2010年1月28日木曜日

寿之助、香港に現わる

〔えいが〕〔ちょっとお耳に〕

この映画とは何の関係もありません。

どうも。
トド@快便です。

ここのところ、政治ブログのチェックばかりしているせいで(だって、大マスコミは例のオザワ騒動に関して、大本営発表を垂れ流すだけだからさあ。そういや、このニュース、恐ろしいねえ〔敢えてゴミ売、もとい、読売の記事にリンク〕。中国や北朝鮮のことをとやかく言う資格ないよ、この国)、ブログ更新のモチベーションを維持することができず、面目次第もございません(ブログじゃないけど、岩上安身さんのTwitter、面白いよ)。
というわけで、アリバイ作り(?)にちょこっと更新。

あ、その前に告知です。

橘ますみたん情報でも取り上げたフィルムセンターの特集上映「アンコール特集:1995-2004年度の上映作品より」にて、『狼火は上海に揚る(春江遺恨)』が上映されます。
上映スケジュールは、下記の通りです。

1月30日(土) 17:00~
2月10日(水) 13:00~

では本題。

1960年代後半から70年代初頭にかけて、香港の邵氏に招かれて多くの日本人スタッフが海を渡ったことはよく知られていますが、嵐寛寿郎の弟子である「ジノやん」こと嵐寿之助もその1人でした。
『鞍馬天狗のおじさんは 聞書アラカン一代』(1976年、白川書院。後、徳間文庫〔1985年〕及びちくま文庫〔1992年〕に収む)には、下記のような一節があります。


石井輝男の作品で、『神火101・殺しの用心棒』、これは松竹作品やったが香港にロケしました。戦後になって、最初の海外旅行です。(略)香港へ行ったんは他にも理由があった。嵐寿之助、ちょっとご無沙汰しとったあのジノやんが、殺陣師に雇われていっとったんです向うに。日本の監督やらカメラマンやら、当時ようけいきましたんや香港の映画会社に(注1)。
こっちゃ斜陽です。あっちゃは景気よろしい、カラテ映画やら、メロドラマやら何つくっても客がくる。テレビ普及しておりまへんよってな、東南アジアは。それで出かせぎにゆく、ジノやんもそのクチです。香港で苦労しとるやろなあ、ひとつ陣中見舞をかねていってみるかと。
ところがあべこべや、中華料理これかなわん。たまにやったらよろしい、油こいやつを朝昼晩、三日もしたら、食欲全然おまへん。ジノやんの宿舎に毎日通うて日本食、貴重な白米すっくり食べてしもうた。梅干・みそ汁・つけもの、つくだ煮から即席ラーメンまでや。何のことはない、陣中見舞が逆にタカリになってもうた。そのときの義理がある、ジノやんの母親が危篤のときワテ香港まで迎えにいった。飛行機代使うて、ところが入れちがいや、ちゃんと日本に帰ってた。トンチンカンな話や、この男とからむと何もかも喜劇になります(注2)。



中華料理が苦手な嵐寛寿郎が、毎日毎日清水湾の邵氏の宿舎までわざわざ通って、寿之助の部屋にあった日本の食材をすっかり食べ尽くしてしまった、というエピソードは笑えますが、上記の文章の中で寿之助は「殺陣師として香港へ渡った」と書かれています。
『中華電影物知り帖』(1996年、キネマ旬報社)所収の「僕の香港映画製作体験 井上梅次インタビュー」には、1966年に井上監督が香港へ渡ったさい、照明班2班と殺陣班2班(1班8名ずつ)の計32名も邵氏と契約した旨の記述がありますので、おそらくはこの中の1人として香港へ向かったのではないかと考えられますが、具体的にどのような作品に関わったのか、詳細は不明です。また、いつまで香港にいたのかも、もちろん不詳です。

邵氏へ招かれた日本人スタッフに関しては、監督やカメラマン、美術、音楽といった方々のお名前は判明していますが、それ以外ではどのような方々がどのような作品に関わっていたのか、未だにわからないままです。
照明や殺陣、振付等々、沢山の方々が海を渡る中で、1970年4月には照明助手として働いていた日本人スタッフが、撮影所の足場から転落して命を落とすという悲しい事故も発生しました(注3)。

今後は、これら名もなきスタッフの皆さんの足跡を少しでも洗い出していくことが必要なのではないかと、不肖せんきちは感じております。

(注1)『神火101 殺しの用心棒』香港ロケの模様を伝える1966年11月5日付『内外タイムス』(「魔窟を舞台に大活劇」)には、「ショーブラザースでやはり芸能人として働いている」とあり、邵氏に招かれたことがわかります。
(注2)ちくま文庫版299~300頁。なお、上記(注1)記事では、嵐寛寿郎は香港で寿之助と偶然再会した(撮影中の寛寿郎の許を寿之助がひょっこり訪ねてきた)と書かれていますが、ここは寛寿郎の記憶に従うべきでしょう。
(注3)1970年4月7日付『読売新聞』(夕刊)による。

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