2010年1月31日日曜日

どの『四谷怪談』ですか?

〔えいが〕〔ちょっとお耳に〕

丘は花ざかり(戀愛三重奏)』。
1955年7月に台湾で上映。

どうも。
トド@海老麻央と聞くと海老マヨを思い出すです。

さて。

先だって、福岡で行われた福岡アジア文化賞20周年記念の市民フォーラム、香港から許鞍華(第19回大賞受賞)、台湾から侯孝賢(第10回大賞受賞)の両監督が駆けつけて、映画の上映と対談があったようですが、報道によると(リンク切れになった時のことも考えて魚拓も取りますた)、対談の内容はお2人の監督がどんな日本映画を観ていたか、ということが中心だった模様。

ああ、聞きたかったよ、それ…。

記事中では、侯監督が子供の頃観た日本映画として『三日月童子』や『四谷怪談』等のタイトルが挙げられていますが、『四谷怪談』といってもいろいろありますし、「監督が観たのは、どの『四谷怪談』かなあ?」などど思いつつ、調べてみた結果を以下にまとめてみますた(注1)。

・『三日月童子』(1954年、東映京都)

東千代之介主演の時代劇。
『三日月童子 第一篇 剣雲槍ぶすま』、『三日月童子 第二篇 天馬空を征く』、『三日月童子 完結篇 万里の魔境』の内、第一篇と完結篇が台湾で上映されています。
上映データは下記の通り(タイトルは台湾でのもの)。

1956年9月 『三日月童子』 (第一篇)
1956年10月『萬里鏡』(完結篇)

・『丹下左膳』(1958年、東映京都)

丹下左膳といっても、侯監督が観たのは大友柳太朗のそれですね、おそらく。
1958年10月に台湾で上映されています。





・『宮本武蔵』(1954年、東宝)

『宮本武蔵』もいろいろありますけれど、これは稲垣浩監督版。
1956年2月に台湾で上映されています。

・『モスラ』(1961年、東宝)

日本での公開は1961年7月30日ですが、それから約5ヶ月後の1961年12月20日に『魔斯拉』のタイトルで台湾でも上映されています。

・『四谷怪談』(1959年、大映京都)

通常、『四谷怪談』の映画化作品というと、わたくしなんぞはすぐに中川信夫監督の『東海道四谷怪談』を思い出すのですが、なぜかこの映画は台湾では劇場公開されずじまいでして、台湾で上映されたのは1959年の大映版だったのでありました(1959年9月)。

・『君の名は』(1953年、松竹)

1955年10月に台湾で上映(中文タイトル:『請問芳名』)。
この映画は台湾語映画として、1964年に『請問芳名』(『君の名は』)、『馬蘭之戀』(『君の名は 第二部』)のタイトルで勝手にリメイクされています。

・『三百六十五夜』

『三百六十五夜』には新東宝版(1948年)と東映版(1962年)がありますが、そのどちらも台湾で上映されています。

1955年1月 『三百六十五夜』(新東宝版。「総集編」)
1962年9月 『三百六十五夜』(東映版)

となると、さて、侯監督が観たのはどちらの『三百六十五夜』なのでしょう?
不肖せんきち、新東宝版しか観たことがございません。

・小津安二郎監督のこと

今でこそ香港や台湾でもその名を轟かせている小津監督ですが、戦後の台湾(1972年の日台断交迄)で劇場公開された作品は、実は『晩春(中文タイトル:『處女心』)』のみで、1963年12月12日に亡くなったさいにも17日になって訃報(「日本電影名導演 小津安二郎病逝」)、19日に追悼記事(黄仁氏「日本偉大的電影藝術家 最近逝世的小津安二郎」。いずれも『聯合報』)が掲載されますが、どちら小津監督の生涯と事跡を紹介する内容でした。

ちなみに、成瀬巳喜男監督や溝口健二監督も同様の有様で、独り黒澤明監督の作品だけがそれなりに上映されていたようです(注2)。
以下、台湾上映黒澤作品テキトーリスト(カッコ内が原題)。

1951年6月 『野良犬』(野良犬)
1953年3月 『羅生門』(羅生門)
1959年4月 『戰國英豪』(隠し砦の三悪人)
1960年6月 『七武士』(七人の侍)
1962年3月 『大鏢客』(用心棒)
1963年3月 『天國與地獄』(天国と地獄)
1967年9月 『紅鬍子』(赤ひげ)

・宝田明のこと

宝田さんが香港で人気があったというのは事実ですけれど、台湾でも大人気だったのですよ。
1964年9月、『最長的一夜』撮影のため初めて台湾を訪れた際には、彼の姿見たさに2万人以上のファンが撮影現場に押し寄せたそうです(1964年9月7日付『聯合報』による)。


ま、だいたいにおいて、当時の台湾で上映された日本映画は娯楽作品中心だったので、台湾における日本映画を考える場合には、その辺りの事情をきちんと勘案する必要があるかと思いますです、はい。

てなわけで、撤収!

(注1)上映データは、黄仁氏『日本映画在臺灣』(2008年、秀威資訊)巻末の「1950~1972年臺灣上映之日本電影片目」及び架蔵の『聯合報』コピーを参照しました。

(注2)成瀬監督作品は川島雄三監督との共同作品である『夜の流れ(中文タイトル:『艶妓』)』、溝口監督は『女性の勝利(中文タイトル:『女性的勝利』)』と日港合作映画である『楊貴妃(中文タイトル同じ)』のみが台湾で上映されています。
これら台湾上映作品の偏った傾向に関しては、李幼新氏の「明星的台灣現象」(『跨世紀台灣電影實錄1898-2000〔2005年、文建會・國家電影資料館〕所収)にも若干の考察があります。

2010年1月28日木曜日

寿之助、香港に現わる

〔えいが〕〔ちょっとお耳に〕

この映画とは何の関係もありません。

どうも。
トド@快便です。

ここのところ、政治ブログのチェックばかりしているせいで(だって、大マスコミは例のオザワ騒動に関して、大本営発表を垂れ流すだけだからさあ。そういや、このニュース、恐ろしいねえ〔敢えてゴミ売、もとい、読売の記事にリンク〕。中国や北朝鮮のことをとやかく言う資格ないよ、この国)、ブログ更新のモチベーションを維持することができず、面目次第もございません(ブログじゃないけど、岩上安身さんのTwitter、面白いよ)。
というわけで、アリバイ作り(?)にちょこっと更新。

あ、その前に告知です。

橘ますみたん情報でも取り上げたフィルムセンターの特集上映「アンコール特集:1995-2004年度の上映作品より」にて、『狼火は上海に揚る(春江遺恨)』が上映されます。
上映スケジュールは、下記の通りです。

1月30日(土) 17:00~
2月10日(水) 13:00~

では本題。

1960年代後半から70年代初頭にかけて、香港の邵氏に招かれて多くの日本人スタッフが海を渡ったことはよく知られていますが、嵐寛寿郎の弟子である「ジノやん」こと嵐寿之助もその1人でした。
『鞍馬天狗のおじさんは 聞書アラカン一代』(1976年、白川書院。後、徳間文庫〔1985年〕及びちくま文庫〔1992年〕に収む)には、下記のような一節があります。


石井輝男の作品で、『神火101・殺しの用心棒』、これは松竹作品やったが香港にロケしました。戦後になって、最初の海外旅行です。(略)香港へ行ったんは他にも理由があった。嵐寿之助、ちょっとご無沙汰しとったあのジノやんが、殺陣師に雇われていっとったんです向うに。日本の監督やらカメラマンやら、当時ようけいきましたんや香港の映画会社に(注1)。
こっちゃ斜陽です。あっちゃは景気よろしい、カラテ映画やら、メロドラマやら何つくっても客がくる。テレビ普及しておりまへんよってな、東南アジアは。それで出かせぎにゆく、ジノやんもそのクチです。香港で苦労しとるやろなあ、ひとつ陣中見舞をかねていってみるかと。
ところがあべこべや、中華料理これかなわん。たまにやったらよろしい、油こいやつを朝昼晩、三日もしたら、食欲全然おまへん。ジノやんの宿舎に毎日通うて日本食、貴重な白米すっくり食べてしもうた。梅干・みそ汁・つけもの、つくだ煮から即席ラーメンまでや。何のことはない、陣中見舞が逆にタカリになってもうた。そのときの義理がある、ジノやんの母親が危篤のときワテ香港まで迎えにいった。飛行機代使うて、ところが入れちがいや、ちゃんと日本に帰ってた。トンチンカンな話や、この男とからむと何もかも喜劇になります(注2)。



中華料理が苦手な嵐寛寿郎が、毎日毎日清水湾の邵氏の宿舎までわざわざ通って、寿之助の部屋にあった日本の食材をすっかり食べ尽くしてしまった、というエピソードは笑えますが、上記の文章の中で寿之助は「殺陣師として香港へ渡った」と書かれています。
『中華電影物知り帖』(1996年、キネマ旬報社)所収の「僕の香港映画製作体験 井上梅次インタビュー」には、1966年に井上監督が香港へ渡ったさい、照明班2班と殺陣班2班(1班8名ずつ)の計32名も邵氏と契約した旨の記述がありますので、おそらくはこの中の1人として香港へ向かったのではないかと考えられますが、具体的にどのような作品に関わったのか、詳細は不明です。また、いつまで香港にいたのかも、もちろん不詳です。

邵氏へ招かれた日本人スタッフに関しては、監督やカメラマン、美術、音楽といった方々のお名前は判明していますが、それ以外ではどのような方々がどのような作品に関わっていたのか、未だにわからないままです。
照明や殺陣、振付等々、沢山の方々が海を渡る中で、1970年4月には照明助手として働いていた日本人スタッフが、撮影所の足場から転落して命を落とすという悲しい事故も発生しました(注3)。

今後は、これら名もなきスタッフの皆さんの足跡を少しでも洗い出していくことが必要なのではないかと、不肖せんきちは感じております。

(注1)『神火101 殺しの用心棒』香港ロケの模様を伝える1966年11月5日付『内外タイムス』(「魔窟を舞台に大活劇」)には、「ショーブラザースでやはり芸能人として働いている」とあり、邵氏に招かれたことがわかります。
(注2)ちくま文庫版299~300頁。なお、上記(注1)記事では、嵐寛寿郎は香港で寿之助と偶然再会した(撮影中の寛寿郎の許を寿之助がひょっこり訪ねてきた)と書かれていますが、ここは寛寿郎の記憶に従うべきでしょう。
(注3)1970年4月7日付『読売新聞』(夕刊)による。

2010年1月23日土曜日

東寶豓星 秋子  補遺

〔えいが〕〔ちょっとお耳に〕


どうも。
トド@毎日にんにく食べてますです。

さて。

『復仇』の邦題(『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』)が長いなあというお話を前の記事でいたしましたが、「長いといえば、清水邦夫の戯曲のタイトルも長いのが多かったよなあ」と思い出し、ちょいとピックアップしてみますた。

『雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた』
『あらかじめ失われた恋人たちよ』
『海賊、海を走ればそれは焔……』
『鴉よ、おれたちは弾丸をこめる』
『泣かないのか?泣かないのか一九七三年のために?』
『ぼくらが非情の大河をくだる時』
『ぼくらは生まれ変わった木の葉のように』
『夜よ おれを叫びと逆毛で充す 青春の夜よ』


不肖せんきち、高校時代は演劇部所属(!)でして、『ぼくらは生まれ変わった木の葉のように』なんぞを先輩方が本読みするのを傍らで聞いておりましたが、皆さん、正式名称だとあまりに長すぎるので単に「木の葉」(のこ←古い)とだけ呼んでおりました。

てなところで、本題。

昨年の4月、かつての東宝スター・若林映子が主演したイタリア映画("Akiko")と西ドイツ映画("Bis zum Ende aller Tage")が台湾で公開されていた、というお話を書きましたが、昨年暮れに出た『映画論叢』22号に掲載された「東宝プログラムピクチャーの世界① 東宝の生んだ国際スタア・若林映子インタビュー」に、上記作品の詳しいストーリーや撮影時のエピソードがありました。

それによると、"Bis zum Ende aller Tage"(遥かなる熱風)で彼女が演じたアンナ・スーは、中国人ではなく中国人と日本人のハーフで、撮影は香港ロケの後ハンブルグの撮影所で続きの撮影を行い、他にもペルゴンという島(おそらく、ここがアンナ・スーと結婚するドイツ人男性・グレンの故郷という設定だったのでしょう)でも2週間ほどの撮影を行ったそうです。
また、この映画のオファーは東和の川喜多長政経由によるものだったとの由。

なるほどねえ。

インタビューの最後には、


やはり私の中では、東宝の協力で抜擢されたヨーロッパの三作品(上記2作品の他にイタリア映画"Le Orientali"・せんきち注)に出演できたことが大きいですね。今はミニシアターがたくさんあって、世界中の映画が輸入されていますけれど、当時はまだそういう時代ではなかったので、日本では公開することが出来ませんでした。(略)映画、娯楽の価値観が大きく変わってしまいましたが、ヨーロッパの三作品を見る機会があれば、私の中でかけがえのない時間の映像ですから、ぜひとも見てみたいと思います。(以下略)


という若林映子のコメントがありましたが、当時、お隣の台湾ではこれらの作品が公開されていたことを考えると、なぜ日本では公開できなかったのかという疑問が再び生じてきます。
そもそも、なにゆえに東和はこれらの作品を配給しなかったのでしょう。
特に"Bis zum Ende aller Tage"(遥かなる熱風)は川喜多長政経由で出演が決まった作品ですから、彼が指示さえすれば日本での公開はそう難しいことではなかったと思うのですが。

なぜなんでしょう?

『復仇』改め『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』オフィシャルサイト

〔えいが〕〔ちょっとお耳に〕


どうも。
トド@そろそろ花粉に襲われつつありますです。

さて。

予定のネタは今夜か明日にでもアップすることにして、今回は情報のみにて失礼。

3月に開催される「大阪アジアン映画祭2010」のオープニング作品として、トー先生の『復仇』改め『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』が上映されることが話題になっていますが、日本版オフィシャルサイトもコソーリ立ち上がっておりました(今のところ〔1月23日現在〕、ググってみてもなぜか上位に来ません)。

冷たい雨に撃て、約束の銃弾を
  http://judan-movie.com/


「絨毯ムービー」、じゃなくて、「冗談ムービー」、でもなくて、「銃弾ムービー」ってことですね。

2010年5月、新宿武蔵野館他にて全国ロードショー

との由。

なんだか長ーい邦題で、記憶力の劣化が進む不肖せんきちの脳みその中ではすでに『恋人よ帰れ!わが胸に』とごっちゃになりつつありますが(ほんとかよ)、3月に大阪へ行けない皆さんは5月を待ちましょう。

わたくしもそういたします。

2010年1月16日土曜日

フィルムセンターでますみたん

〔橘ますみ〕〔ちょっとお耳に〕

なぜこれが「アダルト商品」なんだ?

どうも。
トド@寒ブリ食べたいです。

本題に入る前に。
かつての邵氏明星にして、後には映画美術の方面でも活躍なさった方盈さんが、13日、癌のためお亡くなりになりました。
浅丘ルリ子は知ってるかしら…。

さて、年末年始の休暇を経て、またぞろ「週1ブログ」と化しつつある拙ブログですが、本日は「忘れちゃいやよ」の橘ますみたん情報(ひゃあ、久しぶりだわ)。

来たる1月30日(土)からフィルムセンターで開催される特集「アンコール特集:1995-2000年度の上映作品より」にて、『日本暗殺秘録』(1969年、東映京都。中島貞夫監督)が上映されます。
上映スケジュールは、下記の通り。

2月5日(金) 19:00~
2月11日(木) 16:30~

本作品におけるますみたんの役どころは、農家の娘・友子。
血盟団事件の実行犯の1人である小沼正(千葉ちゃん)と恋に落ち、彼の子を身ごもるという、なかなかに重要な役です。
この映画の後、ますみたんは同じく中島監督の『戦後秘話 宝石略奪』(1970年、東映東京)でヒロインを演じましたが、『日本暗殺秘録』でやはり小沼を巡る女性の1人を演じた賀川雪絵たんが、その後、『戦後秘話 宝石略奪』や『唐獅子警察』(1974年、東映京都)『暴動島根刑務所』(1975年、東映京都)等の中島監督作品で好演しているのを考えると、もうちょっと映画界で頑張っていれば、中島監督から新しい一面を引き出してもらえたのじゃなかろうかと、ファンとしては残念な思いに捉われますです。

ともあれ、フィルムセンターでますみたんの映画が観られるなんて滅多にない機会ですので(しかも重要な役よ!)、既見の方も未見の方も、どうぞ奮ってご来場下さいまし。

と、ここまで書いて、せんきちは考えますた。
石井輝男監督の特集でもやってくれれば、ますみたんの映画がもっと上映されるのではないかと。

そこで、フィルムセンターのホームページにある所蔵フィルム検索で石井輝男監督作品を探してみたところ、ヒットしたのは以下の13本。

『スーパージャイアンツ 鋼鉄の巨人』(1957年、新東宝)
『續 鋼鉄の巨人 スーパージャイアンツ』(1957年、新東宝)
『女体渦巻島』(1960年、新東宝)
『黄線地帯』(1960年、新東宝)
『花と嵐とギャング』(1961年、ニュー東映)
『黄色い風土』(1961年、ニュー東映)
『昭和俠客伝』(1963年、東映東京)
『網走番外地』(1965年、東映東京)
『続 網走番外地』(1965年、東映東京)
『網走番外地 望郷篇』(1965年、東映東京)
『網走番外地 北海篇』(1965年、東映東京)
『網走番外地 南国の対決』(1966年、東映東京)
『爆発!暴走遊戯』(1976年、東映東京)

…無理だな、こりゃ。

付記:『ならず者』と『東京ギャング対香港ギャング』が、ネット上で観られるようになりました。

2010年1月11日月曜日

「阿魯雲伝」3部作

〔ほん〕〔えいが〕


どうも。
トド@眠いけど眠れないです。

さて、これも去年から積み残しになっていた宿題(前回の記事はこちら)。
金綺泳(キム・ギヨン、김기영)監督の『玄海灘は知っている(玄海灘은 알고 있다)』の同名原作小説に始まる「阿魯雲伝」3部作(『玄海灘は知っている』『玄海灘は語らず』『勝者と敗者』)のご紹介。

まず第1部である『玄海灘は知っている』ですが、3分の2ほどの筋は映画と同じで、前回も書いた通り、後半、軍を脱走してからのストーリーが大きく異なります(原作→秀子の女学校時代の先輩を頼って彦根に逃走)。
つまり、映画にある名古屋大空襲下の逃亡劇とその後の群衆大殺到は、映画独自のものということです。
もちろん(?)、観客から笑いが漏れたあの迷場面「ひな祭りの不思議な日本舞踊」や「風呂場で湯女体験」も、原作には登場しません。

また、人物造型も原作と映画とでは異なる部分があり、映画では人間性のかけらもなかった(そのわりに滑稽味漂う人物だったりするのですが)森が、原作では阿魯雲に命を助けられたことによって、人間らしさを取り戻していくという件が見られ、また、阿魯雲に会いに日本へやって来た女性・鄭京姫も、ただ彼に会うためだけでなく、当時、抗日武装闘争の根拠地であった北間島に阿魯雲が脱出をするよう勧める目的を持っていた、ということになっています。
さらに、李家も原作では酒と女をこよなく愛する大男という、かなり豪快な人物に描かれていました(当初は阿魯雲と反目し会うものの、後に大親友になります)。

映画では空襲で亡くなったかと見えた阿魯雲が息を吹き返し、秀子と手を携えて去っていくところで終わりますが、原作は彦根へ逃れた2人のその後を描く第2部『玄海灘は語らず』、終戦後が舞台の第3部『勝者と敗者』へと続きます。
以下は、そのおおまかなストーリー。


『玄海灘は語らず』
秀子の女学校時代の先輩・道代を頼って彦根に来た2人でしたが、やがて居づらくなり、滋賀県大郷村(現・長浜市。このドキュメンタリードラマの舞台になった村です)の朝鮮人集落に身を寄せます。
集落に住む金山の好意で「方泰山」という偽名の協和会会員章を手に入れた阿魯雲は、干拓工事現場で働いた後、金山の仕事を手伝い始めますが、ある日突然徴用されて、秀子と離れ離れの生活を余儀なくされます。
徴用先を脱走した阿魯雲は秀子と2人で愛知へ戻り李家と再会、李家はなじみの女郎・カオルに2人の世話を頼みます。
その後、秀子は病に倒れた母を連れて瀬戸の親戚の許を訪れますが、そこで母の容態が急変、彼女は帰らぬ人となります。
一方、秀子が瀬戸にいることを知らない阿魯雲は彼女を探す途中で機銃掃射を受けて昏倒、軍によって助け出されるのでした。
死んだはずの阿魯雲が生きているとわかり、彼は軍法会議にかけられることになりますが、傷を治すために入院していた陸軍病院でついに終戦を迎えます。

『勝者と敗者』
終戦により軍法会議にかけられることを免れた阿魯雲は、原隊へ戻ることとなりました。
その後、秀子は男の子を出産しますが、李家等の説得に従い、自分と息子(知道)は日本へ残り、阿魯雲が再び日本へやって来る日を待つことにし、阿魯雲には故郷へ帰って祖国建設のために尽力するよう勧める手紙をしたためます。
阿魯雲は李家たちと船に乗り、1人故郷へ帰るのでした。


日本語版『勝者と敗者』は原語版の3分の1弱を削った短縮版になっていますが、第1部で人間性を取り戻したかに見えた森が、原隊に復帰した阿魯雲殺害を企てる件等、登場人物の性格にやや整合性が見られない点が気になりました。
また、秀子と阿魯雲の別れも、「あれしか方法がなかったのかなあ、あの頃は」と思いつつも、その後本当に阿魯雲は妻子を迎えに来ることができただろうかと考えると、少々暗い気持ちにもなりました。
阿魯雲のあの性格だと、故郷へ帰ってからもまた危ない橋を渡りそうですし。

ところで、映画で秀子を演じた孔美都里(コン・ミドリ、인물정보)は、1963年の『玄海灘の雲の橋(현해탄의 구름다리)』では終戦後朝鮮半島に置き去りにされた日本人女性に扮しており、共演した申星一(シン・ソンイル、신성일)との仲が取りざたされたそうです。
ちなみに、1964年6月4日付『読売新聞(夕刊)』掲載の「韓国の映画事情」では、この映画が「好日映画」として紹介され、当時東映で助監督を務めていた韓国出身の朴英勲氏の「統治者の日本は憎かった。しかし、いまの日本に対しては、もっと友好の度をつよめなければと、みな言っているのです。征服者と被征服者の間柄ではなく、お互いに理解し合った形でね」とのコメントが併載されています。

ということで、とりあえず、原作を読んでみてのご紹介でした。
『玄海灘は語らず』、アマゾンのマーケットプレイスだととんでもない値段がついていますが、「日本の古本屋」でなら良心的な値段でお買い求めできますので、皆様もぜひお手に取ってみて下さい。

2010年1月10日日曜日

旅愁の都

〔えいが〕


1962年、宝塚映画・東宝。鈴木英夫監督。宝田明、星由里子、淡路恵子、乙羽信子、藤木悠、上原謙、浜美枝、志村喬、他。

どうも。
トド@休日も働いてます。

都内某所で行われた無料上映会に潜入してきたので、一応メモ(ストーリーは、こちら)。
東宝名物(?)「オレンジ色のニクイ奴(死語)」と化した廃棄寸前のプリントによる上映でしたが、去年の神保町シアターでの上映のさいにもこのプリントを使ったのでしょうか。
なぞだ。

えー、ストーリーをお読み頂くとわかる通り、宝田明が星由里子に一目惚れしてアタックを繰り返すものの、実は星由里子には人には言えないような暗い過去があった…というお話で、その暗い過去というのが、母子家庭で育った星由里子は、稼ぎ手の兄が事故死した上に母親(中北千枝子)が病気で寝込んで経済的に困った末、わずか16歳という年齢でホステスお持ち帰りOKのバーに就職、そんな彼女をお持ち帰りして面倒見ちゃったのが某商事会社の大坂支店長である上原謙だった…って、あんた、それ、援助交際…っていうか、今なら

いんこう(敢えて平仮名表記)



パクられますよ。

しかも、彼女は上原謙の前には幼馴染の藤木悠とも付き合っていたという、なかなかの発展家(?)なのですが、そんな過去を知っても彼女との愛を貫こうとする宝田明の前に立ちはだかるのが淡路恵子。
沖縄出張中の宝田さんを追いかけて行き、オリオンビールを飲ませてお色気攻撃を図ります。
しかし、そんなことに動じない宝田さんは攻撃を難なくかわし、淡路恵子はあえなく玉砕するのでした。

結局、最終的には淡路恵子のはからいで星由里子は沖縄にいる宝田明の許へ飛び、めでたしめでたしとなるんですけど、沖縄でようやく愛を成就させた2人が楽しくドライブする、そのバックにはなぜか不気味な音楽が流れて、あたしゃてっきり車(オープンカー)が横転して2人一緒にあの世へ行っちゃうのかと思ってしまいましたよ。

とまあ、せっかく沖縄が出てくるのに、そこが沖縄である必然性は何も感じられないのが残念ではあるものの(観光映画なのね、よーするに)、何よりも特筆すべきは星由里子の美しさ。
当時の彼女の年齢と同じ19歳という設定でしたが、どこか謎めいた、憂いを含んだ表情に、せんきちの妄想(上原謙とい、いんこう…。藤木悠とはど、どこまで…)は膨らみっぱなしですた。
また、淡路恵子も大人の女の色香十分で、女優さんたちの美しさを堪能できたのが、何よりの収穫でありました。

次はぜひ、きれいなプリントで観てみたいものです。

2010年1月6日水曜日

春美栄光堂のブロマイド

〔えいが〕〔ちょっとお耳に〕

今日発売のDVDマガジン『映像で見る国技大相撲』。
創刊号は、せんきちの永遠のアイドル・初代貴ノ花初優勝の特集。
あのときのことは、今でもありありと思い浮かびます。
しかし、かの有名な「竹ぼうき事件」が「竹刀」になっていたのは、なぜ?

どうも。
トド@「小沢ガールズ」と聞くと「ケントンガールズ」(注)を思い出すです。

さて。

いろいろ調査中のネタもあるのですが、滑り出しはちょいと軽めに…というか、これも前から書こう書こうと思いつつそのままになっていた小ネタ。
昨日、NHKのBS2で『欲望という名の電車(A Streetcar Named Desire)』をやっていたのを観て、ちょいと思い出したので今更うpいたしやす。

昔々(といっても、そう遠い昔じゃないと思うけど)、春美栄光堂という名前のブロマイド屋さんがありますた。
戦前(やっぱり昔々か)は自前の雑誌を出す等ブイブイ言わせていたようですけれど、せんきちが中学生の頃は通販専門でブロマイドを販売する業者さんでした。
とはいえ、戦前からある老舗だけにその在庫数は豊富、せんきちも往年の俳優さんたちのブロマイドをずいぶん購入いたしました。
購入したブロマイドはその後押入れの中にしまいっぱなしになっていましたが、ここ数年の引越騒ぎで久々に日の目を見ましたので、虫干しを兼ねてこちらで一部ご紹介いたします。

当時はヴィヴィアン・リー(Vivien Leigh)のファン
だったので、圧倒的に彼女のものが多いです。

通信販売のリストは、「誰々(スターの名前) 何種類」というような簡素なものだったため、「何度も注文する場合には同じものが来るといやなのでどうしたらよいか?」と手紙で問い合わせたところ、「お手元にある分のかんたんなイラストをお送り下さい。それとは別なものをお送りします」という返事が到着、その後せんきちは新たに注文する際には手持ちのブロマイドをせっせとイラストにして送っていました(すげー手間)。

わたしは誰でしょう?(正解した方、特に景品はございません)

注文を受ける毎に新たにブロマイドを焼いて送ってくれるのか、届いたブロマイドには現像液のにおいがほのかに漂っていました。

再びわたしは誰でしょう?(正解した方、特に景品はございません)

住所を拝見したところ、うちから自転車でそう遠くない距離だったので、「今度、直接買いに行ってもいいですか?」とやはり手紙で問い合わせたら、「今は通信販売のみで、店売りは行っておりません」という返事が来ました。
電話をすると、いつもおばあさんが出た記憶があります。

その他もろもろ。

春美栄光堂の膨大なコレクションは、現在、フィルムセンターが所蔵しているそうですが、展覧会でもやってくれないかしら、いつか。



注:ケントンガールズ(Kenton Girls)とは、

この方や、


この方や、


この方のことを言います。

2010年1月3日日曜日

謹んで新春のお慶びを申し上げます

〔しようもない日常〕

毎日がお正月。

どうも。
トド@退屈です。

えー、そういえば、新年のごあいさつがまだでした。
今年もよろしくお願いいたします。

では(おいおい!)。

付記:新年早々、吳鎮宇がとんでもねえことになってるようですね。ちなみに、不肖せんきちもこの不景気で仕事が減ってとんでもねえことになっています。今年1年無事に生きられるだろうか…(暗いな、正月から)。