馬、鈴鹿景子(楊貴媚〔声の吹替〕)、馬景濤、石雋主演。

「王貞治監督病気平癒祈念企画」ですが、その前に少し別の話を。

先日亡くなった丹波哲郎、香港でも大きな扱いの記事が出ましたが、残念ながら『ならず者(雙雄喋血記)』に関する言及は無し。

『水滸伝(水滸傳)』の丹波さん。

この映画を観て『東京ギャング対香港ギャング』を観て『戦後秘話 宝石略奪』を観ると、丹波さんはマカオでひょっこり生きているのじゃないかという気がしてきます。

と、そんなおり、『ならず者』が上映されます(新文芸坐の「映画作法―澤井信一郎の世界」にて。中学生の頃、澤井監督にサイン貰ったことがあります)。
10月5日(木)平日1日限りの上映ですが、最終が午後8時50分からなので何とかその回だけでも観られないかなあと思っております。
ちなみに、明後日は『華麗なる追跡』と『0課の女 赤い手錠』の2本立。
これも見逃せません。

といったところで、本題。

1989年、台湾で製作された王監督の伝記映画(門間貴志氏の『アジア映画にみる日本1 中国・香港・台湾編』に詳しい解説があります)。
原作は、1984年に出版された王監督の母・登美さんの著書『ありがとうの歳月を生きて』。
王監督の父・仕福さんを午馬、母を鈴鹿景子、王さんの役は馬景濤が演じており、京都でロケーションが行われています。
脚本は、監督である何平と呉念眞の共同執筆。

実は1960年代半ばにも、王さんの後援会幹部である在日華僑の大物・劉天禄(東映の台湾における代理店・永昌のオーナー)が王さんの伝記映画を台湾で製作しようと計画、李翰祥監督に話を持っていったりしたのですが、結局製作されることはありませんでした。

映画は1986年の旧正月、王さんの回想という形で、自らの生い立ちから一本足打法の完成までを辿っていますが、物語の中心をなすのは常に王さんを見守り励ます家族と近所の人々との絆、そして荒川コーチとの師弟愛であり、とりわけ両親が王さんにそそぐ深い愛情を丹念に描いています。

草野球のヒーローだった王さんの試合を偶然見ていた荒川博(映画では高名なプロ野球コーチとなっていましたが、正確には当時はまだ現役選手)が、右打ちから左打ちにすることをアドバイスした話や、選抜大会で指に怪我をした王さんを父が中国の民間療法で治療した話、日本国籍でなかったために国体に出られなかった話、また、一本足打法を生み出すために行った日本刀を用いた特訓&畳の上での素振りで畳が擦り切れてしまった話・・・・等々、王さんのファンならば皆知っている超有名エピソード(せんきちも勿論知っております。子供の頃、大ファンでした)もきちんと登場しますが、父が中華人民共和国籍だったのに対し、父以外の家族は皆中華民国籍だったことや、仕福さんが1人だけで足しげく生まれ故郷の中国大陸へ里帰りしていたこと等は一切出てきません。
が、こうした複雑な事情は抜きにして、あくまでも王さんと彼を巡る人々の心温まる「ちょっといい話」にしている点は、ある意味無難と言えるのかもしれません。

王さんの父は周囲の日本人ときわめて良好な関係を築き(戦時中、罵倒される場面がありますが)、日本人も彼とその家族を支え続けますが、仕福さんは常日頃から日本人の信頼を得るために並々ならぬ努力をしていたらしいので、逆にそうまでしないと平穏無事に暮らせないのかなあとも思ってしまいますた。

終戦直後の東京ということで、王さんの実家である五十番(中華料理店)のかいわいは京都で撮影されていますが、映画の中で五十番のある場所は二年坂の角。
どこが墨田区なんだか・・・・。

一本足打法の生みの親である荒川コーチは石雋が演じているせいなのか、なんだか川上哲治並みの大家になっておりました。

それから、不思議だったのが五十番のラーメンのレシピ。
家族や師弟の絆を深める小道具としてきわめて重要な役割を果たすこのラーメンの具が、なぜか知らんけどトマトのスライス2切れと刻んだ葱なのよ(調理場にはトマトが山積。牛肉麺とごっちゃになってるような気が)。

あんまり食いたくないな。

付記:鈴鹿景子の吹替の声が楊貴媚にクリソツだったんですが、後でクレジット見たら「對白」のところに楊貴媚の名前が。やっぱり彼女だったのね。

映画と一緒にぜひこの本もお読み下さい。
後援会幹部が王さんと張美瑤を結婚させようと
していたなんていう驚きの事実も出てきます。

2006年9月25日月曜日

魔都・香港の密航ルートを探る

〔ちょっとお耳に〕

えー、約1週間のご無沙汰でした。
まだまだバテバテ中ですが、そろそろ再開いたします。

はじめにお知らせ。
メインサイト、超お久しぶりにおニューの記事を書きました。
某有名ブログではすでに取り上げ済みのネタらしいんですけど、ま、改めて仔細に検討ということで。

さて、本題。
前回に引き続き、今回も古本ネタ。
『週刊読売』1958年1月26日号の巻頭特集「魔都・香港を探る 読売記者の密航ルート潜入記」のご紹介。
この記事、大阪読売新聞社会部・曽我部道太記者が密航者に化けて香港に潜入、1ヶ月間彼の地に潜伏した、その間の取材記録であります。

先ず前段として、


神戸、大阪、横浜など日本の主要港湾都市を不良外人たちは"ハニー・ポート"と呼ぶ。密入国は思いのまま、荒かせぎは仕放題、そしてあぶなくなれば、いつでも"犯罪者の安全地帯"香港へ飛べるところから、このカゲ口が生れた。
だが、不良外人だけではない。ここ数年来日本人の犯罪者、ヤミ商人たちが港湾当局の目をかすめてヤミ船でドシドシ香港通いをしている。



なんていうセンセーショナル(でもないか)な現状を提示、続いて香港への密航の手段に関する記述に入ります。
曰く、

1、貨物船に荷物となって潜り込む。
2、客船の船員と結託して海上で落ち合い、こっそり船に乗せてもらう。
3、遠洋漁船に乗り込む。

の3種類の手段が紹介されていますが、このうち曽我部記者が選択したのは第1の方法。

1957年10月某日、関西の某港から貨物船に乗りこんだ曽我部記者の触れこみは、

欧州生まれの台湾人・李泰明

だったそうですけど、なぜわざわざ台湾語の出来ない台湾人に化けたのか、その理由は謎のまま。

約1週間後、香港に着いた船から無事脱出(脱出手段の説明もなし。この記者さん、肝心なところは全て省略する人のようです)して今度は香港市民に化けた曽我部記者をまず驚かせたのは、公称250人とされている在港日本人の人口よりもさらに多くの日本人が香港にいた、という事実でありました。
曽我部記者によればその人数は約1500人で、ほとんどが女性。
彼女たちは主にダンスホールの踊り子やマッサージ師として働いているものの、中には生活のため売春に手を染める者もおり、自分の意志で密航してきた者もいれば男に騙されて売り飛ばされた者もいるとの由。

記事中には密輸船で香港に売られてきた茨城出身の女性(王惠。日本名不詳)へのインタビューが掲載されていますが、そこには一緒に売られてきた友人のシゲ子はマカオに転売されて娼婦をしている旨の記述があり、『ならず者』の南田洋子もあながち絵空事ではないのだなあと実感いたしました。

この他、九龍城砦への潜入ルポや黒社会(三合会)に関するかんたんな解説もありましたが(14Kも登場)、当時すでに

香港には九龍城砦という一度入ったら生きて出て来られないとっても怖いところがあって、三合会というとっても怖いヤクザさんの組織がある。

という、この後大部分の日本人が共有することになる香港に対しての基本認識が出来上がっていたのには、正直びっくり(と言うべきか、がっかりと言うべきか)しました。

記事は曽我部記者のルポの後、「わたしたちの見た『香港』」のタイトルのもと、野村芳太郎や十返肇等々、香港を訪れたことのある著名人がコメントを寄せておしまいになりますが、気になったのは曽我部記者がどうやって日本に帰ったのか、そのことに関する記述が全くなかったこと。

先ほども述べたとおり、「肝心なことを省略する」傾向のある曽我部記者ですが、荷物になって潜り込んだのならば帰りも荷物にならなければならないはずで、そうでないのならば正直に警察に出頭して強制送還されたのか、あるいは領事館に泣きついたのか、それとも実のところは読売サイドからあらかじめ香港政庁に取材許可を申請済の、いわば出来レースによる密航だったのか、大きな謎が残る潜入取材でありました。

っつーことは、取材内容もみんなヤラセなのか?

2006年9月19日火曜日

長閑なることつつじの如し(意味不明)

〔ちょっとお耳に〕

これが問題の『明星』だ!

もっと前に書くはずだったネタを、今さら。

7月から8月にかけて東京のデパートでは古書展が開催される機会が多く、せんきちはこのうち銀座松坂屋、新宿京王、東急東横店のそれに足を運びましたが、そこで出会ったのが今回ご紹介する月刊『明星』1962年5月号。
不詳せんきち、『週刊明星』は尤敏の載っていそうな号について全てチェックしたのですが、月刊に関しては未チェックの号も多く(これもそんな1冊)、巻頭グラビアに尤敏が掲載されていたため、「日本一の尤敏ファン」を目指すせんきちとしては「速攻買い!」となった次第。

で、気になる記事の内容はというと、

尤敏のホリデー・イン・ジャパン

なるタイトルのもと、司葉子とツーショットで微笑む尤敏の写真と『香港の星』の北海道ロケの折のスナップが掲載されていました。


記事中には、


香港スター尤敏は今や日本のアイドルです。『香港の星』『社長洋行記』2本の東宝映画出演のため来日、わずか滞日1週間のいそがしいスケジュールでしたが、その間に、花と雪にいろどられた日本をエンジョイしました。
大の仲良しの司葉子さんと早ざきの山つつじの花咲く山の公園で、淡いピンク色の支那服姿も清らかな尤敏さんは、かわいらしい花々のような微笑をうかべて語りあいます。(以下略)



とあり、一瞬「おお、『香港の星』の時も司葉子に会っていたんだなあ」と思ってから、はたと気がつきました。

『社長洋行記』のスチール撮りと『香港の星』の北海道ロケのために尤敏が来日したのって、たしか2月だったはず(→たしかに2月でした)。

となると、もし仮に1962年の冬が記録的な暖冬だったとしても、こんな満開のつつじの中で写真撮影をするのは不可能になります。

そこで、再び仔細に写真を眺めてみると、おや?
司葉子が着ている服、これって、『香港の夜』の雲仙温泉の場面で着てた服じゃん。
それに尤敏の髪型、これはまぎれもなく1961年の髪型ざます(1962年はも少し短い)。

動かぬ証拠。

なんのこたあない、1961年の『香港の夜』雲仙ロケのさいに撮影した写真を流用しただけの代物でおました。

がっかり。

「本誌独占特写」なんて誇らしげに謳っちゃって、東宝からクレームは来なかったのかしらん。
映画の宣伝になれば何でもOKだったのでしょうかねえ。


今と違い、芸能マスコミがまだまだ長閑だった時代を偲ばせる記事でありました。

付記:当時の芸能人のファンレターの宛先って、今では信じられないことですがほぼ全てが「自宅の住所」。ストーカーなんていなかったんだろうか。

2006年9月17日日曜日

サクラ咲く

〔しようもない日常〕

ウマ、ウマ、ウマーい!

こんにちわ。
グエムルとムニエルの区別がつかないせんきちです。
たまにはつまらない日常雑記を。

この夏中ずーっと、

どじょう鍋(もちろん丸鍋)が食いたい!

と思い続けていた不肖せんきち、知人のKさんに、

ねえ、どじょう鍋食べに行こうよ。

と切り出したところ、

どじょう鍋は苦手です。

と即刻却下、次善の策として桜鍋を食べに行くことでなんとか合意、

どうして精のつくものばかり食べたがる?

と嫌味を言われつつもさっそく予約を入れて行ってまいりました、土手の中江。

浅草からタクシーを拾って日本堤へ。
吉原大門前で下車。
お隣のいせや(天ぷらやさん)には行列ができていました。

中江に来るのは何年かぶり。
初めて来たのは20年ほど前。

引き戸をがらりと開け、下足番のおじさんに名前を告げて1階入れ込みの座敷に案内されたところでまず生ビールを1杯。
続いてお料理を注文。
鍋(ロース)を2人前とザク、盛り合わせ(野菜やお豆腐)、これに刺身を1人前という組み合わせ。
先に来た刺身をまず賞味。

ああ、ウマいわ。

牛肉なんかよりもあっさりしていて、あっという間に胃袋に入ってしまいます。
ちなみに、熊本へ行くと焼肉屋さんにも桜肉のメニューがあって、これも柔らかくてあっさりしていて美味です。

刺身を堪能したところでいよいよお鍋。
お酒もビールから燗酒にチェンジ。
先にお肉を食べてから、ザクと盛り合わせを煮て食べるという段取り。
柔らかいお肉を卵に潜らせて一口、また一口、こちらもあっと間に胃袋行きで、残りのおつゆに溶き卵を入れて煮た後、それを熱々のご飯にかけて食べる「あとごはん」まで、一気に味わってしまいました。

その間、わずか1時間。

食後のお茶を飲んだ後、満ち足りた気分でお会計を済ませて中江を後にし、ぶらぶら歩いて浅草へ戻ることにしました。
当初は国際通りの方から戻ろうとおもっていたのですが、ガソリンスタンドのところに淋しく佇む見返り柳が、

おいでおいで

と囁くのが聞こえたので、そのままKさんと一緒に吉原に突入、見返り柳や衣紋坂の由来だの、道路が蛇行しているのはほぼ近世そのままの面影を留めているからで、それは『吉原細見』を見ればわかるだの、元は人形町の方にあったんだけどその後こっちに移転してきただのとくだらない薀蓄を傾けながらソープ街を突っ切り(くわしくはこの本でも読んで下さい)、吉原神社でお参りして浅草へ帰還、折から開催中の燈籠会を見物しました。

燈籠さんたち。


お手手の皺と皺を合わせて幸せ。

燈籠を見物した後は、神谷バーへ寄って軽く1杯。
冷奴食べながら黒生を飲みました。


神谷バーは、ご存知の通りバーというよりはビヤホールみたいな雰囲気のお店。
お腹が空いている時は、2階でビールを飲みながら食事をするのもよいでしょう。

子供の頃、親と一緒に映画を観に行った帰りはたいていライオンやピルゼン、ミュンヘン、ニュートーキョーといったビヤホールに連れて行かれて、「親はビールで子は食事」という段取りになっていたせいか、こういうビヤホール風のお店に行くといつも懐かしい気持ちになりますです。
そういや、当時(昭和40年代後半から50年代初頭)、銀座7丁目のライオンには1000円のビフテキ(ビーフステーキじゃなくてあくまでもビフテキ)というメニューがあって、それがせんきちにとって世界一の高級料理でした。

というわけで、中江で隣りのテーブルにいたソープ帰りのオヤジとその隣りのテーブルにいた関西のオッサンのシモネタ話が鬱陶しかったけれど、久しぶりに浅草の夜を堪能した一日でおました。

次は鰻とぼたん鍋だわ(やっぱり精のつくもんだよ)。

2006年9月14日木曜日

行くだけ行った in 台北 (その7)

〔たび〕

買っちまったよ・・・・。

よく降りますね。
駒大苫小牧の田中くんを見るたびに張世を思い出しているせんきちです。
すっかり記憶が薄れてきているので、今日で旅日記を終わらせてしまわないと・・・・。

8月28日(月)
昨夜は荷造りを途中で止めて寝てしまったので、午前7時に起きてとっとと朝食を済ませてからせっせと荷造り。
よって、朝のお散歩はなし。

一段落ついた後、例によってだらだらとニュース鑑賞。
総統関連ニュース、国旗剥奪事件は相変わらずの大騒ぎ。
そして、阿嬌盗撮事件も。

ところで、盗撮というと思い出すのが5年前に台湾で起こった璩美鳳盗撮VCD事件。
台北市議の閨房の秘密をVCDにして雑誌付録としてばら撒いちゃったという、前代未聞の事件でした。
そう考えると、台湾のマスコミもえらそーなこと言ってらんないよな。

午前10時半に迎えのハイヤー(大荷物なので頼みました)が来るので10時過ぎにチェックアウト、ロビーで新聞を読みつつ車を待っていると、しばらくして運転手さんが現われ、車に乗り込んで空港へ。
行きは渋滞に巻き込まれましたが、帰りは快適そのもの、1時間もかからずに空港に到着。

チェックイン後、昨日1日中京劇を観ていたせいで少しばかり小遣いが余っていたため、最後のお買い物とばかりに空港ターミナル内の玫瑰唱片へ突入。
そこで私を待ちかまえていたのが、「懐舊電影経典」のVCDボックス。
全部で6セットありましたが、なにしろ壊れ物の荷物が既にあるため、考えに考えた末「1」のみを購入。
他に、DVD少々と免税店でお土産をすこし購入してから出国手続。
お腹が空いていましたが、飛んだらすぐに機内食が出るので缶コーヒーを飲み飲みぐっと我慢。

というわけで、無事に搭乗、13時過ぎに離陸。
帰りの映画は『伊莎貝拉』か『シャンハイ・ドリームズ(青紅)』だったんですが、ここは前者を選択。
杜汶澤が火野正平に見えて仕方がなかったっす。
梁洛施(おそるべき娘!)は角度によって高橋英樹の娘に似てると思ったけど、こないだのビジットジャパン香港親善大使の写真を見たら、ちっとも似てないわね。
もう一遍スクリーンで観てみたい。

映画を観てからひと寝入りしたところで、17時過ぎに成田着。
入国、税関を済ませて品川方面行きのリムジンバスに乗り、ホテルラフォーレ東京で下車。
ここからタクシーで家へ帰りましたが、タクシーの運ちゃんはかつて台北の天母に5年間住んでいたそうで、私が台湾へ行ってきたと知るとうれしそうにいろいろ話しかけてきました。
なんでも、檳榔が大好きで9月には台南へ檳榔を求める旅に出るのだとか(檳榔小姐の話でひとしきり盛り上がりました)。
しかし、天母に住んでいたということはかつては日本企業の現地駐在員だったのでしょうが、なんでまたタクシーの運ちゃんなんかやってるんでしょう。
「人に歴史あり」ですな。
日本でも檳榔咬み咬みタクシーを運転して下さい(そこらじゅう真っ赤になりそうだ)。

なんだかあわただしい旅でしたが、友人とも会えたし、うまいもん食っていいもん観たので、ま、よしとしましょう。

また行くわよ。

(おしまい)

2006年9月11日月曜日

『禁男の砂』4種

〔えいが〕

"On The Sunnyside Of The Street"聴くなら、
やっぱりトミー・ドーシー(Tommy Dorsey)がいいね。

今週の『純情きらり』(すいません、なんだかんだいって毎日欠かさず観てます)。
『二十四の瞳』が終わったと思ったら(途中に『寺島しのぶの「サザエさん」』もあったけど)、今度は、

『穐吉敏子物語』

ですか?

劇中、ヒロイン・桜子ちゃんの好きな曲としてしばしば"On The Sunnyside Of The Street"が演奏されますが、この曲はもともと大恐慌の折のヒット曲。
たしかに、聴いていると(歌詞の内容も)元気が出てくる曲ですし、これまで数多くの人々がレコーディングしていますが、せんきち個人としては、トミー・ドーシー楽団(Tommy Dorsey and His Orchestra)とセンチメンタリスツ(The Sentimentalists)による演奏がベストだと思います。

さて、今日は旅日記はお休み。
先月こちらでもお知らせした、東アジアの隠れたスーパースター・泉京子の代表作である『禁男の砂』シリーズ全4作が9日・10日に上映されましたので、メモ程度の感想を4本一気にお届けいたしやす。

『海人舟より 禁男の砂』
1957年、松竹。堀内真直監督。大木実、泉京子、石浜朗、瞳麗子主演。

シリーズ第1作(中文タイトル:『男人禁地』)。
泉京子演じるあばずれ海女・ナギと昔の恋人・作治との愛憎を軸に、ナギに思いを寄せる年下の純情男・勇と作治に思いを寄せるお高、さらには勇に思いを寄せるトシも加わって、最後は悲劇を迎えます(『情婦マノン』チックなラスト)。
芥川賞受賞作の映画化ですが、ま、そんなことはどーでもよくて、海女の衣裳から透けて見える乳首をひたすら胆嚢、もとい、堪能する映画。
ナギが歌い踊る(歌がもう・・・・なんというか、ヘタレで)『バナナボート』の出来損ないみたいな海女の歌も、見もの(なのか?)。
香港の殿方が悩殺されたのもうなづけるざます。
以前取り上げた香港映画『紅葉戀』における唐突な海女さんサービスカットも、この映画の印象の強烈さを物語るものといえましょう(どうせなら陳寶珠にも海女役やってほしかったな)。
でも泉さん、あの踊りの実力のまま台湾へも行ったのだろか。

『続禁男の砂』
1958年、松竹。大木実、泉京子、瞳麗子主演。

シリーズ第2作(中文タイトル:『男人禁地續集』)。
「嵐の襲来、潜ってはいけない場所の存在、誰かが溺れる、村の祭礼、敵対する海女グループの争い、恋の鞘当、キャットファイト」等々、第1作で登場した要素をほぼそのまま踏襲しつつ、逃亡中の銀行強盗犯と海女の恋が描かれます。
舞台が北陸の孤島という点が、なかなかユニーク。
前作の『バナナボート』もどきに懲りたのか、本作での踊りは民謡系になり、歌も大木実が担当していました。
台湾人に大人気の和倉温泉・加賀屋も、ちょっこし登場。
ラスト、ヒロインは泣きながら(相手の男が刑期を終えるまで)「待ってるわ、いつまでも」とか言うんですけど、この男、不可抗力とはいえ相方も殺しちゃってますし、かなり長くかかるんじゃないのかなあ。

『続々禁男の砂 赤いパンツ』
1959年、松竹。岩間鶴夫監督。大木実、泉京子、小山明子主演。

シリーズ第3作(中文タイトル:『紅衭子』)。
以前にも書きましたが、1960年、本作が香港で公開されたさいに泉京子本人が訪港、宣伝にこれ努めたという映画です。
また、1966年には台湾で『海女紅短褌』という、あきらかに本作からヒントを得たと思われる映画が製作されています。
「嵐の襲来、誰かが溺れる、村の祭礼、敵対する海女グループの争い、恋の鞘当、キャットファイト」といった前2作の主要要素は残しつつ、今度は東京のモダンガール(死語)をキーパーソンとして配置し、彼女の来訪によってもたらされる悲劇が、物語の中心となります。
タイトルの『赤いパンツ』とは、東京からやって来た画家・小山明子の穿いていた赤いショートパンツのことで、下着ではありませんでした(あらぬ想像をしていたわたくし。ただし、その後に海女さんも皆赤いパンツを穿き始めるというおまけがあるのですけれど)。
この小山明子が、大木実が殺してしまった男の婚約者だった、とわかるあたりから話がずんずん飛躍し始め、男の親友役として渡辺文雄までもが参戦してきて最後に大演説をぶつという、なんだか大騒ぎの展開。
初めこそ大木実に対して親分風を吹かせていたものの、すぐに弟分になってしまった大泉滉もそこそこ笑かしてくれました。

『禁男の砂第四話 真夏の情事』
1960年、松竹。岩間鶴夫監督。小山明子、泉京子、石浜朗、瞳麗子主演。

シリーズ第4作(香港で公開されたか否かは不詳)。
海女ネタは3作で早々に尽き、いきなり180度方向転換、シンクロナイズドスイミングに励む乙女たちが主人公になって、泉京子は美貌の未亡人、お相手だった大木実はその兄(特別出演扱い)に収まっていました。
お話も青春ドラマとミステリーをドッキング、そこにちょっぴりエッチなテイストを加えたようなストーリーで、「乳首の透けて見えない『禁男の砂』なんて・・・・」とフラストレーションがたまる一方でおました(何観てるんだか)。
シンクロの場面は、水中撮影中心のため、きれいなお姉さんが浮かんだり沈んだりするのを見たいむきは、エスター・ウィリアムズ(Esther Williams)の映画をご覧になる方がいいのじゃないかと思います。

というわけで、シリーズはこれにて終了。
泉さんはその後大蔵映画(一応日台合作)でもう一度海女になりますが、あまりぱっとせずに終わったのでした。

付記:ここ(川崎市市民ミュージアム)の館内アナウンスの音楽は、なぜかマイナー。これで迷子のアナウンスなんかされた日にゃあ、泣くよ。

(於:川崎市市民ミュージアム映像ホール)

2006年9月8日金曜日

行くだけ行った in 台北 (その6)

〔たび〕

マサジ(正次?)のマッサージ。

蒸し暑いですね。
昨日、『おんな極悪帖』と『怪猫トルコ風呂』を観にシネマヴェーラ渋谷へ行ったついでに、次回開催される「侯孝賢映画祭」のチラシを貰ってきましたけど(素晴らしすぎるラインナップ)、人名表記がカタカナのためカタカナに弱いせんきちは目がチカチカしてしまい・・・・。

ま、それはそれとして、

鈕承澤

のカタカナ表記が『風櫃の少年(風櫃來的人)』では、

ニュウ・チャンザー

になっていたのに対し、『ミレニアムマンボ(千禧曼波)』では、

ニョウ・チェンツー

とかなりの揺れが見られるのが(音も尿検査みたいだし)、少々気になりました。
そんなこんなで、ちょっくら鈕承澤のカタカナ表記に関して調べてみたところ、

ニュウ・チャンザイ、ニウ・チェンザー、ニュウ・チェンザー・・・・

と、現時点では一定していない様子。
せんきち個人の意見としては、

ニウ・チェンザーないしはニュウ・チェンザー

あたりが無難ではないかと思いますが、一番いいのは面倒でも漢字表記を覚えておくことではないかと。
筆談もしやすくなりますし。

さて、とっとと旅日記を終わらせちゃいましょう。

8月27日(日)つづき
夜の部(名段名家清唱會)も無事に終わり、終演後、Fさんに促されてロビーに出ましたが、待てど暮らせどAさんが現われません。
FさんがAさんに電話をしますが、これも繋がらず。
日本の劇場の場合、出入り口は通常一箇所ですが、ここは舞台上手と下手、両サイドにそれぞれ出入り口がある構造なので、どうやら我々は上手側、Aさんは下手側から出てしまい、そのために逸れてしまったもののようです。
Aさんと合流するのを諦め、Fさんと一緒に中正紀念堂駅まで行ってそこからMRTに乗って民權西路で下車、ホテルに帰りました。

帰館後、ちょっと観たいなと思っていたドラマ『深情密碼』をやっていたので、お茶を飲みつつ鑑賞。
途中で『白色巨塔』の長過ぎる次週予告が入り、そこからなし崩し的に『深情密嗎』本編に戻るため、ストーリーをよく把握していない私の頭の中では両者の登場人物が入り乱れて大混乱、しまいには、

『白色密碼』

になっちまったよ。

仕方なくチャンネルを切り替え、いつものようにニュースをだらだら見。
バンコクで開催されていた国際青少年スポーツ大会で優勝した台湾選手が身に着けていた晴天白日満地紅旗が、大陸の参加者に剥奪されたという事件が大きな話題に。
「中国は一つ」という原理原則に基づいた行動なんだろうけれど、相変わらずやることがえげつないな。

1時間ほどニュースを観た後、Aさんに電話。
「今どこにいるの?」と聞くので、Fさんと一緒にMRTで帰った旨伝えるとほっと安堵した様子。
またの再会を約して電話を切りました。
ついでにYさんにも電話をしてみましたが、留守電だったのでこのたびのお礼と明日帰る旨吹き込んでおきました。

テレビを観るのもいいけれど、明日帰るのだからそろそろ荷造りをせねばと思い、午後11時過ぎ、そろそろと荷造りを開始。
大した物は買っていないはずなのですが、それでもかなりの荷物があります。
また、初日に会ったKさんとSさんから頂いたお土産がどちらも壊れ物のため、これは手持ちにしなければならず、結局帰りも大荷物に。
Sさんが下さった功夫茶器は、なんでも譚家明監督の弟さん(ご本人ではありません)が台湾にいた頃愛用していたものだそうで、香港へ帰るさいSさんが貰ったものの、Sさんは茶藝の趣味がないため死蔵品になっていたとの由。
なんか知らんがありがたいものを頂きました。

荷造りの途中、前日買った『跨世紀台灣電影實錄 1898-2000』の上巻をちょこっとチェック。

1955年、シンガポールで開催された東南アジア映画祭(現・アジア太平洋映画祭)の帰途、台湾に立ち寄った三原葉子

なんていう激レア写真も掲載された超充実の内容で、買ってよかったなあとしみじみ思いつつ、ちょこっとチェックのつもりが1時間以上も読みふけってしまい、キリがないので荷造りも止めにしてとっとと風呂に入って寝ました。

(あと1回でおしまい、たぶん。なのでつづく)

2006年9月6日水曜日

行くだけ行った in 台北 (その5)

〔たび〕

真ん中に写ってるハゲ子供さんが
成龍だということは、前に書きましたね。

8月27日(日)つづき
車中でAさんと他愛ないおしゃべりをするうち、10分ほどで國家戯劇院に到着。
地下の駐車場に車を停め、劇場へ。

國家戯劇院に来るのは3度目。
1度目は学生時代(だいぶ前)、大学の先生のお供で「劇場機構の見学」というもっともらしい名目のもとに潜入、係の人に案内してもらいながら、舞台の寸法やら、照明のことやら、いろいろ説明を受けた記憶があります(ほとんど覚えていない)。
2度目は1996年12月、ちょうど「梅花獎大集合 金獎京劇團訪台公演」の千秋楽(22日)に間に合ったので、葉少蘭の『周仁獻嫂』を観ました。

入場後、Aさんの友人でやはり樂蒂ファンであるFさん、そしてAさんのお父さんを紹介され、出演者の皆さんの写真撮影をするというAさんは楽屋裏に消えて(出入りできるのね)、1人残された私はFさんと会話をすることに。
Fさんからは、

「なんで京劇を観るの?」

と外国人が京劇を観ることに対する率直な質問が出ましたが、当方の場合、歌舞伎や文楽との比較から京劇及びその他の地方劇(含む人形戯)を観るようになった(最近どれもとんとご無沙汰だけど)というのが正直なところなので、その旨説明すると、Fさん自身はもともと京劇になど興味はなかったのだけれど、Aさんに影響されたのと例の白先勇の『青春版 牡丹亭』(これは崑劇ですが)を観たのとで古典演劇に目覚めた、という話をしてくれました。

ほどなくして、開演。
10年前にここで京劇を観た時は開演前に起立させられて国歌斉唱に付き合わされたのですが、今はもうそんなことはなし。
この日の演目は、『長坂坡・漢津口』。
日本人大好き『三国志』の中のエピソードでおます。
途中、休憩のさいにAさんが戻ってきて『漢津口』はAさんと一緒に鑑賞。
以前は京劇の公演があるとそれなりに観に行ってたんですが、ここ数年はすっかり足が遠のいておりましたので、久しぶりに堪能いたしました。

終演後、劇場地下にある怒りコーヒー、もとい、イカリコーヒーで軽い食事とお茶。
終わってみたら、Aさん、Fさん、Aさんのお父さんの他にも、Aさんのお母さん、お祖母さん、妹さんまでお見えで、Aさんの家族は一家揃って京劇好きだったことが判明(ご主人とお子さんは欠席でしたけど)、総勢7名によるお食事タイムとあいなりました。

まずはAさんとFさんにお土産の進呈。
日本の女優では三田佳子がお好きだというAさんにマルベル堂で買ってきたブロマイドを差し上げると、大層喜んでいただけたご様子。
台湾における三田佳子は『いのち』のイメージが強いらしく、Fさんも「あのお医者さんのドラマ、よかったねえ」とおっしゃっていましたが、まさかそんな場所で彼女の息子がとんでもないヴァカであるのみならず、母親である彼女もそれに輪をかけたヴァカで・・・・という話もできず、ただ喜んでいただけて何よりと微笑むほかありませんでした。
それから、出発の数日前に仕込んでおいたとっておきのプレゼント(中身は内緒)を切り札として差し出しましたが、案の定、これが一番喜んでもらえました。

三田佳子のブロマイドが出たところでひとしきり日本明星の話になり、Aさんから「いま日本で一番人気のある明星は誰?」と聞かれたので、口から出まかせで「伊東美咲」と返答、他にも松嶋菜々子だの木村拓哉だの浜崎あゆみだのの名前が出ましたが、松嶋菜々子は北京語だとなんだか間抜けな名前になることにこの日ようやく気づきました(広東語だともっと変か)。
浜崎あゆみ(濱崎歩)も「おならを我慢している人」みたいな響きになりますけど。
この他、「東京で一番の繁華街は銀座」「銀座は東京の南にある」と大嘘ばかりついておりました(前者はあながち嘘ではないか。私自身はそう思っているし)。
(大嘘といえば、Aさんがご家族に私のことを「せんきちは日本の伝統楽器を演奏する芸術家なのよ」と紹介してくれて、半分は合っているけれど半分は大間違いだったので「いえいえ」とは言ったものの、訂正するのも面倒になり特に否定もしないままスルーしてしまいました)

食後、妹さんの案内で隣接する誠品書店の映画本とDVDの売り場へ。
これも中文字幕で観たかった『恋人たちの食卓(飲食男女)』と『感恩歳月』のDVDを購入しました。
『恋人たちの食卓(飲食男女)』は、梁おばさんのキョーレツな北京語を中文字幕で解明したかったのですが、梁おばさんっていつも「没有」とは言わずに「冇」と言ってますねえ。
これもやっぱり湖南訛りなんだろか。

Aさんのお父さんとお祖母さんは一足さきに席を外して、残る5人でおしゃべりの続き。
といっても、中身はほとんど京劇の話で、やれ誰が太っているだの、誰の歌はよくないだのという品評会になり、私の北京語能力&京劇の知識では半分もわかりませなんだ。
時折、妹さんが申し訳なさそうに、

「今、台湾では京劇を観る機会がほんとに少ないの。だからこういう機会があるとつい話に夢中になっちゃって、ごめんなさいね」

と話していましたが、なるほど、確かに日本にいれば年に何回かはどこかしらの京劇団が来日公演を行っているけれど、本土化した今の台湾ではそうもいかないのだろうなと思いました。
かつての蒋氏王朝時代に、「京劇(平劇)=國劇」なんていう虚構が堂々と罷り通っていたことを考えると、隔世の感があります。
しかしながら、当時、台湾の京劇好きの人々は内地の京劇を観ることが適わなかったのに対して、その禁が解かれた現在、台湾における京劇は数ある古典演劇の一種でしかなくなっているとは、なんとも皮肉なものです。

「女3人寄れば姦しい」と申しますが、Aさん、Aさんの妹さん、Fさんの「かしまし元娘」にAさんのお母さんを加えた4人のおしゃべりは留まるところを知らず、私もがんばって時折「梅葆玖を観たことあるよ(訪台メンバーの一員である李勝素が彼の弟子だったもんで)」だの「楊赤(やはり訪台メンバーの一員)は日本にもよく来ているよ」だのと発言、その後何気なく、

「10年前、ここで葉少蘭を観たことがある」

と洩らしてしまったところ、Aさんの妹が大興奮、

「あたし、葉少蘭の大ファンなの!DVD観る?」

と発言、続いてAさんのお母さんまでもが、

「あたしは葉盛蘭(少蘭の父)の舞台を観たことがあるよ」

と参戦、そこですかさずAさんが、

「せんきち、今夜は何か予定があるの?」

と聞いてきました。
本来ならば昼の部を観ただけで失礼するはずだったのですが、

「特に何もないけど・・・・」

と答えると、

「だったら、夜の部も観ていかない?」(正確には「聴いていかない?」だったのですが、夜の部〔名段名家清唱會〕は)

とすすめられ、妹さんも「観ていきなさいよ!」とすすめるので、

「じゃあ、観ます」

と返答、その場でAさんがキップを買いに行ってくれ、結局、その日は一日中京劇漬けになったのでありました。

(つづく)

2006年9月4日月曜日

行くだけ行った in 台北 (その4)

〔たび〕

これは飲まなかったな。

ちょっと京都に行ってました。
日差しは相変らず厳しかったですが、吹く風は比較的爽やか。
秋ですね。

さて。

こないだの旅日記に書いた『純情きらり』の禁断の恋の行方、なんのこたあない、

お互い別れ別れになる

ことであっさり終了。

さすが「みなさまのNHK」。
東海テレビで作り直してくれ。

で、今週に入ったら朝ドラお得意の「終盤、怒涛の早送り」状態に突入、時は流れて昭和21年、いつのまにやら、

宮﨑あおいの『二十四の瞳』

になっていました。

週の後半には死んだはずのあの人も帰ってくるみたいだけど、予告で観た限りではちっとも痩せてないわね。
さては○肉食ってた・・・・(以下自粛)。

あとは最終回にあおいちゃんの老けメイクが観られるかどうか、それだけだな、興味があるのは(アフラックのCMキャラクターにも起用されたことだし)。

では本題に入りましょう。

8月27日(日)

午前8時30分に起床。
今日はAさんと京劇を観に行く日。
例によって、だらだらと豆乳飲みながらニュースを観た後、お散歩。
少し時間があるので、ホテルの裏にあったマッサージ屋へ立ち寄り、ちょっと足裏を揉んでもらいました。
以前は台湾だの香港だのシンガポールだのへ行く度にマッサージをしてもらっていたのですが、うちの近所に健康保険のきくマッサージ屋さん(というか、正確には針灸接骨院。患部に低周波をかけた後、スポーツマッサージをしてくれます)ができてからは、とんとご無沙汰しておりました。
てなわけで、旅先でのマッサージは超お久しぶり。

案内に従い足を踏み入れると、薄暗い店内はかなーり怪しげ、というか、はっきり言って怪しい。
しかもやってくれたおばちゃん、足を洗うとか蒸しタオルで拭くとかそういう処理は一切せず、靴下脱いだばかりの足にいきなりローションを塗りたくって揉み始めましたよ。

衛生的にどうなんだろ。

施術的には呉若石のそれとはちょっと違ったものの、そこそこよかったですけれど(たしかに足は軽くなったし。痛いのが嫌いな人でもこのぐらいなら平気かもね)、「清潔第一」の方にはおすすめしませんです。

マッサージ屋を出た後、一昨晩つった足のふくらはぎがまだ痛むので、近くの屈臣氏に寄ってサクランパス、じゃなくてサロンパスを購入。
ついでにお土産になりそうなものを手当たり次第に購入し、「1本買ったら2本目割引」だった阿妹が広告キャラクターをやっている冷泡茶のペットボトルも3種類(砂糖入り緑茶、無糖緑茶、無糖烏龍茶)お買い上げ。
これは後で全部飲んでみましたが、砂糖入り緑茶は全くいただけませんな。
砂糖のベタベタした甘さと香料の人工的な匂いが相俟って、飲み終わる頃には気分がすっかり悪くなります。
烏龍茶も香料が大きなお世話、ふつーに飲めたのは香料も砂糖も入っていない緑茶のみでした。

買い物をしたせいで荷物がどどんと増えたため、これ以上歩くのは止めにして、ホテルの並びのスタバで軽食&コーヒー。
カフェモカ飲みながら、成田で買った文春の続きを読みました。
文春は連載が半分ほど入れ替わり、なんだかいつもと違ってちと読みにくい。
高島俊男の連載が終わっちゃったのはいかにも残念。
ただ、小林信彦と中村うさぎがいればそれでいい、といえばそれまでなのだけれど。
そういや新潮も山口瞳と山本夏彦亡き後、ほんとに淋しくなったものね。

そろそろ待ち合わせの時間が近づいてきたのでホテルに戻り、またしてもお部屋でニュース。
総統を巡るごたごたの報道は相変らず。
阿嬌盗撮事件もかなり大きな扱い。

ほどなくしてAさんから電話があり、自分で車を運転して行くので、近くに着いたらまた電話するから部屋でそのまま待っていてほしい、との由。
ということで、Aさんの言葉に従い部屋で待機。
30分後、当初の予定の時間(午後1時10分)より15分ほど遅れてAさんから再び電話、今着くからロビーにいて、との指示。
ロビーで待つこと5分。
Aさんが現われました。

Aさんとお目にかかるのは、この日が初めて。
Aさんは台湾に本拠を置く樂蒂國際影友會創設メンバーのお1人で、現在は樂蒂紀念館というファンサイトの運営をしていらっしゃる方。
昨年出版された『古典美人 樂蒂』にも企画段階から関わり、私財を投げうって資料をかき集めたという樂蒂ファンの鑑であります。
Aさんとは2年半ほど前からメールのやりとりをするようになり、いずれはお目にかかりたいと思っていたのですがなかなかうまい具合にいかず、この日ようやく会えたという次第。

初めて会うAさんは、パッと見「國聯五鳳」の1人で『星のフラメンコ』にも出ていた汪玲に似ており、日本の女優さんでいうと藤山陽子みたいな感じの方でしたが(どっちにしても喩えが古いわね)、しかし、もっと最近の女優さんで誰かに似ている気がするなあと思い、つらつら考えてみたところ、はっと気が付きました。

李英愛に似てるんですわ。

というわけで、私よりも年上のはずなのに見た目も声も可愛らしいAさんの運転で、不詳せんきち、今日の戦場、もとい、会場である國家戯劇院へと向かったのでありました。

(つづく)

2006年9月2日土曜日

『異常性愛記録 ハレンチ』レイトショー公開終了

〔橘ますみ〕


8月12日(土)から9月1日(金)まで、テアトル新宿にて行われた橘ますみたん主演による幻の石井輝男監督作品『異常性愛記録 ハレンチ』の「3週間限定レイトショー」が無事終了いたしました。
本作は、長いこと再映もテレビ放映もされなかった「封印作品」でしたが、昨年ようやく東映チャンネルにてニュープリントによるテレビ初放映が実現(ロケ地めぐりはこちら→その1その2その3)、今回は石井輝男監督の一周忌を期してついに劇場での再映と相成りました次第です。

また、8月12日(土)、19日(土)、26日(土)には石井輝男監督作品のオールナイト上映も開催されました。
橘ますみたん関連作品としては、

12日(土)
『徳川女刑罰史』(1968年、東映京都)
『徳川いれずみ師・責め地獄』(1969年、東映京都)
19日(土)
『残酷・異常・虐待物語-元禄女系図-』(1969年、東映京都)
『やくざ刑罰史 私刑(リンチ)』
(1969年、東映京都。ロケ地めぐりはこちら→その1その2その3

が上映されました。

なお、『ハレンチ』は今月、東映チャンネルにて再び放映予定です。
劇場にお越しになれなかった方は、この機会にぜひご覧下さい(スカパー!の回し者みたいだな)。

2006年9月1日金曜日

行くだけ行った in 台北 (その3)

台北だけどボストン。
永康街の住宅地には、なぜか
洗濯屋と床屋が密集していました。


8月26日(土)つづき
というわけで、永康街到着。
目的地は人気のエリアを外れた場所にあるため、そのままタクシーで南下。
が、金華街と交わるあたりから道幅がぐっと狭くなるため、ここから先は歩こうやということになり、金華街との交差点付近で下車して徒歩でずんずん南下。
洗濯屋さんや床屋さんのある一角を過ぎると、目的地である錦安市場に着きました。

ここの1階にある昭和町文物市場が次なるターゲット。
もともとは生鮮食料品を扱う市場だったところにぽつりぽつりと古道具屋さんが入居し始め、今ではちょっとした古道具屋街となっております。
ただ、元からある店もそのままのため、古道具屋の隣りが鶏屋さんだったりして、檻に入ってコケコケ鳴いてるニワトリの香ばしい匂いが鼻をくすぐります。
やっぱり今回は匂いネタに縁があるわ。

午後5時ぐらいから賑やかになるそうなんですが、私が行ったのは午後4時前だったので、開いている店はまだまばら。
それでも1軒の店で細々したものを探し出し、なおも探し続けていると、段ボール箱の中から李麗華と総統様が並んで写っている写真が出てきました。
「なんじゃろな?」と思い仔細に眺めてみると、後列向かって右から3番目に尤敏の姿が。
見た目から類推するに1950年代半ば頃のもののようでしたが、ま、それはうちへ帰ってから調べることにして、とりあえず他の品々と共にお買い上げ。
値段は大したことありませんでした(まけてもらったけど)。
(その後調査したところによると、この写真は1954年5月、尤敏が香港自由劇界回國勞軍團の一員として来台した折〔團長・王元龍、副團長・李麗華〕、5月26日に陽明山で開かれた総統主催の宴において撮影されたものであることが判明しました)

お茶も飲まずに立ちっぱなしでお手手を汚しながら汗だくになってお買い物に励んだのでさすがの私も疲れてしまい、近くにあった丹堤珈琲(ダンテコーヒー)で休憩。
もう少し北上すればお洒落なカフェや茶藝館もあるので、Yさんから、

丹堤がいいの?それとも、丹堤でいいの?

と確認されましたが、とにかくどこかで座りたかったので、

丹堤でいいよ、もう。

とやけくそ気味に返答、コーヒー飲んで一息入れました。

落ち着いたところでYさんに持ってきたお土産(雑誌やら何やら)を披露、続いて先ほど買い求めたDVDとCDの中身を確認。
Yさんは松本潤の写真が見たくてCDを買ったのだそうで、曲は聴かないかも知れない、と話していました。
日本のオバサンは台湾のドラマに、そして台湾の歐巴桑は日本のドラマにそれぞれ熱中するという、それはそれでバランスが取れているのでございますわね、奥様。

台湾では珈琲に苦労しないのがいいですね。

茶をしばきつつ今夜行くレストランの確認をしたところ、「混んでるかもしれないから予約をした方がいいかも」とYさんが言うので、その場で予約してもらい(ありがとさん)、休憩終了後、永康公園の前でタクシーをひろって夕食会場へ。

こちらが夕食会場。

今夜の夕食会場である鹿港老戯院懐舊餐廳は、昼間行った台灣故事館がそのままレストランになったようなところ。
1960年代の映画ポスターや戦前~戦後の看板等、所狭しとアンティークが陳列されています。
1階と地下1階から構成される店舗の内、我々が案内されたのは1階資生堂コーナーの脇の席。
ショーケースの中で白川由美が微笑んでいました(地下1階に陳列されていた森永の広告キャラクターでも彼女が登場。白川由美、侮れませんぞ)。

供される料理は台湾料理。
久々に猪油飯を食しました。

ビールはやっぱり台湾ビール。
麺線と猪油飯を同時食いしました。
アサリのスープがうまかったっす。

店の入り口付近には、ここを訪れた芸能人の写真とサインが飾ってありましたが、一番大きな扱いを受けていたのが周杰倫。
ま、芸能人が行くからうまい店だとは決して限らないんですけどね。
でも、ここはそこそこいけましたです。

食後、通りすがりのカフェ(橘子工房)でお茶しながら現在地を確認すると、誠品書店の敦南店がすぐ近くにあることがわかったので、Yさんに頼んでお帰り前の買い物に付き合ってもらいました。
この本屋さんに立ち寄るのも、台湾へ来たときの楽しみの一つ。
台湾の人たちは、この本屋さんをもっともっと誇りに思っていいと思います。

誠品書店は、台湾の宝です。

30分間店内を自由散策することにしていったん解散、私は映画の本売り場へ。
少し前に出た『台灣電影百年史話』を買おうと思っていたら、3冊セットの『跨世紀台灣電影實錄 1898-2000』なる本があるのを発見。
ビニ本状態だったため中身の確認ができず、しかも重くてかさばる点が気になったものの、見た目で言えば『台灣電影百年史話』よりもずっと内容充実!という感じの本だったので、『台灣電影百年史話』を買うのは止めにしてこちらを購入。
1600元也。
パスポートを持っていると1割引だったらしいのですが、ホテルに置いてきちゃったので定価でご購入。とほほ。

重たい本も買ったし今日の予定も全て消化したので、ここでYさんと別れてタクシーに乗り、ホテルに帰りました。
Yさんはこの日ひどい風邪引きだと言っていたのに、結局一日中つきあわせてしまって、いやはやどうもすんませんでした。

ホテルへ帰る途中、台北巨蛋の脇を通りましたが、この日は林憶蓮のコンサートを開催中。
帰ってからニュースを観たら、黄韻玲とその息子が花束持って駆けつけ、林憶蓮は息子の成長した姿(って、まだ子供だけど)を見て、「こんなに大きくなって」と感涙にむせんでいる様子が放送されておりました。
黄韻玲の息子といえば、かつて黄韻玲が黄嘉千とTVBSの『娯楽新聞』の司会をやってた頃、よくスタジオ内を走り回っていた姿を思い出しますが、たしかにその頃に比べると大きくなりましたねえ。っつーか、大きくならなきゃ大変じゃん。

この日の入浴のお伴はこれ。
湯上りはこんな姿になります。

(つづく)