2011年2月4日金曜日

処女の刺青

〔えいが〕

映画では筋彫りは機械、ぼかしは手彫りだったけど、
今はどちらも機械みたい。手袋着用で衛生にも留意。

1976年、東映京都。荒井美三雄監督。インタビュアー・花柳幻舟。

どうも。
トド@激太りが止まらないです。

先日観た映画のメモ。

東映セックスドキュメントの最後っ屁みたいな刺青に関するドキュメンタリー
「処女」と言っても生娘に刺青を入れるわけではなく、「処女肌」と呼ばれる今まで刺青を入れたことのない女性の肌に刺青を入れていく過程をメインに、全国各地の彫師や刺青を入れる人々(刺青愛好家、露天商、やくざ)の姿を花柳幻舟が追っています。
ですので、メインで扱われている女性も瀬戸内寂聴と福田和子を足して2で割ったような女性(飲食業。阪堺電気軌道沿線在住)でした(がっかり)。
もしも内容通りのタイトルを付けるとすれば、『花柳幻舟の刺青巡礼』辺りがふさわしいのではないかと思います。

1973年の『セックスドキュメント 金髪コールガール』(野田幸男監督)で一応の終止符を打った東映セックスドキュメントですが、1975年にまたぞろ同様の企画が持ち上がったさい、それを無視して芹明香、東龍明を起用したドラマ部分を大きく膨らまして撮ったのが関本郁夫監督の傑作『札幌・横浜・名古屋・雄琴・博多 トルコ渡り鳥』ですけれど、本作はそれからさらに1年後の作品ながらテイスト的にはセックスドキュメントの初期段階(1969~70年)に逆戻りしたかのような古色蒼然とした仕上がりとなっております。

映画の中で、花柳幻舟は刺青を入れるという行為に性行為を重ねるようになっていきますが、たしかに彫る側が男性で彫られる側が女性ならば、そういう連想は誰しも抱きそうなことです。
事実、荒井監督の師匠に当たる石井輝男監督は、彫る側と彫られる側に加虐・被虐の関係性を見出して『徳川女刑罰史』(1968年)や『徳川いれずみ師 責め地獄』(1969年)のような作品を撮っています。
しかし、通常の刺青の場合、彫られる側もたいていの場合男性なのであって、そうなるとその連想はあくまで限定的なものにならざるを得ません。
それとも、男性対男性でもそのように濃密な匂いがするのでしょうか。

また、「刺青を入れる=性行為」説を補完するような事例として、彫師の奥さんでご主人が彫った見事な刺青をお持ちの方が「主人が他の女性に刺青を入れていると嫉妬してしまう」という発言を行っていますが、これはやはり、この映画に登場する女性が刺青を入れるときの動機として「好きな人が刺青を入れているから自分も同じものを入れたかった」や「好きな人が刺青好きだったから」等、愛情の証しとして刺青を入れていることが多かったことも関係しているようにわたくしには思えました。

本作のクライマックスは、先に述べた通り、処女肌の女性に刺青を入れていく一連の過程で、ここでも「刺青を入れる=性行為」という見立てに則って、蚯蚓腫れができて血に染まる肌と苦悶の表情を浮かべる女性の表情とを映し出します。
しかし、この女性が刺青を彫ろうと思った動機は好きな人云々とは関係なくあくまで自分の意思でという美容整形を受ける女性に近い感覚なので、見た目は性行為のようでもその内実は似て非なるものなのではないかなあと正直思いましたです。

それから、男性が刺青を彫る場合、痛みに耐えてこれだけ立派なものを彫ったというある種の英雄的行為のような側面もあるような気がしますし、『水滸伝』等の英傑の姿を背中に刻むことにより、それらの英傑と自分が同化したかのような感覚に陶酔する気持ちもあるのではないでしょうか。
さらに、露天商の刺青には共同体の成員として認められるための通過儀礼の意味合いもありそうですし、これら男性が刺青を入れる行為と女性が刺青を入れる行為の比較をもっと行った上で「刺青を入れる=性行為」説を展開したほうがよかったような気がいたしました。

といっても、まあ、あくまでセックスドキュメントの範疇内で刺青を描いているわけですから、あまり深く追求しない方が観ている側には却って気が楽でいいのでしょうけれど。

ちなみに先日、軽い気持ちで入れた刺青を消すために大きな犠牲を払っている女性たちのルポを某局のニュースが取り上げていましたが、この映画の撮影当時そんな女性はいなかったのか、そんなことも気になりましたです、はい。

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