2009年3月28日土曜日

台湾は招くよ (その5)

〔ちょっとお耳に〕

今日の『朝日新聞』夕刊から。
邦訳の予定はないのかしらん?


どうも。
トド@山本山のお尻見ちゃったです。

先日、乳がん検診を受けますたが、超音波検査のとき、技師の方から、

「おっぱいの中に水の入った袋がありますね」

と言われますた。

不肖せんきち、別に包茎、じゃなくて、放尿、てもなくて、豊胸手術は受けていませんが・・・・。

調べてみたら、乳腺嚢胞という病気ですた。

特に治療の必要はないそうですけれど、甲状腺やら何やら、そこらじゅうに嚢胞ができているようでして、いやあ、困りますたです。

前回の続き。

・沢賢介監督

『跨世紀台灣電影實錄』中巻(2005年、文建會・國家電影資料館)の1972年5月の項(640頁)には、


新成立的擎天柱公司將與日本製片人澤賢介合作拍攝新片《百萬美金追蹤》。該片將在台北先拍部分内景、再轉往東京、香港、曼谷與新加坡等地拍攝外景。



とあり、沢賢介監督と台湾の擎天柱公司によって『百萬美金追蹤』という日台合作映画が企画されていたことがわかります。
しかし、その後まもなくして日本は台湾(中華民国)と絶交したため、結局、この映画は製作されずに終わったようです。

沢監督は、1944年に日本映画社に入社、1950年に退社後は『娘を売る街 赤線区域』(1953年)、『脱衣室の殺人』(1958年)と2本の劇映画(いずれも新東宝配給)を監督しましたが、1960年代に入るとピンク映画の世界に身を投じることとなります。
鈴木義昭氏の『ピンク映画水滸伝 その二十年史』(1983年、青心社)には、


沢賢介、彼は小林(悟・せんきち注。以下同)、関(孝二)、本木(荘二郎)、北里(俊夫)、三輪(彰)についでピンク映画六人目の監督として登場、今日までピンク映画をつくり続けている職人的映画人である。


と、あります。
その作品リストによれば、『(秘)香港人肉市場』なんてタイトルの映画もあり、すごーく気になります。

『百萬美金追蹤』のことに話を戻すと、台湾の製作会社である擎天柱公司は本作のために設立した会社のようで、この他の映画は製作していません。
また、キャストの記載もないので、北京語映画だったのか台湾語映画だったのかも不明ですが、香港やバンコク、シンガポールでも撮影を行う予定だったこととタイトルからみて、どうやらアクション映画だったのではないかと思われます。

・小川欽也監督

ピンク映画の世界においては言わずもがなの大監督ですが、前述した『ピンク映画水滸伝 その二十年史』には、


時には台湾へも渡り、現地スタッフを指導して映画を監督している。
いわく「台湾の映画は、日本より十年遅れている」。フリー時代の仲間が多数渡り、映画製作をしているという台湾では「センセイ、センセイ」と大歓迎されるそうだ。
(85頁)

とあって、小川監督も台湾で映画を撮っていた模様です。
ただ、現在のところ、作品名やどのような名義を用いていたのか等は不明で、今後も引き続き調査していきたいと考えています(ご本人に聞くのが一番早いんだけどね、何でも)。
また、上記の引用文章によれば、これまであげた監督たちの他にも多数の映画監督が台湾へ渡っていたようで、こちらの解明も今後の課題としていきたいです。

(第6回に続く)

2009年3月25日水曜日

台湾は招くよ (その4)

〔ちょっとお耳に〕

何基明監督(向かって左。右は弟である何錂明)。

どうも。
トド@鼻づまりです。

まず、ちょいと告知。

以前、こちらでもちょっこしご紹介したドキュメンタリー映画『雨が舞う~金瓜石残照~(雨絲飛舞~金瓜石殘照~)』が、3月28日(土)からユーロスペースで公開(モーニングショー)されます。
詳しいスケジュールは、下記の通りです。

3月28日(土)~4月10日(金)
渋谷・ユーロスペースにて
連日・10:00~

3月28日(土)、29日(日)、4月4日(土)、5日(日)は上映前(9:45より)に林雅行監督による舞台挨拶があるそうです。

この映画、知人のKさん(いつものKさんです)がイッチョカミしてるんですけど、不肖せんきち、Kさんに、

「あたしさー、今まで金瓜石のことを、

かねうりいし

って読んでたよ」

と言ったところ(通常は「きんかせき」)、

「あんたねえ、よく見てみなよ、真ん中の字。

瓜(うり)じゃないよ、爪(つめ)だよ!

とバカにされたのですが・・・・・。

あのー、よく見てみましたけれど、

やっぱり瓜ですよ

Kさん。

前回の続きです。

・南部泰三監督

前回までは北京語映画を撮った監督さんたちでしたが、今回は台湾語映画。
当時、ピンク映画の世界で活躍していた南部泰三監督は、1967年に何基明監督と共同で『霧夜香港』を撮っています(小林, 張清清, 易原, 山田恵美子、他出演)。
内容は不明ですが、タイトルから類推するに舞台は香港、日本人キャストも参加しているところからみて、日本人と台湾人の悲恋物・・・・だったのかな、と思います。
製作会社である玉山有限公司は、この映画を製作するためだけに設立された会社のようです。

北京語映画において日本人監督は中国風の変名を使わなければならなかったのに対して、この映画では南部監督は変名を用いておらず、台湾語映画では日本名をそのまま使用、というか、日本人監督の映画であることをむしろ積極的にアピールしているかのような感があります。
これは、両者の観客層の違い(北京語映画:外省人、台湾語映画:本省人)が大きな要因になっていると考えられますが、この問題に関しては前述した通りいずれ稿を改めて考察してみたいと思います。

南部監督は1936年に大都映画に入社したのを皮切りに、毎日新聞社映画部(1940年)→日本映画社(1942年)→満洲映画協会(1943年)と渡り歩いた人物で、1949年に帰国後は独立プロを設立、1964年からピンク映画の製作・配給を行う第8芸術映画プロを主宰して活動する一方、1965年には東南アジアの映画・テレビのスタッフ及びタレントを養成する第8芸術集団を設立、本作もこの関係で製作されたものと考えられます。

ところで、ご存知の通り、何基明監督は、戦後最初の35mm台湾語劇映画(『薛平貴與王寶釧』、1955年)を製作した「台湾語映画の父」ともいうべき人物で、主宰していた製作会社(華興製片廠)では新人俳優の育成にも力を入れ、後に台湾映画界を代表する男優となりながら30代の若さで夭逝した歐威や、香港に渡って電懋の専属男優となった洪洋等もここから巣立ちました。
しかし、1960年代初めに経営難から会社は閉鎖、何監督は日本で映像関係の仕事に従事しますが、この映画はそんな何監督が撮った最後の劇映画になりました。
が、何監督はその後も劇映画製作への情熱を抱き続け、1990年代に至っても日本と合作映画を撮る構想を練っていたといいます(Rick Miya氏「台湾を代表する映画監督・何基明と私」〔『台湾映画』秋号、2007年11月、東洋思想研究所〕による)。
終世「カツドウヤ」だった何監督が、この映画を最後に40年近くも映画を撮れないまま亡くなった(1994年没)という事実に、わたくしは一抹の寂しさを感ぜずにはいられません。

付記:南部泰三監督のプロフィールに関しては、『日本映画監督全集』(改訂版。1980年、キネマ旬報)を参照しました。

(若干しんみりしたところで第5回へ続く)

2009年3月22日日曜日

台湾は招くよ (その3)

〔ちょっとお耳に〕

民視のニュース。

どうも。
トド@新潟の伯父が脳梗塞で倒れますたです。

さて。

去る3月18日の『台灣蘋果日報』の潜入ルポ(蘋果直擊 白色恐怖檔案曝光 調查局亂棄史料 驚見滿屋文件屍罐)。


目下のところ、日本のメディアからは黙殺されているようですが(朝日はこれを無視して、こちらを紙面で取り上げていますた。いかにもやりそうなことだけど)、この手のネタに真っ先に食いつきそうな産経が沈黙しているというのは、何か意味があるのかしらん?(Web版調べたけれど、記事にした形跡なし。紙面にはあるのかなあ)
ま、産経も元をただせば「反中共、親国府」というスタンスでしたから、国民党のことをどうこう言える立場にはなかったりするのですけれど。




ところが、どうした風の吹き回しか大陸のサイトがこの記事に飛びついています。
自分たち(共産党)が当事者じゃないから、「全然オッケー!」ってな考えなのでせうか。
そういえば、共産党も昔は二二八事件を「国民党の圧政にノーを突きつけた台湾民衆の革命的行為」ってな解釈に基づいて称賛していたんですよね、たしか。
やれやれ。

というわけで、前回の続きです。

・山内鉄也監督

山内鉄也監督というと、邵氏で撮った『梅山收七怪』(1971年から撮影に入っていたものの、公開は1973年)がよく知られていますが、それに先立つこと2年、1969年に台湾の東影有限公司に招かれて古装物の特撮映画『封神榜』(北京語映画)を撮っています。
キャストは葛香亭、盧碧雲、陳慧美、謝玲玲、脚本は丁善璽です。

ただし、この映画、「台灣電影資料庫」では林重光が監督を務めたことになっています。
その理由を考えるに、山内監督は『梅山收七怪』では本名で通しているようですので、この映画でも本名を使うことを主張して変名を拒否、ゆえに林重光名義になったのではないか?というのが現時点での仮説です。
ただ、台湾や香港の映画データベースの場合、データベースの表記と実際のクレジットとの間に齟齬が生じている場合が若干見られますので、もしかしたら、実際には変名を使っている可能性もあります。
ご本人に聞いてみるのが、一番確実なんですけどね。

(まだまだ続くぞ。第4回を待て!)

2009年3月21日土曜日

台湾は招くよ (その2)

〔ちょっとお耳に〕

天地総子か・・・・。

どうも。
トド@イチローの被っているニットキャップが腹巻に見えるです。

前回の続き。

・福田晴一監督

福田晴一監督がメガホンを取った台湾映画『龍王子』(1969年)に関して、かつて拙ブログ(双子のリリーズ、台湾上陸! )でも取り上げたことがありますが、ウィキペディアによればこれは「本作(『怪獣王子』・せんきち注)の特撮部分のみを流用した」合作映画で、その後の追跡調査によれば、どうもこの他に変名で2本、特撮物の台湾映画(北京語映画)を撮っているようです。
で、下記がその詳細。

『神龍大戰宇宙人』(1969年、新佳興有限公司)
出演:江青、武家麒、方光徳(野村光徳)、戴良 他

『神俠飛童』(1969年、新和興有限公司)
演員: 徐蘭香、馮海、羅斌、高来福 他


上記の2作の内、前者は前述の拙ブログで引用した『聯合報』の記事にあった『神俠小飛龍』のことと考えられます。
また、『神俠小飛龍』のカメラは芦田勇が担当しており、『龍王子』『神俠飛童』も芦田がカメラを担当した可能性大です。

なお、福田監督はこの2作において船床監督や日高監督同様、

徐福田

という中国風の変名を名乗っており、どうやら台湾の北京語映画の場合、

合作映画は本名でもOKだが、純台湾映画の場合は変名でないとNG

という不文律があったようなのですが、その点については後ほど改めてくわしく考察してみたいと思います。

しかし、徐福田っていう変名、自分の姓を名前に持って来て、あとはてきとーに徐という姓をくっつけただけの、日高監督以上にお手軽、というか、もうどうにでもなれ!ってな感じの命名センスですわね。

付記:福田監督はこの後、1971年10月と72年7月にはインドネシアへ渡り、インドネシア映画(タイトル未詳)の脚本及び監督を担当しているそうです(『日本映画監督全集』〔改訂版。1980年、キネマ旬報〕による)。
また、福田監督は1960年代後半からはピンク映画を手掛けるようになりますが、その内、『続・悪徳医 女医篇』が"Madame O"のタイトルでDVD化されています。 

(しつこく第3回につづく)

2009年3月18日水曜日

台湾は招くよ (その1)

〔ちょっとお耳に〕

週刊少年漫画50周年(マガジン、サンデー)らしいっす。
せんきちの小学生時代は、「月曜:ジャンプ、水曜:マガジン&
サンデー、金曜:チャンピオン&キング」というスケジュールですた。

どうも。
トド@花粉&黄砂と格闘中です。

1960年代後半、台湾映画界には湯浅浪男監督の他にも日本人監督が招かれて、彼の地でメガホンを取った作品があります。
今回は、それらの監督及び作品を取り上げてみたいと思います。

・船床定男監督

船床監督は、1969年に『銀姑』という武侠映画(北京語映画)を監督しています。
おそらくは、東映で撮った『隠密剣士』等の作品が評価されての起用かと・・・・思います。
この映画、脚本は倪匡、撮影は陳坤厚というなかなかの豪華メンバー。
ただし、本名ではなく、

傅南篤(ふーなんどぅー)

という、船床監督の姓をもじった中国名を用いています。
この辺りの変名のセンスは、邵氏と同様ですね。
映画の製作会社である永聯有限公司は、この作品を作るために設立された会社らしく、本作の後にもう1本 『我恨月常圓』という楊麗花主演の映画を製作していますが、『我恨月常圓』の監督は、

陶南凱(たおなんかい)

と、「田中」をもじったような名前で(本作以外に監督作なし)、もしかしたら田中という姓の日本人だった可能性もあります。

・日高繁明監督

日高監督は、1868年に『劊子手』という武侠映画(北京語映画)を監督しています。
主演は、東宝と台製の合作映画『香港の白い薔薇(香港白薔薇)』や『バンコックの夜(曼谷之夜)』にも出演していた馬驥。
船床監督の変名はその姓をもじったものでしたが、日高監督の場合は、日高繁明から日の字を1字取って、

高繁明

という、さらにお手軽なネーミング。
製作会社の永裕有限公司は、合作映画がポシャった湯浅監督一行に「安藤監督主演で1本撮らない?」と持ちかけて、『霧夜的車站』を作った会社。
その当時は台湾語映画を主に作っていたようですが、1968年頃になると北京語映画が中心になっていたようです。
日高監督の作品リストによれば、1962年以降、監督は映画を撮っていませんが、なんらかの経緯によって台湾へ招かれたもののようです。
『霧夜的車站』の製作過程から類推するに、「誰か日本人の監督さんいないかなあ」と物色(?)の末、隠居状態だった日高監督を一本釣りした可能性も考えられます。

ということで、続きはまた。

(その2につづく)

2009年3月16日月曜日

伸びたり縮んだり

〔ちょっとお耳に〕

これはお蝶夫人。
こんな高校生が実在したら
・・・・やだな。

どうも。
トド@花粉症で苦しんでますです。
NHK BS-2では、今日から3日間「『無限道』まつり」の模様です。
下半身問題には誰よりも敏感なはずの「みなさまのNHK」ですが、彼はすでに「無罪放免」のようです。

さて。

昨日、何気なく、このたび香港で開催される易文監督の回顧上映「兒女情長:易文電影」のプログラムをチェックしていたところ、『蝴蝶夫人』が相変わらず「粵語配音」だったので、

「おいおいおい、新華なら、フランスから里帰りしたフィルムが台北(國家電影資料館)にあるだろが!それ(もち、國語版ね)でも借りてかけろや!」

と、1人毒づいていたところ(別に観に行くわけじゃないんだけどね)、台北にある國語版

上映時間84分

なのに対し、香港にある粵語配音版は、

上映時間95分

であることに気づきました。

っつーことは、台湾での上映時に大幅カットされたってこと?

こうなったら、せっかくの回顧上映なんだし、この機会に両方上映してみて、どこが国府の気に入らなかったのかを観比べてみればいいのに、などと思いつつ、『跨界的香港電影』(2000年、康樂及文化事務署)に掲載された『蝴蝶夫人』(粵語配音版)のデータを確認してみたら、おや~、

上映時間100分

だって!

なんじゃこりゃ!(By:松田優作)

付記:『蝶々夫人』ネタの映画というと、『蝴蝶夫人』(1956年)の前年に製作された邵氏の『自君別後』(王引監督。趙雷、石英主演)も『蝶々夫人』に材を取った作品で、日本でロケを行い、東宝が撮影に協力、カメラも日本人が担当し(氏名不詳)、日本人を演じる石英と紅薇には専門の所作指導が付いた、とのことです(「石英的演藝生涯回顧」〔『電影欣賞』第83/84期、1996年12月、國家電影資料館〕による)。

(本日もオチなしですた)

1955年、李麗華が来日した際
表紙を飾った『世界画報』4月号
(1955年4月、国際情報社)。

2009年3月13日金曜日

海辺のキャセイ

〔ちょっとお耳に〕

海沿い?

どうも。
トド@次は乳がん検診です。

首のしこり、病理検査の結果が出ました。

甲状腺の結節の方は、「グレーゾーンですが、とりあえず悪性ではないでしょう」とのことで、3ヶ月に1回通院して様子をみることになりました。
将来的には手術をして切除する方針のようです。
もう1つ、甲状腺の検査をする過程で見つかった正中頸嚢胞も、今すぐとは言わないけれど細菌が入って炎症を起こすと厄介なので、いずれは手術をして切除した方がよい、との由。
どのみち、

いずれは入院・手術

のようです。

さて。

昨年暮れから『週刊新潮』誌上で連載が始まった桐野夏生の小説『ナニカアル』。
戦時中の林芙美子を描いた小説で、林の一人称(私)の語りで物語は進みます。



ちょうど昨日発売された3月19日号(第14回)では、昭和17年(1942)、陸軍省の委嘱で南方に赴いた芙美子が、最初の寄港地である昭南(シンガポール)に到着した件で、芙美子と共にこの視察に参加していた水木洋子も登場したりしてなかなか興味深く読んだのですが、文中に1ケ所、非常に違和感を持った描写がありますた。
以下が、その部分。


部屋の大きな窓から、海沿いに建つキャセイホテルがはっきりと見えた。階段状の敷地に建つ、白い豪華な建物は、昭南が日本よりも遥かに豊かで、大金を投じて造られた街であることを示していた。この素敵な街が日本のものになったのだ。私の中で、密かに浮き立つものがある。 が、これは夢ではないかと危ぶむ気持ちもあった。


昭南に着いた日、劣悪な環境の軍施設に宿泊した芙美子が、その翌朝、窓からの景色を眺める場面なのですが・・・・、でもさあ、キャセイホテル(かつてのキャセイビル〔Cathay Building〕、現在のザ・キャセイ〔the Cathay〕内にあったホテル。昭南時代には日本軍の宣伝工作本部が置かれた)の場所って、あれ、海沿いですか?

ご存知の通り、キャセイホテル、現在のザ・キャセイ(the Cathay)は、ドービー・ゴード(Dhoby Ghaut)に位置する建物で、手元に古い地図がないのでとりあえず1972年のガイドブックに載っていた地図で確認すると、


ちょうどYMCAの右斜め上、小さな赤い丸印のある辺りがその場所のはずです。
たしかに、戦時中と現在では海岸線に多少の変化はあるかと思いますけれど、しかし、それにしても、もし本当にキャセイホテルが海沿いに建っていたとしたならば、ラッフルズ・ホテル(Raffles Hotel)は水没してしまうのではないかと思います。

まあ、当時の日本人にとってはそのぐらい印象的な建物だった、というか、シンガポールの象徴のような建物だったのでしょうが、戦後、このビルの主と映画を通じて新たな交流が生まれるとは、どの日本人も思いもつかなかったに違いありません。

(今日もオチのないまま撤収)


付記:林芙美子の南方視察に関して、くわしくは『林芙美子とボルネオ島-南方従軍と『浮雲』をめぐって-』をご参照下さい。

2009年3月9日月曜日

ふしぎな2本立

〔ちょっとお耳に〕

衛詩(Jill Vidal)逮捕のニュースを
聞いて、なぜかこの人を思い出した私。

どうも。
トド@検査続きです。

先月の健康診断で首にしこりが見つかりまして、そちらはただいま悪性か良性かを病理検査中、尿検査も血尿&蛋白尿で、明日再検査の予定です。

とほほ・・・・。

そんなこんなで、本日はてきとーな古新聞ネタ。

下の画像は、1960年9月13日付『聯合報』に載っていた広告。


大蔵新東宝が誇る(?)アイドル・星輝美たん主演の『思春の波紋』(「純潔教育を主題にした映画」らしいのですが、あらすじを読む限り「早すぎた『ある女子高校医』シリーズ」のようです)が『少女情波』という中文タイトルで上映されており、「んー、やっぱり大蔵新東宝の映画は台湾でバカ受けだったのね」と思っていたところ、おや・・・・・?


別の映画のタイトル(『玉女之悲戀』)が・・・・。
山口淑子(李香蘭)と池辺良主演ってことは、当たり前のことですけれど輝美たんの映画とは全く無関係の作品、しかし、日本語のタイトルがありません。

いったい、この映画、何よ?

山口淑子の作品リストによれば、池辺良との共演作品は、『帰国(ダモイ)』の第4話、『暁の脱走』『白夫人の妖恋』『アンコールワット物語 美しき哀愁』ですが、『白夫人の妖恋』の中文タイトルは『白蛇傳』なのでまずアウト、また、『アンコールワット物語 美しき哀愁』における池辺良の相手役は安西郷子なのでこれもアウト(それにこの映画なら2本立ではなく、単独で上映するはず)。
となると、残るは『帰国(ダモイ)』か『暁の脱走』ということになるものの、広告にある上映時間表を見ると、どう考えても2時間20分ほどの時間で『思春の波紋』と『暁の脱走』をセットで上映することは不可能です(『暁の脱走』は白黒だし)。
つまり、最終的に生き残るのは『帰国(ダモイ)』の第4話になります。
『思春の波紋』を単独で上映するには上映時間が短すぎるため、オムニバスである『帰国(ダモイ)』の第4話を続けて上映することにした、というところまでは何となく推測できますけれど、しかし、なんでこんな組み合わせの上映になったのでしょうねえ。
だいいち、『帰国(ダモイ)』って、総天然色でしたっけ?

謎だ。


追記:呂訴上の『台灣電影戯劇史』(1961年、銀華出版部)によれば、『帰国(ダモイ)』は、戦後の台湾で一番最初に公開された日本の劇映画で(1950年9月)、となると、既に当局の上映許可済の作品ということになりますので、『思春の波紋』の付け合わせとして一部を上映する、なんてのは、けっこうたやすいことだったのかも知れません。

(オチのないまま何となく退散)

同じ日の『聯合報』に載っていた
『美女と液体人間』の広告。
『東京怪物』って、身も蓋もないタイトルだな。

2009年3月1日日曜日

もう1つの亞太影展

〔ちょっとお耳に〕

葛蘭が観たら、何と言うだろうか。

どうも。
トド@引き続き病院通いです。

えー、先日こちらでお知らせしたシネマヴェーラ渋谷での『離魂』の上映、3月12日(木)にもあるようです。
というわけで、以下にタイムテーブルを。

3月8日(日):12:45、16:15、19:45(『不貞の女』と2本立)。
3月12日(木):17:00、20:05(『肉屋』『最後の人』と3本立)。

さて。

先だって、ちまちました記事を書いたアジア映画祭、すなわち現在のアジア太平洋映画祭(Asia-Pacific Film Festival.1983年〔一説に1984年〕に現名称に改称)、この映画祭を中華圏では亞太影展と呼び習わしておりますが、実は1970年代にもう1つ「亞太影展」と呼ばれる映画祭がありました。
それは、1966年、韓国で設立されたアジア太平洋協議会(ASPAC.亞洲暨太平洋理事會。設立当時の加盟国は、韓国、日本、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピン、タイ、マレーシア、南ベトナム、中華民国〔台湾〕、ラオス〔オブザーバー参加〕。1972年以降に自然消滅)のプロジェクトである文化社会センター(亞洲太平洋文化社會中心)が主催していた"Asian and Pacific Film Show"(日本語での呼称は不詳)のことで、1970年に第1回が催されたようです。
目下のところ、データが確認できたのは第5回、第7回、第9回の3回分だけなのですが、とりあえず、判明している分だけを下記に掲げておきます。


第5回(1974年4月):開催地・韓国(ソウル)。参加国・韓国、中華民国(台湾)、ニュージーランド、タイ、フィリピン。
上映作品の詳細は不明だが、台湾からは『愛の大地(愛的天地)』が出品された。

第7回(1976年4月):開催地・韓国(ソウル)。参加国・韓国、中華民国(台湾)、フィリピン、日本。
上映作品の詳細は不明だが、台湾からは『愛心與信心』(ドキュメンタリー)及び『長青樹』が出品された。

第9回(1978年6月):開催地・中華民国(台湾〔台北〕)。参加国・中華民国(台湾)、韓国、オーストラリア、ドイツ、イギリス、イタリア、香港、インド、インドネシア、フィリピン、シンガポール、マレーシア、タイ、アメリカ、パナマ、日本。
テーマは「電影與文化(映画と文化)」。
ピーター・グレイブス(Peter Graves)による講演「美国演員地位的変遷(アメリカにおける俳優の地位の変遷)」の他、3つの講演が行われ、シシリー・タイソン(Cicely Tyson)等もゲストとして招かれた。
上映作品の詳細は不明だが、台湾からは『蒂蒂日記』『永恆的愛』及び『台湾漁業』(ドキュメンタリー)が出品された。




データを一瞥して、不思議だなと思うのが、親組織であるアジア太平洋協議会が自然消滅した後も、そのプロジェクトである社会文化センターは存続していて、これまでと変わりなく映画祭を実施している点。
ただし、この点に関しては、やはりアジア太平洋協議会のプロジェクトだった食糧肥料技術センターが現在でも存続していることから見て、どうやら親組織の消滅とは関係なく、独立した一機関として活動を行っていたと考えることができそうです。

データが判明している3回の映画祭からわかることは、通常の映画祭のようなコンペ形式のものでなかったのは勿論のこと、むしろ映画を媒介とした外交の場だったのではないか、ということです。
特に、台北で開催された第9回(1978年)は、当時国際的に孤立を深めつつあった国府台湾にとって非常に重要な外交の舞台だったようで、アジア太平洋諸国はおろか、ヨーロッパ各国からも代表団が参加しています。
当時の報道を収載した『跨世紀台湾電影実録 1898-2000』(2005年、文建会、国家電影資料館)では、この亞太影展のことを


・・・・亞太影展是由「亞洲太平洋文化社會中心」發起的影展、影展性質定位在學術和文化交流、與商業氣息濃厚的亞洲影展截然不同。 (以下略。1978年6月30日の項)


と定義付け、その意義を強調しています。

しかし、そんな亞太影展もその後ほどなくして自然消滅したらしく、映画を媒介にした外交という国府台湾の目論見は失敗に終わったのでありました。

めでたしめでたし・・・・で、いいのか?

(とりあえず、おしまい)