2009年2月19日木曜日

『金門島にかける橋(海灣風雲)』再考

〔ちょっとお耳に〕


どうも。
トド@首のしこり、精密検査を受けることになりますたです。

さて。

2004年、メインサイト(旅荘 愛のさざなみ)において日活と中影の合作映画『金門島にかける橋(海灣風雲)』をご紹介したさい、日本公開版と台湾公開版の違いについて考察してみたものの、結局わからぬまま終わってしまったことがありました。
一応、文中で「いずれにしても、その辺りのくわしい経緯は後ほどまた調べてみる予定です」と書いた手前(?)、その後も折にふれて当時の新聞記事の調査収集等をしていましたが、昨年、『台湾映画』2008年号(2008年、東洋文化研究所)において川瀬健一氏がこの問題について考察なさり(「台湾での日本スターの活躍 池辺良・石原裕次郎・美空ひばり・小林旭」)、また、xiaogangさんがご自身のブログで川瀬氏の論文に関して言及なさっている文章を拝読するに至って、「そろそろおいらももう一遍考えてみるべえか」という気になってきました。
というわけで、以下、これまでの追加調査でわかったことをご報告したいと思います。

まず、川瀬氏は論文の中で、『金門島にかかる橋』と『海灣風雲』におけるバージョン違いがなぜ発生したのかに関して、次のような説をご紹介なさっています。
曰く、


①日本記者と中国(台湾)少女の国際恋愛の物語であるが、日本人記者と台湾少女が結ばれる内容であった。しかし、台湾放映時に審査問題がおき、日本人記者が砲撃で死亡し、台湾少女は国軍の尉官と結ばれる内容に修正してやっと上映された(杜雲之『中国電影七十年』405頁)。
②『金門灣風雲』を公開時、賛否両論が出た。国防の陣容が暴露されていることや女主人公の台湾少女が日本医者を慕うという点が問題になった。
そのために1963年3月の中影第七回取締役会で、これらの部分を潘壘監督が修正し『海灣風雲』と改名して上映(宇業熒撰述『璀璨光影歳月』中央電影公司2002年1月 87頁)。
③『金門灣風雲』を見た蒋介石総統が、「中国女性が国軍尉官をふって日本人と結ばれるのは、国軍全体を侮辱している」と激怒した。そのために潘壘監督が修正した(2000年11月13日李泉溪監督談)。
(略)
しかし、当時この映画に関わった林贊庭・頼成英両カメラマンよると(原文ママ)「『金門島にかける橋』は、もともと日本側と台湾側の二つのシナリオがあった。潘壘監督は台湾側のシナリオ通り製作した。だけど、上映後にいろいろ言われているだけだと思う」とのことであった(2008年6月18日古典バラ園レストラン)。

(前掲川瀬氏論文。『台湾映画』2008号、9~10頁)


上記の説の内、①はかつて当方がメインサイトで取り上げた『中華民国電影史 下』の著者と同じ人物によるものであり、石原裕次郎扮する武井の職業を記者と間違えている点(実際には医師)も『中華民国電影史 下』と同様で、あまり信頼できません。
そこで、残り3つの説を検討してみると、当時のスタッフだった林贊庭・頼成英両氏の談話が、一番信憑性が高いように考えられます。
両氏の談話にある「もともと日本側と台湾側の二つのシナリオがあった」という説は、当方がメインサイトで取り上げている左桂芳氏の「台湾電影微曦期與國際合作交流史(1900-1969)」の説を裏付けるものであり、製作の段階から日本版と台湾版が存在していた、とみてよさそうです。

それでは、両者の違いとはどのようなものだったのでしょうか。

そのヒントは、『台湾電影百年史話』下巻(2004年、台湾影評人協会)に再録された台湾公開当時の映画評(黄仁氏執筆。初出は1963年の『現代週刊』〔巻号不詳〕)にありました。
それによれば、台湾バージョンのラストでは「武井が亡くなる」とされています(注1)。
つまり、

日本公開版:麗春が亡くなる。
台湾公開版:武井が亡くなる。


という違いがあったことになります。

しかし、何故にこの台湾版がすんなりとは公開されず、日本版の公開(1962年11月)から1年近くも経った1963年8月に至ってようやく公開されたのでしょうか。
宋雅姿氏の『作家身影: 12位作家的故事』(2005年、城邦出版集団)中の潘壘監督の項には、そのあたりの事情について、


・・・・没想到在卻台灣未獲政戦部審核通過而遭禁演(以下略)(83頁)


とあって、政戦部、すなわち国軍サイドから「待った」がかかり、当時中影の董事長だった梁孟堅は、この件の責任を取って職を辞したと書いています(注2)。
ではいったい何が国軍の気に障ったのかといえば、どうやら川瀬氏の論文で挙げられていた②や③にあるように、台湾女性(当時の国府的見解でいえば中国女性)が日本男性を慕うという設定そのものがNGだったようです。

そこで、潘壘監督は苦肉の策として台湾側キャストを使い、新たなラストを撮影することになるのですが、その内容が先に挙げた黄仁氏の映画評の中にあります。
それによれば、「結婚式場を抜け出して金門島へ向かった麗春は武井の死を知りますが、そのことには全く感情を動かされることなく、武井の遺体に向かって(彼から貰った)真珠を投げ捨てると、前線から帰還した劉上尉の許に身を寄せる」という、武井を慕うどころかむしろ好かれて迷惑であるかのようなオチになっていました。
まあ、日本人医師より国軍兵士を選ぶ、というオチならば軍の面子も立つのでしょうが、武井と劉、2人の男性の間で揺れ動いていたはずの麗春が、ラストになって突然「武井のことなんか、これっぽっちも好きではなかったのよーん」などという冷酷無情の女に変貌するのは、矛盾としか言いようがありません。
事実、黄仁氏もこのような麗春の描き方を「なっていない」「ささいなこと(中国女性が日本男性を慕う・せんきち注)を大げさにあげつらっている」「間違いを正そうとして、却って行き過ぎてしまった」等と評しています。

以上、ざざっとですが、追加調査の結果判明した日本版と台湾版の違いについて見てきました。
もう一度、わかりやすくまとめてみると、

日本公開版:共産党軍の爆撃によって麗春が亡くなり、武井は麗春の亡骸を抱いて、とぼとぼと海岸を歩いていく。
台湾公開版:共産党軍の爆撃によって武井は亡くなるが、麗春は武井の死に対しては全く無関心で、武井の死体に向かって(彼から送られた)真珠を投げ捨て、前線から帰還した劉上尉と結ばれる。


という違いだったようです(注3)。

ところで、昨年香港で出版された『香港影人口述歴史叢書之五:摩登色彩-邁進1960年代』(香港電影資料館)には、潘壘監督へのインタビューが収められていますが、そこには台湾公開版の内容に関する話は一切ありませんでした。
聞き手(左桂芳氏、黄愛玲氏)の突っ込み不足なのか、それとも潘壘監督にとって思い出したくない忌まわしい記憶だったのか、そのいきさつは不明ですが、それにしても残念なかぎりです。
ただ、作家としても著名な潘壘監督のこと、いつの日か回顧録を出版してその折のことを詳しく書いてくれる日が来るかもしれません。

ひとまず、それを期待して待つことにしましょう。


注1:ブログ「台灣老映象」においても、「武井が死ぬ」との指摘がなされています。ただし、このブログにおいては「修正の結果そうなった」としています。
注2:事実、1963年3月に中影の董事長は梁孟堅から沈劍虹に交代しています。
注3:「台灣電影資料庫」によれば『海灣風雲』のフィルムは2919mと、『金門島にかける橋』の2932m(「日本映画データベース」による)よりも若干短く、途中カットされている部分があるようです。


付記:今回、調査が叶わなかった資料に蔡孟堅の回顧録である『蔡孟堅傳真集』(1981年、伝記文学)があります。この本にも何かしらヒントになる記述があるのではないかと考えています。

(とりあえず、了)

おまけ:合作映画において、台湾での公開に待ったがかかったもう一つの例を。
当時、台湾では「合作映画においては、その台詞の50%以上が北京語でなければならない」という上映規定があり、『香港の夜(香港之夜)』(香港の右派映画会社の作品も国片、つまり台湾映画と同様の扱いを受けていました)はその規定に引っかかったために日本映画と見做され、日本での公開(1961年7月)はもちろん、香港での公開(1961年9月)からも大きく遅れた1962年10月になって、ようやく台湾での公開が実現しました(日本映画に関しては、年間の上映本数に制限がありました)。
とはいえ、その興行成績は大変よく、1962年の台北市における日本映画興行収入1位になったばかりでなく、当時(1963年)の歴代興行収入第8位に食い込む大ヒットを記録したのでありました。
念のため申し添えておくと、『海灣風雲』は北京語版と台湾語版だったので、上記規定にはもちろん引っ掛かりませんでした。

画像のおまけ:『海灣風雲』と同時期に台北で公開されていた
志村敏夫監督、前田通子主演の台湾語映画『秋風秋雨割
心腸』の新聞広告(くわしくはこちらをご参照下さい)。

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