2009年2月7日土曜日

アジア映画祭あれこれ

〔ちょっとお耳に〕

今じゃ紙くず。
でも、大事な宝物。

どうも。
トド@いよいよ花粉の季節です。

本題に入る前に、大変ショックなお知らせです。

日本国内のひげちょうるうろうはんが、ついに全滅しますた!

魯肉飯難民になっちまったよ・・・・。

さて。

かつてはアジアきっての映画祭、しかし、今では何の権威もない映画祭となり果てた「アジア映画祭(現・アジア太平洋映画祭〔亞太影展〕)」について、かつて当方がメインサイトで少しばかり取り上げた他、映画館主・Fさんが運営するサイト"DAY FOR NIGHT"でも「誰も知らない?映画祭 アジア太平洋映画祭・幻の半世紀」というタイトルで特集企画を組んでおられますが、メインサイトで触れたニュース映画に増補分が見つかりますたので、それらのご紹介がてら、ちょっこし面白いネタにも言及しておきたいと思います。

1、アジア映画祭のニュース映画 落穂拾い

メインサイトでご紹介したニュース映画の補遺。

『毎日世界ニュース 349』(1958年4月23日)
「あちらの日本ブーム」
マニラで開かれるアジア映画祭に向かう日本代表団の羽田空港での出発風景。
永田雅一、京マチ子といった大映勢の姿が見えます。

『毎日世界ニュース 406』(1959年5月20日)
「輝くゴールデン・ゴング賞」
マレーシアで開かれたアジア映画祭から帰国した日本代表団。
大映作品『氷壁』の監督賞(増村保造)等、5つの賞を受賞しました。
ちなみに、このときの作品賞は邵氏の『江山美人』でした。

増村の監督賞受賞も知られていないけれど、たしか成瀬(『山の音』)や小津(『秋日和』)も監督賞貰ってなかったっけ?

ゴールデン・ゴング賞の「ゴング」とは、この年のトロフィーの形がゴング(Gong)型だった(てっぺんにゴングが載っている)から・・・・みたいです。

これね(写真の人物は姚敏)。

毎回ゴールデン・ハーベスト賞ってわけじゃなかったのね。

『大毎ニュース 845』(1967年10月4日)
「アジア映画祭開く」
この年、香港暴動の煽りで延期になったアジア映画祭は、結局東京で開催されました。
開会式及びパーティの模様(田宮二郎がちらりと登場)。
日本、韓国、香港、台湾、フィリピン、合計5カ国の代表団の女優さんたちの姿が映りますが、連盟加盟国の内、タイ、南ベトナム、シンガポールからの出品はありませんでした。
南ベトナムなんて、映画作ってる場合じゃなかったよね、この頃。
このときには、長編、短編合わせて34本の作品が出品されたそうです。

2、邵逸夫、「バンザイ!」を叫ぶ

第1回の映画祭(当時の呼称は「東南アジア映画祭」)を報じる新聞記事の中から、興味深い内容のものを見つけました。
1954年5月21日(金)付『朝日新聞』夕刊「成功だった東南アジア映画祭」より。


・・・・十五日夜には大映のパーティが帝国ホテルで行われたが、提唱者主催の歓迎会とあって永田社長は大張切り。宮城道雄の「六段」「春の海」などのアトラクションで会場を日本的ふんいきで包んだ。すっかり感心した各国来賓一同、ついにマレーのランラン・シュウ(原文ママ)氏の発声で日本語のバンザイを叫び、皇太子のために乾杯というシーンを出現したが、「不安定な東南アジア情勢の中で、これは映画を通じた立派な外交だよ」とスタッフは大喜びだった。


小出英男の『南方演芸記』(1943年、新紀元社)を読む限り、日本軍がシンガポールを占領していた時期にも、仁枚と逸夫の邵兄弟はそれなりにうまく立ち回っていたようですが(陸運濤が命からがらシンガポールを脱出したのとは対照的です)、その折も日本軍相手に「バンザイ!」を叫んでいたのだろうかと、ちいとばかり気になってしまいますた。

どこで覚えたんだ、バンザイ?

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