昨日、謎の日本人カメラマン・高詩綿を取り上げましたが、今日も日本人カメラマンネタを。
1967年9月22日付『華僑日報』に、下記のような見出しの記事があります。
なんだかおだやかではありませんが、記事によると、新作『珊珊』(何夢華監督)の試写を観た主演女優の李菁が、自分がデブに映っているのにご立腹、邵氏の製作陣に、
今後一切、あたしの映画に日本人のカメラマンは使わないで!
と訴えた、との由。
ようするに、きれいに撮ってくれなかったんですね、このカメラマンさん。
記事にはこの他にも、
邵氏は昨年日本人監督とカメラマンを招聘し、スタジオはさながら日本人の天下のようになったが、今年は去年ほど(日本人は)たくさんいない。なぜなら、日本人は言葉の障壁があるためトラブルが発生しやすく、また、香港のカメラマンと比べてさして力の差があるわけでもなかった。そこで、邵氏は方針の変更を決めた。
やら、
日本人カメラマンに対して不満を述べたのは李菁が初めてではない。このカメラマンは秦劍監督の『三燕迎春』のさいにもトラブルを起こし、結局黄明が代わりのカメラマンに起用された(この部分、要約してあります)。
とあり、件のカメラマンだけでなく、日本人スタッフ全体に対する敵意が見て取れます。
この記事から類推するに、今でこそ香港に渡った日本人スタッフは、彼の地の映画界に対して多大な貢献をした、と受け取られているものの、どうもその当時は手放しで歓迎されていたわけでもなかったようです。
西本さんの『香港への道』にもその点に関して、
それで、一つ補足しますとね、僕はいろんな監督を呼んできたので、ちょっとにらまれだした。日本の監督を呼んだのは西本だと。そもそも会社の方針なのに、そのへんのいきさつがわからない連中は、西本が呼んできたと言うわけです。あのころ、ショウ・ブラザースでは、僕の言うことは何でも通るというのが有名だったですからね。(163ページ)
とあって、やはり、日本人スタッフを招聘するという上層部の方針を快く思わない現地スタッフが数多くいたことを示唆しています。
となると、この記事はそういった邵氏の不満勢力が記者に頼んで書いてもらった記事、と見ることもできそうです。
それを証拠に、李菁はこの後井上梅次監督の作品に出演して日本人カメラマンとも組んでいますし、邵氏自体も引き続き日本人スタッフを招聘しています。
ただ、それにしても気になるのは、李菁をデブに撮っちゃったというカメラマンのお名前。
今のところ、『珊珊』の詳しいデータがないので、調べようがありません。
誰かしらーん(意地悪)。
さて。
今日、12月27日は樂蒂の祥月命日です。
1950年代~60年代の女優さんの場合、日本ならいまだにテレビや映画でご活躍中の方が少なくないのに、香港ではお亡くなりになった方もけっこういらして、なんだか淋しいですわね。
トロ、うまかー!
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