2007年7月28日土曜日

DVD情報やら何やら

〔ちょっとお耳に〕


マット運動ネタの続報もあるんですけど、今日はBBSの方で取り上げた情報のおさらい+α。

その一

先日、惜しまれつつ閉館した台灣故事館が復活しました。
場所も同じ、展示内容も同じ、入場料金も同じ、オーナーも同じ、らしいです。
現在、「戒厳時期懐舊電影展」を開催中。
オフィシャルサイトで詳しい内容を調べてみようと思いましたが、サイトはねえ、閉館前のまんまでしたわ。

台湾らしいといえば、台湾らしい・・・・。

仕方ないので報道を引きますが、それによると、上映作品は『再見台北』『王哥柳哥遊台灣』『黃帝子孫』『愛你到死』『危險的青春』等、台湾語映画中心のラインナップのようです。

観たい・・・・。

特に、『黃帝子孫』。
林沖のデビュー作です。

お近くへお越しのせつは、ぜひお立ち寄り下さい。

その二

すでに一部で話題になっておりますが、本日、但漢章監督の長編第2作『離魂』のDVDが発売になります。

この映画、紀伊国屋書店のサイトでは「香港怪奇映画」となっており、おそらくは、製作会社の資本関係及び主演女優(王小鳳)の点からそうなったのでしょうけれど、但監督は台湾の方ですし、映画の舞台も台湾、台詞も北京語ですので、やっぱり台湾映画と考えたいですね、あっしは。
ちなみに、当の香港では『励鬼纒身』という別タイトルでFortune StarからVCDがリリースされております。
日本版DVDにもFortune Starのロゴが入ってますわね、そういえば。

1990年、41歳の若さで早世した但監督の作品は、日本においては遺作である『怨の館(怨女)』が映画祭で上映されたのみです。
せんきちは2年前に映画美学校であった上映会で『離魂』と『怨の館(怨女)』(16ミリ版)を、その後にビデオで『暗夜』を観たのですが、もっともっと評価されていい監督です。

この機会に、より多くの皆さんに観ていただきたいものだと思います。

その三



来月14日、樂蒂最晩年の作品(31歳で亡くなった女優さんに対して「最晩年」と書くのは、なんだか切ないものね)『太極門』のUS版DVDが発売されます。

もちろん、リージョン1。

『太極門』は、樂蒂が兄の雷震等と一緒に設立した映画会社・金鷹電影有限公司において製作した武侠映画ですが、ジャケットだけ見ると、なんだか石堅の映画みたいだよ。
それに、"From the director and stars of SHAW BROTHERS!"ってのも気になります。
この頃はすでに國泰所属でしたし、金鷹設立も國泰のバックアップがあったればこそのものでしたし。
そう書いたほうが売れるんでしょうけれど、なんだかなあ。

ここのレーベル(Rarescope)のDVDは買ったことがないので、どの程度の画質なのかよくわからんのですが(なんでも、この春出る予定だったのが、いったん延期になったそうな)、とりあえずは観られるだけ御の字ということで。

2007年7月24日火曜日

『香港の夜』ロケ地めぐり in 澳門 (その二)

〔たび〕

義順で軽食。

というわけで、次なる現場は大三巴。
船着場(死語)の自販機で買った冷たい芒果紅茶は、猛暑のせいで既に煮え煮えのどろどろ状態、ゲロ甘のぬるま湯と化しておりましたが、そんなもんでも水分を取らないよりはましと、我慢して飲みながらせんきち探偵は現場へと向かうのでありました。

現場へ到着後、お土産屋でミネラルウォーターを改めて購入、煮えた紅茶とようやくおさらばして調査開始。

澳門名物・大三巴は、『香港の夜(香港之夜)』では2回登場いたします。
1回目は、呉麗紅(尤敏)を追って澳門へやって来た田中(宝田明)が張千里(王引)の家を訪ねた後、麗紅と田中の2人だけで話し合う場面。
2回目は、田中を慕う木村恵子(司葉子)が貿易商の父親(上原謙)にくっ付いて来港したさい(宿泊先は淺水灣酒店)、田中が2人を澳門見物に連れて行く場面。


大三巴(聖ポール天主堂跡)。
丹波哲郎が出てこないか待ってみましたが、
現われませんでした。

1回目の場面で2人が話し合う場所は、モンテの砦(大砲臺)に向かう途中の辺り。
当時は地面が剥き出しの崖でしたが、今は樹木が生い茂って遊歩道もきれいに整備されており、現場周辺からは大三巴を見ることができず。
仕方なく、砦の上から写真撮影。


草ぼうぼう。

遊歩道では、このクソ暑いのにジョギングしてるおっさん達がいました。

無茶すんなよ。

2回目の場面は、田中が木村父子を大三巴に案内していると、そこへ偶然麗紅が通りかかり、恵子は田中の意中の女性が麗紅であることを悟る、という件でありました。


尤敏が現れるのはこの脇道から。



哪吒廟から通じる道。

この後、「せっかくなのでお茶でも」ということになり、田中、麗紅、木村父子の4人で喫茶店に行くことになります(店の外観のみロケ、店内はセット撮影)。
喫茶店の場所はおそらく新馬路と思われますが、現存しているかどうか不明だったのであっさりあきらめ(だって暑かったんだもーん!)、質屋博物館(典當業展示館)を見学。


これは博物館とは別の建物ですが、
やはり昔ながらの質屋建築。

質屋博物館は1917年に開業した質屋・德成按をそのまま博物館としたもので、ここを経営していたのが尤敏の夫である高福球の父・高可寧。
高可寧は質屋を振り出しに、やがてカジノ経営にも乗り出して巨万の富を築くことになります。
だもんで、澳門訪問のさいにはここもぜひ見学していたいと思っていたせんきちなのでありました。

展示スペース自体は意外とこじんまりしており、奥の倉庫は日本の古民家と同じ匂いがしました。
田舎(新潟)の家を思い出したよ。

見学後は、階上の茶芸館で一休みしましたが、その話はまた別の機会に。

澳門ではもう1ヵ所、日本へ帰ることになった田中が麗紅と話す場面がありますが、この場所はわからんかったわ。
ご存知の方がいたら、教えてちょーよ。

最後に、『香港の夜』の日本側スタッフ・キャストの中から、千葉泰樹と司葉子の澳門印象記をご紹介して、今回のロケ地めぐりを終了したいと思います。


マカオは眠ったような町だった。見物といっても、半日も歩けばもう見るものもない。ホテルの自室にとじこもったきり、話し相手もない。ひしひしと孤独を感じ、望郷の思いにかられた。
(千葉泰樹「400字ドラマ マカオの憂愁」より。1961年4月18日付『朝日新聞』夕刊)

香港から三時間半で、マカオの港につく。こんもり茂ったポプラ並木と、クリーム色の家並みが丘の上までつづいている。ねむったような町だ。
中共と川ひとつへだてて、ここはポルトガル領。中世風の城壁の上に、ポルトガルの兵隊が銃をかまえていた。
治安はよくないらしくて、夜はひとり歩きができない。一歩裏町へはいると、トバク場と食べ物やが、やたらと目につく。カエル料理、ヘビ料理。そんな店が中共の旗をたてたり、国府の旗をたてたりして隣り合わせに並んでいるのがおかしかった。
(司葉子「異郷の裏町で」より。『女性自身』1961年4月18日号)

2人とも、澳門を「眠ったような町」と形容しているのが、なんだか奇妙です。


おまけ。


(おしまい)

2007年7月20日金曜日

『香港の夜』ロケ地めぐり in 澳門 (その一)

〔たび〕


昨年春の「柳川編」(序章その一その二おまけ)に続き、今年も懲りずにやってきました『香港の夜(香港之夜)』ロケ地めぐり。
尤敏を追って1人来てしまったよ、灼熱の澳門。
それにしても、暑かった・・・・。

今回の最大の使命は、張千里(王引)の家を探すこと。
勤め先の薬屋の若旦那(馬力)と田中(宝田明)との板挟みになって苦しんだヒロイン・呉麗紅(尤敏)は、香港からひっそりと姿を消し、父親代わりであった張千里(亡き父の親友)の許に身を寄せます。

映画の中に出てきた田中から麗紅宛の絵葉書の宛先には「味柵枝街五十五號」とありましたが、これは架空の地名で、実際の地名は「美柵枝街」と考えられます。
しかし、現在の住居表示では美柵枝街の番地は30番台までしかないようで、従って、位置関係から推定するより他に方法がありませんでした。
その点、お含みおき下さい。

現在、美柵枝街に残る古い洋館は2軒。
どちらも当地の富商だった陳賜が建てたもので、1軒は1919年築(現・美柵枝街3号)、もう1軒は1925年築(現・美柵枝街5号)。
美柵枝街自体が裏路地風の長さも短い道なので、これら2軒の洋館が道路の片側全面を占めています。


手前が美柵枝街3号の洋館。
木立を挟んだ奥(よく見えないけど)が5号の洋館。

これを映画に出てきた美柵枝街の位置関係や玄関の造り等から比較検討してみたところ、どうやら3号の洋館が王千里の家らしいことが判明。


すなわち、↑の洋館(映画に登場するのは外観のみ。内部はセット撮影)。
塀が映画のそれとはちょっと違うのですけれど、20年ほど前に大規模改修工事を行ったらしいので、そのせいかなあと都合よく解釈。


田中がアマさん(高翔)と珍問答を繰り広げていると、地下室から玄関前に通じる階段を上って尤敏がやって来て、そして2人が再会する、その階段はきっとここ(上の写真)に違いないわ。
ちなみに、宝田明とアマさんとの珍問答の最中に尤敏が出てきて2人が再会、というパターンは、この後の『香港の星(香港之星)』でも踏襲されることになります。


お向かいの家並。
映画の中ではここにも洋館が並んでいましたが、
今じゃすっかり普通のビル群。


(大したことないネタだけどつづく)

2007年7月14日土曜日

『刺青』騒動

〔しようもない日常〕

せんきちの号泣ドラマ

台風接近中です。
皆さん、ご注意下さい。

ということで(?)、行ってきました東京国際L&G映画祭の『TATTOO-刺青-(刺青)』。
ちょいと早めに会場(スパイラルホール)に到着して整理番号を振ってもらい(37番)、スパイラルビル1階の「かまわぬ」で手ぬぐいを仕入れた後、並びのドトールでコーヒー飲んで時間をつぶし、遅れて駆けつけたKさん(例によって、いつものKさんです)と合流、今度は会場ロビーにて軽く1杯やりながら(カンパ制のドリンクサービスがあったのよ)開場を待っていたのですけれど・・・・。

おかしい。

待てど暮らせど開場になりません。


そうこうするうちにアナウンスがあり、

トラブルで日本語字幕が出ません。

ですと。

・・・・なんすか、それ?

一瞬、以前(1997年から98年にかけて)三百人劇場であった「台湾映画祭」で『さよなら・再見(莎喲哪啦‧再見)』が上映されたさい、女連れ(!)の右翼が会場内で暴れて(いきなり「なんだ、この映画は!国辱だ!」とか叫びやがった)上映中止になったときのことを思い出したせんきちでしたが、とりあえず、日本語字幕は駄目でも中英文字幕なら付いているのかどうか確認せねばと考え、係の方に問い合わせたもののなんだか要領を得ないお返事。

と、この時点で推定20名ほどの観客の皆様が脱落。

そんな中、在日台湾人であるところのKさんは「あたしは(字幕無しでも)平気だけどね」とか涼しい顔をしておっしゃるので、「あんたは当たり前でしょ!」などと思わず突っ込みを入れてしまいましたが、そうこうするうちにめでたく(?)

上映強行

の運びとなり、出たとこ勝負に付き合おうという物好きな観客の皆様は、早い者勝ち!とばかいに雪崩をうって客席に殺到したのでありました。

なんのための整理番号?

そして緊張の本編上映。

あったよ、日本語字幕。
(英文字幕も付いていたけど、中文字幕は無かったわ)

そんなわけで、映画の感想ですけれど、うざいよ、あのヲタ警官。
あんなつまんない説教する男を竹子(イケてない名前)と間違えんなよ、小緑。

日本人のおじさんの台詞も、ちょいと駄目出ししたくなりました。
『愛情霊薬 B.T.S(愛情靈藥 Better Than Sex)』を観たときも、映画自体はけっこう笑えておもろかったのに、日本人の演技がヘタレで興ざめだったことがありましたが、なるべくならきちんと演技のできる人を使ってほしいものです。

とはいえ、女の子同士が醸し出す、一種独特の息の詰まりそうな濃密な雰囲気というものは、なかなかよく描けていたと思います。
松浦理英子の『ナチュラル・ウーマン』を読んだ時のことを思い出しますた。

でもさ、地震のおかげで竹子に捨てられることになっちゃった元カノの行く末が気になったのは、せんきちだけかしらん?

そしてそして、この日も泣いていたよ、Kさん。

映画の後は、ぶらぶら歩いて渋谷まで行き、尤敏もお気に入りだった「鳥ぎん」で上映の成功を祝して乾杯(って、ただ飲みたいだけなんだけどね)。


どんな映画を観ても常に泣いているKさんと、ひとしきり「涙」について語り合いました。

ちなみに、あっしはKさんにこの映画このドラマを観るように勧めておいたっす(これの第13回も勧めときゃよかったな)。

締めは勿論、釜飯。
おいしうございました。


付記:会場で『ヘアスプレー(Hairspray)』の団扇もらったけど、トラボルタ(John Travolta)もついにディヴァイン(Divine)の仲間入りか・・・・。

(おしまい)

2007年7月11日水曜日

朱洪武續集劉伯温傳 (A Story of "Lou Bo-Wen")

〔えいが〕

今日のネタとは何の関係もありませんが。
明日、觀塘の支店がオープンだそうです。

1971年、台湾(台旭)。湯慕華(湯浅浪男)監督。游龍、曹健、唐威主演。

梅雨ですね。
蒸し暑いですね。
カビに注意して下さい。

本題に入る前に、ちょっと情報。

7月7日(土)オープンしたミニ・シアター「神保町シアター」で、14日(土)から「こどもたちのいた風景」というテーマによるレイトショーが開催されます(8月15日〔水〕まで)。
ただし、レイトショーといっても、元々がポケモン上映用劇場なので、18:45~の1回限りというやけに早い時間帯の上映です。
上映作品等、その他詳しいことは公式サイトをご参照下さい。

以下は、本題。

今日ご紹介するのは、1966年、台湾へ渡った湯浅浪男監督が彼の地に帰化後、中国名「湯慕華」名義で撮影した中の1本です。

湯浅監督が台湾へ帰化したのは1971年6月のことで、同年7月13日付『聯合報』には、

導演湯慕華 正式帰化 領到身分證 成為中國人

という見出しの記事があります。

それによると、湯浅監督は2年前(1969年)に帰化を申請後、1971年6月1日になってようやく中華民国の身分證を取得したとの由。
旧満州、中国東北部生まれの湯浅監督は中華文化と台湾の人情味に触れて帰化を決意、今では中華民国(国府時代の記事なので、台湾と中華民国の記述が入り乱れてしまいますが、その点ご容赦)を真の故郷と思っていると語っています。

念のため、湯浅監督の台湾での作品をこれまで判明した分のみですが、掲げておきたいと思います。

・「湯浅浪男」名義
『霧夜的車站』(1966)『東京流浪者』(1966)『懐念的人』(1967)『難忘的大路』(1967)『尋母到東京』(1967)『青春悲喜曲』(1967)『法網難逃』(1968)
(この内、『懐念的人』は昨年から今年3月にかけて開催された台湾語映画50年の特集上映で取り上げられました)
・「湯慕華」名義
『飛龍王子破群妖』(1969)『二郎神楊戩』(1970)『桃太郎斬七妖』(1970)『魔笛神童』(1970)『甘羅拜相』(1971)『妙想天開』(1971)『朱洪武續集劉伯温傳』(1971)
(この内、『甘羅拜相』はアジア映画祭参加作品・・・・だそうな)

湯慕華に改名以降の作品は、タイトルから察するにお子ちゃま向け特撮時代劇がほとんどのようですけれど、同時期に同じく台湾で映画を撮っていた小林悟監督の映画も『月光大俠』とか特撮時代劇っぽいタイトルの映画が多かったように記憶しています(もともと「『まぼろし探偵』の続編を撮ってくれ」と口説かれて台湾へ渡ったのだそうです、小林監督の場合)。
流行りだったんでしょうか。

ところで、湯浅監督ははじめ台湾語映画を撮っていたので、せんきちはてっきり台湾語映画の製作会社の招きで渡台したのだとばかり思っていましたが、先述の記事には潘壘監督に誘われて台湾へ渡ったとありました。
っつーことは、北京語映画ですか?

ちなみに、そのとき湯浅監督と一緒に台湾へ渡ったのがカメラマンの中條伸太郎。
結局、彼も台湾へ骨を埋めることになるのですが、「台湾電影筆記」の中條のプロフィールには、

湯淺導演回日本之後

とあり、あたかも湯浅監督が1人でとっとと日本へ帰ったかのような表現になっています。
帰るどころか台湾に帰化するという、中條よりももっと台湾にどっぷりとハマっていたのですけれど。

とまあ、前置きが長くなったところで、映画の内容ですが、劉伯温(劉基)の助けを得て朱洪武(朱元璋)が明を打ち立てるまでを描いた特撮時代劇でおます。
「續集」にふさわしく(?)、のっけから巨大な怪物に狙われて逃げ惑う朱洪武少年と劉伯温のシーンから映画は始まります。

ここで大フューチャーされているのが、

特技導演 林黒石(撮影も)

なんですけど、これって実は黒石恒生の変名です(照明も日本人〔大塚勝雄〕が担当)。
黒石は、1969年にも八木正夫や三上睦男等と共に台湾映画(『乾坤三決鬥』)の特技を担当していますので、2度目のお勤めということになるのでしょうか。

以下、特撮大放出!とばかりに何かといえば大嵐に地震と、「中国=天変地異のデパート」という間違った認識を植えつけてしまいそうなスペクタクルシーン連発でした。

とはいえ、親子で楽しむ映画としてはそこそこよく出来ていたと思います。
封切日時(1971年12月31日)を見るとどうやらお正月映画(旧正月じゃないけど)だったみたいで、その辺り(親子連れ)のニーズにはきっちりと応えられていました。

でも、特撮が大掛かりなのに比して、通常のセット撮影(オープンセット除く)の装置がちゃちかったのは何ゆえかしらん。
特撮でお金を使い果たしちゃったとか?

付記:本作で少年時代の朱洪武を演じている游龍は、山内鉄也監督の邵氏作品『梅山收七怪』では哪吒を演じています。

(於:香港電影資料館)

2007年7月8日日曜日

大人だってマット運動がしたいの!

〔しようもない日常〕

若き日の岳華と何俐俐(莉莉)。

公開初日に行くつもりは無かったのですけれど、知人のKさん(いつものKさんです)が切符を2枚入手したというので急遽参戦、『傷だらけのローラ』、じゃなくて、『傷だらけの男たち(傷城)』を観てきました(於:みゆき座)。
昔の日比谷映画街を知っている身(年だなあ・・・・)としては、今のそれはなんだか別世界のようで淋しゅうございます。
東京宝塚劇場の出待ちは相変らずだけど。
もう一度あの地下1階の大食堂で食事をしてみたいものです、かなわぬことではありますが。

肝心の映画の内容はといいますと・・・・、ま、やめときましょ。
岳華の名誉のために、若き日の勇姿を掲げておきます。
映画の終盤、あっしが「同姓同名の人間なら存在するとは思うけど(ただし、せんきちの場合、男性でもあり得る名前のため、これまでに知った同姓同名の人物は全て男性でおました)、同じ出身地でおまけに身寄りが無い男というのは、そうそういないんじゃねえの?」と心の中で突っ込みを入れながら観ていたところ、隣の席からすすり泣く声が!

・・・・Kさんが号泣していたのでした。

泣くな!K!

いざ、本題。
最初にお断りしておくと、今日の話題はくだらなーいシモネタですので、助平の与太話がお嫌いな方はどうぞスルーして下さい。

Kさんの職場になぜか毎月送られてくるという上海のタウン誌(Kさんは台湾関連のお仕事なのにね)。

ちょいとお借りして読んでみたところ、何俐俐(莉莉)がオーナーのお店「鴻禧茶居」(注)の広告なんかが載っていて、「いいなあ、いつか行ってみたいなあ」と思っていたら・・・・別刷の冊子(上海トゥナイト)にこんなサウナの広告が!(下のお写真)


ええっ?
サウナなのに、なぜ

雄琴?


しかもわざわざローマ字でOGOTO(おごと)のルビ入り。

「なんなんだ?なんなんだ?このサウナ!」とパニックになりながらも広告写真をチェックしてみると、またもや驚愕の事実が!


なんじゃこりゃ!?
サウナにこんな個室が必要なのか?
おまけに、こ、この、どこかで見覚えのあるマット(行ったことないけどさ)はいったい・・・・?

このマットね。

なんだかこのマットがすごーく気になった不詳せんきち、他のサウナの広告もチェックしてみたところ、


やはり、どこのサウナでもベッドの他にマットが必須のようです。

辰ちゃん、出番だよ

しかしながら、自称「恵まれない男子中学生」であるところの不詳せんきち、この空間に1つ大事なものが足りないことを発見いたしました。
そう、それは、

あの椅子が無いこと!

でも、浴場スペースに行けばずらっとならんでたりして、件のスケベ椅子が。

上海へはもうかれこれ7年ほど足を踏み入れていないせんきちですが、思いがけず、いい社会勉強をさせていただきました(って、そんなオチかよ!)。

こちらは同じ雑誌に載っていたKTVの広告の一部。
よく見りゃこのイラスト、COCOのアルバムからのパクリじゃん!


注:何俐俐(莉莉)はこの他にも「百合居」「上海會」「福禄居」といった飲食店を経営しており、ぐるなび上海版にある「香港の設計士趙俐俐氏」とは何俐俐(莉莉)その人のことであります。

2007年7月5日木曜日

橋 (Bridge)

〔えいが〕

アタシモ出テルヨ!

1966年、台湾(中華、龍裕)。張曾澤監督。張美瑤、柯俊雄、武家麒主演。

拙ブログのBBSで既に取り上げましたが、楊德昌監督がお亡くなりになりました。
はからずも遺作となった『ヤンヤン 夏の思い出(一一)』に出てくる熱海のつるやホテルには、うちの母の友人が勤めていた関係でよく泊まりに行っていました。
だもんで、映画館のスクリーンに見慣れた2階のラウンジが映ったときにはびっくり仰天。
しかし、その後泊まりに行った時に「台湾映画のロケ隊が来ていたでしょう?」と母の友人に聞いたら、「ああ、なんだか、そんなような人たちが来ていたなあ」と気のない返事でがっかりしたものです。
しばらくして、吹き荒れる不景気風をもろに受けたホテルは閉館、母の友人も別のホテルに移っていきました。
つるやも監督もいなくなってしまいました。

では、本題に移りましょう。

表題の作品は、以前にも書いたとおり、張美瑤と柯俊雄の出会いのきっかけになった作品であり、また、歌手になる前の歐陽菲菲が張美瑤の家のメイド役でちょっこし出演していることでも特筆すべき作品であります(原作は冷冰の『曇花夢』)。

が!

これがまあ、先だってご紹介した『珊珊』(やけくそ気味の感想文はこちら)をしのぐ、

突っ込みどころてんこ盛り

の映画でしたわ、奥さん!

以下、超いいかげんなストーリー解説に沿って、ガンガン突っ込んでいきたいと思います。

両親を亡くし、おば夫婦と暮らす女子大生・沙心涓(張美瑤)は、いつも通りかかる橋の袂で出会う1人の孤独な紳士(柯俊雄)に胸のときめきを覚えます。

お若いねーちゃんがロマンスグレイ(死語)の紳士に胸ときめかせるというパターンですけど、柯さんのいでたちといったら、黒づくめの服(シャツのみ白)にオールバック、そしてなぜかプードルを連れているという不気味なもので、正直、

公園の見せ見せおじさん

かと思いましたよ。

その後いろいろあって2人は案の定恋に落ちるんですが、年の差を理由に交際をためらう白希達(柯桑。ほとんど老けメイクをしていないため、あんまり年取って見えない)に燃えろアタック!を繰り返す心涓、ほどなく2人はラブラブまっしぐらとなるものの、しかし、白は大きな秘密を心涓に隠していました。
それは、

妻子持ち

だということ。
しかも、白の息子は心涓に思いを寄せるクラスメートの白鋼(武家麒)だったのです・・・・って、あんた、柯桑の息子が武家麒だなんて(老け役とはいえ)、

いくつの時に作った子だよ!

やがて心涓と白の関係は鋼の知るところとなり、白の妻が心涓に別れてくれと迫ります・・・・が、すげーよ、奥さん、すげーババアだよ。
さては柯桑、

フケ専だったのか?

と思いきや、鋼は奥さんの連れ子で、しかも愛のない結婚だったため長いこと別居中であったことがわかって、少し安心(何を安心?)。

このまま2人が生きて添い遂げることは不可能だと悟った心涓は、思い出の橋で白に心中を持ちかけます。
おお、橋と心中といえば、

天の網島』じゃないの!

しかし、白はこの申し出をやんわり拒否、心涓は「君の長い髪が好きだ」と言ってくれた白(何故かというとね、それは、白さんの昔の恋人も長い髪の女性だったからなんだよ。ほんと、男って、昔の恋を引きずるものなんだねえ)に己の黒髪を託してその場を立ち去るのでした。
でも、髪の毛って、ふつう、

呪詛の対象

じゃありませんか?

こわいよー。

白は去っていく心涓を追いかけるものの途中で転倒、そのまま誤って崖下に転落してしまいます。
白の命が危ないという知らせを聞いて病院へかけつけた心涓でしたが、心涓の姿を見届けた白はそのまま息を引き取ります。
心涓は、愛する人とは結ばれないこの世の定めを1人嘆くのでした(劇終)・・・・って、

おいおいおいおい!

あんたが髪の毛なんか渡すから

呪われちゃったんだろ!

気付けよ!


というわけで、映画の内容もすごかったですが、それ以前の問題として柯桑が全くのミスキャストで、たそがれた中年紳士というよりは年上のお姉さん(張美瑤)に甘えるやんちゃな弟分にしか見えないのが致命的でおました。

でもなんでさあ、白さんはあんなおばさんと結婚しちゃったんだろう?
しかもおばさん再婚だよ。

付記:この他、おばのビジネスパートナー(魏蘇)がしつこく心涓に言い寄ってレイプ未遂、とか、そのビジネスパートナーは実はおばの昔の恋人で、親の反対で結婚できず今の夫と結ばれたものの夫は浮気三昧、心涓は愛のない結婚について考える、なんていう件もありましたが、あまりにメインのストーリーがすごいため、割愛させていただきました(スマソ)。

(於:香港電影資料館)

2007年7月1日日曜日

酒豪

〔ちょっとお耳に〕


香港のお友達は大変な高峰秀子贔屓で、怠惰な中年オバサンであるところのせんきちなどは、

お若いのに、奇特な方ねえ。

と感心することしきりなのでありますが、先だっての香港訪問のさいにも、そごう階上にある旭屋書店(ここの旭屋書店は、東京のそれよりもずっと雰囲気がいいですなあ)文庫売り場にて高峰秀子の著書の数々(文春文庫)を紹介したところ、たいへん喜んでお買い上げになっておられました。

そして、帰国後。

旭屋書店になかった高峰秀子の文春文庫本を送ってやるべーと思ったせんきちはさっそく紀伊国屋書店を攻略、ターゲットの1つである『私の梅原龍三郎』を手に取ってぱらぱらとめくってみたところ・・・・

おや?

香港の「大上海飯店」に人気スター・ユーミン嬢を迎えて

というキャプションと共に、尤敏と梅原龍三郎夫妻、高峰秀子・松山善三夫妻がテーブルを囲んでいる写真が載っておりました(「酒豪」の項)。

知らなかったよ・・・・。

本文(「酒豪」「虹彩炎」の項)によれば、1963年春、高峰秀子のお気に入りのレストランであった大上海飯店に尤敏を迎えて食事をしたときに撮られたものであるとの由。

1963年春といえば、松山善三が脚本を書いた映画『ホノルル・東京・香港(香港・東京・夏威夷)』のクランクインの時期にあたり、それも関係しているのかなあと思いましたが、同じく本文(「中国料理」の項)によると、高峰秀子から大上海飯店のなまこが美味しいと聞かされてすっかりその気になった梅原龍三郎がはるばる香港へ出張とあいなった、というのが真相の模様。
ただ、写真では梅原夫妻と松山善三は来賓用みたいな徽章をくっ付けており、プライベートな宴ではなく、東宝の香港支社あたりが一席設けた可能性も捨て切れません。
『國際電影』等を調査すれば、もう少し詳しいことがわかるのかも知れませんが、いずれにしても、尤敏と高峰秀子が知己の間柄だったというのは恥ずかしながら不詳せんきち全く知りませなんだので、香港のお友達に感謝せねばなりません。

どうもありがとう。


おまけ:先日、お仕事関係の宴会にお呼ばれしました。
本当は宴会やパーティーの類が大の苦手でいつも欠席なのですが、うっかり「出ます」と返事をしてしまったため(誘導尋問に引っかかってしまいました)、仕方なく出席。
しかし、極度の人見知りで酒を飲まなければ初対面の人と会話もできない因果な性分ゆえ、ビール、ワイン、ウイスキーを立て続けに飲んでようやく隣席の方との会話が実現しました(写真は、その折のもの)。
が、昼間の宴会だったためすっかりへべれけになり、帰りがけには知人のKさん(いつものKさんです)の職場に押しかけてずいぶんとご迷惑をおかけしました。


ちなみに、『私と梅原龍三郎』の「酒豪」の項には「私は、梅原大人がお酒に酔って乱れたのをみたことがない。こういう人物を本物の酒豪というのだろう」とあります。
ダメ酔っ払いのせんきちは、ひたすら「とほほ」という他ありません。