2009年5月27日水曜日

2度あることは3度ある

〔ちょっとお耳に〕〔えいが〕

ただいま、話題沸騰中の
シネマ歌舞伎特別篇『牡丹亭』予告編。

どうも。
トド@風邪引いて咳が止まらないです。
でもね、今、公共の場で咳なんかすると「白い眼で」見られるので、必死に我慢してます。
ゲホゲホッ(ここで思い切り咳をする)!

えー、まず最初に書籍のご紹介。
既にご購入済みの方もいらっしゃるかとは思いますが、昨年秋に出た『台湾映画 台湾の歴史・社会を知る窓口』です。


目次は、下記の通り。

(第Ⅰ部 歴史のなかの台湾映画)
日本植民地下における台湾近代社会の形成―映画の背景となる台湾史の一側面を語る(呉文星)
殖民地期台湾における映画受容の特徴(三澤真美恵)
政治と台湾現代映画―甦る「三十年代文学」(小山三郎)
中国映画『苦恋』批判をめぐる国民党政府の反応について(許菁娟)
(第Ⅱ部 台湾映画を知る)
台湾における主要な映画制作会社の概況―1949年から1980年(黄仁)
台湾映画発展における上海映画の影響―『春の河,東へ流れる(一江春水向東流)』を例として(姚立群)
台湾映画と香港映画の交流(一)―1945年から1967年(左桂芳)
台湾映画と香港映画の交流(二)―1968年から1997年(梁良)
台湾語映画時代―1955年から1961年(張昌彦)
台湾戦後の映画評論と出版概況(王瑋)
映画制作と映画検査(劉現成)

編者である小山三郎氏の「あとがき」によれば、


……第Ⅰ部の4編の論文は、「植民地時代の社会と映画」、「国民党政府時代の反共教育映画」をテーマとし、台湾映画の大きな流れを語りながらそれぞれの時代の台湾史に切り込むことにした。第Ⅱ部は、主に『跨世紀台湾電影実録 1898-2000』(上冊 行政院文化建設委員会、財団法人国家電影資料館出版、2005年)所収の18編の論文から6編を選び翻訳したものである。


とのことで、第Ⅱ部の論考はこれまでほとんど日本語の文献がなかった戦後まもなくから1990年代に至るまでの台湾映画の動向、特にニューシネマ以前の台湾映画史を概観できるという点において、かなり貴重な資料となるのではないかと思います。
特に、左桂芳氏と梁良氏の論考は、台湾映画界と香港映画界の繋がりについてお知りになりたい向きには必読の文章と言えましょう。
ただ、編者の言う「啓蒙書としての性格をもつもの」(「あとがき」より)として見た場合、これらの論考はかなり高度な内容を含んでいるとせんきちには感じられたので、この本と合わせて現在アマゾン辺りで購入可能な香港老電影に関する日本語文献、例えば『昨夜星光』ですとか『香港映画スター』なんぞを参考になさった方が、より深い理解ができるのではないかと思います。
ま、今日び、いざとなったら検索しちまえばいいんですけどね、わからなきゃ。



で、本題。

ときは1973年。
千葉ちゃんを主役に、タイ、韓国の俳優陣も参加してのトンデモ麻薬映画『東京=ソウル=バンコック 実録麻薬地帯』を撮影中だった東映に、鄒文懐率いる嘉禾は、

「香港編を作ってくれたら、香港でも公開してあげるよ」

と甘い囁きで取引を持ちかけ、苗可秀を千葉ちゃんの相手役に送り込むことに成功、東映と嘉禾はこの後しばしの間蜜月状態に入ります。
すなわち、嘉禾作品への東映からの助っ人の参加(池玲子衣麻遼子、小林千枝、等)や東映作品(『女番長ゲリラ』)の香港での配給を嘉禾が行うこと(中文タイトル『十三太妹』)……等々。
その甲斐あって、東映はこれまで東宝東和の専売特許(?)であった李小龍作品の配給に成功、1975年1月に『ドラゴンへの道(猛龍過江)』が日本公開されます。

が!

楽しいハネムーンもここまで、その後まもなくして嘉禾は東宝東和との合弁会社「東禾公司」を設立、東映は嘉禾にまんまと裏切られた格好になったのでした。

が!(またかよ)

そんなことでめげる東映ではございません、「嘉禾がだめなら、邵氏があるじゃん」とばかり、1975年10月、東映と邵氏は業務提携を結んだのでありました。

が!(しつこいね)

東映が邵氏と業務提携を結ぶのは、これが初めてではございませんでした。
1度目は1962年2度目は1965年にそれぞれ合作映画製作の提携を行い、2度とも頓挫しているのでございます。
つまり、今回が3度目の結婚……じゃなくて、提携ということになります。
東映と邵氏の業務提携を報じた1975年10月29日付『朝日新聞』夕刊には、下記のようにあります。


東映は二十七日、香港の映画会社ショウ・ブラザースとの業務提携を発表した。①両者は映画製作のために企画、タレント、技術者などを交流②東映作品の東南アジアでの配給について、ショウが優先権を持つ③ショウ作品の日本での配給については東映が優先権④洋画の買い付け、合作などの協力を積極的に-といった内容。「空手映画など香港作品が、東映系封切館に流れる可能性もふえるだろう」と岡田茂東映社長。

が!(はいはい)

「2度あることは3度ある」の喩え通り、この業務提携も不調に終わったのであります。

その原因をせんきちなりに(勝手に)推測してみると、まず、すでに斜陽を迎えていた、どころか、ほぼどん底状態にあった邦画を東南アジアで配給することの旨みが邵氏には感じられなかったであろうこと、さらに、東映側の思惑としては李小龍を凌ぐ、とまでは行かないまでも、それと同じぐらい興行的価値のある邵氏作品を日本で公開したいと考えていたものの、残念ながら岡田社長のお眼鏡に適う映画が見つからなかった(あくまで岡田社長のお眼鏡であって、実際の作品の価値とは何の関係もありません)、といった感じなのではないかと思われます。
また、「ショウ作品の日本での配給については東映が優先権」を持つと言いながら、他社である日本ヘラルドが邵氏の『金瓶梅(金瓶雙艶)』を配給、1976年1月に日本で公開してしまったことも、ネックになったのかも知れません。

追記:この時期(1970年代半ば)、わざわざ邵氏が東映と提携を結んだ理由を改めて考えてみたところ、どうも邵氏は東映の特撮技術を導入したかったのではないかなあ、という気がしてきました。
つまり、邵氏は東映の特撮技術目当てに提携を結んではみたものの、いざふたを開けてみれば、東映はカラテのことで頭がいっぱいで、特撮技術の提供には一向に応じてくれなかった……なんてこともあったのかしらんと、これは不肖せんきちの勝手な想像。

いすれにしても、今回も過去の教訓が生かされないまま、東映と嘉禾は3度目の離婚、もとい、提携解消(というか、自然消滅?)に至ったのでありました。

(おしまい)

付記:となると、もしやあの『新金瓶梅(新官人我要)』日本公開(1977年11月。名(迷?)作『処女監禁』と2本立!)も、邵氏への腹いせ企画だったのか?

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