2006年6月23日金曜日

裕次郎、『不了情』を歌う

〔ちょっとお耳に〕

映画は観てないと思うけど。

石原裕次郎と台湾の結びつきと言うと、まずは日活と中影の合作映画である『金門島にかける橋(海灣風雲)』の主演、そして1970年代初頭、台北は中山北路沿いに高級喫茶店(フジコーヒー、富士花咖啡)を開いていたことがよく知られていますが、今日は1963年3月、『太陽への脱出』撮影のためタイへ赴く途中台北に立ち寄った、そのおりのエピソードをご紹介したいと思います。

1963年3月21日午前11時台北に降り立った裕次郎は、到着後さっそく中影の董事長・蔡孟堅に電話を入れますが、今回の来台は事前の連絡がない訪問だったため、急に電話を受けた蔡はびっくり仰天、急遽翌22日に金谷飯店にて歓迎の宴が催されることになりました。
出席者は『金門島~』で裕次郎と共演した王莫愁(華欣)ら中影関係者の他、香港の邵氏から鄒文懐と范麗も出席、席上、裕次郎は『金門島~』の台湾ロケのさいに習ったという『不了情』を歌い始めました。

そもそも裕次郎は、前回の来台のときに訪れた白玉樓酒家のホステスさんから『不了情』を教えてもらったのだそうで、この曲がすっかり気に入った彼は、監督を説得して『金門島~』に挿入歌として流れるようにしてもらったのだそうです(そういや流れてますね)。
しかし裕次郎の『不了情』への偏愛ぶり(?)はこれだけに留まらず、なんと自ら日本語詞を作詞してシングルレコードに吹き込み、皆に配るために台湾へ持ってきたとの由(ただし、税関の都合でこれは持ち込めませんでした)。

このとき、映画『不了情』を製作した邵氏の鄒文懐が「作曲者の代わりに著作権料を貰わないとね」と冗談交じりに切り出すと、裕次郎も「(日本での)この曲の宣伝費を貰いたいよ」と切り返し、その後仲良く乾杯してお金の件は丸く収まったのだとか。

翌23日昼、裕次郎は慌しかった台北滞在を切り上げて日航機でタイのバンコクへ向かいましたが、このときも王莫愁が空港へ見送りに駆けつけています。
実は、今回の来台は当時独立プロ設立の準備中だった裕次郎が、新作『日月潭之姫』の脚本を王莫愁と検討する、という目的もあり、実際に製作された暁にはぜひもう一度王莫愁と共演したいと願っていたそうです。
残念ながら、この映画が製作されることはありませんでしたが、同じ年の9月には王莫愁の方が東レの招きで来日(東レが台湾で作った合弁会社の広告モデルを務めていました)、2人は旧交を温めたのでありました。

以上、ざっとですが1963年4月の裕次郎来台に関してまとめてみました。

それにしても、『不了情』の日本語版レコードって、市販されたんでしょうか。
プライベートで吹き込んだだけのものだとしても、テイチクの倉庫にマスターテープとか残っていないですかねえ。
聴いてみたいもんです。

参考:『聯合報』1963年3月23日、24日付記事、『週刊明星』1963年9月29日号。

追記:その後の調査で『不了情』の日本語版が『忘れじの瞳』というタイトルの歌であることが判明しました。くわしくは、こちらをご参照下さい。

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