2009年5月27日水曜日

2度あることは3度ある

〔ちょっとお耳に〕〔えいが〕

ただいま、話題沸騰中の
シネマ歌舞伎特別篇『牡丹亭』予告編。

どうも。
トド@風邪引いて咳が止まらないです。
でもね、今、公共の場で咳なんかすると「白い眼で」見られるので、必死に我慢してます。
ゲホゲホッ(ここで思い切り咳をする)!

えー、まず最初に書籍のご紹介。
既にご購入済みの方もいらっしゃるかとは思いますが、昨年秋に出た『台湾映画 台湾の歴史・社会を知る窓口』です。


目次は、下記の通り。

(第Ⅰ部 歴史のなかの台湾映画)
日本植民地下における台湾近代社会の形成―映画の背景となる台湾史の一側面を語る(呉文星)
殖民地期台湾における映画受容の特徴(三澤真美恵)
政治と台湾現代映画―甦る「三十年代文学」(小山三郎)
中国映画『苦恋』批判をめぐる国民党政府の反応について(許菁娟)
(第Ⅱ部 台湾映画を知る)
台湾における主要な映画制作会社の概況―1949年から1980年(黄仁)
台湾映画発展における上海映画の影響―『春の河,東へ流れる(一江春水向東流)』を例として(姚立群)
台湾映画と香港映画の交流(一)―1945年から1967年(左桂芳)
台湾映画と香港映画の交流(二)―1968年から1997年(梁良)
台湾語映画時代―1955年から1961年(張昌彦)
台湾戦後の映画評論と出版概況(王瑋)
映画制作と映画検査(劉現成)

編者である小山三郎氏の「あとがき」によれば、


……第Ⅰ部の4編の論文は、「植民地時代の社会と映画」、「国民党政府時代の反共教育映画」をテーマとし、台湾映画の大きな流れを語りながらそれぞれの時代の台湾史に切り込むことにした。第Ⅱ部は、主に『跨世紀台湾電影実録 1898-2000』(上冊 行政院文化建設委員会、財団法人国家電影資料館出版、2005年)所収の18編の論文から6編を選び翻訳したものである。


とのことで、第Ⅱ部の論考はこれまでほとんど日本語の文献がなかった戦後まもなくから1990年代に至るまでの台湾映画の動向、特にニューシネマ以前の台湾映画史を概観できるという点において、かなり貴重な資料となるのではないかと思います。
特に、左桂芳氏と梁良氏の論考は、台湾映画界と香港映画界の繋がりについてお知りになりたい向きには必読の文章と言えましょう。
ただ、編者の言う「啓蒙書としての性格をもつもの」(「あとがき」より)として見た場合、これらの論考はかなり高度な内容を含んでいるとせんきちには感じられたので、この本と合わせて現在アマゾン辺りで購入可能な香港老電影に関する日本語文献、例えば『昨夜星光』ですとか『香港映画スター』なんぞを参考になさった方が、より深い理解ができるのではないかと思います。
ま、今日び、いざとなったら検索しちまえばいいんですけどね、わからなきゃ。



で、本題。

ときは1973年。
千葉ちゃんを主役に、タイ、韓国の俳優陣も参加してのトンデモ麻薬映画『東京=ソウル=バンコック 実録麻薬地帯』を撮影中だった東映に、鄒文懐率いる嘉禾は、

「香港編を作ってくれたら、香港でも公開してあげるよ」

と甘い囁きで取引を持ちかけ、苗可秀を千葉ちゃんの相手役に送り込むことに成功、東映と嘉禾はこの後しばしの間蜜月状態に入ります。
すなわち、嘉禾作品への東映からの助っ人の参加(池玲子衣麻遼子、小林千枝、等)や東映作品(『女番長ゲリラ』)の香港での配給を嘉禾が行うこと(中文タイトル『十三太妹』)……等々。
その甲斐あって、東映はこれまで東宝東和の専売特許(?)であった李小龍作品の配給に成功、1975年1月に『ドラゴンへの道(猛龍過江)』が日本公開されます。

が!

楽しいハネムーンもここまで、その後まもなくして嘉禾は東宝東和との合弁会社「東禾公司」を設立、東映は嘉禾にまんまと裏切られた格好になったのでした。

が!(またかよ)

そんなことでめげる東映ではございません、「嘉禾がだめなら、邵氏があるじゃん」とばかり、1975年10月、東映と邵氏は業務提携を結んだのでありました。

が!(しつこいね)

東映が邵氏と業務提携を結ぶのは、これが初めてではございませんでした。
1度目は1962年2度目は1965年にそれぞれ合作映画製作の提携を行い、2度とも頓挫しているのでございます。
つまり、今回が3度目の結婚……じゃなくて、提携ということになります。
東映と邵氏の業務提携を報じた1975年10月29日付『朝日新聞』夕刊には、下記のようにあります。


東映は二十七日、香港の映画会社ショウ・ブラザースとの業務提携を発表した。①両者は映画製作のために企画、タレント、技術者などを交流②東映作品の東南アジアでの配給について、ショウが優先権を持つ③ショウ作品の日本での配給については東映が優先権④洋画の買い付け、合作などの協力を積極的に-といった内容。「空手映画など香港作品が、東映系封切館に流れる可能性もふえるだろう」と岡田茂東映社長。

が!(はいはい)

「2度あることは3度ある」の喩え通り、この業務提携も不調に終わったのであります。

その原因をせんきちなりに(勝手に)推測してみると、まず、すでに斜陽を迎えていた、どころか、ほぼどん底状態にあった邦画を東南アジアで配給することの旨みが邵氏には感じられなかったであろうこと、さらに、東映側の思惑としては李小龍を凌ぐ、とまでは行かないまでも、それと同じぐらい興行的価値のある邵氏作品を日本で公開したいと考えていたものの、残念ながら岡田社長のお眼鏡に適う映画が見つからなかった(あくまで岡田社長のお眼鏡であって、実際の作品の価値とは何の関係もありません)、といった感じなのではないかと思われます。
また、「ショウ作品の日本での配給については東映が優先権」を持つと言いながら、他社である日本ヘラルドが邵氏の『金瓶梅(金瓶雙艶)』を配給、1976年1月に日本で公開してしまったことも、ネックになったのかも知れません。

追記:この時期(1970年代半ば)、わざわざ邵氏が東映と提携を結んだ理由を改めて考えてみたところ、どうも邵氏は東映の特撮技術を導入したかったのではないかなあ、という気がしてきました。
つまり、邵氏は東映の特撮技術目当てに提携を結んではみたものの、いざふたを開けてみれば、東映はカラテのことで頭がいっぱいで、特撮技術の提供には一向に応じてくれなかった……なんてこともあったのかしらんと、これは不肖せんきちの勝手な想像。

いすれにしても、今回も過去の教訓が生かされないまま、東映と嘉禾は3度目の離婚、もとい、提携解消(というか、自然消滅?)に至ったのでありました。

(おしまい)

付記:となると、もしやあの『新金瓶梅(新官人我要)』日本公開(1977年11月。名(迷?)作『処女監禁』と2本立!)も、邵氏への腹いせ企画だったのか?

2009年5月22日金曜日

ボルネオ大将 赤道に賭ける

〔えいが〕
ボルネオというと「ボルネオ・マヤ」、
ブルネイというと「村上麗奈」を思い出す
せんきちなのであった。

1968年、東京映画・東宝。沢島忠監督。北大路欣也、栗原小巻、伊志井寛、他。

どうも。
トド@今年はアレルギーがひどくてマスクが手放せませんです。

だいぶ前に録画したままになっていた映画のメモ。

日焼けしすぎた北大路欣也(一瞬、古天樂)が、栗原小巻をセクハラし続ける映画…というのは冗談で、親の七光りで就職したサラリーマン暮らしに嫌気がさした主人公が裸一貫東南アジアへ渡り、エビ漁で大儲けをしてビジネスを軌道に乗せるまでのサクセスストーリーに、反目し続けた父親との和解が絡みます。

この主人公、自分と父親が不在の時に母親ときょうだいを自宅の火事で失ったせいで、消防車のサイレンが鳴ると思わずその後を追ってしまう性癖を抱えています。
また、火事のあと何事もなかったかのように再婚した父親を憎むあまり、父親との確執で抱えたトラウマから来る(推定)奇行によってヒロイン(小巻ちゃんね)を悩ませる…という、かなり困った人物です。
しかし、そのたびに辛抱強いヒロインは主人公の父親の許を訪ね、その(奇行の)理由を問い、それがわかる度に彼への愛を深めていくのでした…って、一度病院に行った方がいいと思うんだが、主人公。

以前読んだ『沢島忠全仕事』によれば、この映画は主人公のモデルになった人物が自ら売り込んだ企画だそうで、たしかに、自分で自分のことを映画にしろと言う人物らしく、映画の中でもブルネイのスルタンをだまして大金をネコババしてトンヅラしたり(後で報復されるけど)、かなり山師的な性格の強い人物です。
だから罰が当たってにされちゃったのか、欣也(かんけーないよ!)。

映画の見せ場は豪快なエビ漁の場面…だと思いますが、撮影時にはすでに乱獲の影響で採れるのは海ヘビばかりという有様で、仕方なく別にエビを用意してごまかしたといいます(『沢島忠全仕事』による)。
たしかにそう言われてみると、かなり変です、漁の場面。

シンガポールへ渡った欣也に、自分が経営する造船所で働くように進める社長の役で馬力が出演しており、シンガポールを起点に、ブルネイ、マレーシアと移動するロケ地から見て、國泰が撮影協力した模様ですが詳細は不明、登場するマレー人俳優のプロフィールもわからないので、いちおうタイトルロールでのクレジットとお写真を添えておきます。
おわかりの方がいらっしゃいましたら、ご教示くだされば幸いです。

ザリーナ・トラーヴ
エダ・アロン
ラマ・ツティーフ
ファティマー・アロン
ハムデンヒン・ティーン
スウィット・ビン・スロング(ダ?)
ディム・ウォン・チック(この方は華人でせうか)

造船所で欣也とマブダチになるおじさん。
マレー人なのになぜかSUZUKIと書かれた
ヘルメットを着用していました。


マブダチの奥さんA。


マブダチの奥さんB。


マブダチの奥さんC。


日本語ぺらぺらのガイドさん。
後に欣也の会社の社員になります。
台詞はみんな吹替でした。


ダヤック族も大量出演。


2009年5月20日水曜日

続 アメリカを湧かせた朝丘雪路・・・よりも葛蘭が気になる

〔ちょっとお耳に〕

せんきち世代(中期中年者)にとっての朝丘雪路は、
雨がやんだら」に『11PM』にこの番組ですね、たぶん。

どうも。
トド@真矢みきが劉嘉玲に見えてきたです。

昨年、こちらで葛蘭がダイナ・ショア・ショウに出演した折の写真が掲載された『週刊平凡』をご紹介しましたが、いやー、世の中には奇特な方がいるものですねえ、なんと映像が残っていました。

もう何も申しますまい。
とにかく、ご覧下さいまし。








おまけ:前回の記事で取り上げた『読売新聞』の中で、金燕は「好きな歌手は朝丘雪路」と答えていましたが、これから『11PM』のレギュラーを勤める身としては、司会者に最大限の敬意を払ったということなのでしょう。

2009年5月18日月曜日

安志杰(アンディ・オン)のおかあさん

〔ちょっとお耳に〕

母よあなたは偉かった。

どうも。
トド@「親小沢VS反小沢」などという安易な二項対立を作り出して大衆を扇動するテレビ政治にはもう飽き飽きだぜ!です。

新型インフルエンザ、水際阻止どころか集団感染の様相を呈してきましたけれど、あたくし、1度は罹っても仕方がない病気と覚悟を決めましたです。

さて。

安志杰(Andy On.日本語の検索に引っかかるよう、アンディ・オンとも書いてみる。アンディ・オン→オン・スイピン→ジュディ・オング→ジミー・ウォング……いいかげんにしろ!)のお母さんが往年の歌手・金燕であることは、知っている人なら知っている、知らない人は全く知らない情報ですが、この金燕がかつて

キャンディー・シュー

という芸名で日本でも芸能活動を行っていたことを知る人は、もーっと少ないのではないかと思います。
というわけで、本日はそのお話を。

キャンディ・シューこと金燕の日本デビューは、1969年11月。
デビューシングルは、「遠く消えた恋」(A面)と「恋はいじわる」(B面)のカップリング。
彼女の日本デビューを報じた『読売新聞』(1969年11月16日付朝刊)によれば、日本進出のきっかけは「ジュディ・オング(翁倩玉)の成功に刺激されて」とのことで、何ゆえにキャンディ・シューなる芸名になったかと言えば、

金燕(キンエン)

だと

禁煙(きんえん)

に間違われかねないため、急遽「Candy(キャンディ)」という英文名を付け、これに彼女の本名(許金燕)の姓「許(シュー。北京語読みね)」を足して、キャンディ・シューの誕生と相成った次第(上記記事による)。

さらに、'69年12月からは『11PM』(日本テレビ)のレギュラーになり、カバーガールも勤めたといいます。

こんな感じ?
(よりによって叶美香かよ)

このあたり、『オールナイトフジ』に出ていた梅艶芳と共通するものがあるような、ないような……。

現時点で判明した、日本における金燕のレコードは下記のとおりです(2009年5月23日・増補改定しました)。

(シングル)

・クラウン PW-78 1969年11月1日発売
A面:「遠く消えた恋」(タマイチコ作詞、中州朗作曲、荒井圭男編曲)
B面:「恋はいじわる」(島津ゆうこ作詞、中州朗作曲、荒井圭男編曲)

・クラウン PW-90 1970年5月1日発売
A面:「異国の人」(なかにし礼作詞、三木たかし作曲、高見弘編曲)
B面:「明日はきっと」(なかにし礼作詞、三木たかし作・編曲)

・クラウン PW-99 1970年12月25日発売
A面:「おもいでのビクトリア・ピーク」(星野哲郎作詞、米山正夫作曲、小杉仁三編曲)
B面:「ルビー・ナイト香港」(星野哲郎作詞、米山正夫作曲、小杉仁三編曲)

・クラウン CW-1152 1971年4月25日発売
A面:「華麗なる人生(ウハウハソング)」(芦川七三作詞、米山正夫作曲、重松岩雄編曲)
B面:「南の男と北の女の恋物語ナンダ!」(芦川七三作詞、米山正夫作曲、重松岩雄編曲)
※B面のみ。南利明とのデュエット(A面は南とサニー・シスターズによるもの)。

・クラウン PW-521 1971年5月25日発売
A面:「嘘もうれしいよ」(星野哲郎作詞、やまだ寿夫作曲、ささえいじ編曲)
B面:「わが心の台北」(星野哲郎作詞、やまだ寿夫作曲、ささえいじ編曲)

・クラウン PW-532 1972年9月20日発売 
A面:「BUS(バス)」(千家和也作詞、三木たかし作・編曲)
B面:「愛を叶えて」(千家和也作詞、三木たかし作・編曲)

(アルバム)

・クラウン LW-1214 1970年5月1日発売
A面:「異国の人」「恋はいじわる」
B面:「遠く消えた恋」「明日はきっと」
※シングルサイズ(17センチ)ダブルLP(クラウンシリーズ)。ジャケット特選シリーズ。

当初はポップス路線だったものの、後に演歌系の路線へとシフトした点や、三木たかしが作曲を手がけている点等、後の鄧麗君(テレサ・テン)との共通点を見出せますが、残念ながら、どれも大ヒット!とまではいかなかったようです。

陳和美による『異国の人』のカバー。

以上、安志杰のお母さん・金燕の日本デビューについて簡単にご紹介しましたが、デビュー曲の「遠く消えた恋」などは、今聴いてみてもけっこういい線いってるんじゃないかなあという気がいたしますし、日本で彼女の存在が忘れ去られつつあることに、不肖せんきち、なんとも残念な思いを抱いているのであります。

2009年5月15日金曜日

湯浅浪男監督超不完全作品リスト(補遺)

〔えいが〕

『新宿事件』で雅也が成龍に送る鎧兜、
これにしてほしかったんだけどなあ。

どうも。
トド@省エネ家電にエコポイント付けて「買え買え」と言いつつ、高速料金1000円でCO2垂れ流しを奨励してるのはどこのどいつだ?です。

さて。

湯浅浪男(湯淺浪男、湯濳、湯慕華)監督の『悲器』(1966年、湯浅プロ・国映)を観てきました。
茨城の大洗を舞台に、多額の借金を残したまま失踪した夫の帰りを待ちつつ港のスナックで春をひさぐ子持ちの女・芳江(香取環)と、若い漁師・哲也(井村弘史)との束の間の恋を軸にしてスナックで働く女たちの人間模様を描いた作品で、小さな娘を育てるためには身体を売って生きていくしかない芳江の姿にショックを受けた哲也が海に向かって

バカヤロー!

と叫んだり、哲也に誤解された芳江が涙に暮れていると、いきなり雨が降り出して

芳江、びしょ濡れ!

になったりと、かなりベタベタコテコテの展開ではありましたが、浴衣姿で日傘を差して歩く香取環は美しかったです。
台湾の漁村を舞台にしてもいけそうな感じ(王童監督、陸小芬主演で。古すぎや!)。

監督の名前はラピュタのチラシでは湯浅浪男監督のみでしたが、実際のクレジットでは安藤達己監督との共同名義になっていました。

ところで、これはストーリーとは全く関係ないのですけれど、哲也の船が出港するその日の朝、「今日はお赤飯よ。あなたの門出を祝って」と言う香取環の目の前に置かれたちゃぶ台の上にはなぜか生卵が……。

かけるんか、赤飯に!

大洗、といえば、湯浅監督はかつて水戸の映画館で働いていたそうです…と、書いたついでに『日本映画監督全集』(改訂版、1980年、キネマ旬報社)の湯浅監督プロフィールからちょっこし抜粋。


…水戸の映画館に八年間つとめたのを含め、約二十年間映画館に勤務。生来の映画好きから見よう見まねで映画づくりを始める。


監督が当初所属していた独立プロ・第7グループは、1963年、地方の映画館の館主たちによって作られたプロダクションで、当初は三輪彰監督を招いて映画製作を始めたそうですが、三輪監督がテレビ業界に去った後に監督として映画を撮り始めたのが湯浅監督だったようです

で。

先日、新たに得た情報を。

その2」において、わたくしは「しかし、1972年以降、湯浅監督の関わった台湾映画を見出すことは残念ながらできませんでした」と書きましたが、その後、1970年の『二郎神楊戩』(錦華有限公司)が、1976年4月24日から30日までの間再映されていることが判明いたしました(『聯合報』等による)。


そうなると、一度は日本へ戻ってきた湯浅監督が再び台湾へ舞い戻ることになったきっかけは、この再映にあると考えられ、これ以降も敢えて名前は出さずに映画製作に携わっていた可能性が出てきました。
引き続き、調査を進めていきたいと思います。

そしてそして!

4月30日に湯浅監督の台湾語映画『懷念的人』のDVDがリリースされました。


発売元は、中影のDVDでおなじみ豪客唱片。
この映画の他にも『王哥柳哥遊台灣』等、なつかしの台湾語映画のDVDが続々リリース中です。
くわしくは、こちらのサイトをご覧下さい。


付記:これも何度となく書いていますが、『悲器』でカメラを担当した中條伸太郎も湯浅監督と同じく台湾に骨を埋めることになった映画人です。台湾での作品リストは、こちらをご参照下さい。

2009年5月9日土曜日

「シンガポールの夜は更けて』 のマレー人女優

〔ちょっとお耳に〕〔えいが〕

ラストはスルタン・アブ・バカール・モスク。

どうも。
トド@耳鼻科に行きますたです。

今朝早く第一報が流れた「国内(日本ね)初の新型インフルエンザ感染者発生」のニュース
午前8時30分からの厚生労働大臣による記者会見は、NHKだけでなく民放も生中継していましたが、そんな中、悠然とアニメを流していたのが我らがテレ東。


おかげさまで、心温まるひとときを過ごすことができました。

さて。

4年前にこちらで取り上げた1967年の松竹映画『シンガポールの夜は更けて』。
腹違いの妹・李白蘭を探してジョホール・バルへやって来た橋幸夫ご一行(この頃はまだ自毛…〔以下自粛〕)、白蘭が住んでいるという集落でマレー人に取り囲まれますが、そのとき登場するマレー人女優の名前を調べよう調べようと思いながらすっかり忘れてしまい、先日、ようやく調査しましたので本日ご報告いたします(カッコ内のカタカナ表記は、『シンガポールの夜は更けて』におけるクレジット)。


まずは、日本軍に両親を殺された恨みつらみを橋幸夫にぶつける女優さん。
彼女の名は、Siput Sarawak(シプー・サラワク)。
娘である歌手Anita Sarawakは日本でも有名ですが、彼女も歌う女優でした。
1920年生まれなので、この作品の撮影時には40代後半だった、ということになります(1999年没)。
残念ながら本作では橋幸夫をさんざん罵った挙句に突き倒す、というだけの役でした。
できれば、2人でデュエットしてほしかったところです。

歌うSiput Sarawak。


ついでに娘さんも。

Siput Sarawakに突き飛ばされて橋幸夫が気落ちしていると、若い女性がやってきて「私は白蘭の友人です。白蘭の居場所を知っています」と告げますが、


この女優さんの名前は、Roseyatimah(ローズ・ヤデマ)。
1959年、P.ラムリー(P. Ramlee)に抜擢されて"Pendekar Bujang Lapok"で映画デビュー、1968年の"Anak Bapak"を最後に引退、1987年に乳がんで亡くなったときには、まだ44歳という若さだったそうです。
ということは、この映画の撮影時には24歳位だったことになります。

"Cucu Datok Merah"(1963年、Cathay Keris Film)より。

しかし、橋幸夫が彼女に連れられてたどり着いた先は、白蘭の墓地でした。
白蘭は、孤独の中、自ら死を選んだのでありました(続きが気になる人は映画を観てね)。

Roseyatimahのご主人であるDato' Mustapha Maarof。



この映画には上記の女優さんたちの他、子役のお兄ちゃん(画像向かって右)も達者な演技を見せていますが、彼の詳しいプロフィールは残念ながら不明です(クレジットはラーマン・ラエム)。

ところで、今回調査のために久しぶりにこの映画を観ましたが、由美かおる演じる王明芳の両親が父・シンガポールの富裕な華人、母・日本人という設定になっているのは、どうやら1961年に胡文虎の子息・一虎に日本人女性が嫁いだ事実にヒントを得ているのかなあと思いました。
明芳の日本名が明子(あきこ)というのも、一虎夫人の名前(暁子〔あきこ〕)と音が同じですし。
ただし、明芳の年齢(20代前半?)から推測するに、両親が結婚したのは戦時中か戦後まもなくということになり、そう考えると相当無理のある設定といわざるを得ないのですが。
ま、そこまで深い考えはなかったのかも知れません。

2009年5月6日水曜日

女子大学生 私は勝負する

〔えいが〕


1959年、東京映画・東宝。板谷紀之監督。原知佐子、三橋達也、露口茂、横山道代、他。

どうも。
トド@「欽ちゃんの仮装大賞」が「欽ちゃんのカツオ大将」に聞こえるです。

不肖せんきち、この黄金周は伯母の一周忌で外出した他にはどこにも行かず引きこもり生活を送っていますたが、昨日飛び込んできたのがこのおめでたいニュース。

汪明荃羅家英 終成眷屬

超熟年夫婦の誕生ですが、どうぞ末永くお幸せに。

さて、ここで告知です。

この告知をするために「不完全作品リスト」なんぞを無理して作成してしまったわけなのですが(こちらこちら)、ただいまラピュタ阿佐ヶ谷で開催中のレイトショー企画「60年代まぼろしの官能女優たち」にて、5月9日(土)から15日(金)まで湯浅浪男監督の『悲器』が上映されます。
わたくしもぜひ足を運びたいと思っております。

で、本題。

以前、衛星劇場で放映されるという告知だけしてそれっきりになっていた映画のメモ。
告知のさいにご紹介した通り、1961年4月と5月に香港で上映されてセンセーションを巻き起こした作品です(中文タイトル『飛女慾潮』)。
たしかに、この映画で描かれている大学生の奔放な生活ぶりは、香港の皆様を震撼させるに十分だったとは思いますけれど、映画自体は別に取り立ててどうこういうほどのものではないかと。
ま、とっぽい(死語)大学生やってる川合伸旺やら、つまらない遊び人やってる露口茂やら、おネエ言葉を操る米倉斉加年やら、「人に歴史あり」な映画として観る分にはそこそこ楽しめますです(蜷川幸雄も出てるらしいが、ようわからん、と思ったら…↓)。

幸雄、発見!


くわしいストーリーはこちらをご参照頂くとして、当時の現役女子大生・門脇順子の小説(というよりも、手記に近いと思います)『女子大学生』を原作にした映画で、原作小説は発表当時「女太陽族」等と言ってもてはやされたそうです……が、彼女の小説はこれ以外残っていない模様です(俗にいう「一発…〔以下自粛〕)。

建築デザイナーを目指す女子大生・順子(原知佐子)が二宮(川合伸旺)とレイプ同然の初体験を済ませた後、代議士の息子・大木真(露口茂)と恋愛関係になって同棲を始めるものの、父親の金で遊びまわる真とはすぐにうまくいかなくなり、挙句彼の子どもを堕ろす羽目に。
真と同棲していたアパートを出た順子はアルバイト先の上司・平河(三橋達也)の部屋に一晩泊めてもらい、やがて彼に惹かれるようになる……って、たしかにレイプ野郎や代議士のおバカボンボン(こいつもヤリたがり)より、知的な上に経済力もあって、適度にマッチョなくせに性的にガツガツしていない大人の男が魅力的に見えるのはわかりますが、平河の方までこの小生意気な女子大生のことが気に入って「ヨーロッパについてこないか?」とか言っちゃうのが解せませんねえ。

また、最後はストーカー同然になっていたとはいうものの、一度は愛した男があんな形で死を迎えたこと(モーターボートで事故死)に対して何の感情も抱かない、というのも不思議と言えば不思議です。
事故現場であれだけ泣いていた真の妹(柏木優子)が、告別式の会場ではケロッとしていたのも同様。
それが当時の新しい女子大生像だった、と言われればそれまでなのですけれど。

劇中、妊娠中絶をした順子を見舞う真の妹たちが意外なほど冷淡、というか、「ヘマをした」ぐらいの認識しか持ち合わせていない姿を見て、なぜか三島由紀夫の『美徳のよろめき』(1957年)で中絶を繰り返すヒロインを思い出してしまいますた。
妊娠中絶をめぐる驚くべき「お手軽感覚」は、今に至るまで消えていないような気もいたします。

なお、東京映画と東宝は、本作の公開にあたり、真の妹を演じた柏木優子に野川美子、檜麻子を加えた3人に「コメットスターズ」という愛称を付けて売り出そうとしたようですが、みごと不発に終わったようです。

というわけで、とりあえずメモまで。

付記:平河が建築技師として関わっているビルの建築現場、周囲に国会議事堂(側面)や皇居がある点からみて、当時建築中だった国立国会図書館本館ではないかと思うのですが、撮影協力なんかするかなあ、国会図書館が(平河町近辺で仕事をしているから平河って名前なのか?)。

2009年5月3日日曜日

40元でお願いします!(通販口調で)

〔ちょっとお耳に〕

当時の報道(『聯合報』)によれば、小林旭一行は
台北の他、高雄の市立体育館でも歌った(5月24日)そうです。

どうも。
トド@引きこもり中です。
引きこもりで暇を持て余す中、ふと目に留まったのが下記の記事。


馬英九政権、日本側に抗議 「台湾地位未定」発言で

日本の対台湾窓口機関、交流協会台北事務所の斎藤正樹代表が1日、南部の大学で開かれたシンポジウムで、台湾の国際的地位は決まっていないとの趣旨の発言を行い、台湾外交部(外務省)は「われわれの立場とは異なる見解で受け入れられない」として、代表を呼び出して抗議した……



上記『産経新聞』の記事は共同通信配信のものですが、実はこの記事にはまだ続きの文章があって、それが下記『東奥日報』の記事。


馬英九政権、日本側に抗議 「台湾地位未定」発言で

(以下、『産経新聞』がカットした部分を抜粋)

李登輝元総統、陳水扁前総統は「日本の主権放棄後、主権は未定」として、馬政権とは異なる立場を取っていた。
同事務所などによると、斎藤代表はシンポジウムで日本の見解を示した上で、地位未定論について言及。抗議を受け、発言は個人的見解だったとして撤回した。



「カットした部分があった方が発言の背景がわかりやすいのに、なんで『産経新聞』はカットしちゃったのかなー?」という素朴な疑問は置いておくとして、ようするに政権交代後の政治姿勢の変化に気づかなかった代表がうっかり本音を洩らしてしまったってことになりそうですけれど、「南部(記事には南部、とのみありますが、正確には嘉義)だし、本土意識の強い所だから、まっいいかー」って思っちゃったんでしょうかねえ。
ただ、今回の発言の舞台となった嘉義では3月にこんな出来事(事件?)もありましたし、ちょいと(というか、個人的にはかなり)気になる事件ではあります。

追記:上記報道のその後を追っていたら、4月29日付のこんな記事(「「地位未定論」を否定=57年前に「移譲」と見解-台湾総統)が見つかりました(「その後」じゃないけど)。
馬英九側としては「ここまで言ってやってるんだから、まさかそんなこと(斎藤発言)にはならないだろう」とタカを括っていたら今回の発言で(馬英九の面目丸潰れ)、こうなると「うっかり」ではなくむしろ「確信犯」だったのではないかという気もしてきます。
発言自体、予想されたことではありますけれど、藍と緑では評価が正反対ですし。
と、そうこうするうちに大陸の方もイッチョカミしてきましたねえ。
あ、そうそう、産経新聞の自前の記事もその後出ましたけれど、前述の素朴な疑問が消えるどころかむしろ増幅するような内容ですた。

では、本題に。

『台湾映画 2008年』(東洋思想研究所)所収の論考「台湾での日本スターの活躍」(川瀬健一氏)の中に、小林旭が1966年5月に台北で公演を行った際の入場料の最高額が260元で、65年10月から11月にかけて同じく台北公演を行った美空ひばりの(公演の)入場料の最高額・230元を上回っていた、とあり、これが台湾の(当時の)物価水準に照らしていかに破格のお値段であったかということが書かれています(一部抜粋した文章がこちらで読めます)。

小林旭、美空ひばりという当時の日本を代表するスターの大物ぶりがよくわかるエピソードといえますが、ただし、すべての日本のスターがこんなに高い料金で公演を行っていたかというと、必ずしもそうではなかったという事実を示すのが、下記の新聞広告。

1961年7月23日付『聯合報』。

日本で活動している台湾人歌手・楊超が、台北で里帰り公演を行った際、灰田勝彦や二葉あき子も助っ人、というかゲストとして公演に参加していますが、このときの入場料金の最高額がなんと40元。
小林旭が来台する5年前のこととはいえ、えらい違いです。
思うに、これは公演会場の収容人数の違いや食事付きかそうではないか(美空ひばりと小林旭は食事込)、ということの他、あくまで(公演の)主役である楊超が故郷に綿、じゃなくて(お約束のボケ)、錦を飾るための公演であったため、採算を度外視している、というか、(公演資金の)かなりの部分が楊超個人の持ち出しだったのではないか、とも考えられます。

と、ここまで書きながら公演のメインの人物である楊超の詳しいプロフィールを、不肖せんきち、全く存じておりません。
ご存知の方、ご教示くだされば幸いです。

ところで、小林旭が来台した1966年には、和田弘とマヒナスターズ with 松尾和子や雪村いづみ、松島アキラといったスター達も来台しています。

『淘氣姑娘』とは『ジャンケン娘』
の台湾でのタイトルです。



このうち、松島アキラは観光での来台だったようですが、マヒナ with 松尾和子と雪村いづみは公演を行いました。
ただし、残念ながら入場料金は不詳です。
わかれば、(美空ひばりや小林旭と)比較できるのですけどね。

付記:戦前から戦中にかけて、灰田勝彦は「台湾軍の歌」、二葉あき子は「青い星」(『海の豪族』主題歌)といった台湾と縁のある曲を歌っていますが、これらの曲を台北公演で歌ったのかは不明です。

2009年5月1日金曜日

あと1回だけになりますたが

〔ちょっとお耳に〕〔えいが〕

荒井注は蚊帳の外ですか?

どうも。
トド@未だにお鼻ぐずぐずです。

さて。

先日の告知のさい、うっかり取りこぼしてしまった分を1つだけ。

川崎・しんゆり芸術祭アルテッカしんゆり2009アルテリオ・シネマ特別企画「いまに生きる今村昌平」にて(長いな、名前)、『女衒 ZEGEN』が上映中です。
以前にも書きましたが、この映画、香港という設定ながら台湾で撮影が行われており、石段の街・九份も登場、嘘かまことか東京大学で学んだという柯俊雄も、かなりおいしい役で出演しております。

ほんとかなあ。


別のサイトではこんな感じ。

3回ある上映の内、すでに2回が終了しておりまして、残るは5月5日(火)16:30よりの1回のみとなっております。
お時間のある方はどうぞ。