2009年4月29日水曜日

アナタハン、どなたはん?

〔えいが〕〔しようもない日常〕

スタンバーグ(Josef von Sternberg)ヴァージョンの1部。
やっぱり「安里屋ユンタ」。

どうも。
トド@車もないし免許も持っていないので高速料金1000円なんて全く関係ないよです。

今日はお天気がよかったので、フィルムセンターへ行ってきました(やっぱり関係ないよ)。
以下は、ちょっとしたメモ。


『剣劇女優とストリッパー』

1953年、新大都映画。平澤譲二監督。大都あけみ、奥山紗代、三島百合子、空飛小助、キャロル都、他。

言っとくけど、『セーラー服と機関銃』じゃないよ、『剣劇女優とストリッパー』だよ。
フィルムセンターの公式サイトにある解説によれば、「1953年頃に際物作品をわずかに残して瞬く間に映画史から消えていった新大都映画の作品」だそうですが、不肖せんきち、詳しいことは全く存じておりません。
とりあえず、観たままを。

乳母みたいな婆さん(だと思う)に背負われた白木みのるみたいな堀部安兵衛(空飛小助)が、哺乳瓶のミルク飲みつつ高田馬場へ向かっていると、突如場面は飛んで主役の女優さん(大都あけみ・役名も同じ)の大立ち回りになります。
最初に書き忘れたけれど、1953年なのになぜかサイレントで活弁の解説入り。
剣劇だから?

「吾妻八景」の「佃の合方」が延々と流れる中、ひとしきりチャンバラが終わると、そこは映画の撮影現場。
例の安兵衛と婆さんも息せき切って駆け付けるものの、「お呼びでない」とばかりに「狼なんか怖くない(Who's Afraid Of The Big Bad Wolf?)」(言っとくけど、石野真子じゃないよ)が流れる中、2人は退場(安兵衛はいつの間にやら三輪車に乗っていました)。
と、そこへあけみの恩人である芝居小屋の座元の女性が面会にやってきます。
撮影の休憩時間に語り合う2人、あけみがここまで来るのには苦しい下積みの時代があったのでした…。

かつてあけみは「市松あけみ」という芸名(市松延見子となんか関係あんのか?)で歌舞伎一座を率いる女役者でしたが、小屋はガラガラ、赤字は膨らむ一方で、太夫元からは暗に枕営業を勧められる始末。
しかし、この窮地を救ったのが、座元。
東京から帰ってくる彼女の妹がストリッパーをやっているので、歌舞伎と一緒にストリップを上演しようと提案したのでした…って、

そんなのアリかー!!!

座元の目論見通り、身体を張った甲斐あって興行は黒字に好転、座元の妹(キャロル都?役名はミミー・ローズとか言っていました)に深く感謝したあけみは、ミミーへの弟子入りを志願します・・・・って、

再びそんなのアリかー!!!

しかし、ミミーと座元はあけみに女優としての道を究めように諭し、ミミーの紹介で新大都映画へ入社したあけみは、剣劇女優・大都あけみとして活躍するようになりました、めでたしめでたし…って、

三たびそんなのアリかー!!!

「映倫のフィルム審査でストリップ場面の部分的な削除が要請されている」(解説より)そうで、たしかに、ストリップが歌舞伎を救ったはずなのにその過程は無しで、いきなり「あけみの芝居も大人気になりました」とか何とかいう活弁と共に「三人吉三」の劇中劇がだらだらと続くんですけれど、いや、これがつまらないの何のって。
女役者がお嬢吉三やっても何の面白みもないのよ。
なんでお坊吉三をやらないんだろ?

以上、あらすじを書くだけで全ての労力を使いはたしてしまいましたが、ストリッパーのお姉さん(2名確認。1名は体形が豊満な割に貧乳。もう1名はそれなりって、大きなお世話ね)は腋毛をきれいに処理しており、乳首には、

頂きました、星2つ!(by.堺正章)

とばかりに、光るニップレスみたいなのをくっ付けていました。

追記:あらすじでおわかりの通り、本作自体はしようもない映画なのですけれど、「歌舞伎=古くさい」「ストリップ、女剣劇=新しい」という対比(主人公は歌舞伎に見切りをつけて女剣劇に活路を見出す)から見ると、この映画の製作された1953年を挟んで歌舞伎界に起こった一連の動き(武智歌舞伎の上演、歌舞伎役者の映画界への転身、東宝歌舞伎と高麗屋父子の東宝移籍、東宝歌舞伎の対抗勢力としての東映歌舞伎…等々)とリンクしている部分もあるのかなあ…と考えられなくもないのですが、ま、気のせいでしょう、たぶん。


『アナタハン島の眞相はこれだ!!』

1953年、新大都映画。吉田とし子監督。比嘉和子、髙野眞、小泉郁之介、諏訪孝介、加藤勇、佐伯徹、熊木浩介、里木三郎、大塚周夫、他。

かの有名なアナタハン島事件の映画化。
「当事者である比嘉和子本人が主演する」というのがミソです。
監督は通常言われているような「盛野二郎」ではなく、「吉田とし子」という女性で、この女流監督が比嘉和子に演技指導(らしきもの)を行っている場面から映画は始まります。

和子の服装が、

ワンピース→余り布で手作りしたらしいビキニ風スタイル→腰蓑と乳当て

と薄着(?)になっていくにつれ、男たちの欲望もむき出しになっていくものの、なぜか戦争が終わると、和子の服装は再び真新しいワンピースに逆戻りしていますた。

持ってたなら、始めから着ろよ。

当時のマスコミによって「毒婦」「女王蜂」等というレッテルを貼られた和子ですが、正直、見た目は「冴えない小太りのおばさん」で、「なぜこんな女を(以下省略)」という思いしか抱くことができませんでした。
しかし、「なぜこんな女を(以下省略)」という、おそらくせんきちと同様、当時の男たちも抱いたであろうこのどうしようもない違和感とその根底にある侮蔑の感情が、彼女のネガティヴなイメージを一層増幅させる起爆剤になったに違いありません…と書くと、何か深ーい含蓄のある映画みたいですが、別に何にもなかったっすよ、かなり退屈だったし。

ただ、この事件を下敷きにした桐野夏生の小説『東京島』もそうだったけれど、「女ってやっぱりすげーなー」と映画の出来とは全く別の次元で女性の持つ逞しさと生命力に関心しちゃいますたし、この(女性の)生命力への(男たちの)惧れと嫌悪が、「比嘉和子悪女伝説」の根底にはあるのかなあと考えたりもいたしますた。

ところで、こちらのサイトによると、和子の出身地である沖縄では1954年1月に


「全琉話題の映画・本日大公開!もっとも良い映画と、もっとも悪い映画の異色豪華二本立て」という宣伝文句で、その『アナタハン』と前述の『アナタハン島の真相はこれだ』が二本立てで上映


されているそうです。

…参りました!

追記:比嘉和子を比嘉和子本人が演じるという点が、この映画の際物性をより強化していることは間違いないのですけれど、考えようによっては「男たちに追い回される(男たちが奪い合う)女は、若くて美しくて官能的でなければならない」という思いこみ(幻想?)を嘲笑うかのようなキャスティングである、と言えなくもないかも…って、やっぱりこれも気のせいか。
映画の中身も、あくまで和子目線…というか、ひたすら和子の都合のみですた。

2009年4月25日土曜日

『野郎に国境はない』と『特警009』

〔えいが〕〔ちょっとお耳に〕

DVDがないので、せめて音楽だけでも。

どうも。
トド@日本の経済成長率が主要7カ国中最低になりますたが、「日本経済はハチに刺された程度」と語った某大臣よ、責任とれや!です。

えー、ただいまラピュタ阿佐ヶ谷にて中平康監督の特集が行われていますので、この機会に『野郎に国境はない』(以下、日活版と表記)と『特警009(Interpol)』(以下、邵氏版と表記)を観比べてみることにいたしますた。
まずは、主なキャストの対照から(左:日活版、右:邵氏版)。

小林旭-唐菁
鈴木ヤスシ-李昆
廣瀬みさ-杜娟
アンヂェラ浅丘-沈依
郷鍈治-谷峰
富士真奈美-何莉莉
チコ・ローランド-お名前失念
秋山庄太郎-よく知らない人

小林旭→唐菁

という時点で、小太りの金漢が色魔にしか見えない『狂戀詩』(『狂った果実』)と同様、

「勝負あった!」

といった感じなのですが、それじゃあ、張沖ではどうか?と考えてみても、張沖ってどちらかといえば三橋達也系だと思うので(あっしの勝手な偏見かも知れないけど)、それもあまりしっくりきません。
ならば、王羽は?といきたくなるものの、これも若すぎる感がぬぐえず…。

とりあえず、男優探しはここまでにして、内容の検討に移ると、まず、タイトルバックは邵氏版の方が圧倒的におしゃれです。



ストーリー的にも細かい部分を除けば日活版と邵氏版はほぼ同じで、登場する都市こそ

日活版:パリ→バンコク→東京(→香港)
邵氏版:英語圏のどこか→マニラ→香港(→東京)

といった違いはあるものの、犯罪計画の名前(ジョッキープラン)も大ボスの名前(なんとかロビンソン…だったよね?)も同一、日活版でチコ・ローランドが演じたコステロもお名前変更無しだったので、どこからどうみても中国系の顔なのに


名前はコステロという(画像向かって右)、無理やり過ぎるキャスティングになっていますた(フィリピン人って設定なのかも、よく考えてみると)。

ただし、ラストのカーチェイスは、日活版では

ヘリコプターに乗る小林旭と鈴木ヤスシ→途中で車に乗り換えて犯罪組織の車と追っかけっこ&銃撃戦

と移動があるのに対して、邵氏版では唐菁と李昆は終始セスナ機に乗ったままで、空と陸とで銃撃戦が繰り広げられる、という違いがありました。
さらに、組織の車が崖下に転落した後、日活版では廣瀬みさと小林旭が別れの言葉を交わす件がありますが、邵氏版ではこれがきれいさっぱり削除されて杜娟が偽札に埋もれて死ぬだけ、という情緒もへったくれもないオチになっています。

また、日活版ではパリ帰りの小林旭がフランス語を連発したり、鈴木ヤスシがいつも不二家のチョコボールを食べていたり、といった登場人物の特徴付けがあるのに比べ、邵氏版では登場人物(特に唐菁と李昆)にこれといった特徴がなく、全体的に遊び心が足りない、というか、やる気なさげなお仕事の目立つ点が、ちと残念でありますた。

ま、そうは言っても、結局、一番大きな違いは、

唐菁は歌を歌わない

ってことだったりするんですけどね。

パ~パパパパパ~(「無国籍者の唄」の歌いだしで、ヨロピク)。

(いちおうおしまい)

2009年4月23日木曜日

死霊の裸踊り

〔しようもない日常〕


草彅君に捧げる歌。
お酒を飲んでも、飲まれないようにしてね。

追記:日本から全面撤退したかと思われていたひげちょう、金沢の2店舗がしぶとく生き残っていますた。
すごいぞ、金沢。

2009年4月22日水曜日

超豪華2本立が実現

〔ちょっとお耳に〕

女性刈ると通う」って、どこを刈ってどこへ通うんだ?
(製品案内はこちら。特典付きはこちら)。

どうも。
トド@今日は暑かったですねです。

昨日の夕方、テレビで第一報が流れた衝撃的なニュース(清水由貴子さんが父の墓前で硫化水素自殺)。
せんきち的には、長門裕之の老老介護よりも身につまされる出来事でしたし、あまりの痛ましさにテレビを観ながら涙してしまいましたよ。
せんきちも、そう長くはなかった婆さんの介護生活の中で、「こんなことなら、死んじまった方がまし」と思った瞬間が何度かありました。
特に最初の頃は1人で何でも抱えがちで常にテンぱっていますたが、その後いろいろな方からアドバイスを頂いて介護保険の申請や認知症の専門医受診等もなんとか済ませ、他の家族に婆さんを押しつける(というか、世話を頼む)テクニックも身につけました。
歌手として芸能界デビューした時から一家の大黒柱として家計を支えていたといいますから、介護疲れだけではない、長年積もり積もった疲れがあったのでしょう。
今はただ、「安らかに」と願うばかりです。

さて、たまにはちょっくら告知でも。

1、『なんでかフラメンコ』じゃなくて『星のフラメンコ』

5月から6月にかけて、チャンネルNECOにて台湾ロケ映画『星のフラメンコ(天倫淚)』(1966年、日活)が放映されます。
今のところ、くわしい放映スケジュールは5月分しか判明していませんですが、最初の放映は5月31日(日)19:00~の模様です。
主演はもちろん西郷輝彦、台湾からは汪玲、歐威、等が出演しています。
汪玲の妹を演じている藍芳(井上清子)は後の光川環世、本名は李月随、台中出身の旅日明星でした(李泉溪監督の姪)。

日活は汪玲を本作に起用する際、当時彼女が所属していた國聯ではなく汪玲の母親(香港在住)と契約を結んでしまったため李翰祥が激怒、結局、汪玲は台湾を去ることになっただけでなく、國聯に違約金を支払った上に新聞に謝罪公告を掲載する羽目に陥ったといいます。
日活もとんだヘマをしたものです。
ちなみに、現在シネマート六本木で開催中の「爾冬陞映画祭」で上映される『門徒』の出品人の1人である韓世灝は、汪玲の子息です。

追記:『星のフラメンコ』に汪玲が出演することになったことを伝える1961年6月22日付『読売新聞』夕刊には、共演者としてジュディ・オング(翁倩玉)の名前が挙げられており、当初は藍芳(井上清子)ではなくジュディさんを汪玲の妹役に起用する予定だったようです。

2、石井輝男の異常香港路線(そんな路線は存在しません)

5月28日(木)から新文芸坐で開催される特集「孤高のスタア 高倉健」にて、

『東京ギャング対香港ギャング』



『ならず者』



夢の超豪華2本立

が実現しました。

6月3日(水)1日限り

の上映です(上映時間未詳)。

平日ですが、皆様、お見逃しのなきよう。

不肖せんきち、『ならず者』のラストの南田洋子を観たら今の彼女のことを思い出して号泣しちゃいそうだな、あんまり切なくて。

2009年4月20日月曜日

「尤敏ゆかりの土地巡り」在庫一掃セール (その四)

〔たび〕〔尤敏〕

先週の金曜日(17日)の『朝日新聞』夕刊。

どうも。
トド@「100年に1度の経済危機」というけれど、この間の大恐慌からまだ80年ぐらいしか経っていないよーん!です。

先ほどまで、テレ朝のドキュメンタリーとは言い難いドキュメンタリー番組『報道発 ドキュメンタリ宣言』を観ていますた。
もはやこの番組はこの夫妻のためにあるのではないかと思う、長門裕之・南田洋子夫妻のその後を取り上げていましたが、気になったのがアルツハイマー病に関するナレーション。
「この病気になったらただひたすらボケていくだけ」みたいなナレーションで、たしかに根本的な治療法はまだ解明されていないものの、進行を遅らせる薬はあるんですよ、ちゃんと。
南田洋子の表情や受け答えの様子を見ながら「なんだか、うちの死んだ婆さんに似てるなあ」と思いつつ、このままでは巷にあふれる「壮絶人生もの」の1つとしてこの夫妻のエピソードも消費されていくだけなのではないかと、正直危惧しております。
長門裕之はネットなんかチェックしないだろうけど、せめて事務所のスタッフや番組のスタッフはこのサイトこのブログを読んでお勉強してほしいものです。

と、ひとしきり語ったところで本題に突入。

・旧・ヤマハホール(ただいま新ビル建築中、だそうです)

前回の記事では第7回アジア映画祭の開会式及び授賞式、閉会式の会場であるホテルニュージャパンを取り上げますたが、今回ご紹介するヤマハホールは参加作品の上映会場となった所であります。


皆様おなじみの場所なのであえて解説することもないかとは思いますが、ヤマハホールは、銀座ヤマハビル(銀座7丁目)の階上にあったコンサートホールです(1953年オープン)。
せんきちの記憶が確かなら、かつてはお隣にあったガスホール(2005年閉館。現在はこんなビルが建っています)と緊急時には屋上から行き来できるような構造になっていて、その旨を記した案内板が場内に掲げてあった・・・・ような気がします。
現在、ヤマハビルの建て替えに伴いホールも閉鎖、ガスホールは新しいビルに戻ってくることはありませんでしたが、こちら(ヤマハホール)は新しいホールになって帰ってくるはずです。
不肖せんきち、カーメン・マクレエ(Carmen Mcrae)のピアノ弾き語りをここで聴いた記憶があります。たしかこれが彼女の最後の来日公演になったような記憶が(って、おぼろげな記憶の話ばっかりね)。


ということで、在庫一掃処分はひとまずこれまで。
引き続き、現地踏査を続けていきます。

(ひとまずおしまい)

2009年4月16日木曜日

「尤敏ゆかりの土地巡り」在庫一掃セール (その三)

〔たび〕〔尤敏〕

葉牡丹の花、狂い咲き中。

どうも。
トド@「コンビニ」が「ポン引き」に聞こえるです。

前回の続き。

・プルデンシャルタワー(旧・ホテルニュージャパン)

赤坂(正確な住所は千代田区永田町)にそびえる外資系保険会社(&森ビル)の超高層タワー


ご存じの通り、かつてこの場所にはあるホテルが建っていました。

そのホテルの名は、ホテルニュージャパン。

1982年2月8日未明に起こった大火災で、多数の死傷者を出したホテルです。


この大火災の後(当然のことながら)ホテルは閉鎖するものの、新たな持ち主がなかなか見つからず、その後も長い間廃墟と化した建物が赤坂の目抜き通りに無残な姿をさらし続けることになりました(タワーの完成は2002年暮)。

そんな忌まわしい末路を辿ったホテルニュージャパンですが、1960年の開業当時はピッカピカの高級ホテルで、同年に東京で開催された第7回アジア映画祭(現・アジア太平洋映画祭)では開会式と授賞式、閉会式の会場に選ばれ、参加国(日本、インドネシア、台湾〔中華民国〕、香港、韓国、マラヤ、シンガポール、フィリピン)の映画人が一堂に会したのでありました。
当時の報道(『毎日新聞』『日本経済新聞』)による映画祭のスケジュールは、下記の通りです。

4月5日(火):午前10時から参加作品上映。午後5時からホテルニュージャパンで開会式。
4月6日(水):午前10時から参加作品上映。午後2時から総理官邸で岸信介総理の招待パーティ。午後6時から赤坂コパカバーナにて堀久作映連(日本映画製作者連盟)会長の招待パーティ。
4月7日(木):午前10時から参加作品上映。午後6時から椿山荘で日本映画6社招待のパーティ及び各国俳優交歓会。
4月8日(金):午前10時から参加作品上映。
4月9日(土):午後1時30分から作品賞受賞作品(『後門』)上映。午後5時からホテルニュージャパンで授賞式及び閉会式。

この第7回アジア映画祭で、尤敏は前年に続き2度目の主演女優賞を受賞、当時のニュース映画には鍾啓文と共にトロフィーを受け取る尤敏の姿が遺されています。

ところで、上記のスケジュールの内、赤坂コパカバーナとあるのは高級ナイトクラブの名称で、あのデヴィ夫人がお勤めしていたのもここだったそうです(現在はオフィスビルになっています)。
当時はコパカバーナの他にも、ニューラテンクオーター(ホテルニュージャパン地下)や銀馬車といったナイトクラブが大いに流行っていた時代で、『香港の星(香港之星)』に出てくるミカドもこの流れに乗ってオープンした巨大ナイトクラブでした。

(つづく)

2009年4月13日月曜日

「尤敏ゆかりの土地巡り」在庫一掃セール (その二)

〔たび〕〔尤敏〕

染井吉野もいいけれど、八重桜も捨てがたいわね。

どうも。
トド@同志社大学の浜矩子教授が岩井志麻子センセに見えるです。

さて。

昨年、こちらで在庫一掃処分を行うと宣言しながら1回こっきりで挫折していた「尤敏ゆかりの土地巡り」(メインサイトの同コーナーはこちら)。
「今度こそ在庫一掃するぞ!」と一念発起してお届けする第2回です。
掛け声倒れにならないようがんばりますので、ヨロピクね。

・ラコルダ弦巻(旧・昭和薬科大学世田谷校舎)

『香港の星(香港之星)』(1962年)で、香港からの留学生・尤敏が通っていた大学は、日本女子医科大学という架空の女子医大。
このロケ撮影で使われたのが、かつて世田谷区弦巻にあった昭和薬科大学

この場面ね。他にも、
尤敏がキャンパスを闊歩する
場面がありますた。

大学本体は1990年に町田市へ移転、現在、その跡地には「ラコルダ弦巻」という巨大マンションが建っています。

マンションのエントランス。
巨大な建物が何棟も建っています。


弦巻通り沿いの1棟。
並びの棟は外壁改修中ですた。


マンション脇の遊歩道に
ひっそりとたたずむ記念碑。


碑文にある「延べ一万人」の中に
尤敏は入っていません、当たり前ですけど。


馬事公苑西通り@当時のバス通り・・・・だと思う。
先ほどの場面(尤敏を待ち伏せする宝田明)の後、尤敏は
小田急バスに乗って去っていきますが、当時のバス路線を
調べたところ、実際に大学行きのバスを走らせていたのは
小田急ではなく東急バスでした。撮影用に特注したのね。

ちなみに、(これも何度も書いていますが)『バンコックの夜(曼谷之夜)』で加山雄三が通っていた医大も、こちらで撮影していました。

(つづく)

2009年4月11日土曜日

早すぎた『柔道龍虎榜』

〔ちょっとお耳に〕〔えいが〕

やればできるといいけどね。

どうも。
トド@体調最悪です。

えー、柔道の話題が出たついでに、こちらも柔道ネタ。

1957年の電懋作品『四千金』。
4人姉妹の中でいち早く結婚した四女(蘇鳳)は、御亭主(田青)と新婚旅行先の日本から戻り、実家に転がり込みます。
若い2人のこと、実家の寝室でもいちゃいちゃ・・・・と思いきや、何やら取っ組み合いを始めました。

なんと、日本で学んできたという柔道をご披露。
へっぴり腰が気になりますが・・・・


次の瞬間、御亭主をえいやっ!と
投げ飛ばしますた。
これがまた、なかなか見事な一本背負いで、
早すぎた『柔道龍虎榜』の一幕でした。


以下、『四千金』に関するその他の小ネタ。

1、母亡きあと、母親代わりになって妹たちの面倒を見てきた長女(穆虹)。
ボーイフレンドといい感じになる度に、フェロモン垂れ流しの二女(葉楓)が出てきて邪魔をされてしまいます。
三女(林翠)はそんな姉のために映画館でのデートを画策しますが、肝心の上映作品が
ベビイドール(Baby Doll)』では、なんだかよくないんじゃないの?と思っていたところ、案の定、今度も長女は次女に油揚げをかっさらわれてしまうのでありました(陶秦監督、狙ったのでしょうか)。

こちらは日本公開時(1957年)のパンフ。


2、映画の冒頭、姉妹が行きつけの士多で父への誕生日プレゼントを買う件(揃いも揃ってみんなが同じパイプを購入)で流れているのが、ティト・ロドリゲス(Tito Rodriguez)の「マンボ・マニラ(Mambo Manila )」。

この場面ね。二女とボーイフレンド。
まだパッとしない頃の楊群。

ずいぶん渋い選曲だなあと思ったのですが、この曲、元から使われていたのか、リマスターのさいに新たに挿入されたのかが判然といたしません。
もし元から使われていたとすると、日本では「マンボ(Mambo)=ペレス・プラード(Perez Prado)」だった時代に、香港では(日本とは)一味違うマンボの受容形態があったのではないか、と考えられるのですけれど、本当のところはどうなのでしょう。

このCDで聴けます。


3、これも音楽にまつわるネタですが、長女が澳門へ赴く際に流れる曲が「ポルトガルの四月(April In Portugal)」。

澳門といっても、この場面以外は


セット撮影みたいです。

澳門がポルトガルの植民地であるところから連想された選曲と考えられるものの、これまた元から使われていたものか、新たに挿入されたものなのかは不明です。
「マンボ・マニラ(Mambo Manila )」同様、それなりに渋い選曲だと思うのですが。

『四千金』で使われているのはたぶんこっち
(レス・バクスター〔Les Baxter〕)だけど、


せんきちはこれ
(ぺレス・プラード〔Perez Prado〕)も好きです。

2009年4月7日火曜日

東寶豓星 秋子

〔ちょっとお耳に〕〔えいが〕


どうも。
トド@お昼に卵かけご飯を食べてお腹を壊しましたです。

さて。

往年の名女優(月並みな表現でスマソ)若林映子が、その若き日、イタリア映画2本と西ドイツ映画1本に出演していたことはよく知られています。
このうち最もよく知られているのは、イタリア映画"Akiko"(アキコ)ですが、残念ながら日本で公開されることはなかったようです。

が。

海を隔てたお隣・台湾(台北)では、1961年10月に劇場公開されており、こんな新聞広告が残されています。

まさかこの恰好で柔道はしないと思うけどね。

映画のタイトルであり、ヒロインの名前であるAkikoを若林映子の映子ではなく、

秋子

という、てっとり早い漢字表記にしている点はご愛敬ですが、当時、台湾ではイタリア映画も人気があったようなので(特にインテリ層)、その縁での台湾上映かしらん、と思っていたところ、こんどは1962年3月の紙面にこんな映画の広告を見つけました。

中文タイトルは『香港之戀』。
「この映画は『スージー・ウォンの世界』の
姉妹作です」云々といった惹句が躍ります。


キャストの欄には「東寶豓星 秋子」の名が。
そして男優の名前には「西德小生」とあります。


ひょっとして、これって、若林映子が出たという西ドイツ映画『遥かなる熱風』のこと?

と閃いたわたくしは、さっそく調査を開始、Imdbにある若林映子の作品リストを調べましたが、それらしき映画が見当たりません。
「おかしーなー。おかしーなー」と悩むものの、何しろこの映画の原題が全くわからないため、真相を確かめることができません。
男優さんの名前の中文表記(荷黙格廉)から元のドイツ語表記を推測する、という無謀な試みも行いましたが、これも失敗。

そんなこんなで、無駄な歳月を過ごすこと2年余り。

先日、ひょんなことから、この映画の原題が"Bis zum Ende aller Tage"であることが判明、詳しい解説も発見いたしました。
それによると、この映画は、

香港にやってきたドイツ人水夫・グレンが、現地の女性であるアンナ・スーと恋に落ち、グレンはアンナを連れて生まれ故郷の村に帰るものの、村人からは差別を受け、そのため夫婦の間もぎくしゃくするようになり、ある日アンナはグレンの目の前からこっそり姿を消してしまいます。
驚いたグレンは彼女を探しますが、はたして…。

とかいう内容で、若林映子はヒロインであるアンナを演じています。
しかし、その折の名前の表記がAkiko Wakabayashiではなく、単にAkikoであったため、Imdbは別人と判定、作品リストから漏れてしまったもののようです。

てなわけで、ちいとばかし回り道したものの、台湾上映時の広告を偶然見つけたおかげで、いろいろなことがお勉強できました。

それにしても、なんでこの映画も日本では上映されなかったんでしょ。
変なの。

最後に。

念のため、"Bis zum Ende aller Tage"が日本語で『遥かなる熱風』になるのか、ドイツ語翻訳サイトで試みたところ、

日中の終わりまで

という日本語訳になりました。

あれ?

2009年4月3日金曜日

台湾は招くよ (その6)

〔ちょっとお耳に〕

小林悟監督がメガホンを取った日台合作映画
沖縄怪談 逆吊り幽霊 支那怪談 死棺破り(試妻奇寃)』の
台湾上映時の新聞広告。

どうも。御無沙汰してすいません。
トド@不景気っていやあねです。
金策に走っていました(半分ホント)。

こんなつもりはなかったのに、回を重ねて第6回となってしまった出稼ぎネタ、一応今回で終了ということにしたいと思うのですが、のちほどもう1回だけ「番外編」をお届けしたいと思います。
では、さっそく本題。

・小林悟監督

小林悟監督の台湾での活動に関しては、薩摩剣八郎氏のオフィシャルサイト(http://www.fjmovie.com/satsuma/menu.html)内にある小林監督へのインタビュー「追悼・小林悟監督」(http://www.fjmovie.com/satsuma/kobayashi/kobayashi1.html)に詳しい記述があり、また、不肖せんきちも小林監督が1982年に台湾で撮ったという『終戰後的戰争』(鶴田浩二主演)についてちょっこし取り上げたことがありますが、台湾映画のデータベースである「台灣電影資料庫」において小林悟監督作品とされている映画をピックアップしてみると、下記の6本が該当しました。

『神龍飛俠』(1967年、新高有限公司。台湾語映画)
『月光大俠』(1967年、新高有限公司。邵寶輝監督との共同監督。脚本も担当。台湾語映画)
『飛天怪俠』(1967年、新高有限公司。邵寶輝監督との共同監督。脚本も担当。台湾語映画)
『孽情』(1968年、天祥有限公司。葉春伸監督との共同監督。台湾語映画)
『望你早歸』(1969年、彩虹有限公司。脚本も担当。台湾語映画)
『太太的煩惱』(1971年、南亞有限公司。台湾語映画)

また、『台灣電影百年史話』上(2004年、中華影評人協會)所収の台湾語映画のリストでは、1966年の欄にある『孫田水』という作品が小林監督の映画とされており、主演は何と、

松井康子

だそうです。
この映画、台北の國家電影資料館にフィルムがあるそうですので、観てみたいですねえ。

と、ここまで挙げた映画(『終戰後的戰争』を除く)は、いずれも台湾語映画ですが、前掲の「追悼・小林悟監督」には、1970年の北京語映画『紅豔女飛龍』(華興有限公司。韓湘琴、 唐威、 雷鳴主演)が小林監督の作品とされています。
しかし、「台灣電影資料庫」にある監督名は「徐天榮」で、小林監督の名前はありません。

これはおそらく、前にも書いた通り、台湾語映画と北京語映画における日本人監督の氏名表記の扱いの違い(台湾語映画:実名、北京語映画:中国風の変名ないしはノンクレジット)に由来するものと思われ、そうなると、小林監督は『紅豔女飛龍』以外にも北京語映画を撮っていたと考えられます。
事実、「追悼・小林悟監督」には、


― 台湾で何本くらい撮られたんですか?

小林 ええとねえ。北京語映画が7本くらいと、その前に台湾語映画っていうのをね。これ全部白黒ですけどね、これも日本円にすると300万くらいですがね(笑う)。それが7、8本くらいかな。カンフーとか、喜劇なんかも撮りましたよ。今、台湾語映画って一切全くないんですよ。北京語映画は最低でも3000万くらいですし、カラーでしたから太刀打ちできないんですよ。



とあり、『紅豔女飛龍』の他にも6本の北京語映画を監督したようです。
これらの作品群のタイトルを特定することも、今後の課題でしょう。

そんなわけで、まずはひとまずこれぎりにて。

付記:『台灣電影百年史話』下・519頁に掲載された『終戰後的戰争』とされる写真は、東宝の『連合艦隊』(1981年)の誤りで、「中立者鶴田浩二」とある人物は、実際には小林桂樹です。
しかし、どこをどう間違ったら、鶴田浩二と小林桂樹を取り違えられるんだろか。

(ひとまずおしまい。番外編は次回以降に)